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2018.01.26 Friday

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    ライ・ネ・クレーペ

    2015.06.19 Friday

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       講義が終わったところで首を左にひねり、いつものように隣の彼に目を向ける。長いのかどうかわからない半端な長さの黒い前髪を垂らしていた彼が、その手を止めて教室の前方を向く。私とは、目が合わない。
       青く光る細身のシャープペンシル。ペン先を机上の紙に押し付けながら、ペンの頭をプッシュする。濃いめの芯が微かに削れ、その真っ黒い粉が紙に乗った。
       出席判定のために提出する紙であったが、彼はそれを黒くほんのり汚すことにまったく躊躇いはないらしく、息で粉を吹き払うと、役目を終えたシャープペンシルをペンケースへ丁寧にしまう。
       まじまじと彼の所作を見ていた私は、ファスナーを閉じた音にハッとなって急いで自分の出席カードを仕上げる。かなりの殴り書きになっていたが、気にしていられない。
       適当に授業内容を振り返りながら大切らしいことをまとめ、全く感謝を感じていなかったが最後に「ありがとうございました」という言葉で締めくくる。彼に後れを取るわけにはいかない。芯をしまうのも忘れて、私は乱暴にペンを封印した。
       雑ながら私がガリガリやっているうちに――私が意識をそらしているうちに、彼は荷物を背負って出席カードを軽くつまんで教室の前方へ歩いてしまっている。私たちの座っていた席の最前列、そこのテーブルの角を曲がって、教壇に接した机の上に紙を乗せた。
       追いかけなければ。私もリュックサックに怒られるほどひどく乱暴に背負って、ぱたぱたとカードを出しに向かう。
      教室の床は濡れている。比較的白かったであろう教室の大地は、雨に濡れた学生と荷物、そして傘が講義前に押し寄せたことで、すっかり汚れていた。地面に黒いミミズが這っているような汚れ方である。
       そこで私は傘を机に脇に置いてきたことを思い出した。紙をつまんだまま急いで引き返し、絶妙なバランスで立てかけられていたピンク色の傘を豪快に反対の手で掴む。今度こそ提出しなければ。
       
       彼が置いていったカードの上に私の分をワイルドに載せて、教室を駆ける。ドアの取っ手を右手で掴んで思い切り左へ払う。勢いよく開いたドアが、枠にぶつかった反動で閉じてきた。その隙間を私はダッシュで駆け抜けて、左手に持った傘の先が後ろのドアにこつんと当たったのも気にせず、彼の背中を追う。
       教室は1階で、ドアは建物の中ではなく外に取り付けられているため、教室の終わりと世界の始まりがゼロ距離に存在していることになる。教室を出てくるりと左を向くと、そのターゲットは近くにいた。
      渡り廊下のようなところで、彼は空を眺めている。左手を屋根の管轄から軽く外へ出して、触角を通して空模様を把握しようとしていた。消えそうになりながらも雨音がさらさらと音を立て、彼の左の掌を少しずつ濡らしていく。
      手を引っ込めることさえせずに、彼はしばらくそうしていた。そのぼんやりとした表情になんとなく魅せられていたが、我に返って自己を奮い立たせる。左手の傘を強く握って、声をかけた。
      「傘、持ってないの?」
       力み過ぎてすごい威圧的な物言いになってしまったような気がする。少し後悔していたが、彼の方にはその感情は読み取れない。空を見上げたその首のまま、顔だけ私の方へ倒す。
       どれだけの時間が経っていたのかはわからない。10秒かもしれないし、2秒かもしれない。ともかくもいくらかの沈黙があって、彼から反応がないのをいいことに、私は勝手に話を進めた。
      「帰り、一緒でしょ?傘、入っていきなよ」
       彼は一言も発さない。けれどその左手の水滴をぱたぱたと払ってから、その手をポケットに引っ込めた。少しの間。
      「じゃあ、お願い」
       
       彼とは、地元の駅が同じだった。
       知り合ったのは大学に入ってからで、学部は同じだったが学科が違う。たまに授業で見かけるくらいで、特に仲良くなるということもなく1年が過ぎた。
       幸い2年生になった今年も同じ授業があったために、私は毎回、わざわざ授業開始ギリギリに入室し彼の隣に座っている。今日もそれだった。
       地元が同じであったとはいえ高校は全く違ったし、彼と利用駅が同じであることはついこの間知ったばかりだ。それほどまで私たちに縁はない。
       理由は特にないが、いつからか彼のことが気になっていた。去年、あるいは今年に入ってからかもしれない。なんとなく、彼の下を向く横顔に惹かれてしまったのである。なにか痺れるようなきっかけがあったわけではない。
       同じ時間の電車を使っているのだろうけど、一緒の車両に乗り合わせたことはなかった。自分の駅で降りるとなぜか既に彼が前を歩いており、あっという間に改札を抜けている。急いで追いかけようにも、帰宅ラッシュのサラリーマンたちに呑まれ、身動きが取れず彼を見失うのが常だった。
       さらにいえば、私は彼の家の場所も知らなければ、駅から自宅までの移動手段が自転車なのかバスなのか、歩きなのかも知らないのだ。自分のことを何も知らない女に声をかけられて、よく彼は相合傘を受け入れたものだなと、今でも不思議に思うことがある。
       
       ピンクに縁取られた空はどんよりとしていた。透明な傘の中心部は、雨粒の蕁麻疹を発症している。
       大学から最寄りの駅まで、私たちは一緒の傘に入ることにした。傘は私が持っている。一般的な男女の相合傘なら、男性が持つイメージをするかもしれないが、私の夢は雨に流された。ピンクの傘を持つのは嫌なのだろうと、勝手に自分を納得させている。
       しかし私が気になったのは、微妙に私と彼の方に距離ができていることであった。そりゃお互いの肩がめり込み合って気付いたら完全に接合されてましたっていうのはどうかと思うし、いきなりゼロ距離というのも期待しすぎだろう。けれど、隙間風が自由奔放に列を成して通り抜けられるほど、私たちの間の透明な壁は厚かった。ぜひドイツ人を呼んで、つるはしなどで滅多打ちにして壊して欲しいものである。
       先述の通り、私たちは格別に仲がいいというわけではない。それどころか、下手をすれば初めて会話をしたかもしれなかった。我ながら無謀である。フラグを立てるステップを完全に無視してしまった。
       日頃から、好印象を持ってもらえるよう小さな世間話でもしておけばよかったと少し後悔している。毎回のように隣に座っていながら、プリントを回す時でさえ妙に緊張して簡単な挨拶ですらできなかったのだ。
      教室の机には椅子が3つあって、いつもその両端に私たちは座っている。ふたりの間にひとつ空いた席を強引に詰めて、アプローチをかけておけばよかった。来週からはそうしよう。思いついてすぐに止める。
       椅子ひとつ分よりはかなり近い距離なのだろうけれど、それにしても相合傘には不向きな距離感だ。彼は私の左隣を黙々と歩いていて、特になにか話すというわけではない。
       彼の方が背が高いため、私は普段よりも格段に傘を高く掲げる必要があった。横から雨が降ってくるが、私は気にしない。私は。
      「大丈夫?濡れてない?」
       大丈夫?と口にしたのは私だが、大丈夫じゃないのは私の方であった。さあさあと降る雨の中ひと言も発さないでいるのはなかなか気まずいもので、つい私は声をかけてしまう。
      「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
       そういう彼の左肩は濡れていた。天の顔色と不釣合いなほど爽やかな色をしたシャツの左肩は、ほんのりと色が濃くなっている。
      「私は全然大丈夫だから、使っていいよ、ほら」
       私は申し訳なさに体当たりをかまされて、傘を軽く彼のほうへ差し出してみた。これで彼が受け取ってひとりで黙々と私を置いていってしまったら元も子もない気もしたが、特にきにしていない。それはそれで、彼が後日傘を返してくれそうだからだ。
       もちろん、彼が返しに来てくれればの話だけれど。
      「大丈夫だよ。ありがとう」
       彼は先ほどと全く同じ口調で返した。もしかしたら彼の発する言葉はこれだけなのではないだろうかという気にさせられる。なにかレコーダーのようなものが内蔵されていて、必要なときに「大丈夫だよ」、「ありがとう」と再生されるのだ。
       我ながら馬鹿なことを考えてるなぁと思う。けれど、実際彼の日頃の姿を想像すると、基本的にひとりでいる上、たとえ人と話をしているときでも喋っていないことがわかる。
       もしかしたら、気分を害してしまっているのではないだろうか。今更ふと思う。好きでもないどころか知りもしない女に言い寄られてやむを得ず同じ傘の下。ああ、申し訳ない。
       今ならまだ助かるかなという気になって、相合傘の中断を提案しようとする。しかしそこで、彼は思いついたかのように言葉を続けた。雨の音は、だんだんと小さくなっている。
      「俺だけが使ってたら、一緒にいる意味がないでしょう?」
       
       彼の言葉の真意が読み取れないまま黙々と歩き続け、私たちはついに駅を目の前にした。
       あれから数分間、私たちの間には会話がない。すっかりなくなった雨の音、自動車が水溜りから歩道の方へ水をかけ返す音に、自転車の走る音が私たちの帰路を彩った。それも、かなり灰色に。
       神様が泣き止んだので、途中で傘は必要なくなった。もはや筋トレの道具にしかならなくなった傘を、彼の許可を得て少し前に畳んでいる。彼が左を歩いているので、私は傘を右手に握っていた。
       さあ、困ったぞ。
       傘を畳んで、用がなくなったとばかりに彼が逃げ出してくれないものかと思っていたが、全くそんなことは起きなかった。気まずさから私が逃げ出しそうになったぐらいである。私から提案しておいて、なんて自分勝手なやつだと思う。
       このままだとなにもないままふたりで改札を出て、ふたりで電車が来るのを待たなければならない。彼のことを嫌いになったわけではないし、むしろ機会があればもう一度今日みたいなイベントをやり直したいぐらいだ。
      そう、私にはイマジネーションが欠如していた。こうすれば彼はきっとこうする、ああすればああ。そういったシミュレーションが足りなかったのだ。
       このまま階段を下り駅に入り、改札を抜けたら「先に言っててよ」とトイレに駆け込もうか。
       などと考えていたら、それまで赤信号以外で立ち止まらなかった彼がふと足を止めた。彼の一歩先で、私も立ち止まる。
      「せっかくだからさ」
       珍しく彼が口を開く。
      「行こうか、あそこ。時間、大丈夫?」
       彼の視線と指の先を追っていき、私は小さく驚きの声を漏らす。人だかりが見えた。
       普段であれば、雨さえ降っていなければ、ふんわりと甘い匂いを放つその店。
      その手軽さで、特に女子高生から絶大な支持を受けているその食べ物。ショーケースに飾られた、実物にかなり似たレプリカの色合いが食欲を掻き立てる。
       赤や茶色、あるいは黄色や紫といった鮮やかな色が、白い山々の上に糸の様にかかっていた。雪山の盛り上がり、その微かな模様が、より甘ったるさと食感を想起させる。
       彼が指したのは、クレープ屋であった。
       
      「クレープとか、食べるんだね」
       長蛇の列の後ろの方に並び、少しだけ屋根の外に出ながら、私は彼に聞いてみる。
      「意外?」
      「そりゃもう、とっても」
      「そっか」
       彼が少しだけ笑った。笑い声こそ出なかったが、垂れた前髪から覗く目は細くなり、口元はほんのりとしたカーブを描いている。
       私は、もしかしたら大学内でも彼の笑顔を知っているのは私ぐらいしかいないのではないかという、情けないほどちっぽけな優越感に浸っていた。
       べらべらと喋るようになったわけではないけれど、少しだけ楽しそうに彼が言葉を紡ぐのが、嬉しい。
      「なんで混んでるんだろう、こんなに」
       会話が弾むような気がして、私は彼の横顔に尋ねる。彼はきちんと私の方を向いて、期待通り言葉を返した。今度は顔だけではなく、首ごと私の方を向けてくれる。まっすぐ見下ろされて、少しだけどきりとした。
      「今日がクレープの日だからじゃないかな」
      「クレープの日?」
      「まあ、普段より安くなる日だよ」
       そういって彼は腕を伸ばさずに、なにか小さい譜面台のようなものを右手の人指し指で示す。そこには確かに、毎月19日はクレープが割引になると書かれていた。そして今日は、19日なのである。
       私たちの前には、7組ほどの人だかりができている。まだ、クレープがつくられている様子はここから見られない。
       彼が手渡してくれたメニューを睨みつけていた私は、ふと彼に「見なくていいの?」と尋ねてみた。それに対して彼は「俺はいつも同じだから」とそっけなく答える。
       しかしこれまでの彼と違ったのは、ずいっと私の方に体と顔を近づけて、私の視線がさまよっているメニューのいくつかを順に指し、それぞれがどうであるかという説明をしてくれたことだった。大きさがどうだとか、甘さがどうだとか、酸味がどうとか、そんな具合である。それも一方的にというわけではなく、私の反応や質問を取り入れながら丁寧に説明をしてくれたのだ。
       雨だというのによくもまあ前の女子高生やOLさんはここに並ぶものだなという関心はあっという間に消し飛び、私は今までに見られなかった彼の大胆さに緊張している。もちろん彼は、大胆なつもりなどないのだろうけど。
       普段直線距離で1メートルはあるであろうふたりの顔の距離は今、それを急に縮めて5センチほどの近さにあった。俯く彼の目の細さがやけに官能的で、生クリームよりも彼の頬を舐めた方が甘いのではないかという雑念に駆られる。
       
       さて、実のところほとんどクレープの味など覚えていない。
       彼のオススメの中からひとつを選び、ふたつ分のクレープをもらってから、店内に用意されたテーブルでゆったり食べることにしたのだが、もふりと私が自分の分をかじりながら彼の持っているものを眺めていたら。
      「どうぞ、一口」
       と、食べるのを止めて彼が彼の食べかけを私の方に寄越したのである。何も言わず、果たして自分の顔がどんなであったかもわからずに、私はそれにかぶりついたのであるが、特にここから記憶がない。
       しつこいがおそらく彼にとってその行為に深い意味はなく、単に私が物珍しげに見ていたからという理由から来ることなのだろうが、私からすれば大事件であった。
      気になっていた男の子に始めて声をかけ、相合傘に誘ったら受け入れてもらえて、帰り道クレープ屋さんに寄ったりして、急接近からのクレープを一口もらう。ここまでのあらすじ。このときの私は顔を真っ赤にしていたか、目の焦点が合わないでいたかのどちらかだろう。妙にぐわんぐわんと頭が揺れるような感じがしていた。
       彼が心を許してくれたのか、あるいは彼は最初からそうであったのに私が気付いていなかったのか、どちらなのかは未だにハッキリしないが、そのあとも私たちはそのテーブルに陣取って楽しげに会話をしていたような気がする。気がするというのは、もちろん私の意識がはっきりしていないからだ。何の話をしていたのか思い出せないあたり、私はまともな受け答えをしていなかったのだろうけど、会話が止まった記憶もないので、きっと彼が積極的に話題を振ってくれていたのだろう。
       
       私の意識が復活したのは、ごとんという音と共に私の背中がかたい何かにぶつかった時である。我に返ると、電車内。目の前には、彼。
      「いたそう」
       私が思い切りドアにぶつかったまま寄りかかっているその前で、彼は吊り革を掴んで立っていた。挙げられた左手。シャツの袖が少し落ちてきて、質感のよさそうな手首がちらりと覗く。
      「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
       急いで私は答えた。答えた後で、その口ぶりが少し前の彼のものと全く同じであることに気付く。
       そんなことには彼は気付いていない様子で、「そっか、よかった」と嬉しそうに声をかけてくれる。それから、窓から見える景色について、ふたりでふんわりとした話をした。
       特別にありがたいお話というわけではない。けれど、ただ、とても楽しかった。
       ぼーっとしていた時間があまりにも長すぎて、私が意識を取り戻してから数分で車内に次の停車駅のアナウンスが流れる。ヘリウムガスを吸ったような優しい声をした男性の声が、マイクのノイズに負けながら聞こえた。私たちの降りる駅である。
      「え、もう?」
       景色を楽しむことも会話を楽しむこともまともにできないまま、私たちの緊急デートは終わろうとしていた。もっと早く目が覚めたらよかったのに。もったいない。
      「そう、もうつくよ。楽しかった、ありがとう」
       彼がささやくように言ってくれる。顔は笑っていなかったが、瞳が優しさの膜を纏っていた。
       私はもたれていた体を起こして、背もたれになっていたドアを振り返る。透明なガラス部についていた水滴が、電車の動きに合わせてぷるぷると震えていた。
       電車がまもなくホームに止まり、私は電車から見慣れた階段の前に降りる。ホームと電車の間の大きい段差と隙間に改めて驚いていると、後ろから彼もひょいっと降りてきた。
       エスカレーターをゆったりとのぼっていく。私が前で、彼がうしろ。スカートの心配はない。彼がぴったりと私の後に立ってくれているから、私の中身を覗けるのはエスカレーター自身しかいないだろう。ばたばたと私たちの右側をかけていく人がちらほら。不意に彼が後ろから私の体を少し左側にずらしてきた。直後に、ものすごい速さで駆け上っていくサラリーマン。彼が、衝突を未然に防いでくれたようだ。
       定期券を取り出して、改札を抜けた。ひとつ左の改札を私と同時に抜けた彼と歩幅を合わせて、ロータリーへつながる駅の階段を下りていく。

      「駅まで、何で来てる?」
       彼が尋ねた。えっと、と少し詰まってから私は答える。
      「自転車」
      「そか、じゃあ同じだ」
       家の方角がどうかはわからないけれど、ひとまず私たちのデートは駐輪場まで続きそうだ。
       などと考えていたら、眠りから覚めたように雨がどさどさと降り始めた。目線の先の、下から何段目かの階段が、一気に染みを作り始める。
       あららと声を漏らして、私は傘を開こうとした。そこで気付く。
      「傘がない」
       なんで!
      「あー、クレープ屋かなぁ……」
       いつの間にか私の少し前を歩いて雨の様子を手で探っていた彼が答えた。
      「どうしようか。歩いて帰った方が、いいかも。家、遠い?」
       彼が優しい口調で下から大きめの声で聞いてくる。
      「ううん。歩いても、そんなに遠くないよ」
      「じゃあ、歩いていこう」
       そういって彼がまた歩き始めたので、私は少しあわててそれを追いかける。
       私にも雨が降りかかってくるかなというぐらいのところで、彼が自分のリュックを体の前に持ってきてごそごそと探り出す。
      「あった」
       彼は右手に紺色の筒のようなものを取り出して、私に「おいで」と声をかける。そしてそれが何であるかはっきり見える距離になって、私は間抜けな声を出す。
       水筒か何かだと思っていた、彼の手に握られたそれは明らかに折り畳み傘である。
      「傘、持ってたんだ?」
       私は何を言ったらいいものかわからなくなって、それだけ溢す。
      「帰り、一緒でしょ?傘、入っていきなよ」
       開いた小さめの折り畳み傘を右手で空に掲げ、彼は私の左隣に並ぶ。
       聞かなければいいものを、馬鹿な私はつい口を開けてしまった。
      「持ってたのに、どうして?」
      「いや、どうしようかなって思っててね。小雨だったから、出そうかどうか悩んでた」
       そこに、アホこと私が声をかけたのだ。
      「近くなら、送っていくからさ」
       彼が続けた言葉に驚いて、私は丁重にお断りしようとする。
      「いや、いいよ。大変だしさ」
       雨は止む気配がない。断ったところで、私はどう帰るべきなのか。それがわかっていたけれど、私には断ろうとする以外の選択肢がなかった。
       彼は下を向く。震えているようだった。え、うそ。泣いた?泣いてる?
       まあ、そんなこともなく。私が少し不安になって覗き込むと、彼はふるふると微かに震えながら笑っている。
      私がぽかんとしていると、彼は顔を上げて意地悪そうに言った。その言葉と表情に、私は一層引き込まれていく。
       今日が雨で、今日がクレープの日で、声をかけたのが今日で、本当によかった。
      「俺だけが使ってたら、一緒にいた意味がないでしょう?」

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