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2018.01.26 Friday

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    胃の中の蛙、蛇に気づいてもらえず

    2016.03.19 Saturday

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      「また新しいのだね」
       特に深い意味もないが、私の口からそんな言葉が漏れだした。自分でも驚いている。そんなことを言っても、誰も幸せにならないのに。もしかしたら、私の不注意で彼を傷つけてしまったかもしれない。
       別に覗こうとしていたわけではない。けれど、彼のカバンの中にきらりと光るものを確認してしまったから、私の気の利かない唇は反射的に言葉を紡いでしまった。
       彼は私の言葉に動きを止めて、こちらを見る。長い前髪から覗く眼には、不快感のようなものは見受けられなかった。
      「ああ、そうだな」
       彼は私の言葉に対してただ義務的に返すように口を開く。カバンに突っ込まれた腕が引き抜かれ、一緒にライターを釣り上げてくる。読めない。読めないけど、おそらくは英語か何かで書かれたホテルの名前。
      「今度はどんな娘と?」
      「気になる?」
      「いや、別に」
       私は彼から顔をそむけ、否定の言葉を伝えた。しかし彼はそんなことお構いなしで、しれっと話を続ける。
      「授業で一緒になった女の子」
       彼はライターの火をつけると、細い炎を見つめて、ぼうっとしながら答えた。前髪が燃えるんじゃないかとハラハラしながら見ているが、彼の場合燃えてしまった方がいいのではないかとも思う。
      「授業で一緒になっただけの女の子と肉体関係を持てるなんて、相当モテるみたいだね」
      「相当モテるんだって」
       何度も消しては灯してを繰り返し、彼はライターの先から発生する弱々しい火を、まるで足元に寄ってきた子猫を見るような目で捉える。そのまま、小さな炎の中に飛び込んで行ってしまうのではないか。そんなことをふと思った。
       ライターをカチカチするのに飽きたのか、彼はそれを再度カバンの中に放り込み、枕を無視する形でベッドの上に寝転ぶ。
       それ、私のベッドなんだけどな、などとは思わない。むしろ彼に遠慮がなくなってきたので私としては嬉しい限りである。
      「どうだった?」
       私はなんとなく、彼の顔を見下ろして尋ねてみる。長い前髪がはらりと落ちて、男性とは思えないほどつるりとした額が露わになった。横に大きい黒い瞳が、下から私を見上げてくる。
      「どうだった、って。感想聞いてどうする」
      「今後の参考にしようと思って」
       私の回答は惰性で答えたものであった。彼の方も、私のことをある程度理解しているだろうから、それが冗談だと思いつつ、丁寧に答えてくれる。吊り上っている眼が、なんとなく垂れ下がったように見えた。
      「かわいい娘だったよ。まったく経験がなかったわけではないだろうが、おそらくこれまでの相手が身勝手だったんだろう。じっくり時間をかけてするっていうことに慣れていなかったらしい。どうせすぐ終わるだろう、もう少し耐えればいい。最初はそんな表情が窺えた」
       体を起こし、ベッドの近くにあるテーブルの上から彼はグラスをひとつ取る。スパークリングワインの入った、飲みかけのグラス。卓上にあるグラスのうち、より残りの少ない方が彼のものだ。ベッドに座ったままワインを口に含むと、炭酸がはじけ終わるのを待つように、彼は目をつむった。私は彼の横顔をじっと見つめる。目は合いそうにない。
       喉元がかすかに動いて、彼は一息つくと、言葉を続けた。
      「それがだんだん、なるほど、我慢しなくていいんだ、こういうものなんだ。そんな、喜びや恥ずかしさといったような表情に変わっていったのさ」
      「その娘が快楽に目覚めてしまうほど、君は床上手なんだね」
       嫌味っぽく私が言うと、彼は顔の向きは変えず視線だけをこちらに流し、目を細め口角をにっと上げる。ワイングラスをテーブルに戻すと、今度は私のグラスを持って差し出してきた。お前の話聞いてるだけじゃなくて飲め。そんなアイコンタクト。私はそれを受け取って、じっと彼の目を見る。やや沈黙があって、彼がグラスから手を放す。
       彼はうつむきながら小さくこうこぼした。目は愁いを帯びているが、口元は明らかに笑っていた。
      「求められているものがわかるだけさ」



       彼は私の友人である。恋人ではない。彼は私のことが好きというわけではない。私もそれは同じである、たぶん。
       彼には特定の恋人がいないが、その妙な色っぽさから女の子ウケがよく、頻繁にいろいろな女の子と寝ている。そのうち刺されるんじゃないかといったこともあったが、それに対して彼は「こんなことできるのも大学生のうちだ」と答えた。まあ、その通りである。「刺されるんじゃないか」という疑問に対して的確な答えではないが、この際それはどうでもいい。
       探せばいろいろあるもので、彼は女の子と寝るたびに別のラブホテルを開拓してくる。毎回のように、行く場所を変えているのだ。もちろん、ラブホテルの数よりも彼が女の子と寝る回数の方が多いので、何度か周回しているわけではあるのだが。
       彼はいろいろな女の子と関係を持っているが、そこに彼の恋愛はない。女の子の方はおそらく彼に対して一定以上の好意があるのだろうけど、彼は義務的に、求められていることに対して応答しているだけである。彼自身が求めているというわけではない。肉体関係だけを期待したお遊びの方がよほど愛があるだろう。お遊びには肉体への愛があるが、彼にはまったくそれがない。そんな気持ちで抱かれても、気分のいいものではないだろうに。私はそう思っているのだが、どういうわけか彼のことを好きになる女の子たちは、あまりそれを気にしないらしい。
       以前彼と話をしたときに、こういったことがある。
      「誰とでも寝れるんだね、君は」
       嫌味っぽくいってみたつもりだったが、彼は笑って返してきた。
      「寝たいか寝れるか寝れないか、ただそれだけのことだよ」
       どういうことだろう。
      「生理的に抱くことができないだろう女ってのは一定数いるだろう。けど、そんなに多くはない。大半の女は、寝れるカテゴリーに入ってるんだ。生理的に無理というわけではない。金を出されたら寝てやるよっていう相手とでもいうべきだろうか」
      「寝たい人っていうのは?」
      「そのままの意味だよ」
       彼は少しだけ暗い表情になった。
      「積極的に、抱きたいと思う相手だ」
      「なるほど。じゃあ、君は生理的に抱くことができないだろう女性以外なら、誰とでも寝れるってことなんだね」
      「そういうことになるな」
       その時も彼は、ライターをカチカチと指で鳴らして遊んでいた。
      「こいつを抱くくらいなら死んだ方がマシっていう相手か、抱け、さもなくば殺すぞといわれたら抱く方を選ぶだろう相手かって話だな」
      「積極的に抱きたい場合は?」
      「そうだな……。死んでもいいから、この人と抱き合いたいって思う相手、だろうな」
       死んでも抱けない人、死ぬくらいなら抱く人、死んでも抱きたい人。
      「死んでもいいからこの人を抱きたいって、思ったことある?」
       私が尋ねると、彼は指を止めてライターをぐっと握る。ライターを強く握りしめたその右手を見ながら、彼はぼそりとつぶやいた。
      「まあ、ひとりだけ」



       求められているもの、ねぇ。
      「女の子たちは、何を求めているの?」
       彼の顔は見ず、グラスの中のアルコールを口に含みながら私は尋ねる。
      「求めるものは、人それぞれ違っているさ」
      「たとえば?」
      「誰とでも寝ちまう、ビッチの例を考えてみようか」
       自分のことか。
      「行為自体が好きで好きでたまらない、肉体的な快楽に溺れることを望んでいるタイプのビッチであれば、とにかく身体的な情熱、肉欲的な激しさが必要になるわけだ。相手はとにかく性的な刺激を求めているのだから、そこに愛の言葉なんて必要がない」
      「よくわからないけど、誰とでも寝る人ってみんなそうなんじゃないの?」
       グラスを置いて、私は冷蔵庫を開ける。テーブルの上にあるワインの瓶はもうすぐ空になる。しっかりしたものはないけれど、缶チューハイを中に確認した私は、それをふたつ取り出す。冷蔵庫を閉めて、しゃがんだまま振り返りテーブルの上に冷えた缶を乗せる。指先が冷えてしまったので、屈めた膝の裏に挟んで温めておく。
      「ロマンスを求めているビッチがいるのであれば、そいつに肉体的な奉仕はほとんど意味をなさないのさ。そいつが求めているのは肉体的な快楽ではなく精神的な安心感だからな」
      「と、いうと?」
      「激しくちゃいけないというわけではないが、激しさよりもロマンスを重要視するべきだということさ。かわいい、綺麗だ、我慢できない、素敵だ、美しい。これらの愛の言葉を、できるだけ切実であるかのように届けてやるのが、ベストだということになる」
      「切実であるように?」
      「追いつめられると、人間は素が出るだろう?余裕がないようにふるまって見せて、その状況で相手の求めてる言葉を言えば、それっぽいというわけさ」
       彼はベッドから降りると、膝で手を温めている私のところにしゃがみ込む。彼は両腕で私のことを抱きしめると、私の耳に顔を近づけた。息がかかる。
      「綺麗だよ」
       なるほど。
      「恥ずかしくないの?」
      「顔は見せないから、意外と恥ずかしくないのさ。息を多めに使うのがコツだ」
       コツっていわれてもなぁ。
       彼は私から離れると、何事もなかったかのようにベッドの上に再び座る。うんと両腕を伸ばしている彼を見て、私も温まってきた手を脚の間から引き抜いて、立ち上がる。勉強用の机の上から箱を取って、彼の隣に座る。
      「ライター、貸して」
       彼に手を差し出して私がそういうと、彼は自分のカバンの中を漁って、先ほど見えたライターを私の手のひらに乗せる。ひんやりとした感覚があって、せっかく手を温めたのになぁと感じた。
       私は手に持った箱からタバコを1本取り出すと、彼から受け取ったライターで火をつけて、一服を始める。客人がいるから本来であれば外で吸うべきであるのだが、彼が相手だからそこまで気を遣わなくてもいいだろうという謎のルールを適用しておくことにした。彼だって、我が家のように私の家を利用しているのだ。私だって彼をいないものとして扱っていいはずである。お互いに気を遣わないというのが、私たちの間にある暗黙のルールなのだ。ここで気を遣う方が、契約違反なのである。



       彼は女の子と寝るたびに、ラブホテルのライターをもらってくる。それってもらってきちゃっていいのかなと毎回思うのだが、まあそんなに高いものでもないし、問題はないのかもしれない。あるとすれば、清掃員の方が「げ、ライターねぇじゃねぇか」と気づいて新しいものを用意する手間が生じるくらいだろう。
       彼が現在進行形で恋愛しているかは別として、彼が恋愛ごっこに付き合ってあげるたびに、彼のライターが増えていくのである。彼の持つライターの数は、そのまま彼が抱いてきた女の子の数になっているのだ。
       彼自身、タバコは吸わない。それなのに、ラブホテルからライターをもらってきているのだ。まったくの無駄である。意味など、そこにはないのである。使えるから持ってきてしまうのではない。使えるかどうかとは違った次元の、有用性とはかけ離れたところに、彼の行動の意味がある。ライターそのものに意味があるのだ。使えるからではなく、ただ持ち帰ることに意味があるのだろう。
       彼が女の子を抱き続けてからもうすぐ1年が経とうとしているが、そうなる直前、彼から話を聞いた。
      「失恋したよ」
       いつものように彼を家に上げて、のんびりと飲んでいると、彼がポツリと、聞いてもいないのに自分のことを語りだした。横顔を見ると、なんとなく頬が赤くなっているのがわかった。珍しく、彼が酔っていたのだ。
       まず恋をしていたという事実を知らなかったのにいきなり失恋したといわれて、私はどう反応すればいいのかわからなくなった。彼は私が何もしゃべれないでいるのに気付いたのか気づいてないのか、返事を待たずにしゃべり続けた。
      「綺麗な人でさ。ああ、こんな綺麗な人を抱けるなんて、死んでもいいやって思ったよ」
       完全に文脈を無視した、唐突な語りだったので、最初は抱くといわれても何のことかわからなかった。今だから驚かないでいるが、最初に彼の口から性交渉についての話題が上がったときは、私も相当驚いたものである。
      「抱けたの?」
      「ああ」
      「どうだった?」
       顔を赤らめた彼はベッドに横になり、こちらから表情が見えない向きに転がった。わざわざ表情をうかがいに行く必要もなかったので、私はひたすらに、寝そべった彼の背中を見て淡々と会話を続ける。彼は自分の話ではないかのように、まるで本を朗読しているかのような調子で、私の質問に答えた。
      「最中は幸せで胸が膨れて弾け飛んでしまうんじゃないかと感じ、終わった後は、むなしさで胸がつぶれてしまうんじゃないかというほどに苦しかった」
       ずいぶん伸縮自在な心をお持ちのようで。

       彼はその日、そのまま寝てしまった。こっそり寝顔をのぞくと、赤かった顔はさっぱりとしていて、すうすうと寝息を立てるその表情は、どういうわけか幸せそうだった。彼は失恋を、していたはずなのに。
       彼には気になる女性がいたらしく、その人と肉体関係を一度だけ持った。けれど、その女の人には恋人がいるのかどうかもわからない状況で、それ以降彼と関係を持つことはなくなってしまった。彼を恋人にできるかどうか判定するために寝たのか、あるいは一夜限りのお遊びだったのか、そもそも遊びですらなかったのか、今でもわからない。
       年上の人だったらしいが、私にはその人が彼にとってなんだったのかはわからない。学科の先輩、サークル関係、あるいは、本当に一目惚れ。どれだけ綺麗な女性だったかはわからないけれど、当時からモテて女の子に困っていなかった彼が言うのだから、相当な美しさだったのだろうということは容易に想像できる。
       後日、またこの話題を振ってみた時、あの日よりも状況整理ができていたであろう彼はこういった。
      「終わったあと、俺がシャワーを浴びて戻ってくると、あの人はソファーに座ってタバコを吸っていた。下着だけを身に着けて、ベッドからソファーに移動した彼女の背中はどういうわけか、何も着ていなかった、ベッドの上での彼女よりもずっと美しかった」
       酒を入れないと彼は話をしないだろうということで、私はこっそり彼の分だけお酒を強めに作っておいた。顔色は変わっていなかったが、頭の中がどうにかなっていたようで、彼は流暢に、その時のことをしゃべってくれた。
      「耐え切れず俺は、そんなあの人の背中をぎゅっと抱きしめてみた。彼女は振り返って俺の頬にキスをすると、タバコの火を消して、思い切り俺の体を引き寄せた。俺は彼女の引力にこたえる形でソファーを飛び越えて彼女の体の上に覆いかぶさり、妖艶な光を放つ唇を塞いでみた。しばらく重ねたままの時間が続いたあと、俺の中に艶やかな蛇が侵入してきた。蛇は俺の口内を這いずり回ると、タバコの香りをほんのりと含んだ粘液で俺の内側を壊していった」
       人は誰しもが、酔うとこんな風にしゃべるのだろうかと少し気になりながら、私は彼の話を、特に相槌を打つわけでもなく、黙々と聞いていた。なんとなく彼の分のお酒を飲んでみると、口の中がしびれるような気分がして、なるほど少し強くしすぎたかと後悔をした。
      「俺たちはベッドにはいかずに、そのままソファーで体を重ねた。その間、ほとんど蛇は俺の中にいた。俺の一部が彼女の中に入り込んでいる。蛇が俺の孔を楽園に変える。身体の構造上、俺が彼女の中に入っている、俺が彼女のことを犯しているはずが、むしろ俺は彼女に飲み込まれているような気分になった。俺自身が、彼女に犯されている感覚に陥った。俺の中に彼女が入り込んで、その存在を、毒が体を蝕んでいくがごとく、俺の心の中で広がっていったのだ。俺は池に飛び込むのではなく、蛇の腹の中に自ら飛び込んでいったカエルのようだった」
       ここまで喋って彼は、疲れを感じたのか少し口を開くのをやめて、きつめのアルコールを口に含む。水分補給にしてはいささか難があるその酒を喉に通すと、彼は少し声色を落として話をつづけた。目は、うつろである。
      「そう、俺は、蛇に飲まれたのだ。だが、蛇の中は孔だった。飛び込んだのが池であれば、俺の体はぬめりとした液体に覆われていただろう。けれど彼女の中身は、中身がなかった。口の中に入っていったカエルを消化するために体液を出すでもなく、そこにあったのはただの無の空間だった。俺以外に、何もなかった。瞳を閉じれば、そこが彼女の中であるということさえ忘れてしまいそうなほど、そこには俺以外の何物も感じなかったんだ。どうやら彼女は、俺というカエルを胃の中に落とし込みつつも、俺を食料として認識すらしていなかったようだ。俺は絶望した。中に入っていた時は、そのむなしさに抗って幸福と快楽を享受していたが、胃の中から飛び出して、蛇が眼前からいなくなった次の日、俺は蛇よりも恐ろしい、虚無感に襲われた」
       その時の彼の表情が、なんだかとてもかわいそうで、色っぽくて、壊れそうで、生き生きとしていて、美しくて、私は思わず、彼の頬に小さくキスをした。そして彼がこちらを見ると、なんだか恥ずかしくなって、私は部屋の電気を消すと、ある限りの力で彼をベッドに押し倒し、その唇を塞いだ。何をしていたのかは覚えていない。ふたりで少し、お互いの背中や首筋を撫でまわし、舐めまわしてから、私と彼は繋がることはせず、私のつくった強すぎるアルコールに意識を壊され、そのまま翌日の昼過ぎまで、一度も起きることなく、10時間ほど爆睡した。



       おそらく彼は、あの日のことを覚えていない。彼を犯しかけた私ですら、あの時のことを思い出したのは、2か月ほど後になってからだったのである。
       もはや味や香りを楽しむことなく、ただ惰性で吸うだけになってしまったタバコを口から話、私は彼にこう言った。
      「でも結局、女の子たちは性的な快楽、あるいはロマンティックな言葉と一緒に、君のことも求めていたんだと思うけど」
       彼女たちは自身の中で生まれる感情やエクスタシーだけではなく、自分の外にある存在として、彼のことを心から、切実の求めているのだと思うのだけど。
      「さあ、どうだろうな。もしそうだとしても、俺はちゃんとその瞬間、彼女たちの内側に入り込むことで、どういった欲求も満たしてやれてると思うんだが」
       彼女たちは、それでいいのだろうか。一目惚れか、長い恋か、あるいはお遊びか。それはわからないが、彼女たちは彼とその時繋がるだけで、満たされているといえるのだろうか。彼女たちは、彼によって幸せになっているのだろうか。
       これは別に、彼が女の子たちを幸せにできていないならば彼は悪だとか決めつけるために考えているのではない。単純に好奇心として、彼に抱かれた女の子たちと、彼について考えたい知りたいだけなのだ。
       彼の心にもやもやを残した女の人がいた。そして今彼は、その女性と同じような存在になりつつあるのかもしれない。自らの体を犯しつつも、決して自分を満たしてくれないような、けれど、彼女たちの中で彼の存在が膨れ上がっていくような、少しずるくて色っぽく、エロティックなお友達。
       眠たくなってきたのか、彼がもそもそと布団の中に潜り込んでいくのが見えた。私はタバコをくわえて少し黙ると、煙と一緒に彼への言葉を吐き出した。
      「結局君は、あの人を抱けて、幸せだったのかな」
       布団のせいで少し籠っているが、はっきりとした口調で彼から返答が来る。
      「そんなん、幸せだったに決まってるだろ」
      「そっか」
       彼は眠った。
      「じゃあ、君が抱いた女の子たちも、きっと今、幸せなんだろうね」

       いろいろな女の子と関係を持っている彼であるが、性欲過多であるというわけではない。彼は性欲の基づいて女の子を抱いているわけではない。彼は自らに対する需要に対して応対しているだけなのである。性欲のままに抱くよりは綺麗に見えるが、性欲に従っているよりも彼の方が残酷であるように見える。
       私が一度彼を襲いかけたことを除けば、私と彼が肉体的に結びついたことは一度もない。彼自身にそもそも利己的な性欲がないからか、私に女としての魅力がないからかはわからない。どっちかかもしれないし、両方かもしれないし、あるいは、それ以外に何か、理由があるのかもしれない。
       ぼけーっとタバコを吸っていたら、部屋の中が煙たくなっているのに気付いた。むせ返るほどではない。ただ視覚的に、もやっとしているだけだ。視線を枕の方に落とす。彼が寝ていた。部屋は明るい。ああ、このままでは、せっかく寝れた彼が目覚めてしまうかもしれない。
       私はタバコの火を消して、部屋の電気を消そうとする。電気のスイッチに指を乗せた瞬間、なんとなく閃いてしまった。
       なるほど。私はタバコを吸っているから、彼にとっては手の届かない存在になってしまっているのだな、と。彼がかつて愛した女性はタバコを吸っていたが、その点で私はその女性と共通しているのだ。
       彼はなぜ、ラブホテルのライターを収集しているのだろうか。あの日、彼が好きな人を抱いたあの日に持って帰ることができなかったもの。それを忘れないために、満たすために、彼は女の子を抱くたびに、あの人のことを忘れるため、そして忘れないために、ライターを持って帰ってきているのだ。あの日手にできなかったものを、今の自分は手にすることができる。その自覚のために、ライターの存在は必要なのだろう。
       ライターを見るたびに、そして私がタバコを吸っているのを見るたびに、彼はあの人のことを思い出す。煙は、彼の思い出を思い出として現実から隔離するためのヴェールなのだ。決して手が届かない存在。それを隠すための煙。彼はきっと、タバコを吸った女性に触れることができない。
       ふと、禁煙でもしようかと思ってしまった。なぜかはわからないが、私がタバコをやめれば、彼に抱いてもらるんじゃないかという思いが胸の内に芽生えたからだ。別に彼のことを愛しているわけじゃないし、彼に抱かれたいわけでも、性的に欲求不満だというわけでもない。なのにどうして、私はいま――。
       タバコを吸えば、私は彼にとっての幻想になる。タバコをやめれば、私は彼に抱いてもらえるかもしれない。わからない。けど、どちらもおもしろそうだ。それ以外の感情がない。心の底で彼に抱かれたいと思っているわけでもなく、ただなんとなく、好奇心でそう思ってしまっただけなのだろう。そう思うことにする。
       彼の隣には、少しだけスペースがある。もう一人男の人が入るには厳しそうだが、私の体くらいなら、容易に収まりそうだ。
       私は電気を消して、暗闇に目が慣れるのを待ってから、ゆっくりとベッドの中に入る。彼の隣に寝転んで、私は闇の中ぼやけて見える彼の輪郭をそっと手の平でなぞってから、頬に短くキスをした。
      「おやすみ」
       目をつむって、彼の寝息に合わせて呼吸をする。薄く目を開くと、タバコの煙が、白く残っているように見えた。

      ウォレット・モーメント

      2015.07.12 Sunday

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         彼からLINEがきた。
        「いまどこいる?」
         平日の夕方。講義も終わり、家のベッドに寝転んで、何をするでもなくスマートフォンを手に持ったり枕元に置いたりをくり返していた私であったので、「いえ」という2文字を味気なく返す。変換すら怠った。
         既読はすぐにつき、ぽろんと返事が返ってくる。
        「なくしものした。さがすのてつだってくれ」
         さては、こいつも変換めんどくさがってるな?
         などと指摘するのも面倒だったので、体を起こしてベッドの淵に座り、正当な返信を打ち込む。しばらく寝転がっていたため、頭の中がふらっと揺れる。急に起き上がるんじゃなかった。
        「なになくしたの?」
         変化のない口調で変換のない文章を打つ。だんだんめんどくさくなってきた。
         別に、好きってわけじゃ、ないし。
         やはり既読はすぐについた。返事もすぐ返ってくる。
        「さいふ」
         変換しろよ。小さくつぶやいた。
         
         彼というのは、あくまで人称代名詞的役割を持つ広義な意味での彼であって、特別な人間関係を示すものではない。
         大学2年生である彼と私。学部も違うしサークルも何もかも違う。けれど、なにかの縁で知り合ってから、お互いに話をしたりすることが多くなった。
         学部が違うといっても、学ぶ内容が同じだったりすることもあって、そういった話をしたりもする。むしろそういうことの方が多いかもしれない。権力についてとか、文学についてとか、ソクラテスとか、そういう。
         彼を何度か家に入れたこともある。私は大学近くにひとり暮らしをしているが、彼の方はどこかからかほどほど時間をかけて電車でこっちまで来ていた。家でくつろいで、基本的には終電で帰っていくのだが、過去には2回ほど家に泊めたこともある。その場合は事前にいつ泊まるという情報をくれているので、私はそれに合わせて簡単にスケジュールを整えるだけで済んだ。気が利くというか、ある程度しっかり私の都合も考慮してくれる。
         彼にも私にも、少し前まで恋人がいた。私の方が少しだけ彼のところよりも早く破局しているが。私の方は大学に入ってから何でか付き合ってしまった相手で、一年経たないうちに終わってしまったのだが、彼のところはそうではない。彼は高校時代からの付き合いがあったらしく、つまり青春時代の大半を共に過ごした相手との終焉だった。
         破局の直接的な原因は、今でも私も彼もわかっていない。私はいい加減な付き合いをしていたし、とりあえずめんどくさくなって恋人関係を絶ったのを覚えている。その後私の元彼氏にはすぐかわいい娘が彼女として寄り添っていたので、すんなり忘れることができた。たぶん、別に好きってわけじゃなかったんだと思う。いや、好きだったんだけど、相手の求めるものと違ったというか。
         彼の方は、どうだったんだろう。仲もよさそうだったから、私にはどういう経緯で別れたのか予想もできない。彼の方はそれを気にしているような素振りを見せてもいるし、気にも留めていないような態度を見せたりもする。実際のところ彼にもわかっているのか怪しい。どうして破局したのか。後悔をしているのか。きっと、彼にとってもそこはどうでもいいことなのだろう。それは私にとっても同じである。
         別に、好きってわけじゃ、ないし。
         
         インターホンが鳴る。スマホを枕元に置いて、立ち上がった。立ちくらまないようにゆっくりと起きる。別に、少しくらい放っておいても帰ったりしないだろう。
         うんと伸びをする。両腕のつけ根がピリピリした。背中を反らせば反らすほど体に走る電流は熱く早くなる。
         玄関へ足を運ぶ。右手で鍵を外して、そのままドアを開ける。覗いたりはしない。どうせ相手が誰かはわかっている。
        「よう」
         彼だ。
         とりあえず合流したいという彼からの連絡。彼にしては比較的直前になっての連絡だったので、文面から申し訳なさが含んであった。特に予定もなかったので「いいよ」とだけ返事をして、その数分後の来訪。
        「どうぞ」
         彼の簡単な笑顔に応えるよう、私も簡単に笑顔を作って彼を招き入れる。彼がドアを支えたところで私は取っ手から手を離し、前傾姿勢を解除して体勢を立て直す。
         ふらっとした。寝起きだからか。思わずくらりと斜めになった背中を、とんと何かが支える。壁ではない。温かみと、限りのある厚みが感じられた。
        「大丈夫か?」
         背中には彼の体がある。都合よく私の背後に立っていたのだろう。
        「あぁ、ごめん。大丈夫」
         体が安定した分、頭のぐらつきが少しだけ大きくなる。
        「寝てた?」
         軽く私の左の腰を腕で支えながら、彼が尋ねた。
        「そりゃもう、だらだらと」
         寝てたというか、寝転んでただけだけど。
        「ごめんな、突然。もう少し時間空ければよかったか」
        「いやいや」
         私は否定する。
        「たぶん、君が来なかったらずっとごろごろしてたし」
         それで、きっと夕ご飯の準備をしようと立ち上がったところで貧血をこじらせて情けなく地面に伏していたことだろう。その前に軽くひっくり返っておけたからよかったのかもしれない。
        「そりゃよかった」
         彼が答える。
         しばらくの沈黙があって、私は彼に問いかけた。
        「あのさ」
        「うん?」
        「いつ、起こしてくれるの?」
         私の体は、彼にもたれたままだ。
        「あ、そっか」
         彼はよいしょと声を漏らして私の体を直立に立て直す。
        「いや、そっちが落ち着いたら立つもんだと思ってたからさ」
        「あ、そっか。私は起こしてくれるの待ってたんだけど」
        「難しいもんだな」
         少しの長さ触れていただけで、背中の熱がほんのり高くなる。彼の鼓動の余熱。
         うーん。確かに、彼が起こしてくれても私のふらふらがまだ治ってなかったらまたくらくらするだけだしね。私基準で立ち直るべきだったか。後悔。
         ちらりと振り返る。少しだけ彼は眉をひそめていたが、私と目が合うとほんのり口元を弛ませた。きっと私の体調を心配して困り顔をしていたのだろう。なんて、自分にとって都合のよい解釈。実際彼はやさしいから、そうだとは思うけど。
         
        「財布をなくしてね」
         彼は言った。
         適当に用意した座布団を彼の足元に滑らせ、愛想なくどうぞと言う。彼はそれを聞いてから感謝の言葉を述べて、座る。リュックをそのそばに、彼の体にもたれるように置いた。
        「どこで?」
         私はポッドに水を入れる。じょぼじょぼと激しく音を立てて水に満たされていく。一定量に達しそうになったところで蛇口を閉めて、勢いを落とす。とぽとぽという優しい音になってから、ちょうど内側の線のところまで水が達したことを確認する。コンセントのつながった、床に置いてあるポッドの半身にはめ込んで、スイッチを押す。ぼこぼこと音を立てて見ずに熱が加わり始めた。
        「うーん、どこかは見当もつかなくてね」
         だめじゃん。
        「っていうのも、落とした感じがしないんだよね」
        「は?」
        「財布使ったときはしっかり手に持ってたし、ちゃんとリュックに入れたからさ」
        「そうなるとリュックの底に穴が開いてたとしか思えないんだけど」
         ポッドの音が大きくなる。
        「リュックはご覧の通り、無事なのよ」
         彼はリュックを寝そべらせて、その底面を私の方に向ける。当たり前だが、穴は開いていない。
        「可能性があるとしたら?」
         彼は少し考え込んだ。
        「授業前にスーパー寄って飲み物買ったから、その辺かなぁ」
         私の家は、大学とスーパーマーケットの間に位置している。
         駅近くのスーパーは主婦に優しい値段設定がなされていて、場所によっては駅を使ってでも市外から買い物に来た方が安くなったりするらしい。そのため、ここの駅にはよく筋トレさながら腕をスーパー袋の重みでぷるぷるさせているおばさまたちを見かける。
         その安さから、主婦だけではなくひとり暮らしの大学生、そして実家生の大学生にすら重宝されているのだ。彼もその利用者のひとりだったわけである。
        「ってことは、そこに行けばいいよね」
        「まあ、そうなるね」
        「行ったの?」
         彼はスマホを胸ポケットから取り出す。
        「電話はしてみた。今のところないって」
        「ふむ」
         ポッドが声を上げる。お湯ができた。彼に聞く。
        「何飲みたい?」
        「ココア」
        「ねぇよココア」
        「おい嘘だろ」
        「嘘も何も、もう夏だしね」
        「夏こそ、アイスココアでしょ」
         それをポッドでお湯沸かした人間に言うのか。
         しかし、うーん。
        「そういうこと言われると、ココア飲みたくなるよね」
         ココア飲みたい。
        「だろ?」
        「ココア飲みたい」
        「じゃあ、行くか」
         彼は立ち上がる。
        「え、どこに?」
         あなた今来たばっかでしょ。
        「どこって、スーパー」
        「は?」
        「ココア、買うぞ」
         いやお前誰だよ。
        「お湯、沸かしちゃったんだけど」
        「もっかいそれに差しとけば保温されるでしょ」
        「ってか、飲みたいのってアイスでしょ」
        「じゃあホットでいいんじゃない?」
         なんだそれは。
         
         そういうわけで、いや、どういうわけだ。
         私と彼はココアを求めるべく、家を出たのである。
        「ココア好き?」
        「別に好きってわけじゃないけど」
         言われたら、飲みたくなるでしょ。
         玄関を出て、鍵を閉めて、彼の一歩前に出て外へ出る。
         だいぶ夏らしくなり、梅雨の湿気を残しながらも今日は晴れていた。もう夕方5時を回っていたが、空はまだ青く濁っている。
         工事の進む道路。最近になってやたら騒がしくなった。うちのマンションの裏でもガガガガやってるし、マンションを出てすぐのところでも薄汚れた作業着のおじさんたちが汗水たらして何かをしている。具体的に何をしているのかはわからない。とりあえずパイロン立てて、その内側でドリルを駆使しているというだけ。
         工事の音がうるさい間、私は特に言葉を発さなかった。彼も同じである。今何を喋っても、何も伝わらなさそうだ。
         彼の方は気を利かせて工事現場が近い間は話をしなかったのだろう。工事の音が薄れ、かすかな風の音がしっかり聞こえるようになった瞬間、彼が話をしてくれる。
        「悪いね」
        「なにが?」
        「ココア」
         ほんとだよ。
         とは言わない。
        「いいよ、私も飲みたいし」
         残念ながらこれは事実である。
        「お金は返すからさ」
        「財布ないでしょ」
        「あ、そうだった」
         ふたりで笑う。風はぬるい。
         恐ろしいほど大学に近く、恐ろしいほどスーパーに近い我が住処。そこを出てほんの3分ほどで、目的地へ着く。
        「サービスカウンターのおばさまには否定されたけど、実際に店内を確認したいしな」
        「そうだね。立ち寄ったのが2時間前とはいえ、まだあるかもしれないし」
         直前で信号が赤になる。渡ろうとした私の手を彼が引く。
        「待て」
        「なに?」
        「赤だ」
        「知ってるけど」
         車ないし。
        「万が一がある。撥ねられるなら俺がいないときにしてくれ」
         それも変な話だな。
         彼が手首を開放した。
        「わかった。君の前では死なないようにするよ」
        「ありがとう」
        「私も気分悪いしね」
        「うん?」
        「君の前でぐちゃぐちゃになるのは」
        「女子か!」
        「いや、そういうあれじゃなくて」
        「ふむ」
         彼は少し考え込む。
        「確かに、知ってる人の前で無様な姿を晒したくはないな」
        「でしょう?」
        「それが好きな人なら、なおさら」
         私は彼を見る。彼は私がいう前に続けた。
        「深い意味はない」
        「知ってる」
         青になったのを確認して、私と彼は信号を渡る。
         
         彼がここで落としたとすれば、確実にレジを通過した後のスペースだろう。つまり、買ったものをバッグなりビニール袋なりに突っ込む、あのスペースである。
         入り口から入ってすぐのところ。彼が少しだけ早足で、自分がリュックを下ろしたであろう場所へ向かう。
         見てすぐ結果はわかったけれど、一応私は彼のところに近寄らず声をかけた。
        「あった?」
         こちらを向いて、肩を落として首を振るポーズ。まあ、そんなとこにあったらすぐパクら
        れるか、サービスカウンター送りだよね。
         目的はココアであったが、ふたりでだらだらと店内を回る。
        「トイレットペーパーがやすい!」
        「いや、うちあるから十分」
        「やってみたくない?」
        「なにを?」
        「トイレットペーパー持たされる、奥さんに弱い旦那様の図」
         世のパパたちは何もトイレットペーパーを持たされるだけが仕事ではないのだが。
        「いらないから。何か買ってもいいけど、君にとって役に立つものね」
        「たとえば?」
         たとえば?たとえばってなんだ。
         私が悩んでいると、彼はまたぱたぱたと別のコーナーへ歩いていく。ウェットティッシュ。
        「いらないでしょ」
        「役に立つ!」
        「言い方が悪かったね。体内に吸収できるもので」
         そういえば、ウェットティッシュは本当に切らしていた気がするな。彼がいなくなったのを気にも留めず、私はそこで少し立ち尽くし、念のため持っていたスーパーの買い物カゴに、箱?入りのウェットティッシュをひとつ落とす。
         彼が遠くの方に見える。目を光らせている、ように見えた。彼は棚に手を伸ばす。こちらを振り向く。手に取ったもの。紙コップ。食えるものっつったろ。
         彼がこちらの方へゆっくり足を運んだ。それを確認して、私は彼から離れる。彼よりも早足で。距離が開く。彼が顔をしかめて足を速めた。私も加速する。逃げろ。
         店の中で大学生が追いかけっこ。ひとりはカゴ持って。もうひとりは紙コップ片手に。あるから。紙コップうちにあるからっていうか基本的に来客時はそれ用のカップ使ってるから。紙コップなんて外で何か飲むときしか使わないから。やめて。来ないで。それ以上使い道のないものを増やさないで。
         走り始めやがった。驚いて私もダッシュする。店内は走らないで下さい。夕方という時間帯のわりに人は少なかった。走るのに物的障害はない。すれ違いざま従業員のおば様がなにか言ってるくらいで。
         人は少ないが、店の商品棚は入り組んでいる。そのため、鬼ごっこには最適だった。ときおりポテトチップスの隙間から相手の位置を確認するのが精一杯で、とりあえず逃げるのが最優先。
         なんで逃げてるのかは謎。彼の手から紙コップを取り上げて「だめ」とひとこと言い放ち棚にコップを戻せばいいだけの話。でもなんで逃げてるんだろう。理由はわからない。理由自体ないのだろう。楽しくなってきた。私は彼と戯れたいだけなのである。
         外国のお菓子みたいなコーナーに入ってくる。何語か読めないような商品名。後ろを振り返ると、商品の隙間から彼の歩く姿が見えた。
         向こうは気づいていない。私は急ぎ足で、しかし慎重に棚の端まで移動する。彼の様子を伺うことにした。彼の手にはリセッシュ。あいつ、紙コップ飽きたな?
         こちらの方へ歩いてくる。お菓子のところで立ち止まり、しばらく商品を眺めていた。大きめの袋を手にとって、代わりにリセッシュをその空きスペースに入れる。リセッシュの場所はそこじゃない。
         あの位置。そしてあの袋。私は見覚えがあった。遠くからなのではっきりとしないが、おそらくあれだろうという心当りがある。レーズンをチョコレートでコーティングしたもの。それが200g。重さがおかしい。そんな量食えるか。
         私が動いたのに気付いて、彼が足を速める。
        「これ!これ食べたい!」
        「ふざけんな!」
        「なにが!」
        「量が!おかしいでしょ!」
        「おいしいかもしれないだろ!」
        「食べ切れるか!」
        「何日かに分ければいいだろ!」
         こいつ、レーズン食べるためにうちに通うつもりか。
        「レーズンはだめ!」
        「何ならいいんだ!」
        「私の食べたいもの!」
        「どれだよ!」
        「さあ!当ててみなよ!」
         うるさい大学生ふたりである。
         
         結局、外国のお菓子コーナーをぐるぐる回りながら、彼がお菓子を選んで私を追いかけて、私の気に入ったものじゃないとわかると次の周回時に別のお菓子を持ってまた追いかけるという、謎過ぎる遊びにかれこれ15分ほどかけて、彼の持ってきたポテトチップスによって戦争は終結した。
         その後ふたりで本来の目的であったココアの前で「森永がいい」とか「牛乳は明治だ」とか、「牛乳は家にある」だとか、そんな感じのことでまた争いになり、家に着いた時には午後7時を回っていた。
         何事もなかったかのように家にあった牛乳を温める。彼にはホットミルクでつくったココアを出した。私は、いくぶんか飲みやすいように冷めていたお湯をポッドから注いで作ったココアを飲む。
        「うすい」
         私が漏らした。
        「そしてぬるい」
        「誰のせいだよ」
        「君が追いかけてくるから」
        「君が逃げるからだろ」
         そっか。
         しかし、ぬるい。対して彼の方は、なかなか飲み進められていなかった。
        「猫舌だっけ?」
        「いや、そういうんじゃなくて」
        「熱すぎた?」
        「冬なら飲めた」
         そりゃ、夏だしね。
        「はい」
         彼がカップを私に差し出す。彼専用になりつつあるそのカップの取っ手は、少しだけ私には使いづらい。
        「もういらない?」
         私が尋ねる。
        「違う。飲んでみろ」
         彼からカップを受け取った。彼の手はまだ伸びている。視線は私のカップ。
         私はぬるいお湯ココアを彼に渡す。ほぼ同時にふたりで口をつけた。
         カップの淵に口をつけたものの、鼻の息でココア表面の熱気がもわりと顔面に昇ってきて、ココアを口に含もうという気が失せた。
        「冬なら飲めたかも」
         私はカップを置いた。彼の方は何度かココアを口に運んでいる。飲み込むたび妙な顔つきになり、こちらを見てきた。
         彼もカップを置く。そしてひとこと。
        「うすい」
        「うん」
        「そして、ぬるい」
         ふたりで笑う。
         
         激闘の末買った謎のポテトチップスをふたりでテレビを見ながらだらだらばりばり食べていて、気付けば時刻は9時を回っていた。
         先述の通り彼は電車を利用してこっちまで来ているので、帰りの電車には細心の注意を払わなければならない。「んおっ」という情けない声を漏らして、ベッドに寄りかかっていた彼はスマートフォンで時刻表を調べる。
        「そろそろ出るかなぁ」
        「んー」
        「ごめんねなんか」
        「いいよー、楽しかったし」
         おかげさまで、外国のポテトチップスは意外とヘルシーだということを発見できたし。日本のものであれば袋の内側が油でべとべとになっているが、今日買ってみたものはかなり油は控えめで、まさに素材の味を生かした商品になっていた。塩分量も、日本のものより割合は少ない。
         彼が立ち上がったので、私も立ち上がる。彼が玄関へ歩くので、私もそれを追いかけた。
         彼が靴をはく。随分見慣れた光景。実際にそれほどまで見慣れているわけではない。ただなんとなく、彼の靴の履き方を覚えてしまったような気になっているだけだ。
        「電車ある?」
        「ああ、まだ終電じゃないしね。乗り遅れても帰れる」
        「もしダメだったら戻ってきなよ。泊めるから」
        「ありがとう」
         冗談を言った後で、彼が私から目を話そうとしたとき、視界が揺らいだ。
         あ、まただ。
         ふらり。
         とん。
         彼の胸。
         沈黙。
        「……本日2回目」
        「ごめんて」
         体は起こせない。
        「貧血かな。食べてるか、ご飯?」
        「ご飯はわりと」
        「それにしちゃ痩せ過ぎだ」
         彼の手が少しだけわたしの腰を叩く。
        「うるさいなぁ」
         彼の胸の中で笑う。少しだけ苦しい。
        「起きれそう?」
        「まだ無理そう」
        「そっか」
         
         妙に体が熱い気がしたので、外の空気に触れたくなった。玄関までの予定だったけど、彼を駅の方まで送ろうとする。
         アパートを出た。涼しい。これからもっと冷えるのかな。服を考えないと。油断しては、風邪を引きそうだ。
        「涼しいな」
        「そうだね」
        「風邪引くなよ」
        「君こそ」
        「俺はほら、元気だから」
        「ならいいけど」
        「ちゃんと寝ろよ?」
        「君こそ」
         なぜだろう。
         なぜかはわからない。真っ暗闇の中でわかるはずもなかったのに、なぜか私にはなんとなくわかってしまった。
         彼の財布が、落ちている。
        「ねぇ」
        「うん?」
        「あれ」
         私は財布を指す。
        「どれ?」
         彼にはまだ見えていないらしい。
         彼の手を取って、財布のところへ連れて行く。よくもまあ持ち去られなかったものだ。そしてよくもまあ、何度か通ってたのにもかかわらず気付かなかったものだ。
         そこにあったのは、間違いなく彼の財布であった。それも、彼が「財布をなくした」と連絡を寄越してうちに来るまでに、彼とココアを買いに出かけたときに、彼と買い物をして帰ってきたときに、確実に気付いたであろう位置に、ぽつりと黒い財布が落ちていたのだ。
        「あら」
        「よかったね」
        「問題は中身よねぇ」
         彼は暗闇の中財布を広げる。種類までは見えなかったけど、お札がいくらか。
        「カードとかは?」
        「減ってない」
        「それはよかった」
        「ほんとにね」
         そういう彼は、あまり嬉しそうではない。
         お札の入ったスペースに、白くつややかなものを見た。
        「その白いのは?」
         聞かなきゃよかったのに、私は好奇心から聞いてしまう。
        「ああ、これね」
         彼は気にしない様子でその白い紙のようなものを取り出して私に渡した。硬い素材。プリクラである。財布に入る大きさにまで切ったプリクラ。映っているのは彼。そして。
        「元彼女?」
        「そうだね」
        「入れてあったんだ?」
        「あー、なんか捨てらんなくてね」
         私は彼にそれを返す。彼はプリクラを手にとって、しばらくの間眺めていた。言葉だけが飛んでくる。視線は白に注がれたまま。
        「もう終わったことだとはわかってるし、向こうにも新しい彼氏ができたらしいから、持っててもしょうがないんだけどね」
        「うん」
        「なんか、捨てられないのよ。わかる?」
         私は。
        「わからない、かも」
        「へぇ?」
        「そういえば、前の彼と撮ったことないかも、プリクラ」
        「そうなのか」
        「っていうか、人生で?」
         思い出せない。地元は田舎くさかったから、本当にそういう機械があったのかどうかも怪しいほどだ。コンビニですらかなり歩いた我が田舎暮らしの中、そんな文化が浸透しているとは思えない。
        「大切なもの、ないの?」
        「ん?」
        「前の彼との、思い出みたいな」
        「ない、かも」
        「そっか」
        「別に好きだったわけじゃないと思うし」
        「なんじゃそりゃ」
         彼が笑った。
         
         彼を駅まで送り届けて、家に戻ってくる。妙にもやもやした気持ちが胸に残った。立ちくらみはもうない。けれど、頭を壁に打ちつけたい衝動に駆られる。それだけこのもやもやが、気持ち悪かった。
         シャワーでも浴びようか。それすら面倒くさくなる。明日朝早くないし、朝起きて汗がひどかったら浴びよう。いや、ひどくなくても浴びるべきか。女子として。
         いや、別に、誰に触れられるでも、誰に好かれるでもないこんな体、ほっといてもいいんだけど。
         それでも、洗わなきゃいけないと思うのは何でだろう。
         彼の熱が蘇る。一瞬変な考えがよぎって、頭を振り払った。
         彼のため?そんなばかな。
         ベッドを見る。さっきまで私が座っていたから、ベッドの上にはクレーターができていた。床に敷かれたクッションには、彼の残した座り跡。なんとなくクッションに触れて、こんなに柔らかかったっけと思う。
         クッションを手にして、ほこりを軽く叩く。ベッドに寝転んで、クッションを抱いた。
         別に。
         クッションに顔をうずめる。熱が蘇る。
         
         「撥ねられるなら俺がいないときにしてくれ」
         「知ってる人の前で無様な姿を晒したくはないな。それが好きな人なら、なおさら」
         「それにしちゃ痩せ過ぎだ」
         「あー、なんか捨てらんなくてね」
         「大切なもの、ないの?前の彼との、思い出みたいな」
         
         うるさいなぁ。うるさい。うるさいよ。
         クッションを顔から離して、再び腕に抱く。真空状態にする勢いで、強く抱きしめる。少しだけ自分と違う匂いがした。
         どうでもいいよ、彼が今どんな気持ちだって。あー、もやもやする。いらいらする。
         寝よう。そうして起きたら、きっと何もかも忘れてるから。
         電気を消す。スマホが震えた。暗い部屋で通知ランプが光る。画面を覗く。「無事電車乗れたよ。今日はありがとう」のメッセージ。既読をつける。返事を返す。
        「またおいで」
         口に出ていた。スマホの電源を切る。アラームもいい。今日はずっと寝てやろう。あー、いらいらする。

         別に、好きってわけじゃ、ないし。

        Five minutes late in the fog

        2015.06.30 Tuesday

        0
           日差しに色がなくなってきた。いや、日差しが世界の色を消しているとでもいうべきだろうか。空から平等に降り注ぐ日の光が、ぎらぎらと輝き日常の景色を白く霞ませる。
           暑い時期になった。男であることを恨む。男であるがゆえに、少しだけ暑さに弱い。じわりと汗をかいているのを感じる。
           服の――特に脇のあたりに汗が染み出しているのではないかという感覚に襲われて、裾から右腕を突っ込んでシャツの内側と脇の下を触った。視線を落としてみても、シャツに染みはできていない。体の表面を汗がだらりと滑っている様子もなかった。

           この違和感の原因は、おそらく汗腺が開き切っているということなのだろう。目には見えないけれど、おそらく毛穴のようなものがぶわっと大口を開けているに違いない。そのせいで、妙な不快感を催しているのだろう。
           半端に重くなったリュックサックを肩からおろし、駅のホームに乗せる。
           電車が来るまでは、もう少し時間があった。

           新しい刺激を求めて、ウォークマンを取り出す。昨日いくつかCDを借りていた。今まで触れることのなかったジャンル――英語の歌である。
           女性のアーティストのCDを借りた。特別にそのアーティストが好きだというわけではないし、つい先日まで存在自体知らなかったぐらいだ。けれども世界的にはかなり有名らしく、なるほど確かに、彼女の曲の中には頻繁に聴いたことがあるものもあった。
           どこで聴いたのかは、明確には思い出せない。それほどまでに多くの場所で、自分がその曲を耳にしていたということだろう。

           ウォークマンを一緒に、小さめのうちわを取り出す。以前母の実家に帰省した時、くすねてきたものだ。一般的なうちわよりもやや小ぶりなため、使いやすかった。
           大きければ大きいほど涼しくなるというわけではないし、小さくなればなるほど効果が減退するということもないので、小さいこのうちわでも困らない。むしろ持ち運びが楽で快適なくらいだ。

           うちわの、プラスティックでできた持つ部分を口にくわえ、ウォークマンから伸びた真っ白いイヤホンを両耳に突っ込む。
           電源を入れてしばらくすると、曲を再生していないのにもかかわらずノイズキャンセリングが機能して周囲の音が少し抑制された。音楽を再生しているとわからないのだが、どうやら再生機器から小さなノイズのようなものを流して、周囲の音と相殺させているようだ。かすかに、さーっと掠れたような音がする。

           最近追加した曲のリストから、例の女性アーティストのアルバムを選ぶ。適当に一曲選んで、ランダム再生に設定した。できれば、どんどん新しい曲を聴きたい。
           最初に選んだ曲は、それこそ彼女の曲の中でも有名なものだった。真剣に歌詞カードとにらめっこをしたわけではないから詳しい意味は分からないが、タイトルから察するに恋の終わりの歌らしい。もう私たちが前のように戻ることはないでしょう、そんな感じ。
           イントロ部が小鳥の声とともに始まる。朝の訪れを象徴しているようだった。
           その爽やかさが、別れてからしばらく時間がたった後の女性の落ち着きを表しているようである。当初はあれだけ悲しみにおぼれていたが、もうそんな鬱蒼とした感情は日光によって消毒された。こんなにも世界は明るいのだ。

           たしかに、世界はあまりにも明るくなりすぎた。梅雨があったのかどうかもわからないような6月が、もうすぐ終わろうとしている。
           梅雨明けの宣言は出されていただろうか。そもそも、本当に梅雨入りの宣言自体なされていたのだろうか。そんなことを疑うくらい、今年はレインコートよりも半袖のシャツにお世話になった気がする。そしてその半袖を濡らすのは、雨よりも俺の汗だった。

           口にくわえたうちわを右手に取り直して、ぱたぱたと顔の前であおぐ。口を開けていながら一向に乾燥する気配のない脇のために、今度は裾の下から上半身へと直接風を送った。入ってきた風が襟元から飛び出して、微かに喉を涼ませる。
           本当は1本前の電車に乗るはずだったのだが、見事に乗り遅れて予定より5分あとのものに乗る羽目になった。自転車をもう少し熱心に漕いでおけばよかったのだが、暑さがそれを妨げた。まあ、別に大学の授業に遅れるというわけではないので、特には気にしない。
           唯ひとつ不満点を挙げるとすれば、これから乗ろうとしている電車の方が車両数が少なく密度が高くて、座りにくいということだ。無事に座れるといいのだが。

           ホームへの階段が少しバタつく。次の電車に乗ろうとする乗客たちがパタパタと階段を下りてきたのである。
           目の前で上り電車に発車された俺はぼんやりとホームで待ち呆けていたが、普段からこっちの電車を利用する人はもう少しギリギリにホームへ降りてくるわけだ。情けない。降りてきた人々は待ち構えてる俺を見て「乗り遅れたんだな」と一目でわかる。帰りたい。

           ひたすらにうちわを手首で返すのにも飽きてきたので、同時進行で階段を眺める。知った顔が降りてこないだろうかという、ちょっとの期待と多大な不安を身にまといながら。
           
           つい先日、俺は高校時代から交際をしていた恋人と破局したのであった。別れ際にナイフで腹を一突きされたなどといったバイオレントな出来事もなかったので、あっさりと幕引きになるのだなぁと少し驚いている。
           その彼女と付き合えたのが不思議なほどで、俺は致命的にモテない。しかも、それに気づいたのがつい最近であった。そりゃそうか、恋人がいる間に自分のモテ度の高さを確認する機会などそうそうあるまい。
           電車の中でいろいろな人を見る。綺麗な人、かわいい人。むかつくイケメン。妙に安心してしまうような残念な顔の男。別れてから、特にそういったものを見ることが増えた。それも少し考えれば当然のことで、俺はその彼女と、まさに次にやってくる電車を一緒に利用していた曜日があったからだ。
           隣に恋人を座らせておき、会話に相槌を打ちながら、どうして電車内のスタイリッシュな美人を眺めることができようか。
           何かの歌で、違う女の子を目で追っているのに気付いているのよなんて歌詞があったような気がする。きっとそんなことをしたら、痛いほど冷酷な視線が俺の左耳あるいは右耳の鼓膜に突き刺さっていたことだろう。
           あるいは、直接的に脇腹を小突かれていたかもしれない。

           しかし、だ。幸か不幸か、そんな心配は一切しないで済むのである。目線で鼓膜を震わせるものも、手刀でみぞおちに一撃を加えるものも、俺の隣にはもういない。
           繰り返しになるが、もちろんこれは幸せでもあり不幸でもある。普段見落としていた宝石を鑑定できるという利点とともに、行きの電車で会話がなくなるという損失も味わう。うーん、どっちがいいのかね。

           別に綺麗な人見かけても俺のものになるわけでもないし、声をかけられるということもあるまい。もし隣に座られる機会があったとしても、できるのはせいぜいちらちらとその横顔を観察したり、連絡を取っている相手が彼氏なのかどうか確認することぐらいである。
           思い切って寝たふりをして倒れこんだり、無意味に横を向いて深呼吸し匂いを嗅ぐということもできないこともないだろうが、人生を棒に振るリスクを冒そうとは思えない。

           階段をにらみつけるのにも、慣れないジャンルの音楽にも飽きて、俺は手元のウォークマンをいじる。再生してからまだ3分しかたっていない。ちょうど曲が終わったところであるが、お構いなしに普段から聞いているアーティストのリストへと切り替える。
           聴きなれたベースの音。聴きなれたギターの音。そして時間差で、聴きなれたドラムの音。好きなバンドの好きな曲の、ライブバージョンが再生された。
           みっつの音が合わさった瞬間、耳元の観客が一斉に騒ぎ始める。「あい」とか「おい」とかそんな感じの、雄叫びにも似た歓声。女性がいるとは思えないような荒々しさ。臨場感。
           耳から注がれた刺激物質に脳が興奮してきたのか、だんだんと暑くなってくる。俺はうちわにかける力を強めた。

           
           まもなく電車が到着しますというアナウンス。「嘘つけ!」と言いたくなるほど奇妙な時間差があって電車が来た。広すぎるホームと電車との距離を跨いで、乗り込む。
           普段この電車に乗っていた俺が1本早い電車に乗ろうとしていたのは、元恋人と同じ電車に乗らないためである。別に壮大な喧嘩をしたわけではないので会っても気まずくはならないだろうが、なんとなくそれを避けたかった。
           幸い()先ほど見た感じでは彼女の姿は確認できなかったので、きっと彼女の方こそ1本早い電車に乗ったのだろう。だとしたらなんという奇跡だろうか。一緒の電車に乗りたくない一心で急いできたものの間に合わず、けれどもそれが結果的に一緒の電車に乗らずに済むきっかけとなったのだとしたら。
           まあ、どうでもいい。

           案の定電車は人がそこそこいて、なんとか優先席だけが空いていた。ぽつぽつといる、律儀に吊り革をつかんで立っているサラリーマンを気にも留めず、俺は申し訳なさそうに優先席に腰を落とす。リュックを脚の間に挟んで、できるだけ端っこにへばりつく。体の側面が熱い。
           
           朝の半端な時間であるがゆえに、電車が駅に止まるたび利用者は増えていった。降りる人よりも乗る人の方が圧倒的に多いため、満員電車というほどではないが、次第に電車は混みあっていく。座っていては同じ車両の反対側の様子をうかがえないくらいには、人の詰め合わせができていた。
           聴き慣れた、お気に入りのアーティストの曲が6曲ほど終わると、電車内に乗り換え案内のナウンスが響く。次の駅はひとつの分岐点で、そこでは3つの路線が走っている。
           そのうちのひとつの路線にとってその駅は一番端っこの駅でもあるので、乗り換える乗客が多い。そのため、この駅を過ぎると少しだけ電車内がスッキリする。ついでにいえば、元彼女はこの駅で乗り換えていったため、俺たちの一緒の朝の終点でもあった。

           体の左側へと進む電車が、ゆっくりと速度を落とす。そして停車すると、前に立っている人々が慣性に従って軽く左側へと傾いた。前の方でドアが開く。機械音が軽快に聞こえた。
           ぞろぞろという足音を立てながら、乗客のいくらかが降車していく。乗ってくる人はあまり多くないため、電車内からもホームの反対側の様子がうかがえた。電車は止まっておらず、大学や病院の看板がいくつも見える。赤いもの、白を基調としたもの。
           別にここでそんな看板を見たからといって、「肛門科に行こう!」なんて思わないと思うんだがなぁ。

           乗り換え階段へと足を運ぶ降りた人々。窓の外では、人が左の方へ吸い込まれ消えていく。その波の中に、俺は見知った顔を見つける。
           思わず「あっ」と小さく声を漏らす。見つけたのは、なにを隠そう元恋人その人であった。
           大学生だというのに、妙に乙女思考を感じさせるふりふりしたワンピース。しかし姫というような感じではないので、多くの人にとっても許容範囲であろうファッション。
           雰囲気は変わらないが、その服には見覚えがなかった。きっと別れた後に購入したものなのだろう。似合っているかどうかはわからないが、変な安心感を覚えた。


           関係が終わったとしても、その人が終わるというわけではない。関係が終わっても彼女の服のセンスは変わらないし、俺の音楽の好みは変わることはないのだ。少し考えれば当たり前のことだと気付くが、それすら俺は気づくことができなかった。
           恋は盲目というが、むしろ恋の終わりこそ、深い霧の世界のようだ。今まで自分を取り巻いていた幸せの空気といったものが、破局とともに空中へ霧散する。
           その霧はこれまでの思い出の色を豊富に含み、しかも濃度が高いために、ひとつの普遍的な事実さえも覆い隠してしまう。そして思い出したかのように、霧の中からふっと恋人の姿が現れる。

           そしてそれは、幻ではない。霧の中に見るものの、その姿かたちはすべておぼろげで、時にはカエルさえもシマウマのように見ることがあるかもしれない。霧の中に現れたリアリティあるその物質は、そのロマンスとミステリアス加減ゆえに夢であるかのように思い込ませてくるが、実際霧中でそれほどまで奥行きを持ったものは存在しない。手を伸ばせば、確実に手が届くのである。
           けれども、霧によって視覚を歪められた俺たちは、手を伸ばそうにも遠近感が狂ってしまっていて、どうしようもない。
           どれだけ力を込めればいいのかもわからないまま、現実は霧の中へと消えていく。


           元恋人の姿はふりふりとしたワンピースの襟元と共に視界の端へ消えて行き、ドアが閉じてその姿を追うように電車が動き出しても、もうその形を見出すことができない。
           俺は遠ざかっていくホームを見ることさえも許されず、景色は再び無機質な線路に横切られている。

           
           元恋人の影を認めた駅からふたつ隣、終点の駅。俺は乗り換えるべく、もそもそと立ち上がって電車を降りる。解放された肩は、数十分ぶりのリュックサックの重みに苦しんでいた。負担を軽くするように、一度リュックサックを前に背負う。
           中を漁り、冷房の程よく効いた電車内では使うことのなかったうちわを取り出す。狭い乗り換え用の階段には、暑苦しそうな黒いサラリーマンのスーツ姿がタピオカのように転がっていた。

           ぱたぱたと顔のあたりを仰ぎ、階段の行列が落ち着くのを少し待つ。女子大生やOL、そしてたくさんのおっさんが俺を追い越していくのを気にせず、俺は階段の足元で立ち止まっていた。さぞ邪魔だろうな。けれども、気にしない。
           気にしないようにしていたが、一度見てしまうと気になるものである。元恋人に、連絡を取ってみようか。スマートフォンは胸ポケットにしまってある。いつだって、スマートにコンタクトを取ることはできた。
           あるいは、今日の帰りにでも、少し洒落たレターセットでも買って、彼女の家宛てに出してみようか。何を書くかは、その時の気分次第。

           耳元で、さっきと同じ曲が流れているのに気付く。曲数の少ないアルバムを選んだから、ここまでの道のりで一周してしまったのだろう。俺は胸ポケットからスマートフォンではなく、隣り合っていたウォークマンを取り出す。
           新しい、刺激を。
           見送るたくさんの背中に、いくらか美人の雰囲気を見出す。追いかけて振り返って、期待通りか、失望か、どちらかはわからない。
           わからないから、俺たちは誰よりも先を行き振り返り、誰よりも高く上り下を見下ろすのだ。誰でも彼でも追い越して、初めて正面から向きかえる。誰よりも先に行くからこそ、追い越したものがなんであるかを悟ることができる。

           だとすれば。
          「新しい刺激を」
           自分を奮い立たせるように小さくつぶやいてから、俺はウォークマンのアーティスト一覧から女性アーティストを選ぶ。電車に乗る際飛ばしてしまったが、今ならゆったりと聴けそうな気がした。今なら飽きずに、聴けそうな気がした。
           音楽が流れる。ウォークマンを胸ポケットに入れなおし、スマートフォンに触れた。すぐにその手を引っ込める。
           左手に持ったうちわを右手に持ち替えて、大きく顔をあおぎながら、俺はダンゴムシがクライミングをしている階段に向けて足を運ぶ。
           少しだけ躊躇ってから、ゆったりと進む一行を押しのけて、誰よりも先に、誰よりも高いところへ登っていく。


           何を言っているかわからない英語の歌。それでも、その歌が明るいということだけはわかった。

          ライ・ネ・クレーペ

          2015.06.19 Friday

          0
             講義が終わったところで首を左にひねり、いつものように隣の彼に目を向ける。長いのかどうかわからない半端な長さの黒い前髪を垂らしていた彼が、その手を止めて教室の前方を向く。私とは、目が合わない。
             青く光る細身のシャープペンシル。ペン先を机上の紙に押し付けながら、ペンの頭をプッシュする。濃いめの芯が微かに削れ、その真っ黒い粉が紙に乗った。
             出席判定のために提出する紙であったが、彼はそれを黒くほんのり汚すことにまったく躊躇いはないらしく、息で粉を吹き払うと、役目を終えたシャープペンシルをペンケースへ丁寧にしまう。
             まじまじと彼の所作を見ていた私は、ファスナーを閉じた音にハッとなって急いで自分の出席カードを仕上げる。かなりの殴り書きになっていたが、気にしていられない。
             適当に授業内容を振り返りながら大切らしいことをまとめ、全く感謝を感じていなかったが最後に「ありがとうございました」という言葉で締めくくる。彼に後れを取るわけにはいかない。芯をしまうのも忘れて、私は乱暴にペンを封印した。
             雑ながら私がガリガリやっているうちに――私が意識をそらしているうちに、彼は荷物を背負って出席カードを軽くつまんで教室の前方へ歩いてしまっている。私たちの座っていた席の最前列、そこのテーブルの角を曲がって、教壇に接した机の上に紙を乗せた。
             追いかけなければ。私もリュックサックに怒られるほどひどく乱暴に背負って、ぱたぱたとカードを出しに向かう。
            教室の床は濡れている。比較的白かったであろう教室の大地は、雨に濡れた学生と荷物、そして傘が講義前に押し寄せたことで、すっかり汚れていた。地面に黒いミミズが這っているような汚れ方である。
             そこで私は傘を机に脇に置いてきたことを思い出した。紙をつまんだまま急いで引き返し、絶妙なバランスで立てかけられていたピンク色の傘を豪快に反対の手で掴む。今度こそ提出しなければ。
             
             彼が置いていったカードの上に私の分をワイルドに載せて、教室を駆ける。ドアの取っ手を右手で掴んで思い切り左へ払う。勢いよく開いたドアが、枠にぶつかった反動で閉じてきた。その隙間を私はダッシュで駆け抜けて、左手に持った傘の先が後ろのドアにこつんと当たったのも気にせず、彼の背中を追う。
             教室は1階で、ドアは建物の中ではなく外に取り付けられているため、教室の終わりと世界の始まりがゼロ距離に存在していることになる。教室を出てくるりと左を向くと、そのターゲットは近くにいた。
            渡り廊下のようなところで、彼は空を眺めている。左手を屋根の管轄から軽く外へ出して、触角を通して空模様を把握しようとしていた。消えそうになりながらも雨音がさらさらと音を立て、彼の左の掌を少しずつ濡らしていく。
            手を引っ込めることさえせずに、彼はしばらくそうしていた。そのぼんやりとした表情になんとなく魅せられていたが、我に返って自己を奮い立たせる。左手の傘を強く握って、声をかけた。
            「傘、持ってないの?」
             力み過ぎてすごい威圧的な物言いになってしまったような気がする。少し後悔していたが、彼の方にはその感情は読み取れない。空を見上げたその首のまま、顔だけ私の方へ倒す。
             どれだけの時間が経っていたのかはわからない。10秒かもしれないし、2秒かもしれない。ともかくもいくらかの沈黙があって、彼から反応がないのをいいことに、私は勝手に話を進めた。
            「帰り、一緒でしょ?傘、入っていきなよ」
             彼は一言も発さない。けれどその左手の水滴をぱたぱたと払ってから、その手をポケットに引っ込めた。少しの間。
            「じゃあ、お願い」
             
             彼とは、地元の駅が同じだった。
             知り合ったのは大学に入ってからで、学部は同じだったが学科が違う。たまに授業で見かけるくらいで、特に仲良くなるということもなく1年が過ぎた。
             幸い2年生になった今年も同じ授業があったために、私は毎回、わざわざ授業開始ギリギリに入室し彼の隣に座っている。今日もそれだった。
             地元が同じであったとはいえ高校は全く違ったし、彼と利用駅が同じであることはついこの間知ったばかりだ。それほどまで私たちに縁はない。
             理由は特にないが、いつからか彼のことが気になっていた。去年、あるいは今年に入ってからかもしれない。なんとなく、彼の下を向く横顔に惹かれてしまったのである。なにか痺れるようなきっかけがあったわけではない。
             同じ時間の電車を使っているのだろうけど、一緒の車両に乗り合わせたことはなかった。自分の駅で降りるとなぜか既に彼が前を歩いており、あっという間に改札を抜けている。急いで追いかけようにも、帰宅ラッシュのサラリーマンたちに呑まれ、身動きが取れず彼を見失うのが常だった。
             さらにいえば、私は彼の家の場所も知らなければ、駅から自宅までの移動手段が自転車なのかバスなのか、歩きなのかも知らないのだ。自分のことを何も知らない女に声をかけられて、よく彼は相合傘を受け入れたものだなと、今でも不思議に思うことがある。
             
             ピンクに縁取られた空はどんよりとしていた。透明な傘の中心部は、雨粒の蕁麻疹を発症している。
             大学から最寄りの駅まで、私たちは一緒の傘に入ることにした。傘は私が持っている。一般的な男女の相合傘なら、男性が持つイメージをするかもしれないが、私の夢は雨に流された。ピンクの傘を持つのは嫌なのだろうと、勝手に自分を納得させている。
             しかし私が気になったのは、微妙に私と彼の方に距離ができていることであった。そりゃお互いの肩がめり込み合って気付いたら完全に接合されてましたっていうのはどうかと思うし、いきなりゼロ距離というのも期待しすぎだろう。けれど、隙間風が自由奔放に列を成して通り抜けられるほど、私たちの間の透明な壁は厚かった。ぜひドイツ人を呼んで、つるはしなどで滅多打ちにして壊して欲しいものである。
             先述の通り、私たちは格別に仲がいいというわけではない。それどころか、下手をすれば初めて会話をしたかもしれなかった。我ながら無謀である。フラグを立てるステップを完全に無視してしまった。
             日頃から、好印象を持ってもらえるよう小さな世間話でもしておけばよかったと少し後悔している。毎回のように隣に座っていながら、プリントを回す時でさえ妙に緊張して簡単な挨拶ですらできなかったのだ。
            教室の机には椅子が3つあって、いつもその両端に私たちは座っている。ふたりの間にひとつ空いた席を強引に詰めて、アプローチをかけておけばよかった。来週からはそうしよう。思いついてすぐに止める。
             椅子ひとつ分よりはかなり近い距離なのだろうけれど、それにしても相合傘には不向きな距離感だ。彼は私の左隣を黙々と歩いていて、特になにか話すというわけではない。
             彼の方が背が高いため、私は普段よりも格段に傘を高く掲げる必要があった。横から雨が降ってくるが、私は気にしない。私は。
            「大丈夫?濡れてない?」
             大丈夫?と口にしたのは私だが、大丈夫じゃないのは私の方であった。さあさあと降る雨の中ひと言も発さないでいるのはなかなか気まずいもので、つい私は声をかけてしまう。
            「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
             そういう彼の左肩は濡れていた。天の顔色と不釣合いなほど爽やかな色をしたシャツの左肩は、ほんのりと色が濃くなっている。
            「私は全然大丈夫だから、使っていいよ、ほら」
             私は申し訳なさに体当たりをかまされて、傘を軽く彼のほうへ差し出してみた。これで彼が受け取ってひとりで黙々と私を置いていってしまったら元も子もない気もしたが、特にきにしていない。それはそれで、彼が後日傘を返してくれそうだからだ。
             もちろん、彼が返しに来てくれればの話だけれど。
            「大丈夫だよ。ありがとう」
             彼は先ほどと全く同じ口調で返した。もしかしたら彼の発する言葉はこれだけなのではないだろうかという気にさせられる。なにかレコーダーのようなものが内蔵されていて、必要なときに「大丈夫だよ」、「ありがとう」と再生されるのだ。
             我ながら馬鹿なことを考えてるなぁと思う。けれど、実際彼の日頃の姿を想像すると、基本的にひとりでいる上、たとえ人と話をしているときでも喋っていないことがわかる。
             もしかしたら、気分を害してしまっているのではないだろうか。今更ふと思う。好きでもないどころか知りもしない女に言い寄られてやむを得ず同じ傘の下。ああ、申し訳ない。
             今ならまだ助かるかなという気になって、相合傘の中断を提案しようとする。しかしそこで、彼は思いついたかのように言葉を続けた。雨の音は、だんだんと小さくなっている。
            「俺だけが使ってたら、一緒にいる意味がないでしょう?」
             
             彼の言葉の真意が読み取れないまま黙々と歩き続け、私たちはついに駅を目の前にした。
             あれから数分間、私たちの間には会話がない。すっかりなくなった雨の音、自動車が水溜りから歩道の方へ水をかけ返す音に、自転車の走る音が私たちの帰路を彩った。それも、かなり灰色に。
             神様が泣き止んだので、途中で傘は必要なくなった。もはや筋トレの道具にしかならなくなった傘を、彼の許可を得て少し前に畳んでいる。彼が左を歩いているので、私は傘を右手に握っていた。
             さあ、困ったぞ。
             傘を畳んで、用がなくなったとばかりに彼が逃げ出してくれないものかと思っていたが、全くそんなことは起きなかった。気まずさから私が逃げ出しそうになったぐらいである。私から提案しておいて、なんて自分勝手なやつだと思う。
             このままだとなにもないままふたりで改札を出て、ふたりで電車が来るのを待たなければならない。彼のことを嫌いになったわけではないし、むしろ機会があればもう一度今日みたいなイベントをやり直したいぐらいだ。
            そう、私にはイマジネーションが欠如していた。こうすれば彼はきっとこうする、ああすればああ。そういったシミュレーションが足りなかったのだ。
             このまま階段を下り駅に入り、改札を抜けたら「先に言っててよ」とトイレに駆け込もうか。
             などと考えていたら、それまで赤信号以外で立ち止まらなかった彼がふと足を止めた。彼の一歩先で、私も立ち止まる。
            「せっかくだからさ」
             珍しく彼が口を開く。
            「行こうか、あそこ。時間、大丈夫?」
             彼の視線と指の先を追っていき、私は小さく驚きの声を漏らす。人だかりが見えた。
             普段であれば、雨さえ降っていなければ、ふんわりと甘い匂いを放つその店。
            その手軽さで、特に女子高生から絶大な支持を受けているその食べ物。ショーケースに飾られた、実物にかなり似たレプリカの色合いが食欲を掻き立てる。
             赤や茶色、あるいは黄色や紫といった鮮やかな色が、白い山々の上に糸の様にかかっていた。雪山の盛り上がり、その微かな模様が、より甘ったるさと食感を想起させる。
             彼が指したのは、クレープ屋であった。
             
            「クレープとか、食べるんだね」
             長蛇の列の後ろの方に並び、少しだけ屋根の外に出ながら、私は彼に聞いてみる。
            「意外?」
            「そりゃもう、とっても」
            「そっか」
             彼が少しだけ笑った。笑い声こそ出なかったが、垂れた前髪から覗く目は細くなり、口元はほんのりとしたカーブを描いている。
             私は、もしかしたら大学内でも彼の笑顔を知っているのは私ぐらいしかいないのではないかという、情けないほどちっぽけな優越感に浸っていた。
             べらべらと喋るようになったわけではないけれど、少しだけ楽しそうに彼が言葉を紡ぐのが、嬉しい。
            「なんで混んでるんだろう、こんなに」
             会話が弾むような気がして、私は彼の横顔に尋ねる。彼はきちんと私の方を向いて、期待通り言葉を返した。今度は顔だけではなく、首ごと私の方を向けてくれる。まっすぐ見下ろされて、少しだけどきりとした。
            「今日がクレープの日だからじゃないかな」
            「クレープの日?」
            「まあ、普段より安くなる日だよ」
             そういって彼は腕を伸ばさずに、なにか小さい譜面台のようなものを右手の人指し指で示す。そこには確かに、毎月19日はクレープが割引になると書かれていた。そして今日は、19日なのである。
             私たちの前には、7組ほどの人だかりができている。まだ、クレープがつくられている様子はここから見られない。
             彼が手渡してくれたメニューを睨みつけていた私は、ふと彼に「見なくていいの?」と尋ねてみた。それに対して彼は「俺はいつも同じだから」とそっけなく答える。
             しかしこれまでの彼と違ったのは、ずいっと私の方に体と顔を近づけて、私の視線がさまよっているメニューのいくつかを順に指し、それぞれがどうであるかという説明をしてくれたことだった。大きさがどうだとか、甘さがどうだとか、酸味がどうとか、そんな具合である。それも一方的にというわけではなく、私の反応や質問を取り入れながら丁寧に説明をしてくれたのだ。
             雨だというのによくもまあ前の女子高生やOLさんはここに並ぶものだなという関心はあっという間に消し飛び、私は今までに見られなかった彼の大胆さに緊張している。もちろん彼は、大胆なつもりなどないのだろうけど。
             普段直線距離で1メートルはあるであろうふたりの顔の距離は今、それを急に縮めて5センチほどの近さにあった。俯く彼の目の細さがやけに官能的で、生クリームよりも彼の頬を舐めた方が甘いのではないかという雑念に駆られる。
             
             さて、実のところほとんどクレープの味など覚えていない。
             彼のオススメの中からひとつを選び、ふたつ分のクレープをもらってから、店内に用意されたテーブルでゆったり食べることにしたのだが、もふりと私が自分の分をかじりながら彼の持っているものを眺めていたら。
            「どうぞ、一口」
             と、食べるのを止めて彼が彼の食べかけを私の方に寄越したのである。何も言わず、果たして自分の顔がどんなであったかもわからずに、私はそれにかぶりついたのであるが、特にここから記憶がない。
             しつこいがおそらく彼にとってその行為に深い意味はなく、単に私が物珍しげに見ていたからという理由から来ることなのだろうが、私からすれば大事件であった。
            気になっていた男の子に始めて声をかけ、相合傘に誘ったら受け入れてもらえて、帰り道クレープ屋さんに寄ったりして、急接近からのクレープを一口もらう。ここまでのあらすじ。このときの私は顔を真っ赤にしていたか、目の焦点が合わないでいたかのどちらかだろう。妙にぐわんぐわんと頭が揺れるような感じがしていた。
             彼が心を許してくれたのか、あるいは彼は最初からそうであったのに私が気付いていなかったのか、どちらなのかは未だにハッキリしないが、そのあとも私たちはそのテーブルに陣取って楽しげに会話をしていたような気がする。気がするというのは、もちろん私の意識がはっきりしていないからだ。何の話をしていたのか思い出せないあたり、私はまともな受け答えをしていなかったのだろうけど、会話が止まった記憶もないので、きっと彼が積極的に話題を振ってくれていたのだろう。
             
             私の意識が復活したのは、ごとんという音と共に私の背中がかたい何かにぶつかった時である。我に返ると、電車内。目の前には、彼。
            「いたそう」
             私が思い切りドアにぶつかったまま寄りかかっているその前で、彼は吊り革を掴んで立っていた。挙げられた左手。シャツの袖が少し落ちてきて、質感のよさそうな手首がちらりと覗く。
            「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
             急いで私は答えた。答えた後で、その口ぶりが少し前の彼のものと全く同じであることに気付く。
             そんなことには彼は気付いていない様子で、「そっか、よかった」と嬉しそうに声をかけてくれる。それから、窓から見える景色について、ふたりでふんわりとした話をした。
             特別にありがたいお話というわけではない。けれど、ただ、とても楽しかった。
             ぼーっとしていた時間があまりにも長すぎて、私が意識を取り戻してから数分で車内に次の停車駅のアナウンスが流れる。ヘリウムガスを吸ったような優しい声をした男性の声が、マイクのノイズに負けながら聞こえた。私たちの降りる駅である。
            「え、もう?」
             景色を楽しむことも会話を楽しむこともまともにできないまま、私たちの緊急デートは終わろうとしていた。もっと早く目が覚めたらよかったのに。もったいない。
            「そう、もうつくよ。楽しかった、ありがとう」
             彼がささやくように言ってくれる。顔は笑っていなかったが、瞳が優しさの膜を纏っていた。
             私はもたれていた体を起こして、背もたれになっていたドアを振り返る。透明なガラス部についていた水滴が、電車の動きに合わせてぷるぷると震えていた。
             電車がまもなくホームに止まり、私は電車から見慣れた階段の前に降りる。ホームと電車の間の大きい段差と隙間に改めて驚いていると、後ろから彼もひょいっと降りてきた。
             エスカレーターをゆったりとのぼっていく。私が前で、彼がうしろ。スカートの心配はない。彼がぴったりと私の後に立ってくれているから、私の中身を覗けるのはエスカレーター自身しかいないだろう。ばたばたと私たちの右側をかけていく人がちらほら。不意に彼が後ろから私の体を少し左側にずらしてきた。直後に、ものすごい速さで駆け上っていくサラリーマン。彼が、衝突を未然に防いでくれたようだ。
             定期券を取り出して、改札を抜けた。ひとつ左の改札を私と同時に抜けた彼と歩幅を合わせて、ロータリーへつながる駅の階段を下りていく。

            「駅まで、何で来てる?」
             彼が尋ねた。えっと、と少し詰まってから私は答える。
            「自転車」
            「そか、じゃあ同じだ」
             家の方角がどうかはわからないけれど、ひとまず私たちのデートは駐輪場まで続きそうだ。
             などと考えていたら、眠りから覚めたように雨がどさどさと降り始めた。目線の先の、下から何段目かの階段が、一気に染みを作り始める。
             あららと声を漏らして、私は傘を開こうとした。そこで気付く。
            「傘がない」
             なんで!
            「あー、クレープ屋かなぁ……」
             いつの間にか私の少し前を歩いて雨の様子を手で探っていた彼が答えた。
            「どうしようか。歩いて帰った方が、いいかも。家、遠い?」
             彼が優しい口調で下から大きめの声で聞いてくる。
            「ううん。歩いても、そんなに遠くないよ」
            「じゃあ、歩いていこう」
             そういって彼がまた歩き始めたので、私は少しあわててそれを追いかける。
             私にも雨が降りかかってくるかなというぐらいのところで、彼が自分のリュックを体の前に持ってきてごそごそと探り出す。
            「あった」
             彼は右手に紺色の筒のようなものを取り出して、私に「おいで」と声をかける。そしてそれが何であるかはっきり見える距離になって、私は間抜けな声を出す。
             水筒か何かだと思っていた、彼の手に握られたそれは明らかに折り畳み傘である。
            「傘、持ってたんだ?」
             私は何を言ったらいいものかわからなくなって、それだけ溢す。
            「帰り、一緒でしょ?傘、入っていきなよ」
             開いた小さめの折り畳み傘を右手で空に掲げ、彼は私の左隣に並ぶ。
             聞かなければいいものを、馬鹿な私はつい口を開けてしまった。
            「持ってたのに、どうして?」
            「いや、どうしようかなって思っててね。小雨だったから、出そうかどうか悩んでた」
             そこに、アホこと私が声をかけたのだ。
            「近くなら、送っていくからさ」
             彼が続けた言葉に驚いて、私は丁重にお断りしようとする。
            「いや、いいよ。大変だしさ」
             雨は止む気配がない。断ったところで、私はどう帰るべきなのか。それがわかっていたけれど、私には断ろうとする以外の選択肢がなかった。
             彼は下を向く。震えているようだった。え、うそ。泣いた?泣いてる?
             まあ、そんなこともなく。私が少し不安になって覗き込むと、彼はふるふると微かに震えながら笑っている。
            私がぽかんとしていると、彼は顔を上げて意地悪そうに言った。その言葉と表情に、私は一層引き込まれていく。
             今日が雨で、今日がクレープの日で、声をかけたのが今日で、本当によかった。
            「俺だけが使ってたら、一緒にいた意味がないでしょう?」
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