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2018.01.26 Friday

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    イズレイト・ディスコ (27)

    2018.01.23 Tuesday

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      「――何の話かしら?」

      「中野さんは今、伊豆くんのメモを持っているはずです。それを、出してください」

      「伊豆くんのメモ? 彼のメモは、あなたがこの間、拾ったじゃない」

      「あれは、違いました。彼が求めているのは、あれではなかった。彼が必要としているメモは2枚。そのうち1枚は、平井くんが持っていました。けれど、もう1枚がない。どこにもないんです」

      「どこにもないのなら――」

      「中野さんが、持っているから」

       水出の鼻は、誤魔化せなかった。彼女は、伊豆の香りだけは絶対に逃がさない。これまでの推理――中野が辞めた部員のフリをしているという推測――は、彼女の考えた答えだった。しかし彼女は、伊豆の香りについては、考えるまでもなく、体で感じることができた。水出は伊豆のことは知らない。伊豆のことは、中野の方が詳しいだろう。しかし、香りだけは、水出に勝てるものは誰もいなかった。

       信じてもらえるとは思わない。しかし水出は、正直に告白するしかなかった。

      「私は、彼の匂いがわかるんです。平井くんがメモを持っているのも、鼻のおかげでわかりました。そして今日、なんとなく外を散歩していたら、駅から伊豆くんの残り香が漂ってきた。中に入り、香りを辿ると、あなたがいたんです、中野さん。信じられないと思います。私だって信じられません。ある日突然知りもしない人の香りに敏感になったなんて。けれど、あなたがもう1枚を持っている。これだけは、確かです」

       バス停に向かって誰かが歩いてくるのが見えた。彼女たちがベンチを独占できる時間は終わったのである。見知らぬ人が近づくのを感じて、中野は立ち上がった。そして、ズボンのポケットに手を入れて、中から1枚のメモを出す。

      「不思議ね。匂いがわかるだなんて。私には、全然わからないわ」

       中野は取り出したメモを鼻に近づけて、息を吸い込む。中野は笑って、首を振った。常人にはわからない。紙のにおいしかしないはずなのだ。

      「正解。これは、伊豆くんのメモよ」

       中野は、メモを水出に差し出した。それを受け取り、水出は同じように、鼻に近づける。息を吸い込む。しばらくして、水出は頷いた。

      「たしかに、これは伊豆くんのメモです」

       

       ひとりの帰り道、水出は中野との会話を振り返る。風のなくなった夜。空気は冷たい。冷たいというよりは、涼しかった。もう少しすれば、春になる。風は強くなるだろうか。桜はいつ咲くだろうか。

      「伊豆くんのメモを、どうして中野さんが持っているんですか?」

       改めて、中野は常に笑っていたなと水出は思う。いつも笑顔でいることと、いつも楽しいことに囲まれていることはイコールではない。明るい性格の楓さえ、つねに楽しいことに囲まれているわけではない。困った顔もする。しかし中野は、いつも笑顔だった。強い女性なのだ。水出は考えた。部員が辞める。伊豆にとってはどうでもいいことだったのだろう。なんなら、彼は部員が減ったことを最近まで知らなかった。だが、中野にとってはそうではなかった。文藝部部長にとっては、重大な事件だった。退部を食い止めようと必死に説得し、辞めていく部員が残していった作品を何度も読み、彼女たちの考えそうなことを、精一杯自分に取り込んでいったのだ。中野は、中野ではなくなった。中野は、誰かの顔でしか執筆ができなくなっていた。

      「そう考えると、平井くんと話をしているときが、一番私らしかったのかも知れないわね。私らしさなんて、実際は自分でもわかっていないんだけど。少なくとも、彼の相談に乗っているとき、彼の話を聞いているときは、中野じゃない誰かではなかった。それが私だったのかは、わからないけれど」

       部長として、入部希望者の相手をしなければならない。とはいえ、平井と向き合うときの中野は、間違いなく中野だった。部長として文藝部――輝かしかった頃の文藝部――を守ろうとした彼女は、辞めた部員一人ひとりになってしまった。部長というよりは、文藝部そのものになっていたのだ。

       信号を待つ。中野は無事に帰っただろうか。水出は、中野と出会ったばかりだった。彼女がいったいどのあたりに住んでいるのかさえも、わからなかったのである。歩行者信号の赤い光。車の通りは、水出が思っていたよりも多かった。目の前を通り過ぎる車の音。しかし、頭の中で再生される中野の声は、それに遮られることなく、鮮明だった。

      「月曜日に、文藝部の部室を覗いてみたら、珍しいことに、伊豆くんが居眠りをしていたの。あんまりにも珍しくて――彼、普段は油断も隙もないって感じなのね。執筆中に眠ってしまったらしくて、そのときに、メモが机の上に置いてあった。いたずらしようと思ってね。そのときに、メモを適当に抜き取ったの」

       メモが落ちていたことを楓が疑っていたのを、水出は思い出す。床にゴミの落ちていない文藝部の部室でメモを落としたなら、すぐにわかるはずだった。床に落としていればの話である。実際は、落ちてなどいなかった。中野が持っていたのである。見つかるはずもなかった。しかし、水出が拾ったものと、平井が拾ったものは、いったい何だったのか。

      「ネタばらしをすると、あなたたちが来たときに、私がこっそり落としておいたのよ。それを、平井くんが見つけて拾った。水出さんが拾った。それだけのこと」

      「どうしてそんなことを?」

      「平井くんが拾ったら、ネタに困っている彼はそれを元に物語を書こうとすると思って。あなたが拾ったら、あなたが入部テストのための小説を、それを元に書くと思って」

       平井と水出から小説が提出されたとすると、その内容は似たようなものになっただろう。水出の拾ったものはインタビューの結果が書かれたものであったが、必ず物語のどこかで、平井のものと重なり合うだろう。

      「そのふたつの作品を、伊豆くんに見せたらどんな反応するかなって思ったの。結局、水出さんは入部を諦めちゃったから、それは叶わなかったけどね」

       

       なぜ中野は、そこまで伊豆を困らせようとしたのだろうか。水出は、あるひとつの答えを思い浮かべたが、確信できなかった。中野に直接聞かなければならない。しかし、これ以上聞くのはどうなのだろうかとも、彼女は考えていた。

       家の前につく。カギを取り出し、鍵穴に差し込む。ドアノブをひねり、音がする。家の中に入って彼女は、着替えもせずベッドに倒れ込んだ。疲れた、ような気がする。いったい、何に疲れたというのだろうか。自分の情緒の不安定さだろうか。昼に平井に声をかけたときは、水出のテンションは不必要に高ぶっていた。しかし、文藝部の部室にいた伊豆にメモを渡したときには、そのテンションもやや落ち着いていたのだ。伊豆の香りで、徐々に水出穂乃は壊れはじめている。

       伊豆と話がしたい。いいや、話をしなければならない。今晩のこと。メモが返ってきたこと。中野のこと。スマートフォンを開くが、水出は伊豆の連絡先を結局手に入れられなかったことを思い出す。楓に伝えるべきだろうか。楓から伊豆に伝えてもらえばいい。

       しかし、彼女が一番誰かに伝えたいことは、彼女の中野に対する邪推だった。探偵にあるまじき、根拠の薄い、邪な考え。しかし彼女は探偵ではなかった。結局のところ、巻き込まれただけの人間なのである。被害者でもなければ、中野のように何かを仕組んだ人間でもない。突然敏感になった嗅覚のせいで伊豆と楓に出会い、その結果、中野の「おふざけ」に巻き込まれたのである。そして、中野の「おふざけ」それ自体も――。

       電気をつけずに倒れ込んだ水出は、まぶたが重くなるのを感じた。頭を使いすぎた。だが、それは想像や妄想のために、思考回路を酷使したという意味である。どれだけ考えてみても、事実ではないかもしれない。水出が編み出した「中野」像。その生成のために、多大なエネルギーを消費しているだけなのだ。

       香りを辿ってメモに辿り着いたように、もう一度家を出て香りを追えば、伊豆の家が見つかるかもしれない。しかし、いきなり知り合ったばかりの女が、教えてもいない住所を的確に当ててみせたら、さすがの伊豆も驚きを隠せないだろう。その有り様を想像して、水出はひとり笑った。

       彼女の妄想の中野はさておき、中野から取り上げたメモは現実である。これだけは、伊豆に返さなければならない。水出の事件はまだ解決していないが、メモが返ってくれば、伊豆にとって事件は解決するのである。

       水出は楓にメッセージを送った。メモが見つかったことを伊豆に伝えて欲しいと。明日、金曜日の朝にでも、渡すことができればと。

       スマホを伏せて、ついに水出は眠ろうと目を閉じる。しかしここで水出は、中野が最後に残した言葉を思い出した。

      「明日の朝、文藝部の部室に来てちょうだい。見せたいものがあるの。そしてそのために、返したメモに目を通してくれると嬉しいわ」

       起き上がる。電気のスイッチを入れた。まぶしさを感じ、眠気は少し飛んでいった。ポケットからメモを取り出す。中身を開き、目を通す。伊豆には怒られるかもしれない。しかし、見たことを黙っていればいいのだ。

       当然、水出が持っているメモは完全なものではない。話の流れは断片的である。しかし水出は、これを伊豆が考えたのだと思うと、なんともいえない気持ちになった。あれだけ人との付き合いが嫌いそうで、苦手そうな伊豆玲斗が、これだけ真剣に、登場人物のことを考えて、物語を書こうとしている。水出は伊豆と知り合ったばかりだった。出会ってまだ、1週間も経っていないのである。彼女は伊豆の香りを知っている。そして今、伊豆の頭の中を覗いた気分になった。

       しかし彼女は、やはり伊豆のことを知らないのである。彼がいったいどんな人物なのか。どんなことを好み、何を大切にしているのか。まったくわからなかった。

       彼のことを知りたい。水出は純粋にそう思った。

       瞼が閉じる。意識が消える。

       

       電気をつけたまま力尽きた水出はその晩、メモの物語を夢に見た。

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