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    Five minutes late in the fog

    2015.06.30 Tuesday

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       日差しに色がなくなってきた。いや、日差しが世界の色を消しているとでもいうべきだろうか。空から平等に降り注ぐ日の光が、ぎらぎらと輝き日常の景色を白く霞ませる。
       暑い時期になった。男であることを恨む。男であるがゆえに、少しだけ暑さに弱い。じわりと汗をかいているのを感じる。
       服の――特に脇のあたりに汗が染み出しているのではないかという感覚に襲われて、裾から右腕を突っ込んでシャツの内側と脇の下を触った。視線を落としてみても、シャツに染みはできていない。体の表面を汗がだらりと滑っている様子もなかった。

       この違和感の原因は、おそらく汗腺が開き切っているということなのだろう。目には見えないけれど、おそらく毛穴のようなものがぶわっと大口を開けているに違いない。そのせいで、妙な不快感を催しているのだろう。
       半端に重くなったリュックサックを肩からおろし、駅のホームに乗せる。
       電車が来るまでは、もう少し時間があった。

       新しい刺激を求めて、ウォークマンを取り出す。昨日いくつかCDを借りていた。今まで触れることのなかったジャンル――英語の歌である。
       女性のアーティストのCDを借りた。特別にそのアーティストが好きだというわけではないし、つい先日まで存在自体知らなかったぐらいだ。けれども世界的にはかなり有名らしく、なるほど確かに、彼女の曲の中には頻繁に聴いたことがあるものもあった。
       どこで聴いたのかは、明確には思い出せない。それほどまでに多くの場所で、自分がその曲を耳にしていたということだろう。

       ウォークマンを一緒に、小さめのうちわを取り出す。以前母の実家に帰省した時、くすねてきたものだ。一般的なうちわよりもやや小ぶりなため、使いやすかった。
       大きければ大きいほど涼しくなるというわけではないし、小さくなればなるほど効果が減退するということもないので、小さいこのうちわでも困らない。むしろ持ち運びが楽で快適なくらいだ。

       うちわの、プラスティックでできた持つ部分を口にくわえ、ウォークマンから伸びた真っ白いイヤホンを両耳に突っ込む。
       電源を入れてしばらくすると、曲を再生していないのにもかかわらずノイズキャンセリングが機能して周囲の音が少し抑制された。音楽を再生しているとわからないのだが、どうやら再生機器から小さなノイズのようなものを流して、周囲の音と相殺させているようだ。かすかに、さーっと掠れたような音がする。

       最近追加した曲のリストから、例の女性アーティストのアルバムを選ぶ。適当に一曲選んで、ランダム再生に設定した。できれば、どんどん新しい曲を聴きたい。
       最初に選んだ曲は、それこそ彼女の曲の中でも有名なものだった。真剣に歌詞カードとにらめっこをしたわけではないから詳しい意味は分からないが、タイトルから察するに恋の終わりの歌らしい。もう私たちが前のように戻ることはないでしょう、そんな感じ。
       イントロ部が小鳥の声とともに始まる。朝の訪れを象徴しているようだった。
       その爽やかさが、別れてからしばらく時間がたった後の女性の落ち着きを表しているようである。当初はあれだけ悲しみにおぼれていたが、もうそんな鬱蒼とした感情は日光によって消毒された。こんなにも世界は明るいのだ。

       たしかに、世界はあまりにも明るくなりすぎた。梅雨があったのかどうかもわからないような6月が、もうすぐ終わろうとしている。
       梅雨明けの宣言は出されていただろうか。そもそも、本当に梅雨入りの宣言自体なされていたのだろうか。そんなことを疑うくらい、今年はレインコートよりも半袖のシャツにお世話になった気がする。そしてその半袖を濡らすのは、雨よりも俺の汗だった。

       口にくわえたうちわを右手に取り直して、ぱたぱたと顔の前であおぐ。口を開けていながら一向に乾燥する気配のない脇のために、今度は裾の下から上半身へと直接風を送った。入ってきた風が襟元から飛び出して、微かに喉を涼ませる。
       本当は1本前の電車に乗るはずだったのだが、見事に乗り遅れて予定より5分あとのものに乗る羽目になった。自転車をもう少し熱心に漕いでおけばよかったのだが、暑さがそれを妨げた。まあ、別に大学の授業に遅れるというわけではないので、特には気にしない。
       唯ひとつ不満点を挙げるとすれば、これから乗ろうとしている電車の方が車両数が少なく密度が高くて、座りにくいということだ。無事に座れるといいのだが。

       ホームへの階段が少しバタつく。次の電車に乗ろうとする乗客たちがパタパタと階段を下りてきたのである。
       目の前で上り電車に発車された俺はぼんやりとホームで待ち呆けていたが、普段からこっちの電車を利用する人はもう少しギリギリにホームへ降りてくるわけだ。情けない。降りてきた人々は待ち構えてる俺を見て「乗り遅れたんだな」と一目でわかる。帰りたい。

       ひたすらにうちわを手首で返すのにも飽きてきたので、同時進行で階段を眺める。知った顔が降りてこないだろうかという、ちょっとの期待と多大な不安を身にまといながら。
       
       つい先日、俺は高校時代から交際をしていた恋人と破局したのであった。別れ際にナイフで腹を一突きされたなどといったバイオレントな出来事もなかったので、あっさりと幕引きになるのだなぁと少し驚いている。
       その彼女と付き合えたのが不思議なほどで、俺は致命的にモテない。しかも、それに気づいたのがつい最近であった。そりゃそうか、恋人がいる間に自分のモテ度の高さを確認する機会などそうそうあるまい。
       電車の中でいろいろな人を見る。綺麗な人、かわいい人。むかつくイケメン。妙に安心してしまうような残念な顔の男。別れてから、特にそういったものを見ることが増えた。それも少し考えれば当然のことで、俺はその彼女と、まさに次にやってくる電車を一緒に利用していた曜日があったからだ。
       隣に恋人を座らせておき、会話に相槌を打ちながら、どうして電車内のスタイリッシュな美人を眺めることができようか。
       何かの歌で、違う女の子を目で追っているのに気付いているのよなんて歌詞があったような気がする。きっとそんなことをしたら、痛いほど冷酷な視線が俺の左耳あるいは右耳の鼓膜に突き刺さっていたことだろう。
       あるいは、直接的に脇腹を小突かれていたかもしれない。

       しかし、だ。幸か不幸か、そんな心配は一切しないで済むのである。目線で鼓膜を震わせるものも、手刀でみぞおちに一撃を加えるものも、俺の隣にはもういない。
       繰り返しになるが、もちろんこれは幸せでもあり不幸でもある。普段見落としていた宝石を鑑定できるという利点とともに、行きの電車で会話がなくなるという損失も味わう。うーん、どっちがいいのかね。

       別に綺麗な人見かけても俺のものになるわけでもないし、声をかけられるということもあるまい。もし隣に座られる機会があったとしても、できるのはせいぜいちらちらとその横顔を観察したり、連絡を取っている相手が彼氏なのかどうか確認することぐらいである。
       思い切って寝たふりをして倒れこんだり、無意味に横を向いて深呼吸し匂いを嗅ぐということもできないこともないだろうが、人生を棒に振るリスクを冒そうとは思えない。

       階段をにらみつけるのにも、慣れないジャンルの音楽にも飽きて、俺は手元のウォークマンをいじる。再生してからまだ3分しかたっていない。ちょうど曲が終わったところであるが、お構いなしに普段から聞いているアーティストのリストへと切り替える。
       聴きなれたベースの音。聴きなれたギターの音。そして時間差で、聴きなれたドラムの音。好きなバンドの好きな曲の、ライブバージョンが再生された。
       みっつの音が合わさった瞬間、耳元の観客が一斉に騒ぎ始める。「あい」とか「おい」とかそんな感じの、雄叫びにも似た歓声。女性がいるとは思えないような荒々しさ。臨場感。
       耳から注がれた刺激物質に脳が興奮してきたのか、だんだんと暑くなってくる。俺はうちわにかける力を強めた。

       
       まもなく電車が到着しますというアナウンス。「嘘つけ!」と言いたくなるほど奇妙な時間差があって電車が来た。広すぎるホームと電車との距離を跨いで、乗り込む。
       普段この電車に乗っていた俺が1本早い電車に乗ろうとしていたのは、元恋人と同じ電車に乗らないためである。別に壮大な喧嘩をしたわけではないので会っても気まずくはならないだろうが、なんとなくそれを避けたかった。
       幸い()先ほど見た感じでは彼女の姿は確認できなかったので、きっと彼女の方こそ1本早い電車に乗ったのだろう。だとしたらなんという奇跡だろうか。一緒の電車に乗りたくない一心で急いできたものの間に合わず、けれどもそれが結果的に一緒の電車に乗らずに済むきっかけとなったのだとしたら。
       まあ、どうでもいい。

       案の定電車は人がそこそこいて、なんとか優先席だけが空いていた。ぽつぽつといる、律儀に吊り革をつかんで立っているサラリーマンを気にも留めず、俺は申し訳なさそうに優先席に腰を落とす。リュックを脚の間に挟んで、できるだけ端っこにへばりつく。体の側面が熱い。
       
       朝の半端な時間であるがゆえに、電車が駅に止まるたび利用者は増えていった。降りる人よりも乗る人の方が圧倒的に多いため、満員電車というほどではないが、次第に電車は混みあっていく。座っていては同じ車両の反対側の様子をうかがえないくらいには、人の詰め合わせができていた。
       聴き慣れた、お気に入りのアーティストの曲が6曲ほど終わると、電車内に乗り換え案内のナウンスが響く。次の駅はひとつの分岐点で、そこでは3つの路線が走っている。
       そのうちのひとつの路線にとってその駅は一番端っこの駅でもあるので、乗り換える乗客が多い。そのため、この駅を過ぎると少しだけ電車内がスッキリする。ついでにいえば、元彼女はこの駅で乗り換えていったため、俺たちの一緒の朝の終点でもあった。

       体の左側へと進む電車が、ゆっくりと速度を落とす。そして停車すると、前に立っている人々が慣性に従って軽く左側へと傾いた。前の方でドアが開く。機械音が軽快に聞こえた。
       ぞろぞろという足音を立てながら、乗客のいくらかが降車していく。乗ってくる人はあまり多くないため、電車内からもホームの反対側の様子がうかがえた。電車は止まっておらず、大学や病院の看板がいくつも見える。赤いもの、白を基調としたもの。
       別にここでそんな看板を見たからといって、「肛門科に行こう!」なんて思わないと思うんだがなぁ。

       乗り換え階段へと足を運ぶ降りた人々。窓の外では、人が左の方へ吸い込まれ消えていく。その波の中に、俺は見知った顔を見つける。
       思わず「あっ」と小さく声を漏らす。見つけたのは、なにを隠そう元恋人その人であった。
       大学生だというのに、妙に乙女思考を感じさせるふりふりしたワンピース。しかし姫というような感じではないので、多くの人にとっても許容範囲であろうファッション。
       雰囲気は変わらないが、その服には見覚えがなかった。きっと別れた後に購入したものなのだろう。似合っているかどうかはわからないが、変な安心感を覚えた。


       関係が終わったとしても、その人が終わるというわけではない。関係が終わっても彼女の服のセンスは変わらないし、俺の音楽の好みは変わることはないのだ。少し考えれば当たり前のことだと気付くが、それすら俺は気づくことができなかった。
       恋は盲目というが、むしろ恋の終わりこそ、深い霧の世界のようだ。今まで自分を取り巻いていた幸せの空気といったものが、破局とともに空中へ霧散する。
       その霧はこれまでの思い出の色を豊富に含み、しかも濃度が高いために、ひとつの普遍的な事実さえも覆い隠してしまう。そして思い出したかのように、霧の中からふっと恋人の姿が現れる。

       そしてそれは、幻ではない。霧の中に見るものの、その姿かたちはすべておぼろげで、時にはカエルさえもシマウマのように見ることがあるかもしれない。霧の中に現れたリアリティあるその物質は、そのロマンスとミステリアス加減ゆえに夢であるかのように思い込ませてくるが、実際霧中でそれほどまで奥行きを持ったものは存在しない。手を伸ばせば、確実に手が届くのである。
       けれども、霧によって視覚を歪められた俺たちは、手を伸ばそうにも遠近感が狂ってしまっていて、どうしようもない。
       どれだけ力を込めればいいのかもわからないまま、現実は霧の中へと消えていく。


       元恋人の姿はふりふりとしたワンピースの襟元と共に視界の端へ消えて行き、ドアが閉じてその姿を追うように電車が動き出しても、もうその形を見出すことができない。
       俺は遠ざかっていくホームを見ることさえも許されず、景色は再び無機質な線路に横切られている。

       
       元恋人の影を認めた駅からふたつ隣、終点の駅。俺は乗り換えるべく、もそもそと立ち上がって電車を降りる。解放された肩は、数十分ぶりのリュックサックの重みに苦しんでいた。負担を軽くするように、一度リュックサックを前に背負う。
       中を漁り、冷房の程よく効いた電車内では使うことのなかったうちわを取り出す。狭い乗り換え用の階段には、暑苦しそうな黒いサラリーマンのスーツ姿がタピオカのように転がっていた。

       ぱたぱたと顔のあたりを仰ぎ、階段の行列が落ち着くのを少し待つ。女子大生やOL、そしてたくさんのおっさんが俺を追い越していくのを気にせず、俺は階段の足元で立ち止まっていた。さぞ邪魔だろうな。けれども、気にしない。
       気にしないようにしていたが、一度見てしまうと気になるものである。元恋人に、連絡を取ってみようか。スマートフォンは胸ポケットにしまってある。いつだって、スマートにコンタクトを取ることはできた。
       あるいは、今日の帰りにでも、少し洒落たレターセットでも買って、彼女の家宛てに出してみようか。何を書くかは、その時の気分次第。

       耳元で、さっきと同じ曲が流れているのに気付く。曲数の少ないアルバムを選んだから、ここまでの道のりで一周してしまったのだろう。俺は胸ポケットからスマートフォンではなく、隣り合っていたウォークマンを取り出す。
       新しい、刺激を。
       見送るたくさんの背中に、いくらか美人の雰囲気を見出す。追いかけて振り返って、期待通りか、失望か、どちらかはわからない。
       わからないから、俺たちは誰よりも先を行き振り返り、誰よりも高く上り下を見下ろすのだ。誰でも彼でも追い越して、初めて正面から向きかえる。誰よりも先に行くからこそ、追い越したものがなんであるかを悟ることができる。

       だとすれば。
      「新しい刺激を」
       自分を奮い立たせるように小さくつぶやいてから、俺はウォークマンのアーティスト一覧から女性アーティストを選ぶ。電車に乗る際飛ばしてしまったが、今ならゆったりと聴けそうな気がした。今なら飽きずに、聴けそうな気がした。
       音楽が流れる。ウォークマンを胸ポケットに入れなおし、スマートフォンに触れた。すぐにその手を引っ込める。
       左手に持ったうちわを右手に持ち替えて、大きく顔をあおぎながら、俺はダンゴムシがクライミングをしている階段に向けて足を運ぶ。
       少しだけ躊躇ってから、ゆったりと進む一行を押しのけて、誰よりも先に、誰よりも高いところへ登っていく。


       何を言っているかわからない英語の歌。それでも、その歌が明るいということだけはわかった。

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