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2018.01.26 Friday

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    ウォレット・モーメント

    2015.07.12 Sunday

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       彼からLINEがきた。
      「いまどこいる?」
       平日の夕方。講義も終わり、家のベッドに寝転んで、何をするでもなくスマートフォンを手に持ったり枕元に置いたりをくり返していた私であったので、「いえ」という2文字を味気なく返す。変換すら怠った。
       既読はすぐにつき、ぽろんと返事が返ってくる。
      「なくしものした。さがすのてつだってくれ」
       さては、こいつも変換めんどくさがってるな?
       などと指摘するのも面倒だったので、体を起こしてベッドの淵に座り、正当な返信を打ち込む。しばらく寝転がっていたため、頭の中がふらっと揺れる。急に起き上がるんじゃなかった。
      「なになくしたの?」
       変化のない口調で変換のない文章を打つ。だんだんめんどくさくなってきた。
       別に、好きってわけじゃ、ないし。
       やはり既読はすぐについた。返事もすぐ返ってくる。
      「さいふ」
       変換しろよ。小さくつぶやいた。
       
       彼というのは、あくまで人称代名詞的役割を持つ広義な意味での彼であって、特別な人間関係を示すものではない。
       大学2年生である彼と私。学部も違うしサークルも何もかも違う。けれど、なにかの縁で知り合ってから、お互いに話をしたりすることが多くなった。
       学部が違うといっても、学ぶ内容が同じだったりすることもあって、そういった話をしたりもする。むしろそういうことの方が多いかもしれない。権力についてとか、文学についてとか、ソクラテスとか、そういう。
       彼を何度か家に入れたこともある。私は大学近くにひとり暮らしをしているが、彼の方はどこかからかほどほど時間をかけて電車でこっちまで来ていた。家でくつろいで、基本的には終電で帰っていくのだが、過去には2回ほど家に泊めたこともある。その場合は事前にいつ泊まるという情報をくれているので、私はそれに合わせて簡単にスケジュールを整えるだけで済んだ。気が利くというか、ある程度しっかり私の都合も考慮してくれる。
       彼にも私にも、少し前まで恋人がいた。私の方が少しだけ彼のところよりも早く破局しているが。私の方は大学に入ってから何でか付き合ってしまった相手で、一年経たないうちに終わってしまったのだが、彼のところはそうではない。彼は高校時代からの付き合いがあったらしく、つまり青春時代の大半を共に過ごした相手との終焉だった。
       破局の直接的な原因は、今でも私も彼もわかっていない。私はいい加減な付き合いをしていたし、とりあえずめんどくさくなって恋人関係を絶ったのを覚えている。その後私の元彼氏にはすぐかわいい娘が彼女として寄り添っていたので、すんなり忘れることができた。たぶん、別に好きってわけじゃなかったんだと思う。いや、好きだったんだけど、相手の求めるものと違ったというか。
       彼の方は、どうだったんだろう。仲もよさそうだったから、私にはどういう経緯で別れたのか予想もできない。彼の方はそれを気にしているような素振りを見せてもいるし、気にも留めていないような態度を見せたりもする。実際のところ彼にもわかっているのか怪しい。どうして破局したのか。後悔をしているのか。きっと、彼にとってもそこはどうでもいいことなのだろう。それは私にとっても同じである。
       別に、好きってわけじゃ、ないし。
       
       インターホンが鳴る。スマホを枕元に置いて、立ち上がった。立ちくらまないようにゆっくりと起きる。別に、少しくらい放っておいても帰ったりしないだろう。
       うんと伸びをする。両腕のつけ根がピリピリした。背中を反らせば反らすほど体に走る電流は熱く早くなる。
       玄関へ足を運ぶ。右手で鍵を外して、そのままドアを開ける。覗いたりはしない。どうせ相手が誰かはわかっている。
      「よう」
       彼だ。
       とりあえず合流したいという彼からの連絡。彼にしては比較的直前になっての連絡だったので、文面から申し訳なさが含んであった。特に予定もなかったので「いいよ」とだけ返事をして、その数分後の来訪。
      「どうぞ」
       彼の簡単な笑顔に応えるよう、私も簡単に笑顔を作って彼を招き入れる。彼がドアを支えたところで私は取っ手から手を離し、前傾姿勢を解除して体勢を立て直す。
       ふらっとした。寝起きだからか。思わずくらりと斜めになった背中を、とんと何かが支える。壁ではない。温かみと、限りのある厚みが感じられた。
      「大丈夫か?」
       背中には彼の体がある。都合よく私の背後に立っていたのだろう。
      「あぁ、ごめん。大丈夫」
       体が安定した分、頭のぐらつきが少しだけ大きくなる。
      「寝てた?」
       軽く私の左の腰を腕で支えながら、彼が尋ねた。
      「そりゃもう、だらだらと」
       寝てたというか、寝転んでただけだけど。
      「ごめんな、突然。もう少し時間空ければよかったか」
      「いやいや」
       私は否定する。
      「たぶん、君が来なかったらずっとごろごろしてたし」
       それで、きっと夕ご飯の準備をしようと立ち上がったところで貧血をこじらせて情けなく地面に伏していたことだろう。その前に軽くひっくり返っておけたからよかったのかもしれない。
      「そりゃよかった」
       彼が答える。
       しばらくの沈黙があって、私は彼に問いかけた。
      「あのさ」
      「うん?」
      「いつ、起こしてくれるの?」
       私の体は、彼にもたれたままだ。
      「あ、そっか」
       彼はよいしょと声を漏らして私の体を直立に立て直す。
      「いや、そっちが落ち着いたら立つもんだと思ってたからさ」
      「あ、そっか。私は起こしてくれるの待ってたんだけど」
      「難しいもんだな」
       少しの長さ触れていただけで、背中の熱がほんのり高くなる。彼の鼓動の余熱。
       うーん。確かに、彼が起こしてくれても私のふらふらがまだ治ってなかったらまたくらくらするだけだしね。私基準で立ち直るべきだったか。後悔。
       ちらりと振り返る。少しだけ彼は眉をひそめていたが、私と目が合うとほんのり口元を弛ませた。きっと私の体調を心配して困り顔をしていたのだろう。なんて、自分にとって都合のよい解釈。実際彼はやさしいから、そうだとは思うけど。
       
      「財布をなくしてね」
       彼は言った。
       適当に用意した座布団を彼の足元に滑らせ、愛想なくどうぞと言う。彼はそれを聞いてから感謝の言葉を述べて、座る。リュックをそのそばに、彼の体にもたれるように置いた。
      「どこで?」
       私はポッドに水を入れる。じょぼじょぼと激しく音を立てて水に満たされていく。一定量に達しそうになったところで蛇口を閉めて、勢いを落とす。とぽとぽという優しい音になってから、ちょうど内側の線のところまで水が達したことを確認する。コンセントのつながった、床に置いてあるポッドの半身にはめ込んで、スイッチを押す。ぼこぼこと音を立てて見ずに熱が加わり始めた。
      「うーん、どこかは見当もつかなくてね」
       だめじゃん。
      「っていうのも、落とした感じがしないんだよね」
      「は?」
      「財布使ったときはしっかり手に持ってたし、ちゃんとリュックに入れたからさ」
      「そうなるとリュックの底に穴が開いてたとしか思えないんだけど」
       ポッドの音が大きくなる。
      「リュックはご覧の通り、無事なのよ」
       彼はリュックを寝そべらせて、その底面を私の方に向ける。当たり前だが、穴は開いていない。
      「可能性があるとしたら?」
       彼は少し考え込んだ。
      「授業前にスーパー寄って飲み物買ったから、その辺かなぁ」
       私の家は、大学とスーパーマーケットの間に位置している。
       駅近くのスーパーは主婦に優しい値段設定がなされていて、場所によっては駅を使ってでも市外から買い物に来た方が安くなったりするらしい。そのため、ここの駅にはよく筋トレさながら腕をスーパー袋の重みでぷるぷるさせているおばさまたちを見かける。
       その安さから、主婦だけではなくひとり暮らしの大学生、そして実家生の大学生にすら重宝されているのだ。彼もその利用者のひとりだったわけである。
      「ってことは、そこに行けばいいよね」
      「まあ、そうなるね」
      「行ったの?」
       彼はスマホを胸ポケットから取り出す。
      「電話はしてみた。今のところないって」
      「ふむ」
       ポッドが声を上げる。お湯ができた。彼に聞く。
      「何飲みたい?」
      「ココア」
      「ねぇよココア」
      「おい嘘だろ」
      「嘘も何も、もう夏だしね」
      「夏こそ、アイスココアでしょ」
       それをポッドでお湯沸かした人間に言うのか。
       しかし、うーん。
      「そういうこと言われると、ココア飲みたくなるよね」
       ココア飲みたい。
      「だろ?」
      「ココア飲みたい」
      「じゃあ、行くか」
       彼は立ち上がる。
      「え、どこに?」
       あなた今来たばっかでしょ。
      「どこって、スーパー」
      「は?」
      「ココア、買うぞ」
       いやお前誰だよ。
      「お湯、沸かしちゃったんだけど」
      「もっかいそれに差しとけば保温されるでしょ」
      「ってか、飲みたいのってアイスでしょ」
      「じゃあホットでいいんじゃない?」
       なんだそれは。
       
       そういうわけで、いや、どういうわけだ。
       私と彼はココアを求めるべく、家を出たのである。
      「ココア好き?」
      「別に好きってわけじゃないけど」
       言われたら、飲みたくなるでしょ。
       玄関を出て、鍵を閉めて、彼の一歩前に出て外へ出る。
       だいぶ夏らしくなり、梅雨の湿気を残しながらも今日は晴れていた。もう夕方5時を回っていたが、空はまだ青く濁っている。
       工事の進む道路。最近になってやたら騒がしくなった。うちのマンションの裏でもガガガガやってるし、マンションを出てすぐのところでも薄汚れた作業着のおじさんたちが汗水たらして何かをしている。具体的に何をしているのかはわからない。とりあえずパイロン立てて、その内側でドリルを駆使しているというだけ。
       工事の音がうるさい間、私は特に言葉を発さなかった。彼も同じである。今何を喋っても、何も伝わらなさそうだ。
       彼の方は気を利かせて工事現場が近い間は話をしなかったのだろう。工事の音が薄れ、かすかな風の音がしっかり聞こえるようになった瞬間、彼が話をしてくれる。
      「悪いね」
      「なにが?」
      「ココア」
       ほんとだよ。
       とは言わない。
      「いいよ、私も飲みたいし」
       残念ながらこれは事実である。
      「お金は返すからさ」
      「財布ないでしょ」
      「あ、そうだった」
       ふたりで笑う。風はぬるい。
       恐ろしいほど大学に近く、恐ろしいほどスーパーに近い我が住処。そこを出てほんの3分ほどで、目的地へ着く。
      「サービスカウンターのおばさまには否定されたけど、実際に店内を確認したいしな」
      「そうだね。立ち寄ったのが2時間前とはいえ、まだあるかもしれないし」
       直前で信号が赤になる。渡ろうとした私の手を彼が引く。
      「待て」
      「なに?」
      「赤だ」
      「知ってるけど」
       車ないし。
      「万が一がある。撥ねられるなら俺がいないときにしてくれ」
       それも変な話だな。
       彼が手首を開放した。
      「わかった。君の前では死なないようにするよ」
      「ありがとう」
      「私も気分悪いしね」
      「うん?」
      「君の前でぐちゃぐちゃになるのは」
      「女子か!」
      「いや、そういうあれじゃなくて」
      「ふむ」
       彼は少し考え込む。
      「確かに、知ってる人の前で無様な姿を晒したくはないな」
      「でしょう?」
      「それが好きな人なら、なおさら」
       私は彼を見る。彼は私がいう前に続けた。
      「深い意味はない」
      「知ってる」
       青になったのを確認して、私と彼は信号を渡る。
       
       彼がここで落としたとすれば、確実にレジを通過した後のスペースだろう。つまり、買ったものをバッグなりビニール袋なりに突っ込む、あのスペースである。
       入り口から入ってすぐのところ。彼が少しだけ早足で、自分がリュックを下ろしたであろう場所へ向かう。
       見てすぐ結果はわかったけれど、一応私は彼のところに近寄らず声をかけた。
      「あった?」
       こちらを向いて、肩を落として首を振るポーズ。まあ、そんなとこにあったらすぐパクら
      れるか、サービスカウンター送りだよね。
       目的はココアであったが、ふたりでだらだらと店内を回る。
      「トイレットペーパーがやすい!」
      「いや、うちあるから十分」
      「やってみたくない?」
      「なにを?」
      「トイレットペーパー持たされる、奥さんに弱い旦那様の図」
       世のパパたちは何もトイレットペーパーを持たされるだけが仕事ではないのだが。
      「いらないから。何か買ってもいいけど、君にとって役に立つものね」
      「たとえば?」
       たとえば?たとえばってなんだ。
       私が悩んでいると、彼はまたぱたぱたと別のコーナーへ歩いていく。ウェットティッシュ。
      「いらないでしょ」
      「役に立つ!」
      「言い方が悪かったね。体内に吸収できるもので」
       そういえば、ウェットティッシュは本当に切らしていた気がするな。彼がいなくなったのを気にも留めず、私はそこで少し立ち尽くし、念のため持っていたスーパーの買い物カゴに、箱?入りのウェットティッシュをひとつ落とす。
       彼が遠くの方に見える。目を光らせている、ように見えた。彼は棚に手を伸ばす。こちらを振り向く。手に取ったもの。紙コップ。食えるものっつったろ。
       彼がこちらの方へゆっくり足を運んだ。それを確認して、私は彼から離れる。彼よりも早足で。距離が開く。彼が顔をしかめて足を速めた。私も加速する。逃げろ。
       店の中で大学生が追いかけっこ。ひとりはカゴ持って。もうひとりは紙コップ片手に。あるから。紙コップうちにあるからっていうか基本的に来客時はそれ用のカップ使ってるから。紙コップなんて外で何か飲むときしか使わないから。やめて。来ないで。それ以上使い道のないものを増やさないで。
       走り始めやがった。驚いて私もダッシュする。店内は走らないで下さい。夕方という時間帯のわりに人は少なかった。走るのに物的障害はない。すれ違いざま従業員のおば様がなにか言ってるくらいで。
       人は少ないが、店の商品棚は入り組んでいる。そのため、鬼ごっこには最適だった。ときおりポテトチップスの隙間から相手の位置を確認するのが精一杯で、とりあえず逃げるのが最優先。
       なんで逃げてるのかは謎。彼の手から紙コップを取り上げて「だめ」とひとこと言い放ち棚にコップを戻せばいいだけの話。でもなんで逃げてるんだろう。理由はわからない。理由自体ないのだろう。楽しくなってきた。私は彼と戯れたいだけなのである。
       外国のお菓子みたいなコーナーに入ってくる。何語か読めないような商品名。後ろを振り返ると、商品の隙間から彼の歩く姿が見えた。
       向こうは気づいていない。私は急ぎ足で、しかし慎重に棚の端まで移動する。彼の様子を伺うことにした。彼の手にはリセッシュ。あいつ、紙コップ飽きたな?
       こちらの方へ歩いてくる。お菓子のところで立ち止まり、しばらく商品を眺めていた。大きめの袋を手にとって、代わりにリセッシュをその空きスペースに入れる。リセッシュの場所はそこじゃない。
       あの位置。そしてあの袋。私は見覚えがあった。遠くからなのではっきりとしないが、おそらくあれだろうという心当りがある。レーズンをチョコレートでコーティングしたもの。それが200g。重さがおかしい。そんな量食えるか。
       私が動いたのに気付いて、彼が足を速める。
      「これ!これ食べたい!」
      「ふざけんな!」
      「なにが!」
      「量が!おかしいでしょ!」
      「おいしいかもしれないだろ!」
      「食べ切れるか!」
      「何日かに分ければいいだろ!」
       こいつ、レーズン食べるためにうちに通うつもりか。
      「レーズンはだめ!」
      「何ならいいんだ!」
      「私の食べたいもの!」
      「どれだよ!」
      「さあ!当ててみなよ!」
       うるさい大学生ふたりである。
       
       結局、外国のお菓子コーナーをぐるぐる回りながら、彼がお菓子を選んで私を追いかけて、私の気に入ったものじゃないとわかると次の周回時に別のお菓子を持ってまた追いかけるという、謎過ぎる遊びにかれこれ15分ほどかけて、彼の持ってきたポテトチップスによって戦争は終結した。
       その後ふたりで本来の目的であったココアの前で「森永がいい」とか「牛乳は明治だ」とか、「牛乳は家にある」だとか、そんな感じのことでまた争いになり、家に着いた時には午後7時を回っていた。
       何事もなかったかのように家にあった牛乳を温める。彼にはホットミルクでつくったココアを出した。私は、いくぶんか飲みやすいように冷めていたお湯をポッドから注いで作ったココアを飲む。
      「うすい」
       私が漏らした。
      「そしてぬるい」
      「誰のせいだよ」
      「君が追いかけてくるから」
      「君が逃げるからだろ」
       そっか。
       しかし、ぬるい。対して彼の方は、なかなか飲み進められていなかった。
      「猫舌だっけ?」
      「いや、そういうんじゃなくて」
      「熱すぎた?」
      「冬なら飲めた」
       そりゃ、夏だしね。
      「はい」
       彼がカップを私に差し出す。彼専用になりつつあるそのカップの取っ手は、少しだけ私には使いづらい。
      「もういらない?」
       私が尋ねる。
      「違う。飲んでみろ」
       彼からカップを受け取った。彼の手はまだ伸びている。視線は私のカップ。
       私はぬるいお湯ココアを彼に渡す。ほぼ同時にふたりで口をつけた。
       カップの淵に口をつけたものの、鼻の息でココア表面の熱気がもわりと顔面に昇ってきて、ココアを口に含もうという気が失せた。
      「冬なら飲めたかも」
       私はカップを置いた。彼の方は何度かココアを口に運んでいる。飲み込むたび妙な顔つきになり、こちらを見てきた。
       彼もカップを置く。そしてひとこと。
      「うすい」
      「うん」
      「そして、ぬるい」
       ふたりで笑う。
       
       激闘の末買った謎のポテトチップスをふたりでテレビを見ながらだらだらばりばり食べていて、気付けば時刻は9時を回っていた。
       先述の通り彼は電車を利用してこっちまで来ているので、帰りの電車には細心の注意を払わなければならない。「んおっ」という情けない声を漏らして、ベッドに寄りかかっていた彼はスマートフォンで時刻表を調べる。
      「そろそろ出るかなぁ」
      「んー」
      「ごめんねなんか」
      「いいよー、楽しかったし」
       おかげさまで、外国のポテトチップスは意外とヘルシーだということを発見できたし。日本のものであれば袋の内側が油でべとべとになっているが、今日買ってみたものはかなり油は控えめで、まさに素材の味を生かした商品になっていた。塩分量も、日本のものより割合は少ない。
       彼が立ち上がったので、私も立ち上がる。彼が玄関へ歩くので、私もそれを追いかけた。
       彼が靴をはく。随分見慣れた光景。実際にそれほどまで見慣れているわけではない。ただなんとなく、彼の靴の履き方を覚えてしまったような気になっているだけだ。
      「電車ある?」
      「ああ、まだ終電じゃないしね。乗り遅れても帰れる」
      「もしダメだったら戻ってきなよ。泊めるから」
      「ありがとう」
       冗談を言った後で、彼が私から目を話そうとしたとき、視界が揺らいだ。
       あ、まただ。
       ふらり。
       とん。
       彼の胸。
       沈黙。
      「……本日2回目」
      「ごめんて」
       体は起こせない。
      「貧血かな。食べてるか、ご飯?」
      「ご飯はわりと」
      「それにしちゃ痩せ過ぎだ」
       彼の手が少しだけわたしの腰を叩く。
      「うるさいなぁ」
       彼の胸の中で笑う。少しだけ苦しい。
      「起きれそう?」
      「まだ無理そう」
      「そっか」
       
       妙に体が熱い気がしたので、外の空気に触れたくなった。玄関までの予定だったけど、彼を駅の方まで送ろうとする。
       アパートを出た。涼しい。これからもっと冷えるのかな。服を考えないと。油断しては、風邪を引きそうだ。
      「涼しいな」
      「そうだね」
      「風邪引くなよ」
      「君こそ」
      「俺はほら、元気だから」
      「ならいいけど」
      「ちゃんと寝ろよ?」
      「君こそ」
       なぜだろう。
       なぜかはわからない。真っ暗闇の中でわかるはずもなかったのに、なぜか私にはなんとなくわかってしまった。
       彼の財布が、落ちている。
      「ねぇ」
      「うん?」
      「あれ」
       私は財布を指す。
      「どれ?」
       彼にはまだ見えていないらしい。
       彼の手を取って、財布のところへ連れて行く。よくもまあ持ち去られなかったものだ。そしてよくもまあ、何度か通ってたのにもかかわらず気付かなかったものだ。
       そこにあったのは、間違いなく彼の財布であった。それも、彼が「財布をなくした」と連絡を寄越してうちに来るまでに、彼とココアを買いに出かけたときに、彼と買い物をして帰ってきたときに、確実に気付いたであろう位置に、ぽつりと黒い財布が落ちていたのだ。
      「あら」
      「よかったね」
      「問題は中身よねぇ」
       彼は暗闇の中財布を広げる。種類までは見えなかったけど、お札がいくらか。
      「カードとかは?」
      「減ってない」
      「それはよかった」
      「ほんとにね」
       そういう彼は、あまり嬉しそうではない。
       お札の入ったスペースに、白くつややかなものを見た。
      「その白いのは?」
       聞かなきゃよかったのに、私は好奇心から聞いてしまう。
      「ああ、これね」
       彼は気にしない様子でその白い紙のようなものを取り出して私に渡した。硬い素材。プリクラである。財布に入る大きさにまで切ったプリクラ。映っているのは彼。そして。
      「元彼女?」
      「そうだね」
      「入れてあったんだ?」
      「あー、なんか捨てらんなくてね」
       私は彼にそれを返す。彼はプリクラを手にとって、しばらくの間眺めていた。言葉だけが飛んでくる。視線は白に注がれたまま。
      「もう終わったことだとはわかってるし、向こうにも新しい彼氏ができたらしいから、持っててもしょうがないんだけどね」
      「うん」
      「なんか、捨てられないのよ。わかる?」
       私は。
      「わからない、かも」
      「へぇ?」
      「そういえば、前の彼と撮ったことないかも、プリクラ」
      「そうなのか」
      「っていうか、人生で?」
       思い出せない。地元は田舎くさかったから、本当にそういう機械があったのかどうかも怪しいほどだ。コンビニですらかなり歩いた我が田舎暮らしの中、そんな文化が浸透しているとは思えない。
      「大切なもの、ないの?」
      「ん?」
      「前の彼との、思い出みたいな」
      「ない、かも」
      「そっか」
      「別に好きだったわけじゃないと思うし」
      「なんじゃそりゃ」
       彼が笑った。
       
       彼を駅まで送り届けて、家に戻ってくる。妙にもやもやした気持ちが胸に残った。立ちくらみはもうない。けれど、頭を壁に打ちつけたい衝動に駆られる。それだけこのもやもやが、気持ち悪かった。
       シャワーでも浴びようか。それすら面倒くさくなる。明日朝早くないし、朝起きて汗がひどかったら浴びよう。いや、ひどくなくても浴びるべきか。女子として。
       いや、別に、誰に触れられるでも、誰に好かれるでもないこんな体、ほっといてもいいんだけど。
       それでも、洗わなきゃいけないと思うのは何でだろう。
       彼の熱が蘇る。一瞬変な考えがよぎって、頭を振り払った。
       彼のため?そんなばかな。
       ベッドを見る。さっきまで私が座っていたから、ベッドの上にはクレーターができていた。床に敷かれたクッションには、彼の残した座り跡。なんとなくクッションに触れて、こんなに柔らかかったっけと思う。
       クッションを手にして、ほこりを軽く叩く。ベッドに寝転んで、クッションを抱いた。
       別に。
       クッションに顔をうずめる。熱が蘇る。
       
       「撥ねられるなら俺がいないときにしてくれ」
       「知ってる人の前で無様な姿を晒したくはないな。それが好きな人なら、なおさら」
       「それにしちゃ痩せ過ぎだ」
       「あー、なんか捨てらんなくてね」
       「大切なもの、ないの?前の彼との、思い出みたいな」
       
       うるさいなぁ。うるさい。うるさいよ。
       クッションを顔から離して、再び腕に抱く。真空状態にする勢いで、強く抱きしめる。少しだけ自分と違う匂いがした。
       どうでもいいよ、彼が今どんな気持ちだって。あー、もやもやする。いらいらする。
       寝よう。そうして起きたら、きっと何もかも忘れてるから。
       電気を消す。スマホが震えた。暗い部屋で通知ランプが光る。画面を覗く。「無事電車乗れたよ。今日はありがとう」のメッセージ。既読をつける。返事を返す。
      「またおいで」
       口に出ていた。スマホの電源を切る。アラームもいい。今日はずっと寝てやろう。あー、いらいらする。

       別に、好きってわけじゃ、ないし。

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      2018.01.26 Friday

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