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2018.01.26 Friday

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    イズレイト・ディスコ 〜エピローグ〜

    2018.01.26 Friday

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       笠根拓成(かさね たくなり)はストローをくわえたまま、伊豆の話を黙々と聞いていた。その日の授業が終わったら図書館前に来るようにと、伊豆に呼び出されていたのである。まさか、彼と再び会うことになるとは思っていなかった。笠根は、自分がネタを提供し尽くした段階で――ある事件が解決した段階で、伊豆からの興味を失っていたのだと思っていたのである。

      「いや、もうお前に興味はない」

       いざ口に出してみると、伊豆は冷淡に笠根の言葉を否定した。彼らしいなと、笠根は思う。

      「今日お前を呼んだのは、お前が俺の物語のモデルだからだ。物語の状況と、今後の俺の話をしておこうと思った」

       笠根の反対側に座る伊豆は、笠根と同じ、紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいる。笠根が彼におごったものだった。伊豆はひとくちストローからコーヒー牛乳を吸い込むと、それを飲み込み、一気に話し出した。

      「結果から言うと、物語は完結した。少々ごたごたして、一時はどうなることかと思ったが、どうにか完成して、文藝部の部長に提出してきた。春の会誌に、お前をモデルにした長編小説が文藝部から販売される」

      「その分の金を用意しておくよ。あいつには見せられないから、自分の分だけ買うけど。……結局、その部長さんは何を思って、メモを隠すみたいなことをしたんだろうな」

       伊豆は首を振る。

      「メモを取り返した女――水出というんだが、そいつが色々知っているだろうに、俺たちに話をしないんだ。まあ、今となってはメモも返ってきて作品も完結したから、背景なんかどうでもいいんだが」

      「冷たいな。もう少し気にかけてやった方が、中野さんとやらも喜ぶだろうに」

       水出からメモを受け取った伊豆は作品の執筆を再開し、猛スピードで完成させてしまった。メモを受け取った次の週には、伊豆は物語を書き終えてしまったのだ。

      「そんなに一気に書かなくてもよかっただろうに。楽しみは、取っておいた方が――」

      「もう楽しみじゃなくなったからな」

      「……どういうことだ?」

      「俺は文藝部を辞める。退部については、今日の朝、中野に話をしてきた」

       笠根は驚く。ストローをかむ。考える。

      「ということは、俺の実体験を元にした小説が、伊豆先生の最後の作品になっちまったわけだ。なんか、申し訳ないな」

      「お前のせいじゃない。色々あった。それだけのこと。続ける意味なんて、元々なかったんだ」

       伊豆はコーヒー牛乳を飲み切った。少量残ったコーヒー牛乳が、空気と混ざって音を立てる。伊豆がメモをめぐる事件のことを一方的に語ったのに対して、笠根拓成は聴く側に回っていたので、飲みものの減りには大きな差があった。笠根はパックを持ち上げる。飲み終わるのには、まだまだ時間がかかりそうだ。

      「それを伝えるために、わざわざ先生は時間をつくってくれたわけだ」

      「そういうことになる。大した話じゃ、ないがな」

      「じゃあ、俺も今後会誌を買う必要がなくなったかな。元々、お前の作品に惹かれて、毎度買っていたわけだし」

       伊豆はまだ、帰ろうとしない。話し終えた。用は済んだ。それなのに、帰ろうとしない。笠根の知っている伊豆であれば、用が終わったらすぐに帰ろうとしていたのに。彼の中で、何かが変わったのかもしれない。笠根はそう思った。

      「文藝部と縁が切れたなら、本当にお前、誰とも話をしなくなるんじゃないか? ただでさえ人格に難ありなのに、それに拍車が――」

      「その心配はないだろう。社交的になろうというわけではないが、俺にしつこくつきまとってくるのが何人かいるんでな」

       中野の一件が落ち着いてからも、楓は伊豆と関わりを持とうとした。週のはじめに楓はついに、幼なじみである富木智香を伊豆に紹介したのである。伊豆には、知り合いが増えた。増えてしまった。

      「これまで通りにはいられないかもしれないってことだな」

      「ああ。きっとあいつは、俺の生活にちょいちょい介入してくるだろう。まあ、ある程度気は利くやつだから――頭は悪いが――あまりこちらも困りはしない」

       伊豆から文藝部を辞める意志を中野に伝えるという話を聞いたときに、楓は文藝部の部室まで付き添った。楓のおかげで、中野は少し笑顔を見せていた。伊豆とふたりきりで、文藝部を辞める話をされたなら、葬式よりも重々しい雰囲気になるだろうことを、楓は察したのである。とはいえ、水出が知っている、中野の伊豆への想いを楓は知らなかった。葬式になるのを察して、少しでも場の雰囲気を和らげた楓であるが、ある意味では空気が読めなかったのかもしれない。結局中野は、伊豆に想いを伝えることはしなかった。伝えることができないという結論が出ていたとはいえ、伝えることのできる雰囲気――ふたりきりで話をする機会を、結局得ることができなかったのである。

       そして伊豆玲斗は、二度と文藝部を訪れることはない。

      「ついに男子部員がいなくなってしまったんだな」

      「どうだろうな。平井が、書き終えるかどうかだ」

      「読む側の人間なんだろう? どうなることやら……」

       笠根が手を小さく広げると、伊豆は突然に立ち上がる。

      「どうかしたか?」

      「そういうわけだ。もう会うことはないかも知れないが、達者でな」

      「は?」

      「すまない。やつが来る」

       伊豆は走り出した。急に呼び出されたと思ったら、急に解散。あの伊豆が、全力疾走をしている。笠根は、何が起こったのかわからないでいた。ストローを吸う。しばらくすると、目の前をひとりの女が駆け抜けていった。小柄な女が、伊豆の方向へ消えていく。偶然ではあるまい。彼女は、伊豆を追いかけているのだ。

      「ついに、女に追われる身にまでなったか。……女に追われるっていうか、バケモノに終われているかのような雰囲気だけど」

       走る女の顔はよく見えなかったが、きっと彼女が水出なのだろうと、笠根は推測する。メモ事件に多大なる貢献をした、伊豆と出会ったばかりの、ひとりの女。これまで伊豆の世界にいなかった女。伊豆の心の壁のようなものを破壊して、ずけずけと踏み込んできた人間のひとり。

       することもなく、ひたすらにコーヒー牛乳を吸い込んでいると、しばらくしてから、今度は笠根に向かって誰かが走ってきた。体が小さい。さっき、伊豆を追いかけていった者だろう。女は目の前で止まる。前のめりになって、笠根に顔を近づける。

      「あなた!」

      「は、はい」

      「伊豆くんの、知り合い?」

       笠根は頷いた。女は続ける。

      「伊豆くんって、素敵よね?」

       飛びきりの笑顔が、そこにあった。否定したら殴られるのではないかという剣幕である。

      「ああ」

       笠根が目を丸くしたまま肯定すると、女はさらに笑ってから、「ありがとう」と礼を言って、また同じ方向へ消えていった。

       嵐のような女だ。というか、女のような嵐だったのかもしれない。笠根は笑った。あんなのが、伊豆の世界にやってきたのか。これまで通りでいられるはずなんてないな。笠根は、応援のメッセージ、そして別れのメッセージを伊豆に送ろうと、スマートフォンに文を打ち込んだ。書き途中で、全て消した。

       伊豆には、またどこかで会えるだろう。以前のように、今日のように、向かい合って話をするような機会はないかもしれない。しかし、あれだけ爆走していれば、どこかしらで、レースをしているのが見られるかもしれない。せいぜい、あれにぶつかられることのないようにしなければ。笠根はスマートフォンをしまった。

       笠根拓成は、少しではあるが、伊豆のことを知っていた。しかし、その知っていた伊豆玲斗が、変わっていく。奇妙な気持ちだった。テコでも動かないような男だと思っていたが、さすがに嵐が吹けば動かざるをえないらしい。

       笠根の前には、伊豆が置いていった空のパックが置いてある。ストローからの音が変わった。笠根もついに、飲み切った。伊豆のパックと自分のパックを片手にひとつずつ持ち、立ち上がる。

       ふと笠根は、過去の伊豆との会話を思い出した。

      「……これを書いたら、俺は物書きをやめよう」

       ひと月ほど前の、笠根の事件。それが解決したとき、伊豆が笠根の話のメモをつくるのをやめたとき、伊豆はそんなことを言っていたのだ。

      「あのとき既に辞める気だったのに、改めて辞めることにしたなんて言ったってことは……さてはあいつ、自分で辞めるつもりだったこと、忘れてたな?」

       笠根はひとりごとを言った。誰も返事はしない。笠根は笑った。

       あの男は、自分が話を書くのを辞めると言ったことを、忘れていたのだ。そしてついさっき、同じことを言った。俺の話を書いてるうちに、なんだかんだ楽しくなっていたのかもしれない。辞めようという想いを、忘れてしまうくらいには。

       文藝部に戻ることはないかもしれない。伊豆の話を聞いていたので、仮に文藝部に残ったとしても、中野や平井との間の溝は、どうしようもないだろう。しかしまた、きっと。

      「あいつはきっと、文藝部のことなんて忘れて、何かまた、話でもつくるんだろうな」

       そもそも伊豆は、ひとりが好きなのだ。ひとりでいたら、考える。つまらない現実から逃げるために、物語が形成されていく。伊豆は、その性格的に、創作せずにはいられないのだ。

       いや、ひとりにしてもらえないから、しばらくは考えることもないのだろうか。しかし、どうだろう。わからない。もしかしたら、ひとりにしてもらえない伊豆が、ひとりにさせない誰かと一緒に、物語を考えるなんてことも、ありえるのかもしれない。

      「それでも、だいぶ先のことかな」

       笠根はゴミ箱の方へ歩いて行き、空のパックをふたつ詰め込む。スマホで時間を確認した笠根は、彼を待つひとりの女との待ち合わせ場所に向かって、歩きはじめた。

      イズレイト・ディスコ (29)(終)

      2018.01.25 Thursday

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         中野は伊豆にちょっかいを出した。彼女の言葉を借りるなら、いたずらをしたのだ。では、何のために?

         伊豆が居眠りしている間に、中野は彼のメモを抜き取った。そしてそれらを文藝部の部室に落とし、平井と水出が拾うように仕向けた。メモの内容を参考にして平井と水出が入部テストのための小説を持ち込んでくる。それらを伊豆に見せる。中野は「不思議ね。同じような話が、たまたま一緒に来るなんて」というようなことを言おうとしたのだろう。しかし、伊豆からすれば不思議どころの騒ぎではない。消えたメモの内容が、盗作されたようなものなのである。それも、ふたりに。伊豆は驚くだろう。ショックを受けるだろう。怒るかもしれない。悲しむかもしれない。では、何のために?

         中野が伊豆にいたずらを仕掛ける理由がない。証拠がない。中野自身は口にしなかった。その代わり、水出は中野のメモと中野の作品を見た。そこから得られる情報だけが、水出の推理の材料である。

         中野は伊豆のメモを、自分でも持っていた。自分で、使っていた。伊豆のネタを元に、彼女は作品を書いていたのである。辞めてしまった5人の部員。彼女たちのフリをして5作品を執筆するのと平行して、彼女は伊豆玲斗になろうとした。では、何のために?

         中野は、伊豆のことが好きだった。

         

        「彼、とても素敵な人だと思うの」

         流れる涙をそのままに、小さく中野が呟く。水出はハンカチを差し出したが、自分は泣いていないとでもいうように、中野はそれを受け取らなかった。

        「わからないけど、きっと、他の部員たちも同じことを思ってるんじゃないかしら。辞めていった人たちも、きっと。伊豆くんがみんなの前で話したり、誰かと話したりすることって、すごい珍しいんだけど、そういう場面になるとみんな、すごい緊張してた。それは、私も含めて。彼のことが怖いという気持ちはあったと思う。何を考えているかわからないという気持ちも、あったと思う。だけど、それよりも、説明できない魅力のようなものが、彼の動く口や紡がれる言葉から漂ってくる。……匂いをたどる人は、見たことなかったけど」

         最期の言葉で、中野が笑う。水出も笑おうとしたが、笑えなかった。

        「でもね。不思議なことに、誰も伊豆くんの話をしようとは思わなかったの。彼、いい感じよね。そんな言葉はもちろんのこと、まるで、彼がいないときは、この世に彼がいないかのように、まったく話題になることがなかった。平井くんが来てからは、何回か彼のことが話題になることはあったけれど、それでも誰も、伊豆くんの話をしたがらない」

        「それは単純に、彼のことがみんな、苦手だっただけでは――」

        「苦手でも、好きなものってあるでしょう? 絵がうまいと褒められたことがなくても、絵を描くのが楽しいと思う。おもしろいと言われたことがなくても、物語を書くのが楽しいと思う。それと同じよ。ちゃんと意思疎通できたことはないけど、なぜか好きになる。特に私は、彼から原稿の提出を受けることがあるから、なおのこと。彼から何か送られてくると、冷静じゃいられなくなってしまう。何か頼まれたら、急ぎの用じゃなくても全力で取り組んじゃう。この間も、楓くんの連絡先を聞かれたとき、本当なら彼の許可を得てからじゃないといけないと思いながらも、居ても立ってもいられなくて、楓くんの許可なしに、彼の連絡先を伊豆くんに送ってしまった。そして同時に、ショックでもあった。ああ、やっぱり、彼なんだ、って」

        「いつ頃から、伊豆くんのことを……?」

        「出会ってすぐじゃないかしら。去年の、4月とか、5月とか」

         出会ってすぐに惹かれた男。何度かの会誌出版を経て、1年近く関わってきた男。それでも全く、仲良くなれなかった男。話をするとき、話を聞くとき、緊張せずにはいられなかった男。決して、心を開いてくれなかった男。

         その男が、一瞬で、楓遊音に心を開いたのだ。少なくとも中野には、そう見えた。

        「ショックだった。私たちが――私がどれだけがんばっても振り向いてくれなかった彼が、いとも簡単に、楽しげに――大笑いはしてなくても、まんざらでもない様子で、男の人と話をしている。それが、ショックだった。ああ、近づくことすらできなかった伊豆玲斗が、盗られてしまった。私のものじゃなかったから、所有権を主張できるわけではないけれど、私のものにならなくなってしまった。そんな気が――」

         ここまで話をして、中野は頭を振った。

        「……ごめんなさい。口にすると止まらなくなりそうだったから、メモとパソコンだけを見せたのに。話し出したら――ごめんなさい」

         答える代わりに水出は、もう一度ハンカチを差し出す。中野はそれを受け取り、顔を埋める。声は漏れていない。ハンカチに沈んだ中野の顔は、小刻みに震えていた。

        「最後に、ひとつだけ、聞いてもいいかしら、水出さん」

        「ええ」

         頷いても、ハンカチで顔を覆っている今の中野には見えない。水出は小さく、しかし、はっきりと言った。

        「伊豆くんのこと、どう思う?」

         水出は、考えた。伊豆のことではなく、中野のことを想った。彼女が求めている答えを、それでいて、決して自分に嘘をつかずに済むような答えを考えた。考えるまでもなかった。

        「彼は、素敵な人です。中野さんの目は、間違ってません」

         

         中野はどこかへいってしまった。どこにいったかはわからない。授業の時間までまだある。教室は空いてないかもしれない。水出は、彼女を追いかける気にはなれなかった。そもそも水出は、楓と伊豆を呼んでいるのである。それに、今中野のそばにいたとしても、できることは何もないだろう。

         素直に心情を告白した女性の、なんと美しいことだろうか。水出は震えた。自分に、あれほど美しくなる瞬間がくるとは思えなかった。積み重ねたものが、爆発する瞬間。溢れだす瞬間。それでいて、強く、堪えようとする姿。それの、なんと美しいことか。

         ポケットには、伊豆のメモ。中野が持っていた、最後のメモが入っている。水出はそれを取り出し、顔の近くに持っていく。息を吸い込む。伊豆の香りがする。彼女は混乱していた。なぜこの力が、中野ではなく自分に与えられたのだろう。出会って1週間足らずの水出に与え、1年近く伊豆を想い続けた中野に与えなかった理由は、いったいどこにあるのだろうか。その気になれば、いつでもどこでも伊豆の香りを嗅ぐことのできる感覚。その気になれば、伊豆の居場所を発見できる力。それがなぜ、自分に与えられたのか。これを必要としているのは、中野ではないか。彼女にこそ、今の彼女にこそ、伊豆がいなければならないではないか。美しいものが、その美しさの元となった悲しみと一緒にいなければならないことへの理不尽さに、水出は怒りのようなものを感じた。

         しかしそれでも、水出にこの感覚が与えられたことには意味があるのだ。彼女はそう考えることにした。このタイミングで、楓が伊豆と出会い、伊豆を自分の世界へ連れ去ってしまったのには、意味があるのだ。そうでなければ、中野が不憫ではないか。

         水出は、中野の最後の質問を思い出す。伊豆のことを、どう思うか。これは、中野がずっと誰かに言いたかった言葉。しかし、誰にも言えなかった言葉。誰も言えなかった言葉。誰もが伊豆に魅力を感じながらも、彼の持つ不思議な雰囲気――もはや、能力といえるかもしれない――のせいで、伊豆のことを話題にすらあげられなかった。高まる想いを誰にも打ち明けることができず、そのために、自分の感覚を疑ってしまうほどの抑圧を感じてしまったひとりの女性。

         伊豆のせいか。中野のせいか。周りの文藝部員のせいか。水出は怒りの矛先を見つけようとした。しかし、見つけられなかった。誰も、悪くないのかもしれない。誰もが、悪いのかもしれない。誰かが伊豆のことを話題にすれば、誰かが伊豆への好意を打ち明ければ、中野は気が楽になったかもしれない。だが、彼のことを、特に、彼の魅力について語ることのできる人物は、どこにもいなかった。誰も、中野を認める人がいなかった。中野自身さえも、中野の感情を理解できなかった。誰も素敵だと言わない人物に魅力を感じている自分。その感覚を嫌った。けれど、伊豆のことは嫌いになれなかった。

         楓ではだめなのだ。中野には、楓が伊豆を奪っていったように見えたが、楓は中野の感情を、理解することができない。彼女の代わりに、伊豆が、女性にとって魅力的であるということはできない。楓の伊豆に対する眼差しと、中野の伊豆に対する眼差しは、根本的に異なっていたのである。

         この話を、伊豆に伝えるのはどうだろうか。楓なら、どう反応するだろうか。水出はそこまで考えて首を振る。だめだ。伊豆に魅力を――男性としての伊豆玲斗に魅力を感じる誰かが、伊豆の魅力を口にしなければならないのだ。文藝部には、伊豆のことを話題にできる環境が整っていなかった。壊れてしまっていた。どれだけ伊豆のことを想っても、誰も言えない。それだけ伊豆の不思議な魅力が、彼女たちを凍らせていた。

         だから中野は、文藝部の外にいる女を求めた。それが、水出だったのだ。

         伊豆は文藝部に残るだろうか。おそらく残らないだろうと、水出は自答する。中野についての話をしなくとも、平井の件がある。伊豆からすれば平井は、彼の作品を盗作した人物なのだ。そんな男が入部しようとしている文藝部に、伊豆が今後も残り続けることは考えられなかった。

         中野はもう、伊豆に会えないかもしれない。彼女の伊豆への想いは、水出しかしらないまま、墓に葬られるのだ。水出は胸が痛むのを感じた。中野の無念は、決して誰にも晴らせない。水出にも、どうすることもできない。

         だからせめてと、中野は伊豆になろうとしたのだ。伊豆玲斗のそばにいることはできない。彼に気持ちを伝えることもできない。伊豆の前で凍りつかないでいられるのは、楓くらいだった。中野は楓にはなれない。中野は凍らずにはいられない。それならば、彼女が伊豆になればいい。伊豆の考えた物語を模倣することで――メモを自分なりに解釈し、中野であり伊豆玲斗である執筆者として創作活動に励むことで、中野は最後に、離れていく伊豆を繋ぎ止めようとした。彼女が、辞めていった部員に対して行ったのと、同じように。

         それには、伊豆の考えを知る必要があった。辞めていった部員との思い出は多く、中野は容易に彼女たちを再現することができた。思い出を辿り、思い出の中の部員たちを投影すれば、物語を記すことができた。しかし伊豆のことは、わからなかった。中野は伊豆に、感情移入できなかったのだ。だからメモが必要だった。思い出を自分の中に取り入れることができないなら、伊豆の考えに溺れる必要があった。部員たちの思い出を大切に抱えるのではなく、伊豆に包まれる必要があった。

         水出ができること。水出のやりたいこと。それは、中野の無念を、彼女の一部とすることだった。中野に与えられるべき力を持ってしまった人間として、彼への想いを留めておくわけにはいかない。

         自分は中野ほど美人ではない。水出は自重して笑う。中野ならどんな顔をするだろうか、どんな表現を使っただろうか。そんなことを考えてみても、彼女は中野にはなれなかった。中野になりたい。中野になれない。彼女は、水出穂乃だった。中野を幸せにしたかもしれない力を持ってしまった、水出穂乃だった。

         二度と中野のような女性を生まないようにしなければならない。誰もが伊豆の魅力を口にすることができる、そんな世界をつくらなければならない。世界だなんて大袈裟だなと思いながら、水出は真剣に考えざるをえなかった。

         伊豆には魅力があるのだ。彼に魅力を感じることは、間違いではないのだ。それを伝える存在にならなければならない。伊豆に魅力を感じていることを、いつも誰かに訴えかける誰かにならなければならない。

         水出は息を吐き尽くした。メモを鼻の前に持っていく。空になった肺を満たすように、伊豆の残り香を吸い込んだ。残り香ではあるが、長い時間吸い込んでいると気が狂いそうになった。直接嗅いだためであるが、伊豆の香りのせいで水出は一度倒れている。嗅覚を壊している。知ったことではない。

         誰よりも伊豆のことを好きにならなければならない。伊豆の魅力を、伝えなければならない。伊豆に伝え、伊豆の周りに伝える。それが必要だ。それが、自分の役割だ。

         くらくらしている。知ったことではない。限界まで息を吸い続ける。伊豆に狂わせられる。吸う。吸う。吸う。これ以上、吸えなくなった。伊豆で頭がいっぱいになった。水出は笑う。

         メモを返そう。楓とも仲良くなろう。伊豆の魅力を、みんなに伝えよう。

         

         水出穂乃は、伊豆玲斗のことが大好きになった。

        イズレイト・ディスコ (28)

        2018.01.24 Wednesday

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           金曜日。図書館の前。伊豆と楓は向かい合って座っていた。伊豆は頬杖をついている。楓はそれを真似し、退屈そうにもうひとりを待つ。

          「俺はお前らと違って電車通学だから、早くに大学来るの、結構大変なんだぜ?」

          「知るか」

           伊豆の冷ややかな返答に、楓はため息をついた。

          「まあ、お前に言っても仕方ねぇもんな。呼び出した水出さんが、なかなか来ないから困ってるのであって――」

          「メモが見つかった、か。いったいどこで見つかったんだ?」

           楓は両手を広げて首を振る。出会って1週間しか経っていないというのに、随分と楓のこういった表情を見慣れてしまったものだと、伊豆は自分に呆れた。それだけ、これまで人間関係が希薄だったということである。人と関わらなかった過去の自分に対して呆れているのではない。そんな自分が、いとも簡単に楓とこうして向かい合って座れる寛刑になってしまったことに、呆れているのである。冷静、冷血、冷酷、冷淡な伊豆玲斗。伊豆は自分で自分のことをそう考えていた。そうであるのに――いったい、伊豆玲斗はどこに行ってしまったのか。

          「残念ながら、水出さんはメモが見つかったとしか教えてくれてないんだ。詳しいことは実際に直接会ってからってことなんだが……。どうして彼女は来ないのかねぇ。寝てるのかしら」

           昨晩水出から連絡を受けた楓は、その内容を伊豆にそのまま伝えて、彼女の指定したこの場所で待機している。しかし、話をするべき水出がまだ来ていない。

          「まあ、まだ集合時間っていうか、指定の時間じゃないけどさ。お前が早く来すぎなんだよ、伊豆くん?」

          「そんなこといったらお前はどうなる」

          「俺はほら、バカなんで。時計の針を読み違えちゃったってわけ」

           鳥の声がする。ふたりの沈黙を煽るようだった。小鳥に急き立てられて、楓は伊豆にというを投げかける。

          「メモが返ってきたら、お前はどうするわけ?」

          「愚問だな」

           愚問なんていうやつはじめて見たぜ。楓は心のうちで呟いた。

           伊豆は閉じたパソコンを叩く。

          「メモが返ってくれば話が書ける。つまりは話が完結する。それだけだ」

          「そのあとは?」

           伊豆の動きが止まる。

          「中野さんが何を考えてるかわからねぇが、今後も文藝部に居続けるつもりなのか、お前?」

           楓はまっすぐ伊豆を見た。目は逸らさない。見つめ合ってしまう。楓は笑いそうになる。すかさず伊豆の拳が飛んできた。

          「いてぇ……」

          「人の顔見て笑うからだ」

           鼻を押さえる楓。ぼうっとしている伊豆。

          「――何かが、欠けた気がする」

           ぽつりと呟いた伊豆の言葉に、楓は耳を傾ける。

          「何か――俺の生活に身近だった何かが、急になくなってしまったような感覚を、ここ1週間感じていたんだ。それが何なのか、まったく思い出せないんだが……。これまでは楽しかったはずのことが、だんだんと、魅力をなくしていった。執筆がまさにそうだ。これまでは自分の楽しみのために、自分のために書いていた。しかし、それが今は、義務感で書いているような気がしている。繰り返すようだが、今回の話にはモデルがいる。そいつに頼まれて、俺は今物語を書いている。そいつに完成品を見せなければならない。だから、書かなければならない。そんな気分なんだ」

          「まるで職業作家だな。……いや、仕事として書いてる人の方が楽しんでるかもしれない」

           伊豆が自分のことを話し出したのを、楓は驚きを必死に隠しながら聞いていた。

           なんだ。こいつは結局、何かがなくなって、寂しがっているんじゃないか。楓の想像していたよりも、人間らしかった。胸に宿す炎。それが燃え続けるための何か――酸素のような何か、いつも近くにある何か。それがなくなってしまい、胸のうちで燃える炎が消えてしまった。それだけなのだ。伊豆が失くした何かは、これまで伊豆のことを、ありのままに燃やし続けさせた何かなのだ。表面的には氷のようで、しかし内側は灼熱地獄。そんな伊豆玲斗を、支え続けた何かがあった。だが今は、ただの氷の塊。

          「この作品を書き終えたら、俺は文藝部を辞めようと思う」

           楓は、あえて何も反応しなかった。

          「今の俺には、物語を書くのは――話を考えるのは、難しすぎる」

           

           更に時間が経った。約束の時間である。しかし、水出はまだ来ない。イライラしはじめるかと思っていたが、楓の予想に反して伊豆はイライラした様子を微塵も見せなかった。寛容になったか、あるいは、そんな心の余裕がないのか。

           楓は間を持たせるために、伊豆の話を受けて話題を振った。

          「まあ、お前が辞めても平井が入れば、人数的にはプラスマイナスゼロだな。いいんじゃねぇの、ちょうど」

           伊豆は顔を上げる。

          「結局あいつは、入るのか?」

          「入るんじゃねぇの?」

          「書けるのか、話」

           平井は、拾ったメモから話を書いたが、それが伊豆たちに知られたため、そしてメモが伊豆のものであると平井が知ったため、彼はこれまで書いていたデータをすべて消していた。楓の応援を受けて、最初から書き始めたのである。

          「ネタはもう決まってる。実体験を元にしたものだしな。おもしろくなるかは平井くん次第だろうが……」

          「実体験?」

           楓は頷いた。

          「クールな文藝部員が失くした創作のメモを探す、推理小説さ」

           沈黙。しばらくして、伊豆は鼻で笑った。それを受けて、楓も笑う。バカにした笑いではないことが、楓にはわかったからである。彼は、楓のように大笑いはできない。笑ったとしても、それは常に、鼻で笑うくらいのものでしかない。しかしそれは、あくまでも表現の仕方がそれしかないということである。おもしろいと感じたとき、バカにするとき、どんなときも伊豆玲斗は、冷たく笑うことしかできない。

           彼の心の氷を溶かすのは、自分の役目ではないだろう。楓はそう考えていた。彼の心を溶かすのは、彼自身の炎に他ならない。問題は、いかに彼の心に火を灯すかなのである。誰も、心の氷を溶かすことはできない。凍ったまま、彼に火をつけさせなければならない。それができるのは、いったい誰なのか。楓には想像もつかなかった。

           楓は伊豆のことをほとんどしらなかったが、自分のことを、伊豆とかなり仲がいい人間だと思っていた。自覚があった。しかし、それは仲がいいだけなのだ。火を灯すほどではない。彼は伊豆の理解者になれても、原動力になることはできない。そう感じていた。

           自分の原動力は、いったい誰だろうか。考えるまでもなかった。ここ1週間、あえて関係を断っていた、彼の幼なじみ。メモが返ってくれば、伊豆の事件は解決する。今後も伊豆との関係が続く保証はなかった。彼らを結びつけていた糸は今、ちぎれるのを待っている。

           そうなれば楓はまた、富木智香のいる日常へと帰らなければならない。彼女を迎えるだけの世界が、彼の中にまだできていないのにも関わらず、である。

           楓は嫌でも、富木智香から離れることはできない。伊豆と水出との関係は、維持しようと思うのなら、相当の努力をしなければならない。

           楓は笑う。言うべきことは決まっていた。楓の笑みに気づいた伊豆が顔を上げる。

          「お前に紹介したいやつがいるんだ。いや、お前を紹介したい、ともいえるかな」

          「――例の、幼なじみか?」

           楓は頷く代わりに、飛びきりの笑顔を見せた。

           

           水出は、文藝部の部室を外の窓から覗く。中野はいない。代わりに、中野の席にはパソコンが開いたまま置いてあった。そしてその近くには、メモのようなものもある。

           窓に顔を貼りつけてみるが、水出にはパソコンの画面もメモの内容も見えなかった。彼女が優れているのは伊豆に対する嗅覚だけなのだ。

           仕方なく、水出は文藝部のドアの方に回る。カギは空いていた。なんて無用心。水出は小さく呟いた。

          部室に入る。外はまだ青白い。楓たちはもう待っているだろうか。スマートフォンを確認する。まだ時間には余裕があった。これくらいの寄り道であれば、許されるだろう。水出は、中野のパソコンの置かれた席に向かった。

           差し込まれたUSB。画面に映るのは、編集中のワード文書。椅子に座る。画面を先に見ることにした。目を通す。

           そこに記されていたのは、水出の今朝の夢だった。つまり、伊豆のメモの内容。伊豆が書こうとしている物語。しかし、最初に書かれたタイトルの下に書かれた執筆者の名前は、中野のものだった。中野が書いていたのは、辞めていった部員の仮面をかぶったものではなかったのか。なぜ伊豆の考えた話を、彼女が書いているのだ。伊豆を困らせたかった。そのためにメモを抜き取り、水出と平井に拾わせた。ならばなぜ、彼女も1枚、伊豆のメモを持っていたのだ。

           そうだ、メモ。水出はパソコンから目を離し、そばに置かれたメモを手に取る。文字が3行だけ書かれていた。

           

           彼がいなくなってしまう気がした

           だから私は、彼になろうと思った

           いたずらなんて、子どもっぽいけれど

           

           水出の予想は、当たっていた。

           彼女は泣きそうになった。苦しいのは自分ではない。つらいのは中野だ。泣きたいのは中野だ。だが水出は、泣けない彼女のことを思い、頬が震えるのを感じた。必死にこらえる。自分が泣いてどうする。深呼吸をして、水出は頭を振った。

           ドアが開く。水出は顔を上げた。中野が立っている。

          「そろそろ見終えたかしら?」

           尋ねる中野に、水出は無言で頷いて応えた。立ち上がる。部室を出る。中野が鍵を閉める。水出は、中野の横顔を見上げた。

          「中野さん」

          「なぁに、水出さん?」

          「――綺麗です、とても」

           中野は笑う。中野は、泣いていた。

          イズレイト・ディスコ (27)

          2018.01.23 Tuesday

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            「――何の話かしら?」

            「中野さんは今、伊豆くんのメモを持っているはずです。それを、出してください」

            「伊豆くんのメモ? 彼のメモは、あなたがこの間、拾ったじゃない」

            「あれは、違いました。彼が求めているのは、あれではなかった。彼が必要としているメモは2枚。そのうち1枚は、平井くんが持っていました。けれど、もう1枚がない。どこにもないんです」

            「どこにもないのなら――」

            「中野さんが、持っているから」

             水出の鼻は、誤魔化せなかった。彼女は、伊豆の香りだけは絶対に逃がさない。これまでの推理――中野が辞めた部員のフリをしているという推測――は、彼女の考えた答えだった。しかし彼女は、伊豆の香りについては、考えるまでもなく、体で感じることができた。水出は伊豆のことは知らない。伊豆のことは、中野の方が詳しいだろう。しかし、香りだけは、水出に勝てるものは誰もいなかった。

             信じてもらえるとは思わない。しかし水出は、正直に告白するしかなかった。

            「私は、彼の匂いがわかるんです。平井くんがメモを持っているのも、鼻のおかげでわかりました。そして今日、なんとなく外を散歩していたら、駅から伊豆くんの残り香が漂ってきた。中に入り、香りを辿ると、あなたがいたんです、中野さん。信じられないと思います。私だって信じられません。ある日突然知りもしない人の香りに敏感になったなんて。けれど、あなたがもう1枚を持っている。これだけは、確かです」

             バス停に向かって誰かが歩いてくるのが見えた。彼女たちがベンチを独占できる時間は終わったのである。見知らぬ人が近づくのを感じて、中野は立ち上がった。そして、ズボンのポケットに手を入れて、中から1枚のメモを出す。

            「不思議ね。匂いがわかるだなんて。私には、全然わからないわ」

             中野は取り出したメモを鼻に近づけて、息を吸い込む。中野は笑って、首を振った。常人にはわからない。紙のにおいしかしないはずなのだ。

            「正解。これは、伊豆くんのメモよ」

             中野は、メモを水出に差し出した。それを受け取り、水出は同じように、鼻に近づける。息を吸い込む。しばらくして、水出は頷いた。

            「たしかに、これは伊豆くんのメモです」

             

             ひとりの帰り道、水出は中野との会話を振り返る。風のなくなった夜。空気は冷たい。冷たいというよりは、涼しかった。もう少しすれば、春になる。風は強くなるだろうか。桜はいつ咲くだろうか。

            「伊豆くんのメモを、どうして中野さんが持っているんですか?」

             改めて、中野は常に笑っていたなと水出は思う。いつも笑顔でいることと、いつも楽しいことに囲まれていることはイコールではない。明るい性格の楓さえ、つねに楽しいことに囲まれているわけではない。困った顔もする。しかし中野は、いつも笑顔だった。強い女性なのだ。水出は考えた。部員が辞める。伊豆にとってはどうでもいいことだったのだろう。なんなら、彼は部員が減ったことを最近まで知らなかった。だが、中野にとってはそうではなかった。文藝部部長にとっては、重大な事件だった。退部を食い止めようと必死に説得し、辞めていく部員が残していった作品を何度も読み、彼女たちの考えそうなことを、精一杯自分に取り込んでいったのだ。中野は、中野ではなくなった。中野は、誰かの顔でしか執筆ができなくなっていた。

            「そう考えると、平井くんと話をしているときが、一番私らしかったのかも知れないわね。私らしさなんて、実際は自分でもわかっていないんだけど。少なくとも、彼の相談に乗っているとき、彼の話を聞いているときは、中野じゃない誰かではなかった。それが私だったのかは、わからないけれど」

             部長として、入部希望者の相手をしなければならない。とはいえ、平井と向き合うときの中野は、間違いなく中野だった。部長として文藝部――輝かしかった頃の文藝部――を守ろうとした彼女は、辞めた部員一人ひとりになってしまった。部長というよりは、文藝部そのものになっていたのだ。

             信号を待つ。中野は無事に帰っただろうか。水出は、中野と出会ったばかりだった。彼女がいったいどのあたりに住んでいるのかさえも、わからなかったのである。歩行者信号の赤い光。車の通りは、水出が思っていたよりも多かった。目の前を通り過ぎる車の音。しかし、頭の中で再生される中野の声は、それに遮られることなく、鮮明だった。

            「月曜日に、文藝部の部室を覗いてみたら、珍しいことに、伊豆くんが居眠りをしていたの。あんまりにも珍しくて――彼、普段は油断も隙もないって感じなのね。執筆中に眠ってしまったらしくて、そのときに、メモが机の上に置いてあった。いたずらしようと思ってね。そのときに、メモを適当に抜き取ったの」

             メモが落ちていたことを楓が疑っていたのを、水出は思い出す。床にゴミの落ちていない文藝部の部室でメモを落としたなら、すぐにわかるはずだった。床に落としていればの話である。実際は、落ちてなどいなかった。中野が持っていたのである。見つかるはずもなかった。しかし、水出が拾ったものと、平井が拾ったものは、いったい何だったのか。

            「ネタばらしをすると、あなたたちが来たときに、私がこっそり落としておいたのよ。それを、平井くんが見つけて拾った。水出さんが拾った。それだけのこと」

            「どうしてそんなことを?」

            「平井くんが拾ったら、ネタに困っている彼はそれを元に物語を書こうとすると思って。あなたが拾ったら、あなたが入部テストのための小説を、それを元に書くと思って」

             平井と水出から小説が提出されたとすると、その内容は似たようなものになっただろう。水出の拾ったものはインタビューの結果が書かれたものであったが、必ず物語のどこかで、平井のものと重なり合うだろう。

            「そのふたつの作品を、伊豆くんに見せたらどんな反応するかなって思ったの。結局、水出さんは入部を諦めちゃったから、それは叶わなかったけどね」

             

             なぜ中野は、そこまで伊豆を困らせようとしたのだろうか。水出は、あるひとつの答えを思い浮かべたが、確信できなかった。中野に直接聞かなければならない。しかし、これ以上聞くのはどうなのだろうかとも、彼女は考えていた。

             家の前につく。カギを取り出し、鍵穴に差し込む。ドアノブをひねり、音がする。家の中に入って彼女は、着替えもせずベッドに倒れ込んだ。疲れた、ような気がする。いったい、何に疲れたというのだろうか。自分の情緒の不安定さだろうか。昼に平井に声をかけたときは、水出のテンションは不必要に高ぶっていた。しかし、文藝部の部室にいた伊豆にメモを渡したときには、そのテンションもやや落ち着いていたのだ。伊豆の香りで、徐々に水出穂乃は壊れはじめている。

             伊豆と話がしたい。いいや、話をしなければならない。今晩のこと。メモが返ってきたこと。中野のこと。スマートフォンを開くが、水出は伊豆の連絡先を結局手に入れられなかったことを思い出す。楓に伝えるべきだろうか。楓から伊豆に伝えてもらえばいい。

             しかし、彼女が一番誰かに伝えたいことは、彼女の中野に対する邪推だった。探偵にあるまじき、根拠の薄い、邪な考え。しかし彼女は探偵ではなかった。結局のところ、巻き込まれただけの人間なのである。被害者でもなければ、中野のように何かを仕組んだ人間でもない。突然敏感になった嗅覚のせいで伊豆と楓に出会い、その結果、中野の「おふざけ」に巻き込まれたのである。そして、中野の「おふざけ」それ自体も――。

             電気をつけずに倒れ込んだ水出は、まぶたが重くなるのを感じた。頭を使いすぎた。だが、それは想像や妄想のために、思考回路を酷使したという意味である。どれだけ考えてみても、事実ではないかもしれない。水出が編み出した「中野」像。その生成のために、多大なエネルギーを消費しているだけなのだ。

             香りを辿ってメモに辿り着いたように、もう一度家を出て香りを追えば、伊豆の家が見つかるかもしれない。しかし、いきなり知り合ったばかりの女が、教えてもいない住所を的確に当ててみせたら、さすがの伊豆も驚きを隠せないだろう。その有り様を想像して、水出はひとり笑った。

             彼女の妄想の中野はさておき、中野から取り上げたメモは現実である。これだけは、伊豆に返さなければならない。水出の事件はまだ解決していないが、メモが返ってくれば、伊豆にとって事件は解決するのである。

             水出は楓にメッセージを送った。メモが見つかったことを伊豆に伝えて欲しいと。明日、金曜日の朝にでも、渡すことができればと。

             スマホを伏せて、ついに水出は眠ろうと目を閉じる。しかしここで水出は、中野が最後に残した言葉を思い出した。

            「明日の朝、文藝部の部室に来てちょうだい。見せたいものがあるの。そしてそのために、返したメモに目を通してくれると嬉しいわ」

             起き上がる。電気のスイッチを入れた。まぶしさを感じ、眠気は少し飛んでいった。ポケットからメモを取り出す。中身を開き、目を通す。伊豆には怒られるかもしれない。しかし、見たことを黙っていればいいのだ。

             当然、水出が持っているメモは完全なものではない。話の流れは断片的である。しかし水出は、これを伊豆が考えたのだと思うと、なんともいえない気持ちになった。あれだけ人との付き合いが嫌いそうで、苦手そうな伊豆玲斗が、これだけ真剣に、登場人物のことを考えて、物語を書こうとしている。水出は伊豆と知り合ったばかりだった。出会ってまだ、1週間も経っていないのである。彼女は伊豆の香りを知っている。そして今、伊豆の頭の中を覗いた気分になった。

             しかし彼女は、やはり伊豆のことを知らないのである。彼がいったいどんな人物なのか。どんなことを好み、何を大切にしているのか。まったくわからなかった。

             彼のことを知りたい。水出は純粋にそう思った。

             瞼が閉じる。意識が消える。

             

             電気をつけたまま力尽きた水出はその晩、メモの物語を夢に見た。

            イズレイト・ディスコ (26)

            2018.01.22 Monday

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               部員から文藝部をやめるという話を聞いた時、中野は驚きを隠せなかった。半年近くともに楽しんできた仲間が、突然、やめようか悩んでいるという相談もなく、やめる意思を固めてしまっていたからだ。

               中野がさらに驚いたのは、それが連続して起こったことだった。5人の部員が、ほとんど間を空けずに退部の意思を示した。中野は、文藝部で何かあったのではないかと考えた。中野の知らないところで、何か事件のようなものが起こり、それを受けて、どんどん人が減っているのではないか。

               中野が部員たち――辞めようとしている部員たちも含め――に話を聞いてみたところ、これといって事件のようなものはなかった。文藝部の男子は伊豆しかいない。男女関係のもつれは、決してないだろう。女子同士のいさかいも、特に考えられなかった。

               辞める理由について中野に聞かれると、部員たちはみな同じように答えた。

              「書くのに、疲れちゃって」

               書くのが疲れない人なんかいないだろう。中野はすぐさま叫びそうになった。3人目からこの答えが返ってきたときは、叫ばないにしても、疲れない人なんかいないと、実際に声に出してしまっていた。そのときの居心地の悪そうな相手の顔が、中野はなかなか忘れられないでいる。

               つらいことも楽しいことも、何をやるにしても、生きるのには疲れが生じる。疲れない作業はない。疲れたあとに何か残るものがあれば、その疲れは達成感に変わるだろう。やらなければならない仕事であれば、乗り越えるべき苦痛として諦めがつくだろう。しかし、文藝部員にとって執筆は趣味だった。どちらかといえば、達成感を得るべきものであった。

               しかし、その達成感につながる「疲れ」を理由に辞めるということは、彼女たちが完全に「書く楽しみ」を失ってしまったことを意味している。疲れることに、疲れてしまったのだ。伊豆が謎の虚無感に襲われて、創作の楽しみを感じられなくなっているのと同じような現象が、同じ文芸部の内部で起こっていた。

               中野には、書くことが疲れるという感覚がわからなかった。多少は疲れはするが、彼女の作業効率がかなり高いものであったため、執筆作業が苦痛に変わる前に作業を終えていることが多かった。彼女には、辞めていく部員の、疲れたという気持ちがわからなかった。

               そして彼女は、辞めていく部員の、辞めたいという気持ちがわからなかった。これまで一緒にがんばってきた仲間。締め切りが近くなって、お互いに励ましあいながらキーを叩くあの音。それが大事なものだと感じていた中野は、自分だけがそう感じていたのではないかという思いに駆られた。あの音を思い出せば元気が出る。作業を諦めずに、もう少しだけ進められる。そう思っていたのは、自分だけだったのか。

               中野は、怒りを感じた。辞めようという相手に対してではない。ひとりでそれを感じていた、中野自身に怒りを覚えた。執筆を苦痛としか感じなくなってしまった仲間がいるのに、それに気づかず、自分は幸福感を感じながらパソコンを叩いていた。自分の頭を叩きたくなった。その場にいない仲間のことを思い浮かべて励みを感じるよりも、その場にいない仲間に実際会いに行って、話を聞いてあげるべきだったのだ。中野は自分を責めた。しかし、責めているだけでは話は進まない。今は、目の前のことに向き合うべきだ。変えられるかもしれない、まだ間に合うかもしれないことに取り組むべきだ。

               中野は、申し訳なさそうに視線を落とす部員――元部員――に、いつも通りの笑顔を向けて、可能性を信じてこう言うのであった。

              「せっかくだから、最後にもう一度、何か作品を書いてみない? 気が変わるかもしれないし、さ?」

               

              「引き受けてくれる人なんてほとんどいないと思ってた。ダメ元で聞いてみた。けど、私の予想とは違って、辞めるという話をした5人はみんな、秋の会誌のための作品を残していってくれた。悔しいことに、春や夏に書いてもらったものよりも、おもしろい作品を残してくれた。嫌々引き受けて、適当な作品が上がってくると思ったのに、彼女たちは全員、最高傑作を残していってくれたの」

               語りだした中野の顔から、水出は喜びのようなものを感じていた。部員が辞めた話。辞めてしまった話。暗い話。そうであるはずなのに、中野の顔には、光のようなものがあった。最高傑作。中野は、おもしろい話が好きなのだ。物語が好きなのだ。それを、部員たちが、仲間たちが残してくれた。嬉しかった。悲しむべきはずなのに、喜んだ。喜びたいのに、悲しかった。

              「あれだけおもしろいものを残せるのなら、どうして……」

               中野は黙る。水出はコーヒーカップをつかんだが、中身は入っていなかった。おかわりをもらう気にはなれない。それは中野も同じらしかった。カップを回す。少しだけ残ったコーヒーが回る。

               あれだけ面白いものを残せるのなら、どうして辞めてしまったのか。

              「中野さんはそのあと、辞めていく彼女たちに、どんな声をかけたんですか?」

               言葉を詰まらせた中野に、水出は質問を投げかける。

              「気が変わったかどうか、尋ねたわ。読み終えた感想も伝えたの。細かいところまで、よかったところを。悪いとこは伝えなかった。いいえ、悪いとこなんてなかった。完璧な作品を残していってくれた。辞めてしまうのがもったいないって。それでも、やっぱり、彼女たちは取り下げなかった」

               ダメ元で頼んだ最後の執筆は受け入れてもらえたが、ダメ元の最後の説得は、受け入れられることはなかった。文藝部は、5人になった。

              「そのパソコンには、何が書かれているんですか?」

               水出はパソコンを指す。中野はその指の先を見ることなく、目をつむった。

              「あなたの予想通りよ。辞めていった5人が、もし何か書くとしたら、どういう風に書こうと思うのか。そんな、私の想像が書かれている。元々は、私が書こうと思っていたネタ。けれど、これをあの人が書くとしたら、あの娘ならどうだろう。意外と、できてしまうのね。彼女たちが見たらどう思うかはわからないけれど、私が読み返してみると、もう、自分が書いたものとは思えない。彼女たちが書いたものにしか見えないの。幸せだったわ。辞めたはずの部員、いないはずの人。それが、いつまでもそばにいる。そう思ったら、取り憑かれたようにタイピングの手が止まらなくなった。いつまでも書けるような気がした。――けど、そんなことはなかった。思わぬところで、反作用が現れた」

               中野は、中野として物語を書くことができなくなってしまった。使い分けた5つの仮面は、彼女の表情を奪ってしまった。

               水出は、中野の言葉を思い出して、小さくつぶやく。

              「過去が、未来を吸い取ってしまったんですね」

               

               中野が嘘をついていた理由――事態をややこしくした理由は、水出には何となくわかってきた。言ってしまえば、中野は現実をうまく捻じ曲げようとしたのだ。噓をついてはいるが、噓をついていない。部員は辞めたが、辞めていない。そんな現実を、事実をつくろうとしたのだ。その結果彼女は、文藝部員を騙さなければならなかった。伊豆や部員たちの主張と異なる事実を、水出たちに伝えたのだ。

               しかし水出は、そこが妙に引っかかった。

              「どうして中野さんは、わざわざ私にひとりごとを言ったんですか? ネタを提供している。自分は書けない。間違いではありません。そうしてるのですから。けれど、言ってしまえば矛盾します。部員の数は、誤魔化せないかもしれません。いつか誰かに聞かれるでしょう。けど、自分が代筆――なんて言い方が正しいのかわかりませんけど、辞めた部員の立場で物語を書いていることを示唆するようなことを、どうして、私に?」

              「本当は、あなたじゃなくて、楓くんに言おうとしてたのよ。でもきっと、彼に伝えても、水出さんに情報が行ってたかもしれないけどね」

              「どうして、楓くんに?」

              「彼が、変えたからよ」

              「……何を?」

               中野は立ち上がる。

              「――伊豆くんを」

               

               楓と伊豆が出会った日。図書館前で執筆中の伊豆玲斗に、楓遊音が声をかけた日。月曜日のことである。

               中野はその時、たまたま彼らの姿を見かけていたのだ。

              「あの伊豆くんが、誰かに話しかけられて、あんなに喋るとこを見たことがなかったの。私は彼と、1年近く同じ文藝部で活動してきたけれど、楓くんがしたように、気さくに話しかけることはできない。独得な雰囲気の人だからね。同じ部活でも、全然彼のこと、わからなくて……。それなのに、楓くんは違った。楓くんは彼を変えた。変えてしまった。私たちが1年かけても近づけなかった伊豆玲斗に、いとも簡単に近づいてしまった」

               駅の外に出て、バス停のベンチに腰かけた中野は、隣に座った水出にそう語った。バスはしばらくやってこない。待っている乗客もいない。ふたりには外の空気が寒く感じられたが、ベンチのおかげで落ち着いて話すことができた。

              「無理があるってことは、自分でもわかってたのかもしれない。誰も、誰かの代わりになんてなれやしない。そんなことわかっているのに、よりにもよって、私が、私の求める人になろうとした。かつての仲間の代わりを探すのではなく、私が、彼女たちになろうとした。いざそうやってみたら……求めているはずの〔私〕がいなくなってしまった。そんな状況を、彼なら、楓くんなら変えられると思ったの。あの伊豆くんを変えたような人だもの。私の問題なんて、簡単に解決してくれるはずだって」

               中野はゆっくりと話す。それを聞いていた水出は、口には出さず、顔にも出さず、しかし、頭の中で中野の言葉を疑っていた。

               理由が、弱い気がする。水出はそう感じた。伊豆を変えることができたから、自分のことも変えられるかもしれない。たしかに、楓にはそれだけの力があるのだろう。だが、水出には引っかかっていることがあった。水出が、ドーナツ屋で中野に声をかけてから触れていなかったこと。そこを問い詰めれば、彼女の本音が引き出せるかもしれない。

               中野が静かになる。しばらく沈黙が流れた。水出は立ち上がり、中野の前に手を差し出す。

              「何の手かしら?」

              「――返してもらおうと思って」

               中野は笑って首を傾げる。

              「あなたから何かを借りた記憶はないわよ、水出さん」

               水出は首を振る。

              「私は何も貸していません。私のものではありません」

              「じゃあ、何かしら?」

               風が止んだ。

               

              「伊豆くんのメモを、返してください」

              イズレイト・ディスコ (25)

              2018.01.21 Sunday

              0

                 中野は、駅の中にあるドーナツショップで、パソコンを叩いていた。

                 あと1時間しないうちに、駅が閉まる。そうなると当然、中野は追い出される。それ以降も大学の図書館は開いているが、わざわざまた大学に戻る気にはなれなかった。作業が落ち着いたら、帰宅してしまおう。食事はドーナツで済ませた。空腹は満たされている。あとはシャワーを浴びて、眠るだけ。

                 木曜日の夜も、あと少し。今週はやたらと長く感じる。中野はそう感じた。キーを叩き続ける。文字数のカウントは、ケタ数を変えた。かなりの文字数になったものだ。中野はひとり微笑む。

                「中野さん」

                 名前を呼ばれ、中野は驚いて顔を上げる。店の外、駅の通路から、彼女が最近知り合ったばかりの女が、中野に声をかけてきたのだ。

                「こんばんは、水出さん」

                 中野はパソコンをたたみ、挨拶をする。

                「こんな時間にどうしたの? 私が言えたことじゃないけれど……」

                「眠れなかったので、少し外を歩いていたんです」

                 水出は店に入った。まさかこの時間に知り合いと遭遇するとは思っていなかった中野は、やや彼女を警戒する。水出は笑った。中野の笑顔の真似をする。中野は、自分の笑い方が真似をされていることに気づいた。

                「少し、聞きたいことがあるんです」

                 

                 コーヒーだけを注文した水出が向かい側に座るのを見て、中野は尋ねる。

                「いいの? コーヒーなんて飲んだら、余計寝れなくなっちゃうと思うのだけど」

                「眠れないのは、すっきりしないことがあるからです。コーヒーを飲んだくらいで晴れるものでもないし、問題ないですよ」

                 中野は、水出がパソコンを見ているのに気づいた。

                「どうかしたの? そんなに珍しいものでもないと思うけど」

                「何を書いているんですか?」

                「何も書いてないわ。春に出す会誌に載せる話を送ってくれた部員がいるから、その人の分の誤字や脱字を確認していただけ」

                「次回は、何人分の話が載るんですか?」

                 食い下がらない水出をちらりと見て、中野はパソコンを開いて何かを確認する。

                「私は今回書いてないから――今回も、か。9人分かしら。平井くんが新歓期までに完成させてくれたら、10作品になるのだけど」

                「平井くん、入部できますかね」

                「彼のがんばり次第ね。……いいえ、がんばってるのはわかってるわ。何度も相談を受けているから。完成次第、とでも言うべきかしら」

                「平井くん、これまで書いていたものを辞めるみたいですよ」

                 中野の表情が一瞬変わったのを、水出は見逃さなかった。

                「そう……。じゃあ、また時間がかかるわね。もう少し、待ってあげないと」

                 ふたりはコーヒーをひと口含む。水出はひとりごとのように言った。

                「いい香りですね」

                「私、コーヒー好きなのよ。目も冴えるから、集中して作業したいとき、特に役立つわ」

                「誤字脱字探すの、大変ですもんね」

                「ええ」

                 水出はしびれを切らす。

                「誰に嘘をついていますか?」

                 中野は目だけを上げる。

                「――誰が?」

                「中野さんが、です」

                 中野は笑う。

                「嘘はついてないわ。少し、事態をややこしくしているだけよ」

                「何のために?」

                「――おもしろいから?」

                 中野の笑顔が冷たくなる。水出は眉をひそめた。

                「そのわりには、おもしろそうな顔をしてないように見えますが」

                「楽しいってわけじゃないわ。おもしろいの。周りに、急に人が増えたような気がして」

                「それは、私ですか?」

                「そう。それと、楓くんね」

                「誰の、周りにですか?」

                 カップに手を伸ばした中野の手が空中で止まる。

                「……随分と、色々知りたがるのね」

                「たぶん私、探偵なんですよ、今。だから、知りたいんです」

                 

                 中野の証言。彼女はネタを部員に提供している。彼女は編集作業ばかり。部員は10名ほど。

                 伊豆の証言。中野は物語を書いている。

                 部員の証言。ネタの提供は受けていない。部員は減っている。

                 水出はこれまでに得られた情報を、中野の前で話し始めた。

                「誰かが嘘をついているか、誰かが間違った事実認識をしているか。そうでなければ、それぞれの証言は矛盾するんです。そして、誰かが何かを隠しているとすれば、中野さんが怪しいんです」

                「いやだわ。疑われちゃってるのね」

                 水出は微笑む。

                「伊豆くんは文藝部とあまり接点がないはずなので、彼の情報はあまり当てにならないんです。信用してないわけじゃありません。ただ、文藝部については、中野さんの方が詳しい。それは事実です。仮に文藝部員が減っているとしたら、部員さんが知ってるのに、中野さんがそれを知らないのはおかしい。彼女たちが伊豆くんに嘘をつく理由もない」

                「私が嘘をつく理由もないと思うわ」

                「ええ、そうです。中野さんに嘘をつく理由はありません。意味はありません」

                 中野はカップを手に取る。すする音。それが止むのを、水出は待った。中野がカップを置く。店は静か。店内には、彼女たち以外に客はいなかった。

                 水出は続ける。

                「ただ、部長として嘘をつく理由は、大いにあると思います」

                 中野は、何も喋らない。

                「嘘はついてないと、中野さんは言いました。嘘はついてないけれど、事態をややこしくしている。誤魔化している。そうであるなら、中野さんと伊豆くん、そして部員さんたちの証言が、全て成り立つ可能性があるのではないか」

                「どうやって?」

                「ひとまず、伊豆くんと部員さんたちの言葉を、事実として考えます」

                 

                 女子部員たちの言葉を信じて、文藝部には彼女たち3人と、伊豆と中野の、合わせて5人しかいないとする。平井が入部した場合、全体で6人になる。

                 新入生の入る時期に出される会誌には、平井をカウントしないとすると、全部で9つの作品が掲載される予定となる。つまり、執筆者が9人でなければならない。部員は、5人。中野自身は編集者でしかないという言葉を信じると、そのうち作品を書けるのは、4人。あと、5人足りない。

                「秋の会誌には、10作品が掲載されていたと聞きました。私はその、当時文藝部に興味がなかったので、よくわからないんですけど」

                 楓が、秋の会誌を購入していた。そもそも、楓が伊豆を初めて見かけたのがそのときだったのである。作品数を数えてもらうと、10作品だった。つまり、秋の会誌で、中野は執筆していたのである。

                「次回の会誌が9作品で、中野さんが書かないのであれば、1を引けば確かに解決します。けれど、部員さんたちの言葉を信じると、数が合わない。だって文藝部員は、何人か辞めてしまったのだから。本来なら引かれるのは、やめていった人の分。つまり、マイナス5。だから全部で5作品。こうでなきゃおかしい。執筆者が、5人減らなければならない。けれど実際は、9作品になる予定。執筆者は、ひとりしか減っていない。中野さんが、減っている」

                「実は辞めてなかった。辞めるのを辞めた。これならどうかしら?」

                「復帰するでしょうね。最後にもう1回くらいと、秋の会誌で作品を書いたのに、春にもまた執筆するのであれば、やる気が戻ったとしか考えられません。でも、そうじゃない。文藝部は、人を取り戻していない」

                 水出は、平井からも話を聞いていた。

                「平井くんは、長いこと文藝部に通いつめてたみたいですね。なんと、夏頃からだそうで」

                「すごい時間かかってるでしょう?」

                 中野は笑う。水出は彼女に合わせることはせず、淡々と推理を進めた。

                「伊豆くんよりも、彼の方が文藝部のことを知っているんです。彼も、文藝部員が減っていると考えています。夏の頃見た人を、秋頃から見なくなったと」

                 現文藝部員よりも入部希望者の方が文藝部に詳しいのもなかなか奇妙な話だ。水出は思った。

                「やはり、辞めてるんです、5人ほど。だけど、作品数は減らない。書いてるんですよ、5人は。書いてないのは、中野さんだけ。会誌に話を載せていない中野さんは辞めていない。会誌に載る5人は辞めている。……ヒントがほとんどありません。もう、推測でしかありません。探偵として、間違ってると思います。けど、今の段階で持っている情報から導き出した私の推理は、こうです」

                 中野はまっすぐ、水出の目を見ている。

                 

                「中野さんは、物語を書いていません。中野さんは、編集作業だけです。だけど、部長としての中野さんは、執筆をしています。辞めてしまった、もういない5人の名前を使って――5つの仮面をかぶって、物語を書いている。違いますか?」

                イズレイト・ディスコ (24)

                2018.01.20 Saturday

                0

                   スマートフォンが震えるのを感じて、伊豆は中野から意識を逸らす。画面には、楓からのメッセージ。

                  「メモを見つけた。水出がそっちに行くから、お前のかどうか見てくれ」

                   なぜ、水出が? 疑問に思ったが、スマホをしまい、伊豆は再び中野へ顔を向けた。

                  「どうかしたの?」

                   不敵に微笑んで中野がいう。彼女は、メモのことさえ知っているのではないか。伊豆はそんな気分になった。彼女の笑顔が、恐ろしかったのである。すべてが中野の思い通りに進んでいる気がする。しかし、その理由もわからなかった。

                  「少し探し物をしていてな」

                   ドアが開く。伊豆は振り返る。水出がいた。楽しそうに息を切らしている。走ってきたのだろう。しかしその表情は、まるで趣味がランニングであるかのような満足感が浮かんでいた。実際は、伊豆に会えたことで気分が高揚しているだけなのであるが。

                  「これ!」

                   水出が合わせていた両手を開き、そこにあったメモを伊豆が開く。中身を確認する。

                  「ああ、間違いない。俺のメモだ」

                   伊豆は立ち上がり、背中を中野に向けた。

                  「あら、もう帰っちゃうの?」

                   伊豆は舌打ちをしたい気分になる。何なんだ、この女は。俺に何を求めている? 探偵でも犯人でも被害者でもない中野は、いったい自分に何を求めているのか。探偵になることか、それとも他の――。

                  「自分の役割が整理できてないからな。わかり次第、決着をつけてやる」

                  「楽しみにしてるわ」

                   楽しみなものか。伊豆は小さく呟いた。中野が笑うのが聞こえる。聞かれていたようだ。

                   伊豆は、水出とともに文藝部の部室をあとにした。

                   

                  「じゃあそもそも、中野さんは嘘をついているのか、真実をいっているのかも、わからないってことね?」

                   水出の問いに、伊豆は頷く。

                   伊豆と水出は、楓たちと合流した。平井は伊豆に謝罪をしたが、伊豆は平井のことそこまでを気にしなかった。中身を見られたことには憤りを感じたが、読む側である平井に書くことを強いる入部テストにも苛立っていたからである。

                   平井はしばらくしてから退場し、今は伊豆と楓、水出の3人が、椅子に座っていた。全員、この時間の授業はない。3人はそれぞれの知っている情報を整理し始めた。

                  「疑うべきことがいくつかある。まず、中野が部員にネタを提供したということ。次に、中野が執筆をしていないこと。最後に、文藝部員の人数だ。まずネタの提供だが、これは部員たちが否定をしている。部員たちには嘘をつく理由がある。アイデアをもらって書いてると認めたくないなら、な。逆に、提供していると中野が嘘をつく理由は思い浮かばない」

                  「人間関係を無意味に軋ませるだけだからな」

                   楓の言葉に、伊豆は頷く。

                  「ふたつめは、どうなの? 中野さんが話を書いているって話。伊豆くんが見たのが本当だとしたら、いったい中野さんは、何のために書いていないと言い張っているのかしら」

                  「ネタの提供と関連づけるなら、もはや部員たちは自分で物語を書いていないという可能性がある。名前だけ貸して、中野が書いている」

                  「お前以外の部員の分を、ひとりでってことか?」

                  「ああ」

                   楓は悩む。

                  「それを中野さんが引き受けるメリットがあるのかい?」

                  「部員が活動してなければ、同好会に降格するかもしれないからな。やる気のない部員の名前を借りて、数だけでも、というところかもしれない。中野名義では何も書いていない。だが、中野本体は書いていることになる」

                   水出は伊豆に尋ねる。

                  「でもそれなら、どうして部員が残っているの? やる気がないのに、わざわざ残っている理由もないと思うけど……」

                   少しの沈黙。

                  「実際に、辞めた人間がいるかもしれないからな。中野は誰も辞めてないといっている」

                  「俺たちも、部員は10人くらいだって聞いてるぜ」

                  「俺が尋ねた女子部員たちは、そいつら3人と俺と中野の、5人しかいないと言っていた。俺たち3人に対して中野は、誰も辞めていないと言っている。女子部員たちが俺に嘘をつく理由は思い当たらない。だが、中野自身が言っていたように、同好会に降格するぞと脅されたわけではないのだから、減った部員の数を誤魔化す必要性も見当たらない」

                   中野は全てを知っている。しかし、真実をいっているとも限らない。中野から真実を引き出せばいい。しかし、どうやって真実を引き出すというのか。どうやって、引き出した情報を真実だと認定するのか。

                   話をするべきは、中野なのだ。しかし伊豆は、彼女が何を求めているのかわからなかった。今のままでは、話をしても不毛に終わるだろう。

                   ふと、楓は別の問題を思い出す。

                  「そういえば、結局平井の持ってたメモは、伊豆のものだったのか?」

                   伊豆は頷く。

                  「油断した。月曜は、部室で眠っていたんだ。そのときに落としたのに、気づかなかったんだろう」

                   楓は違和感を覚えた。

                  「平井もさ、月曜日に拾ったって言ってたんだよ」

                  「ああ」

                  「普段無駄なものが落ちてない空間だから、何か落ちてるのがすぐわかったって。それが伊豆のメモだったわけだ。でもよ……」

                  「なんだ」

                  「それだけ落ちたメモが浮くっていうなら、さすがに寝起きだとしても、伊豆なら気づくんじゃねぇかな。メモが足りないことには気づかねぇかもしれないが、何か落ちてることならわかるんじゃねぇの?」

                  「つまり?」

                   水出が尋ねる。

                  「本当にメモを落としたのかどうかって話さ」

                   

                   伊豆は帰宅後、久しぶりに執筆活動に励んだ。しかし、その手はしばらくして止まることになる。ネタがないのだ。メモがないのだ。

                   伊豆が失くしたメモは2枚。1枚は今日、平井の手から取り戻した。平井のメモに書かれていた分は順調に文字に起こすことができているが、物語のクライマックスを記した最後のメモがまだ見つかっていない。物語を完結することは、まだできそうにないのである。そのような状況で一気に書き進めてしまえば、また書くことがない、暇な時間が訪れるだろう。

                   メモがなくなったのが月曜日。そして今、木曜日が終わろうとしている。かなりの時間が経過していた。腕時計や財布を落としたのなら、どこかに届けられているだろう。しかし、伊豆が落としたのはメモである。それも、何かの暗証番号が記された重要なものではなく、物語のプロットである。ないと困るものとして、一般的に認識してもらえるのだろうか。もちろん伊豆にとってはないと困るものであるが、物書きが拾わない限り、その重大さに気づいてもらうことはできないだろう。

                   書くのをやめるというのはどうだろうか。伊豆はふと思いつく。実体験を元に物語を書いて欲しい。ある男からそういわれたのが、ひと月ほど前のこと。男の連絡先は持っている。書くのを辞めたと伝えることはできるだろう。結構な量ではあるが、これまでに書いたものを諦めて、また新しい作品を書き始めるという手もある。次に書きたいものは決まっている。それを急いで書けば、新歓の時期までには中野に提出して――。

                   ここまで考えて、伊豆はまた別のことを思いついた。そもそも、文藝部に残る必要があるのだろうか。今自分が作品を書いている原動力は、伊豆にネタを提供した男に対する義理のようなものである。そして、諦めて別の作品を書くにしても、それは書きたいネタがあるというよりは、書けるネタがあるというだけであった。伊豆玲斗は完全に、文藝部であり続けるモチベーションを失っている。

                   少し前まではあったはずの、文藝部員であり続ける理由。何かのため、あるいは、誰かのため、もしかしたら、自分のために、文藝部であることから得られる幸福感があったはずである。しかしそれが、なくなってしまった。しかも、それがなんだったのかもわからない。そもそも伊豆は、今回のネタの提供者との出会いのあたりの記憶が、ごちゃごちゃになっているのである。それほど前のことではない。メモもしっかりと残っている。しかし、伊豆の中に残っていなかった。メモを取った日々。それが思い出せないのである。そこだけ記憶が欠落したような感覚。それが戻らないのであれば、伊豆はもはや、文藝部である理由がない。春に出す会誌、そのために話を書く必要性もない。

                   ここまで書くのに、いったいどれだけの時間を費やしただろうか。メモが見つかるまでに、どれだけの時間を費やすだろうか。今後残り続けたとして、伊豆はいったい、文藝部でどれだけの時間を、無為に過ごすのだろうか。

                   誰かに話を聞いて欲しい。誰かから答えを聞きだしたい。誰かにイライラをぶつけたい。伊豆はこれまでに感じることのなかった感情に、一気に取り囲まれていた。自分はこれまで、誰に相談していた? 誰に話を聞いてもらい、誰を尊敬していたのか。それが思い出せない。それが消えてしまった。そして、都合よく現われたのが、楓遊音と水出穂乃。そして文藝部の問題が露呈し、それを彼らとともに解明しようとしている……。

                   埋め合わせるかのように現われたふたり。結びつきを強めるために起きたとしか思えないイベント。運命というものがあるとしたら、それのせいか。伊豆は頭を振る。運命とは、そのようなものではない。自分はかつて、運命とは何かについて誰かに話した気がする。しかし、それがまた思い出せない。俺は誰に運命の話をし、その内容はいったい……。

                   しばらく悩んだ後、上書き保存をし、パソコンを閉じる。ベッドに横たわる。もう少しで、金曜日になる。土日に中野と話をするのは難しいだろう。中野と決着をつけるとしたら、明日。それを逃せば、屈辱を味わいながら週末を過ごすことになる。だが、いったい何を話せばいい? どうすれば中野は満足し、どうすれば自分は満たされるのか。伊豆玲斗は混乱していた。

                   起き上がる。シャワー室の電気をつけた。シャワーを浴びれば、すっきりするかもしれない。シャツのボタンを外す。楽になった気がした。随分と簡単に解放感を味わえるものだ。シャツのボタンなんかで、ここまで軽くなるとは……。逆にいえば、シャツのボタンごときの拘束感に苦しめられていたということだ。伊豆は笑う。しょうもない男だ、弱い男だ。そんな男ではないはずだ。伊豆玲斗が何者であるのか、伊豆はわからなくなってしまった。しかし、だからこそ、今自分は生まれ変わることができる……。

                   俺の誇りは、いったい何だ。俺は何でできている? 俺の世界は、何でできている?

                   わかりきっていた。

                  「俺の世界は、俺でできている。そうだろう?」

                   伊豆は、今は思い出せない大切な何かに向けて、ぽつりと呟いた。

                  イズレイト・ディスコ (23)

                  2018.01.19 Friday

                  0

                     図書館の方へ走り、楓は平井らしい姿を見た。俺があたりを引いてよかったぜ。小さく呟き、楓はスマートフォンを取り出す。伊豆に連絡しようとするが、平井の近くにもうひとり誰かが立っているのに気づいて、スマホをしまい、走る速度を上げた。

                    「このメモ、あなたのものじゃないよね?」

                     小さいシルエット。水出だ。水出が、平井に声をかけている。メモ? 平井が持っていたメモの話だろうか。疑問は浮かぶ。しかし自問自答するよりも、直接会話に入り込んだ方が、都合がよかった。

                    「よう、邪魔するぜ。なんだか面白そうだったんでな」

                     水出と平井が楓を見る。楓は呼吸を整えながら、にへらと笑って話に加わろうとした。

                    「メモがなんだって、水出さん? 途中から来たお兄さんにもわかるように、説明してくれると嬉しいぜ」

                     平井は混乱している。突然女が現われ、更に楓まで走ってきたのだ。ふたりはどのような関係なのか。あるいは、まったくの無関係なのか。

                     静かに困惑している平井をよそに、水出は楓の質問に答える。

                    「伊豆くんの残り香を辿ってきたら、ここに着いたの。伊豆くん、メモをなくしたって、いってたから」

                    「残り香?」

                     楓は小さくこぼすが、水出には聞こえていなかった。視界の端にいる平井も、その言葉にふと顔を上げたが、しばらくしてまた下を向いて眉をひそめる。

                    「そうか……。これは、伊豆くんのものだったんですね……」

                     苦しそうに平井は言った。

                     状況が飲み込めない楓は、平井から十分な情報を引き出すために、彼に問いを投げかける。

                    「それが伊豆のものかどうかはあいつに直接聞くとして……。平井、そのメモは、お前のものなのか? そのメモの内容は、お前が考えたものなのか?」

                     しばらく沈黙があって、平井はゆっくりと首を振った。

                    「いいえ。これは、僕のものではありません。……誰のものかはわかりません。けど、僕のものではない。これは、間違いありません」

                     

                    「このメモは、いったいどこから手に入れたんだ?」

                     楓は平井に問う。メモは今、水出が持っていた。大事そうに、両手に挟んでいる。普段よりも楽しそうな水出につっこみはいれず、楓は平井とのやりとりに集中することにした。

                    「文藝部の部室です。たしか、月曜日だったと思います。中野さんのところに話を聞きにいったら、床に落ちていて……。僕はそのとき、まったく創作のネタが思い浮かんでなかったから、贈り物か何かだと思ってました。それ以前には、見たことなかったんです。文藝部には色々な本がありますが、床に何かが転がっているということはなかった。だから、目立ったんです」

                     誰かが執筆を諦めたネタ帳であれば、そのまま平井が書いてしまってもよかっただろう。しかしこのメモは、現在誰かがそれをもとに執筆しているものである。

                     楓は言った。

                    「伊豆が今話を書いてるんだ。春に出すんだと思うが、そのもとになってるのが、このメモだったらしい。月曜に失くしたって言ってたからな。間違いないだろう」

                     楓は水出の方を振り返る。

                    「水出。伊豆が今、文藝部の部室にいるはずだ。いなかったら、まあ、その近くにいると思う。そのメモ、見せてやってくれないか。あいつのかどうか、判定してもらわないと」

                     水出は頷いて、駆け足でふたりのもとを去った。楓と平井が残される。

                    「さて、本当に、伊豆のものだとは考えてなかったわけだ?」

                     楓が尋ねると、平井はこくりと頷いた。

                    「そもそも、誰かのネタをもとに、自分で書こうと思ったのが間違いだったんです。すみません」

                    「俺に謝られても。困ってるのは伊豆だしな。あとであいつに謝っておけ」

                    「自力で、自分で考えて、それを認めてもらわなきゃいけなかったのに、逃げるように、誰かのメモで、話を書こうだなんて……。でも僕には、自力で書く、その自力がないんです。本当に、本当に書けないんです。思いつく力がない。いつまで経っても書けない。そんなときに……」

                     楓は文藝部員ではなかった。平井は、拾ったメモをもとに、誰かが既に物語を書いているとは思わなかったのだろう。

                    「読者の目線になっちまってるって話を伊豆がしていたが、まさにお前は、読者だったんだな」

                     平井は力なく頷く。

                    「盗作、みたいなものですよね。人の考えたネタで――」

                    「でも、それは……」

                     今の文藝部も、同じなのではないか。楓は言いかけた言葉を飲み込む。平井には既に話をしていた。平井も、続く言葉を察して、黙り込む。

                     中野の言葉が真実であれば、伊豆以外の文藝部員は中野からネタをもらって執筆している。中野の言葉を疑っているのは伊豆だけであった。楓と平井は、文藝部の実態を、中野の言葉通りに受け止めている。

                     幸い、伊豆の作品はまだ公表されていない。平井が伊豆のメモから話を作ろうとしたのは、まだ誰にも知られていない。

                    「水出がお前のことを伝えていなければの話だがな」

                     楓はぽつりと呟いた。

                    「やり直せばまだどうにかなる。中野さんの話が本当だとしたら、ほとんどの文藝部員が、お前と同じことをやってるってわけだ。当人から許可を得ているかどうかに差があるだけで、な。話を書く大変さはわかってるだろうし、思いつかなきゃならない辛さもわかってくれるだろう。なんなら、書く側じゃなくて、編集する側で在籍できないか、聞いてみるのも手じゃねぇか? ちょうど中野さんも、編集作業に追われてるみたいだしな。分業ってか、手分けってか。得意な分野、苦手な分野、みんなで分ければいいと思うけどね、俺は」

                    「でも、入部テストはどうしたらいいんですか? 入部後に編集作業を専門にやれたとしても、入れないことには……」

                    「ひとつの方法としては、このまま伊豆のメモから作った話を中野さんに出してしまうってのがあるな。メモがあるとはいえ、伊豆の考えたもの全てが記されてるわけじゃない。伊豆の構想の断片を拾っただけ。最終形は全然違う形になるかもしれない。同じ部分は大いにあっても、最後には違う作品になる可能性だってある。とはいえ……」

                     楓が黙ると、平井はゆっくりと首を振った。こうなった以上平井には、伊豆のメモからの創作を続ける気にはなれない。

                    「別の話を書かなければなりません。最初から、やり直しです。でもいったい、どんな話を書けばいいんでしょうか? 他人の考えたアイデアから話を紡ぐことですら難しかったのに、最初から考えることができなかったのに、この、今の状態から……」

                     平井は完全に、創作に対する意欲を失っていた。

                     沈黙。楓は考える。気の利いたひとこと。平井がそもそも入部を諦めるという考えにならないような、気の利いた、前向きなひとこと。月曜日からはじまった、一連の出来事を無駄にしないような提案。

                     楓はにやりとして、顔を上げる。平井も合わせて顔を上げた。目が合う。平井は不安そうな顔のままだった。

                    「こういう話を書いてみるってのはどうだい?」

                     

                     楓と平井は、座って作業を開始した。

                    「これなら、ある意味実体験っていうか、なんていうか。俺は入部しないけど、俺と平井の合作みたいなものだと思って出してくれりゃいいよ」

                     平井はキーを叩きながら首を振る。

                    「いいえ。楓くんの協力はいりません。……いや、応援してくれるのは、全然嬉しい。でも、やっぱり考えるのは、自分で。書くのも、自分で」

                    「俺は結局何も思い浮かばなかったからな……」

                     楓はため息を吐く。

                    「偶然とはいえ、平井の書き途中だったとはいえ、俺は結局、伊豆の考えた話を見てしまったってわけか。ああ、くっそ。絶対あとで文句言われるよな……」

                    「どうかしたんですか?」

                    「そもそも伊豆がメモを探してたのは、メモがないと書けないからってわけじゃないんだ。いや、メモがないからここのところ執筆は止まってたんだが……。誰かがメモを拾ったら、次に伊豆が――少なくとも誰かが、こういう話を書こうとしているんだなってのが、拾ったやつにバレちまうのが嫌だったらしい。メモがなくても、改めて話の続きを考えることもできたが、それだとオリジナルのメモを拾ったやつに比較されちまう。だから見つけなきゃならなかった。誰かが中身を見る前に、な。……実際、誰かに拾われて、偶然俺もその中身を知っちまったわけだが」

                     平井の顔がやや暗くなったのに気づき、楓は話題を変えようと試みる。

                    「まあ伊豆自体、今回の話は誰かから聞いた実体験を元に書いてるみたいだからな。原作つきっていうか、原案があるっていうか、モデルがあるって感じ。じゃなきゃ、あいつが恋愛モノなんて書こうとしないだろ?」

                     楓が笑い、平井も合わせて笑う。無理に合わせた笑顔。しかし、それでいい。楓は思った。無理矢理でも笑っていれば、受け止める姿勢はできる。辛い事実が目の前にあっても、すぐ先に見えたとしても、目をつぶっては意味がない。いつかぶつからなければならないもの。対峙しなければならないもの。笑ったままぶつかって吹き飛ばされても、おかしくておかしくて仕方がなくて、笑えるかもしれない。無理して笑ってるということ自体が、おかしくて笑えてくるかもしれない。

                     笑う門には福来たる。楓は少しこの言葉に違和感を感じていた。笑っていても福は来ない。来るのはあくまでも辛い事実だけ。将来を見据えれば明るい話が来るかもしれないが、今は厳しい現実と向き合わなければならない。それでも笑っていれば、現実を笑うことはできなくても、自分自身の滑稽さに笑うことができる。現実に打ちのめされる自分の間抜けなさま。それに笑うことができる。

                    「でも僕、中野さんのこと、素敵な女性だなって思うんです」

                     突然の平井の告白に楓は驚いた。しかし、バカにするように笑うことはしない。相手を認める、笑顔。

                    「じゃ、入部後は実体験を元に、今度こそ恋愛小説を書いてもらおうかな。シリーズ化するといいかもしれないな。ネタが尽きないだろうし」

                    「そうですね。ちゃんと自分で考えて書けば、中野さんの迷惑になることは、絶対ない。……これ、私のことじゃん、みたいに、怒られることはあるかもしれないですけど」

                     ふたりは笑う。

                    「あらかじめ許可は取っておいた方がいいかもしれないな」

                    「恋愛小説のモデルになってもらう許可、ですか。なかなか、勇気がいりますね」

                     懐かしいやり取り。楓はデジャブを感じ、それがいつの出来事だったかを思い出そうとする。そこまで前のことじゃなかった気がする。そう、今週の、どこか――。

                     月曜日。伊豆玲斗と出会った日。

                     幼なじみがいるという話をしたあとの、伊豆の反応。

                    「どうだ、俺の創作のネタになるっていうのは?」

                     目の前の現実から逃げない。そのために、無様な自分を笑う準備をしておく。楓は、自分が逃げていることに気づいた。

                    「俺の話は、恋愛モノというよりコメディーだな。コメディーが書きたくなったら教えてくれよ。ネタは豊富だから」

                     富木智香。楓の幼なじみ。彼女から距離を取るために、楓はこれまでとは違った人々との縁をつくろうとした。それが伊豆玲斗で、図らずも、水出という知り合いもできた。

                     逃げている場合ではない。この出会いを、きっかけにしなければならない。そもそも楓と富木にはふたりだけの世界すらなかった。ふたりがいる、共通の世界がなかった。楓の中の世界は富木智香に占拠されているのにも関わらず、ふたりの空間はなかったのである。

                     楓遊音は、楓遊音の世界をつくらなければならない。その世界の住人のひとりが、伊豆玲斗なのだ。そこに水出も加えよう。中野や平井は、おそらく、この一件が落ち着いたら、疎遠になってしまうだろう。ふたり。まず、伊豆と水出。彼らと楓の、3人の世界をつくる。そしてどんどん住人を増やしていき、最後に、ようやく。

                     楓遊音は、富木智香から逃げるのをやめた。しかしまだ、向き合うこともできなかった。だから彼は、彼の世界をあらかじめつくっておくことを決めた。

                     いつか幼なじみを迎え入れるための世界を、彼女なしで、築かなければならない。楓には物語が書けない。それでも彼は、創造から逃げることはできないのだと悟った。

                     いつの日か、ふたりの世界を。

                    イズレイト・ディスコ (22)

                    2018.01.18 Thursday

                    0

                       文藝部のドアの前について、伊豆は鍵がかかっていないことに気づく。誰かが、中にいる。

                       ドアノブをひねる。軋む音がする。窓に背を向けて、ドアの方に顔を向けて、来訪者と向き合えるような体勢。作業はやめないが、顔だけは伊豆の方へ向けた。それが彼女の仕事であるから当然か。伊豆はそう思った。

                      「中野」

                       伊豆玲斗は、パソコンをゆっくりと叩く中野の名前を呼んだ。中野が微笑む。部長としての顔。自分はやれと言われてもできないだろうなと伊豆は感心する。平井の姿はそこにはなかった。しかし、伊豆は昨日、中野を尋ねていた。しかし、女子部員たちしかいなかった。それなりに有益な情報は得られたが、彼女との話がついていない。

                      「話がある」

                       伊豆は中野の正面に座る。

                      「命令形なのね。私がやめられない作業をしていたら、どうするつもりかしら?」

                      「やめられない作業なのか?」

                       中野は微笑みを崩さず、ゆっくりと首を振る。

                      「いいえ、問題ないわ。……伊豆くんらしいわね。作業中だろうと何だろうと、問答無用で自分に合わせさせる。自分が話をしたい時は、相手の都合はお構いなし。相手のことを考えることに慣れてないのか、それとも、あえて考えないようにしているのか……」

                      「珍しいな。お前が面と向かって人の悪口とは」

                      「悪口じゃないわ。さっきから私が口にしているのは、事実と推測だけ。評価や価値判断は伴っていない。いいとか悪いとか、そういう話じゃないわ。あくまでも、伊豆玲斗くん、あなた自体の話をしているの。あなたのことを怖いと思う人もいるだろうし、嫌な人だと思う人もいる。けどそれはあなた自体に価値が伴っているからじゃない。あなたも物語を書く身ならわかるでしょう? いい作品、悪い作品。それはそういう作品があるというわけじゃない。あるのはいい評価と悪い評価、それだけ……」

                      「それで中野は、俺に悪い評価をつけているわけだ?」

                       伊豆は冷たく笑う。中野も珍しく、彼と同じような、冷ややかな――しかし寂しそうな笑みを浮かべた。

                      「あなたは、そうね……。いい人だと思うわ、私は」

                       よく言うぜ。伊豆は思う。自分のいい評価をつける人間がいるとすれば、それは楓くらいのものだ。中野はそこまで壊れちゃいない。

                       伊豆は目を瞑り、咳をする。話を本題に戻すという合図。中野もそれを理解し、座り直す。

                      「聞きたいことはシンプルだ。最近、誰かに嘘をついた覚えはないか?」

                       中野は首を振る。伊豆は鋭く続けた。

                      「今のが、まさに嘘だ。お前は嘘をついただろう? 嘘をついたのに、嘘をついてないと主張した。嘘に嘘を重ねた」

                      「私が誰に嘘をついたと思うの?」

                       中野は楽しげに笑った。探偵気分になっているのか、それとも、問い詰められる容疑者の気分になっているのか。

                      「楓と、水出だ」

                      「なるほどね……。彼らから何を聞いたの?」

                      「お前が物語をかけていないという話だ。自分で考えた創作のストックを、ネタの浮かばない部員に提供して、彼女らがそれを書いてしまうため、自分が書くネタがなくなってしまう。加えて、自分は編集作業ばかりしているから、書く時間が取れない」

                      「そうね。でも、最近は取れてるのよ、書く時間」

                      「俺が問い詰めたいのはそこじゃない。ひとつめの話が嘘だということだ」

                      「ひとつめ?」

                      「部員にネタを提供しているという話だ。俺は昨日ここに来た。楓たちから話を聞いたあと、話を信じられなかった俺は、お前を探した。しかしお前はいなかった。代わりに、ずいぶんと久しぶりに見た他の部員たちがトランプをしていた。そいつらに聞いてみても、自分で書いた話は自分で書いているという答えが返ってきただけ……。提供を受けたなんて、誰ひとり言わなかった」

                      「それだけで私が嘘をついていると思ったわけね? 伊豆くんにしては甘いんじゃないかしら。彼女たちが嘘をついていることだって、十分に考えられるじゃない。誰かからネタをもらって、それを元に執筆をしている。それを疑われたら、仮に本当だとしても、否定するものじゃないかしら? プライドというものがあるのなら。……まあ、プライドのある人が、そもそもネタをもらおうなんて、思わないはずなのだけれど」

                       伊豆は、中野が物語を執筆している場面を見たことがあった。仮に提供が本当のことだとしても、そっちばかりは譲れない。

                       ネタの提供については、両者の意見が食い違うということがありうる。中野の言うように、本当にネタをもらっていたとしたら、それを素直に認める部員がいるとは思えない。あるいは逆に、中野はネタを提供したと好きなだけ嘘をつくことができる。その目的がどこにあるのか伊豆にはわからなかったが、提供していないのに自分が渡したと言い張ることはできる。立場の違うものがふたつ以上あって、どちらかが必ず嘘をつく。

                       しかし中野の執筆については、異なる立場があるわけではない。今のところ中野の執筆場面を見たのは伊豆だけであるから、誰かが嘘をついているというわけではない。ついているとすれば中野か、対立する伊豆だけである。そして伊豆は、実際に彼女の執筆の場面を見ていた。彼女が嘘をついていると断定できるのは、そこであった。

                       だが、既に伊豆が中野に言ったように、書いているのに書いてないと主張することの意味は、伊豆にとってそこまで重くないように感じられた。重要なのは嘘であると断定できるかどうかではない。嘘をつくことに何の意味があるのかということだ。ひとりで嘘をつくのではなく、誰かの意見と食い違ってまで嘘をつく、その必要性が問題だった。

                       中野の言う通り、ネタの提供があったならば、もらった部員側には嘘をつく理由がある。しかし中野には、ネタを提供したと嘘をつくことのメリットがなかった。中野はその嘘によって、何かを守れるということはないのである。むしろ、実際にいる部員、真実と対立してしまうことで、失うものがあるだろう。

                       伊豆は頭を働かせていた。推理小説を読んでいるような気分であったが、それよりも、苛立ちが勝った。読書中は物語の世界から離れて事実を見ることができるが、今の彼は当事者。時間を遡ることはできない。何があったのかは、直接誰かから聞かなければならない。そしてその誰かは、嘘をついているかもしれない。登場人物が嘘をついていると言うことは十分にありうるだろう。しかしそれは、ストーリーの進行に伴ってだんだんと明らかになっていく。最終的には暴かれる。いや、そうとも限らない。解釈自体を読者に投げるような物語も……。

                       ため息をつく。頭を振る。ここは物語じゃない。伊豆はそう言い聞かせた。考えるよりも、聞かなければならない。

                      「部員が何人か辞めたという話を聞いた。それについてはどうだ?」

                       中野の表情は動かない。薄い笑顔を浮かべたまま、伊豆をまっすぐに見つめていた。答えが返ってこないことに、伊豆は苛立つ。

                      「これも女子部員から聞いた話だ。昨日会ったのは3人。今文藝部にいるのは、その3人と、俺とお前。全員で5人。これは嘘か?」

                      「誰も辞めてないわ」

                       中野は目を閉じて笑う。

                       随分と面倒だな。伊豆は思った。

                      「困ったわね、伊豆くん」

                       中野の言葉に、伊豆は顔を上げる。

                      「ネタの提供については、立場の食い違う人がいて、それぞれが嘘をついているかもしれなかった。けれど嘘をつくことによるメリットやデメリットを考えると、どちらか一方には嘘をつく必要性がないことに気づくことができる。だからきっと今、伊豆くんは私のことを信用してくれてるんじゃないかしら。私が、提供してないのにネタを渡したなんて主張する意味がないもの。それに対して、部員が辞めたか辞めてないかっていうのは、嘘をつく人たちの利害を含んでいるように見えないから、メリットとデメリットを考えることが難しい。人数が足りないと同好会に降格させるぞと脅されて、誰も辞めてませんと言い張るのとはわけが違う。外部からの脅しがあったのなら嘘をつく意味があるけれど、内部の人間、関係者である伊豆くんに嘘をつく理由がない。だから推理ができない。今の伊豆くんはそんな状況に陥っている。違うかしら?」

                       伊豆の顔が曇る。

                       その通りであった。しかし、なぜ。なぜ中野は、自分の考えていることがわかるのだろうか。伊豆は頭を抱えたくなった。しかし、抱えるわけにもいかない。そんなポーズを取ったら、それこそ中野の思うつぼなのではないだろうか。なぜ彼女は笑っていられる? 嘘を隠しているからか。いや、真実をいっている可能性だってある。それなのに自分が疑われているという状況で、なぜ彼女は笑っていられるのだ。

                       中野は間違いなく、この状況を楽しんでいる。伊豆はそう感じた。探偵、犯人、被害者、どの立場かはわからないが、何かしらの立場に立って、中野は現在のこの状況を、堪能している。

                      「探偵でも犯人でも、被害者でもないわ」

                       伊豆の考えていることがわかっている。そのような口振りで中野は言った。伊豆はこれ以上、驚きを表情に出さないようにする。既に相手の思うつぼなのだ。相手の仕掛けたトリックに、伊豆が今、まんまと引っかかっている。あがくことはせず、ただ情報の真偽を判定していけばいい。

                      「なら、お前は今どの立場から、この事件を楽しんでいるんだ?」

                       事件というほどのことでもない。ネタが提供されているのか、文藝部の人数が減っているのか。その程度の規模のイベントでしかない。問題なのは、その意図。

                       謎の喪失感に悩まされ、創作のおもしろさを感じなくなってきている伊豆にとって、文藝部に在籍する意義は薄くなっていた。その中で起きた、このイベント。中野に意図がなかったとしても、伊豆はこの事件を、意味のあるものにしなければならなかった。楓遊音、水出穂乃。これまで出会うことのなかったふたりの人間。彼らと出会ってから、文藝部が変わり始めた。

                       中野は答える。

                      「探偵でも、犯人でも、被害者でも、オーディエンスでもない。今の私は、ただの文藝部部長よ」

                      イズレイト・ディスコ (21)

                      2018.01.17 Wednesday

                      0

                         自分の気分が異常なまでに高ぶっているのに、水出は自分で気づいていた。体が震える。笑顔が隠せない。叫びだしそうだ。手足に落ち着きがない。昨日までとは違う感覚。水出は、伊豆の香りを吸い込み過ぎたために、ついにその精神の高ぶりようが常人の域を超えてしまった。これまでの水出穂乃を知っている人物なら、今の彼女の変化に驚くだろう。もともと暗い性格ではなく、むしろハキハキと話す方ではあったが、伊豆の香りが彼女の感覚を刺激し、理性のようなものを壊してしまったため、彼女を知っている人であれば飲酒を疑いたくなるほどである。彼女を知らない人であれば、関わらないようにしようと避けるだろう。それほどまでに、木曜日の水出穂乃は、ハイになっていた。

                         ハイになっているとはいえ、頭が回らないわけではない。彼女は彼女としての自我を保っていて、今日までに自分がやろうとしていたこと――中野を手助けするという役目を、しっかりと覚えていた。そして高ぶった彼女の精神は、昼前に起きた彼女に、異常なまでの行動力を与える。起きてすぐに布団を蹴飛ばし、嵐のように着替えを済ませ、幸せそうに家を飛び出した。

                         彼女の高揚感の源は、間違いなく伊豆玲斗であった。水出はそれを深く理解している。そして彼女は、伊豆玲斗に会うのが楽しみであった。連絡先も知らない相手。少しだけ言葉を交わしただけの、出会ったばかりの文藝部員。

                         彼女はその感情に「恋」という名前をつけようかと考えたが、何だか合わないような気がして、それを当てはめるのをやめた。香りを楽しみたい。近くに寄りたい。役に立ちたい。褒められたい。にらまれたい。冷たくあしらわれたい。関わりたい。彼女の世界の中に、伊豆玲斗という存在のためのスペースを、広く確保したい。好まれようと嫌われようと気にしていなかった。とにかく彼女は、何らかの形で伊豆玲斗と関わらなければならないような気がしたのだ。

                         そして彼女には、伊豆の香りを識別するための強力な嗅覚がある。家を出た彼女は、伊豆の香りのする方へ走っていった。

                         

                         食事を済ませた楓と伊豆は、残された昼休みの時間を使って、平井の居場所を突き止めることにした。

                         食器を片付けながら、伊豆は眉をひそめていた。苛立ちではなく、怒りのようなものが見える。楓はそう判断し、さらに伊豆のことを考えてみた。

                         伊豆は、苛立つことはあっても、怒ることはなかったのではなかろうか。楓には、苛立ちと怒りの区別があまりわからなかったが、伊豆の表情が、これまでと少し違っているように見えたのだ。ひそめた眉も、への字に下がった口角もこれまで通りだが、それらの動き方が違っているように感じた。

                         平井は今どこにいる? そう投げかけてから、伊豆は何も話さなかった。平井に対しての怒りが、いったい何によるものなのか、楓にはわからなかった。物語の構成が悪かったのか。あるいは、平井の書こうとしている作品に似たものが既に存在し、世間に公表されているのか。さらにいえばそれは伊豆の好きな作品で――考えればきりがない。とにかく今は、伊豆と平井を会わせることが重要であった。

                        「平井がいるかもしれない場所は、少なくとも俺たちがあいつを見たことある場所って意味だが、ふたつだな。ひとつは、文藝部。もうひとつは、図書館の前。文藝部にいるなら、中野さんあたりに相談中だろう。図書館の前にいるとしたら、執筆中かな。それ以外についてはわからねぇ。既に昼飯を食い終えて、次の授業の教室にいるかもしれねぇ。そうなれば、俺たちが平井の場所を突き止めるのは困難だろうな。特に授業が始まっちまったら、な。まさか授業中の教室を全てしらみつぶしに探るわけにはいかねぇからな。平井の所属が何学部なのかがわかればまだ絞れるかもしれないが、この時間中に見つけるのが理想的だろ。ちなみに伊豆くん、次の時間授業は?」

                        「ない」

                         ようやく伊豆は言葉を口にした。続けて何かを言うことはなく、何かを尋ねるような目で楓を見る。楓はその表情から何かを察して、笑顔で応える。

                        「俺も次は授業がない。最大で2時間くらい探せるってわけだ。平井も空きコマであることを祈ろうぜ」

                         食堂を出たふたりは、今後の行動の計画を立てる。

                        「文藝部に入るのは、お前の方が楽だろうな。伊豆はそっちを探してみてくれ。俺は図書館の前に行ってくる。俺は特にあいつに用があるわけじゃないから、もしこっちで見つけたら、すぐに連絡を入れる。もし伊豆が見つけたら――特に俺には言わなくていい。好きなだけ不満をぶちまけてやれ。……と、いうわけで。頻繁にスマホは確認しておけよ?」

                         伊豆は冷たくまぶたを閉じたまま頷いた。くるりと体の向きを変え、早足で楓のもとを去る。

                        「あの剣幕のまま部室に入っていったら、中にいる人はびびるだろうな……」

                         伊豆が視界から消えたのを確認して、楓は伸びをする。図書館の方を向き、鼻から息を吐く。

                        「俺が先に見つけられますように。急にあんな状態の伊豆に声かけられたら、泣きたくなっちまうかもしれないからな」

                         楓は走り出す。

                         

                         平井は、図書館前のスペースで、執筆を進めていた。物語を書くのに慣れていない彼は、いったいいつ作品が完成するのか、予想もできない。しかし、楓が隣にいる状態での作業を思い返すと、書くことが意外にも楽しいことのように感じられた。きっと、彼がいるところでなら、どんなことでも楽しく感じられるのだろう。平井はそんなことを考えて、タイピングの指を止める。

                         ため息をつく。自分も楓のように明るく、楽しい性格であったなら、どれだけ人生が楽しかっただろうか。楓には楓なりに、苦しんだりつらいことがあるのかもしれない。しかし自分のように、静かに文章から感動を引き出し、しかしその感動をうまく伝えることができなければ、伝える相手もいない人間と比べるならば、生きる楽しみは何倍にも大きなものになるのではないだろうか。

                         そうだ。自分は書く側の人間ではなかったのだ。本を読んで、感動する。受け手側、読み手側、そっちの人間だったのだ。それなのに、こうして今、自分は長編小説を書こうとしている。文藝部についての調査不足だったのだろう。名前から、本好きが集まっていると考えた平井だったが、話を聞いてみたら書く側の部活動。彼の性格もあって、今更入部希望を取り下げることもできなかった。

                         そういえば楓は、希望をすぐに取り下げたといっていたな。平井は楓との会話を思い出す。もう文藝部とは縁がないのに、少しだけ会話をしただけの中野と、あれだけ楽しげに話をすることができる。やっぱり辞めますという言葉すら言えない自分とは違って、はっきりと入部を諦めると伝えた楓。しかもそれで後腐れすることなく、話を聞いてもらう機会を多く持った自分よりも、中野と仲良く話をすることができる……。

                         改めて平井は、自分が作品を書く側に向いてないことに気づいた。おもしろい話を書くことができない。おもしろい本に感動することはできる。しかしその感動を、伝えることができない。いったい自分は、何を伝えることができるのだろうか。書き方を中野に教えてもらう。楓に励ましてもらう。やはり、受け手なのだ。自分から、何か矢印が出ていくことがない。本は好きになれても、誰かに恋をしたことはない。だから、恋愛小説を書こうと思っても、タイピングの手が止まってしまうのだ。

                         どれだけの文字を書けば、長編小説として扱ってもらえるのだろう。あとどれだけの文字を打てば、せめて中編の小説として認めてもらえるのだろう。がんばりだけでも、認めてもらえないだろうか。短編小説のような短さになってしまったとしても、誰かが認めてくれないだろうか。中野なら、受け入れてくれる気がする。しかし、他の部員はどうだ? ここまで自分に親切にしてくれる文藝部員は中野だけで、他の女子部員はほとんど見たこともない。唯一の同性である伊豆も、平井にとっては怖かった。女子との会話が苦手な平井ではあったが、伊豆と会話をするくらいなら苦手な女子に囲まれていた方が楽な気がしてきた。ああ、なんて損な性格。損な人生。そんな人生だとしても、やめるのも怖くて仕方がない。

                         パソコンの脇に置いてある書きかけのメモ。物語の展開は、途中までしか記されていない。隣には、誰もいない。励ましてくれる人も、教えてくれる人もいない。受け手でしかない自分。なのに今自分は、誰かからもらうことすらできない。文字を打ち込むことを強いられてはいるが、それを可能にするだけのアイデアや想像力も、モチベーションも、楽しみもない。せめて誰かが隣にいてくれれば……。

                         文藝部に入ることができたら、作品を書き続けなければならないだろう。中野の迷惑になるようなことはあってはならない。楓から話を聞いて、そう感じることはできたが、そもそも入部テストすら突破できてない自分が、入部したあとに、がんばることはできるのだろうか。文藝部に楓はいない。ひとりになったら、書く楽しみも感じられない。結局、楓に励ましてもらいながらの執筆が楽しかったのも、執筆自体が楽しかったのではなく、楓の話や笑った顔が、自分を励ましていただけにすぎない。自分はいつまでも、純粋に書くことを楽しむことができないのではないだろうか。

                         深いところまで落ち込んでいることに気づき、平井は頭を振って両腕を伸ばす。もう何時間も作業を続けている。風も冷たく、そろそろ指が動かしにくくなってきた。昼食の時間でもある。いったん作業を中断して、どこかで温まりつつ、食事を――

                        「あのあの!」

                         声がして、平井は振り返った。小柄な女性。

                         風が強く吹く。平井はメモを押さえようとした。しかし間に合わない。メモは風に舞ってしまった。追いかけようと立ち上がるが、声をかけてきた女が平井よりも早く反応し、メモを追いかける。女は宙に舞うメモをジャンプしてキャッチし、再び平井に近づく。

                         お礼を言おうと口を開き、手を伸ばした平井だったが、彼が言葉を発するよりも先に、女は鋭く言った。

                        「聞きたいことがあるの」

                         強い語気に平井はひるむ。

                         何だ、この女は。これまでに感じてきた「女性が苦手」とは違う、奇妙な怖さ。平井は手を引っ込める。

                         その女――水出穂乃は、右の指で摘んだメモを見てから、首を傾げてこう尋ねた。

                        「このメモ、あなたのものじゃないよね?」