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2018.01.26 Friday

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    イズレイト・ディスコ (20)

    2018.01.16 Tuesday

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       月曜日。楓と伊豆が出会い、楓と水出が出会った。伊豆は、この日にメモをなくした。

       火曜日。水出は拾ったメモを伊豆に返したが、それは伊豆が一番望んでいたメモではなかった。楓はそのため、伊豆からメモ探しを頼まれる。

       水曜日。楓は朝、水出に呼び出され、文藝部と中野を助けることになる。そのために彼が引き受けた仕事は、入部希望者である平井の説得であった。中野を困らせることのない進入部員になるように、文藝部の現状を話し、強い覚悟をもたせる必要があった。

       

       木曜日。この1週間、随分とイベントが盛りだくさんだなと楓は考えていた。

       最初の授業が始まるよりも前。楓は平井の執筆を応援するべく、図書館前の椅子に座っていた。楓の向かい側には、パソコンを叩く平井。これまでと違いひとりで思い詰めることがないため、これまでよりも少し作業が捗っている気がすると平井は呟いた。

      「そういえば、どんなジャンルを書いてるんだ?」

       楓が頬杖をつきながら尋ねると、平井は一瞬顔を上げて作業を中断したが、少し考えてから再びキーを叩き、楓に答える。

      「恋愛モノ、です」

       楓は驚きを大袈裟に表した。

      「へぇ、意外だな。恋愛経験は豊富なのかい?」

       平井は答えず、しかし恥ずかしそうにうつむきながら、首を振る。

       そういえば伊豆が書いているのも、恋愛モノだったな。楓は、平井に聞こえない大きさでひとりごとを言った。恋愛経験のない平井も、そもそも恋愛をしたことのなさそうな伊豆でさえも、恋愛小説を書こうとしているのだ。まだ朝の風は寒いが、春が近づいているという証拠かも知れない。楓はそんなことを考えた。

      「しかし、経験がないのに恋愛小説なんてよく書こうと思ったな」

       平井はタイピングの指を止めない。

      「そうですね……。それしか書けないっていうか、なんていうか……」

      「うん?」

      「いえ、その、あまり期限もないというか、早く出して、早く入部したいですから。あんまり選んでいられないっていうか」

       口ごもる平井を見て楓は、改めて彼は人付き合いが苦手なのだと感じた。同時にふたつのことができないのだ。タイピングと同時に喋ることに慣れていない。さらにいえば、自分の言葉を考えながら、相手が今、いったいどのような気分になっているのかを考えることができていないように見えた。相手の気持ちを推測する。話をする。これらを平行して行うことに不慣れなのである。執筆作業に限らず、スマートフォンを触りながらのおしゃべりも苦手なのだろう。

      「それでもえらいもんだぜ。ちゃんとメモまでつくって、書こうってんだからさ。予定通りに書けてるかい?」

       楓は、言葉の区切りを普段よりも意識しながら平井に話しかけた。褒める。褒める。質問する。自分の発言がいったい何を意図したものなのかを、可能な限り間を置いて、平井にもわかりやすいように話していた。

      「どうでしょうね……。そもそもこのメモも完全じゃないですから。あまり先のことを考えていなくて。とりあえず、メモの内容だけでも文章にしてしまおうって、感じです。そこから先は……今書いてる分が終わったら考えます」

       平井は渇いた笑いを挟みながら言う。自嘲的な笑いである。しかしそれは、楓のように割り切って、自分が笑われるためにまず自分が一番自分を笑うというようなものではない。小説を書きながら、いったい自分は何をしているのか。そんなことを考えて、自分の価値を、高いとも低いとも考えられていない。そんな状態であった。

       楓はそれに気づいたが、今はそこに指摘を入れている場合ではない。平井がどれだけ自分を価値あるものと、あるいは価値のないものと見なしたいとしても、今はとにかく、彼は作品を完成させなければならなかった。

       しばらく沈黙が流れる。楓はあえて間を作っていた。平井は作業に集中している。楓に目を向けることはない。仮に平井が沈黙を気にし始めたら、楓の表情を伺うか、作業しながら何か呟くはずであった。楓の予測では、平井は後者のようなことができない。もし平井が居心地悪く感じ始めたら、彼は楓の方をちらりと見るであろう。自分は少し息苦しくなってきた。彼はどうだろう、見てみよう。こういった具合である。

       平井の目が自分の方へ向けられるとわかったとき、楓は平井に悟られぬようにすばやく視線を逸らし、平井が楓を見たときに、ちょうど楓も平井の方を見た――偶然目が合ったように見せかけた。ちょうど楓も話しかけようと思ったのだ。そのように感じさせ、平井を安心して受身にさせる。

      「そうそう。昨日相談? っていうか、話をしてもらっただろ。登場人物に順位づけをしちまうってさ」

      「ええ、そうですね」

      「文藝部に伊豆ってのがいるんだ。今のところ唯一の男子部員、だったかな。そいつの話なんだが……」

       執筆に飽きたのか、平井は楓の方に体を向けて、彼の話を聞いた。視線はときおりパソコンの画面に逃げている。

       楓は、伊豆からのアドバイスを、可能な限り順序をそのままに繰り返した。伊豆のように――流れるように話すのではなく、人の話を聞くのに人一倍疲れやすい平井のために、文を区切りながら伝えた。

       平井は頷きながら楓の話を聞く。真面目なやつだと、楓は思った。あいつは平井ほど真面目に楓の話を聞いてくれない。少しは見習って欲しいものだ……。そこまで考えて、楓は首を振った。富木智香のことは、考えないようにしなければ。彼女と、それ以外を、比べないようにしなければ。

      「そうそう。読者の目線になっちまってるってことは、単純に慣れてないってのもあるだろうけど、作品を、自分のものとして感じ切れてない証拠かもしれないともいってたぜ」

       平井の表情が凍る。しばらくしてそれは溶け、平井はパソコンに目を落とした。

      「なるほど……。自分の作品にできてない、ですか。そうなのかもしれませんね。だから、話も完結しそうにない」

       平井は考え込み始めた。

      「楓さん」

       平井は楓の方を見ずに、彼の名前を呼んだ。呼ばれたのは始めてかもしれない。楓はそんなことを思った。

      「今書いているところまで、話をします。そのあと、どういう展開にしたらいいか、一緒に考えてみませんか」

       楓は口元を歪める。

       もともと目当てが文藝部ではなく伊豆だったからというのもあるが、楓は物語を書きたくない、考えたくないために、文藝部への入部を諦めたのであった。それなのに、水出に頼まれ、平井の隣で彼を応援し、今、今後の展開を一緒に考えないかと言われている。

       考えることから逃げたつもりが、結局考えることになった。楓は鼻で息を吐く。やれやれ、結局逃げられないのか。楓は小さく笑った。

       幼馴染みから、富木から離れるために逃げてきた世界で、結局彼女と誰かを比べてしまう。この世界に逃げ場などないのだ。彼にはそれがわかっていた。だからいっそ、世界から逃げようとした。しかし、それでも……。

      「俺は平井と違って本を読む方でもないが……。わかった、すこーしだけ、考えてみようぜ」

       

      「バカなのか?」

       その日の昼、たまたま学食で楓と鉢合わせた伊豆は、楓から今朝の話を聞かされることになった。

       普段ひとりで食事をするため、向かい側に人がいる状態で食事をするというのに違和感を感じながら、伊豆は黙々と、バランスよく食べ進めていった。漬物の歯ごたえを普段よりも心地よく感じている自分に気づき、それが、誰かと食事することによる副作用なのではないかと考えてしまった伊豆は、その考えを砕くように、より強く白菜を噛んだ。

       楓のカツカレーはなかなか進まない。楓は食べながら喋るのだけは苦手だった。こうなってくると、バランス配分の問題だからである。考えながら喋るのは、頭と口を同時に使えばいい。しかし食事と話は、どちらも口を使う。そして楓には、口がひとつしかない。スプーンを持った右手は言葉に合わせて頻繁に宙を舞うが、カレーの海を潜ることがなかった。

      「まあ、そんなわけでね。お前みたいに、平井も恋愛モノを書いてるわけよ。何かアドバイスとかない?」

       昨日もこんな話をしたなと思いながら、楓は伊豆の反応を見る。顔は上げない。食事のペースも落ちない。しかし、会話は途切れない。楓は不思議な気分になった。そして伊豆も、不思議な気分になっていた。

      「俺はそもそも自分の実体験ではないうえ、完全な作り話というわけでもないからな。あくまでも、誰かの実体験を一捻りしたものにすぎない。俺には恋愛のよさがわからないが、そいつの話が興味深いとは思った。だから書ける。書き続けられる」

       メモがないため、現在筆は止まっているが。伊豆も楓もそう思ったが、口には出さなかった。

      「平井がどうして、恋愛モノを選んだのかはわからない。入部希望を出してからだいぶ経っているのなら、そろそろ入部したい、そろそろ書き終わりたい。そういった気持ちもわかる。だがしかし、書き手は物語に興味を持ち続けていなければならない。登場人物に、敬意を払わなければならない。読み手として、登場人物にランク付けをしてはならない。不要な登場人物が、いてはならない。どれだけ目立たなかろうと、そいつがいることで物語が進むのであれば、等しく、感謝しなければならない」

       喋りながらも食事のペースが落ちない伊豆を見て、楓は器用なものだと感心する。

      「まあ、とにかく」

       楓は、伊豆の手元から顔へと視線を上げた。

      「平井の書いてる話に興味が持てなければ、俺は具体的なアドバイスができんな。どうせお前は、ロクなアドバイスができなかったんだろう?」

       楓は苦い笑いを浮かべる。伊豆の言う通り、協力を引き受けたはいいが、楓は平井の創作の手助けとなるようなアドバイスは何ひとつできず、あらすじのようなものを聞くだけに留まってしまったのだ。そこに都合よく伊豆がいたために、楓は彼に声をかけたのである。

      「あらすじっていうか、世界観っていうか、なんてーか……。ほんとに書き進んでなくって、序盤も序盤って感じなんだが、こんな感じだ」

       楓は、数時間前に平井の口から、あるいは彼の書きかけのワードから読み取った、入部用の作品のあらすじを、伊豆にそのまま伝えていった。スプーンは相変わらず、宙を舞うばかりである。

       長くなる予定はなかった。平井が自分で言っていたように、そもそもまだ書き始めなのである。桃太郎であれば、まだ桃太郎が生まれたばかりの段階であろう。まだ何も始まっていないようなものだった。

       しかし、伊豆の反応は、楓の予想とは大きくかけ離れたものであった。喋りながらも器用に箸を動かしていた伊豆の手が、話を聞く段になってぴたりと止まったのである。

       随分と真剣に、親身になって聞いてくれるんだなと思った楓が、止まった伊豆の手から視線を上げると、そこにはいつもの伊豆の顔があった。機嫌の悪そうな、伊豆玲斗である。

      「――どうかした?」

       楓は尋ねる。ようやくスプーンをカレーに沈めた。

       伊豆は冷たい顔をして、楓に圧力を送る。すくいあげたスプーンは宙で止まり、大口を開けた楓は、その表情を察して凍りついた。

       食品サンプルどころか食事中の人間のサンプルにでもなったかのように固まった楓に、伊豆は冷たく尋ね返す。

      「平井は今、どこにいる?」

      イズレイト・ディスコ (19)

      2018.01.15 Monday

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         水出穂乃が目を覚ますと、少しだけ彼女の世界は変化していた。

         世界が横向きになっている。というか、自分が横向きになっている。眠っていたのだろう。直前の記憶は何だったか。そうだ、深呼吸をしたら――。伊豆の香りを嗅ぎすぎたのか、それ以降の記憶がなかった。

         体を起こす。冷えたベンチ。痛む体。どれだけ眠っていたのか、どれだけ気を失っていたのかはわからないが、春になりきらないこの時期に外で寝るものじゃないなと、水出は思った。

         横を向く。伊豆がいた。

        「伊豆くん……?」

        「目を覚ましたか」

         水出は頷く。

        「本当はもう少し安全な場所で眠らせてやりたかったんだが、俺と楓じゃ、そう遠くまで運べなくてな。そこが精一杯だった」

         水出は後ろを振り返り、作業中の伊豆に声をかけた場所が遠くにあるのを見た。ふたりがかりで運んでもらったことを申し訳なく、そして恥ずかしく思ったが、水出はそれよりも気にかかることがあった。

         水出穂乃が目を覚ますと、少しだけ彼女の世界は変化していた。

         彼女の嗅覚が、やや鈍くなったような気がしたのである。

         

         息を吸う。伊豆の香りがする。それは変わらない。しかし、これまでの彼女は、伊豆の香りだけではなく、世界のあらゆる香りに敏感になっていた。つまり、彼女が今いる図書館前のベンチでは、池のにおいや木のにおい、外のポストの投函されている本のにおいがするはずである。しかし、彼女はそれが、以前ほど過敏に感じられなかった。

         水出穂乃は、嗅覚が普通に戻ったのだ。しかし、伊豆の香りに対しては、依然として敏感であった。困ったものだと、彼女は息を吐く。

         それに、少し気分が昂っている気がする。寝て起きてすっきりした、そういう類のものではなく、テンションがハイになるような感覚。

         水出の嗅覚は、壊れてしまった。伊豆玲斗の香りを近距離で多量に吸い込んでしまったため、彼女の嗅覚はパンクしたのである。その結果、彼女の「伊豆玲斗以外に対する嗅覚」は以前と同じ程度――通常の人間の程度にまで戻ってしまった。伊豆に対する嗅覚は、変わらずである。彼女の嗅覚が壊れた――元通りになった原因は伊豆の香りであったが、その伊豆の香りに対する感覚は、やや感度が下がったとはいえ、敏感なままだったのである。そして、これまではその他のにおいの混同によって和らいでいた伊豆の香りが際立ったことにより、彼女は少しずつ、ハイになっていた。

        「そうだった。メモを探してほしいのよね?」

         思い出したかのように問う水出。いきなりの言葉に伊豆は少し驚いたが、冷静に「ああ」と返事をした。

        「私がこの間返したものは違ったとして――あとどれくらい、メモが必要なの?」

        「2枚だ。あと、2枚足りていない」

        「創作のメモ、なのよね?」

        「ああ。あれがないと、書けない」

         水出は、自分の嗅覚の変化に気づいた。伊豆への感度は高いままであり、その他については通常通りになってしまったこと。しかし、今の水出にとって、これは好都合であった。伊豆の香りだけを何倍にも膨れ上がった状態で認識できるのである。メモの紙のにおいはわからなくとも、メモについた伊豆の残り香はわかるはず。そうであるならば――。

        「すぐにでも協力してあげたいところだけど、そうだったわ。私、授業があったの。もう始まっちゃったから、急がないと」

        「ああ」

         水出は息を吸い込む。伊豆の香りには敏感だが、先程のように、意識を失うほどには高くない。今後伊豆の前で倒れることはないだろう。

        「ありがとう、伊豆くん。それじゃあまた、メモが見つかったら」

         水出穂乃は立ち上がって、授業の教室へ走る。話はまだ終わっていない。中野のことについて、もう少し話が聞けたかもしれなかった。しかし彼女には授業がある。伊豆の連絡先はわからない。次にいつ会えるかはわからなかった。しかし――。

         伊豆の香りに特化した彼女は、これまで以上に伊豆の現在地の把握が容易になっていた。大学内にいれば、どこでも追いかけることができる。伊豆の所有物――つまり残り香を強くまとったものが近くにない限り、彼女は伊豆を見つけられるのだ。

         

         取り残された伊豆玲斗は、困っていた。メモはない。話は書けない。ストックはあったが、伊豆は複数の物語を同時進行で書くことをしなかった。今書いているものを諦めない限り、あるいは、メモが見つからない限り、伊豆は執筆活動に取り掛かることができない。

         自分でメモを探すのも手だろう。しかし彼はそれを選ばなかった。気にかかることがあったのである。

         水出は、中野から話を聞いて、彼女のためにと行動している。楓もそれに協力し、水出は伊豆にも声をかけた。しかし、その中野の主張が妙だった。

         物語を書くことができない。編集作業ばかり。ネタを提供してしまった。部員たちはそれをもとに創作活動を行っている。

         伊豆は、中野が自分で何かを書いているのを見ていた。物語を書いているのを、見ていたのである。そうであるなら、書くことができないというのはおかしい。編集作業に追われているのは事実であろうが、では彼女が書いているのは何なのだ。ネタを提供し尽してしまったのなら、中野はいったい、何を書いている?

         伊豆玲斗が疑っていることは、2つあった。ひとつは、中野がネタを提供し尽してしまったこと。彼女がネタを提供していることを伊豆は知らなかったが、仮に自分が書く分がなくなってしまったのだとしたら、彼女が時折執筆しているものがわからなくなる。中野はネタを提供しつつも、ストックを抱えており、それを執筆しているのではないか。

         もうひとつ疑っているのは、そもそもネタを提供していること、それ自体であった。他の文藝部員とあまり関わりのない伊豆は、文藝部の事情に詳しいわけではないが、仮にも文藝部に入部した人間が、書くことがなくなってネタを部長に求めるなんてことがあるのだろうか。

        ネタがなくなってしまった。ネタを提供している。どちらかが、嘘だろう。伊豆は考える。噓をつく理由はどこにある? 中野はいったい、誰に対して嘘をついている?

         楓や水出と違い授業のない伊豆は、めったに訪れない場所に行ってみることにした。

         

         伊豆玲斗はドアの前に立つ。鍵はかかっていない。中に誰かいるようだ。ドアを開ける。長い間見ていなかった女が3人、座ってトランプで遊んでいた。

         女たちは、ノックもなく伊豆が入ってきたことに驚き、それを隠さないまま、驚きの声で伊豆にあいさつをする。間抜けな声だと、伊豆は思った。彼女たち自身も、そう感じていた。まさか伊豆玲斗が、めったにやってこない伊豆玲斗が、ここにやってくるとは思っていなかったのである。彼女たちは、驚かずにはいられなかった。

         伊豆は、彼女たちの名前を忘れてしまっていた。しかしそんな素振りを見せず、伊豆は一番近くに座っていた女に声をかける。

        「部長は、どこだ?」

         伊豆はドアを閉める。話しかけられた女と、他の女たちは一斉に顔を見合わせた。声をかけられた女は振り返り、返事をする。

        「いいえ。見てないわ。どうかしたの、伊豆くん?」

         彼女は、伊豆の名前を呼ぶことに、一種の喜びを感じていた。伊豆が声をかけることなど、これまでなかったからである。彼女は、今会話しているのが本当に伊豆なのかどうかを確かめるかのように、彼の名前を呼んだ。

        「いないか……。それならそれでちょうどいい。少し聞きたいことがある。いいか?」

         女たちはカードを伏せた。全員が、伊豆の方へ体を向ける。よそよそしいなと伊豆は感じた。伊豆は知らない。彼女たちは、これまでにないほど緊張していたのだ。

        「11月頃に会誌を出しただろう? そこに小説、載せたか?」

         女たちは頷いてから、3人で再び顔を見合わせる。なぜ、急にそんなことを聞くのだろうと、彼女たちは不思議がった。

        「こういう言い方をするのは失礼だが――それは、自分で考えた物語か?」

        「ええ、そうよ。自分で考えてないものなんて、書きたくないもの」

         ひとりが答えた。最初に声をかけた、ドアに一番近い部員である。

         やはり、な……。伊豆は口元をおさえる。中野は、部員にネタを提供していなかった。少なくとも、ここにいる部員たちに、ネタを提供していない。ならば、他の部員たちにネタを提供しているのだろうか。それならばありえなくはない。

        「俺は久しぶりにここに来たからわからないんだが……他の部員たちは、どうしてるんだ?」

         伊豆は数日前に――楓と出会った日、メモをなくした日にここで作業をしていたが、それを伏せて話を進めた。

         今度は、一番伊豆から遠い女が答えた。

        「伊豆くんが言ってる他の部員が、誰のことを言っているのかはわからないけど……。今文藝部にいるのは、私たち3人と、部長の中野さんと、伊豆くんの、5人だけよ。11月の会誌を出す前くらいから、ぽつりぽつりと、文藝部を辞めていったわ」

         

         文藝部は、文藝部全体で連絡をするためのネットワークを、持っていなかった。中野が部員の連絡先を把握しており、必要に応じて、中野から部員へ、一人ひとりへ伝達がなされている。ひとつのトーク・グループをつくるということが、なかったのである。

         もし文藝部が加入するグループのようなものがあったなら、部員が辞めればメンバー数が減り、誰かが辞めたことが、グループの全員にわかるようになっていただろう。しかし、そのグループがなかったために、何人か部員が辞めていたことを、中野以外知る由もなかった。ここにいる女たちのように、直接辞める現場を見ていない限りは。

         伊豆が思っていたよりも、文藝部はその規模を小さくしてしまっていた。

        「会誌を出す前から辞めていった? それなら、どうして会誌は、10人分の物語が掲載されたんだ?」

         女たちは顔を見合わせる。伊豆はその仕草に苛立ち始めたが、目をつむってそれを堪えた。

         一番手前の女が言う。

        「それは、私たちにもわからないのよ。けどきっと、中野さんが説得したんじゃないかしら。最後にひと作品くらい、書いてみたら、載せてみたらって」

         他の女は、ふたり同時に頷いた。

         文藝部は、当初の半分ほどの規模になっていた。ここにいる、伊豆と中野以外の文藝部員――平井はまだ希望者なのでカウントしないとすれば――は、最後に出した会誌には自分で考えた物語を載せた。中野は、部員へネタを提供したと水出に言ったらしい。自分は編集作業などに専念し、自分で物語を書けてはいない……。

         4月に会誌が出される。そこに載せるため、伊豆は執筆をしていた。中野が物語を書いているのも、伊豆はどこかで見ていた。

        「4月の会誌にも、自分で考えたものを?」

         伊豆は尋ねる。女たちは頷いた。嘘をついているようには見えない。むしろ、伊豆の目的がわからずに困惑している様子だった。

         4月分は、他の部員たちが自分で書くのだろう。中野はネタを提供していない。なら、中野は何を書いている? 自分で物語を書けないと言っていた理由は、何だったのだ?

         そもそも、中野が困っているという話自体が、水出の嘘なのではないか? 楓も水出に騙されているのか? あるいは楓も水出と協力して、自分を騙しているのか?

         自分が騙されているかもしれないと考えても、伊豆はショックを感じない。しかし彼は今、自分が何を信じればいいのか、わからなくなっていた。

        イズレイト・ディスコ (18)

        2018.01.14 Sunday

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          「――何してんのよ、伊豆くんや」

           図書館から出た楓は、伊豆玲斗を見かけ、珍しく彼が困惑している様子だったのに驚いた。

          「というか、何してるのかはこっちにも聞きたいところだな。おい、水出。どうした?」

           楓の目の前には、どうしたものかと悩んで身動きできないでしゃがんでいる伊豆玲斗と、彼の腕にもたれて目を瞑っている、水出穂乃がいる。

          「――とりあえず、どこかで寝かせたいところだな」

           楓は水出の脚を持って、伊豆は腕を持って、寝そべることのできる図書館前のベンチへと、ゆっくりと歩いていった。これが伊豆と楓の、初めての共同作業である。

           

          「さて、と……。どうしたんだい、伊豆くんよ?」

          「急に倒れた」

           水出穂乃は、伊豆の香りを多量に吸い込んでしまったために、現在意識を失っていた。彼女の寝ているベンチの隣にある別のベンチに、伊豆と楓は座っている。

          「まあ、どうして倒れたのかはわからねぇし、放っておくことはできないからな。しばらくここで様子を見るとして……。大学って、保健室みたいなところ、なかったっけ?」

          「あるにはある。だが、距離が遠すぎる。少なくとも、俺たちふたりで、意識のない女を持って歩くには、な」

          「リアカーとかがあればなぁ……。見てくれは最悪だが」

           楓は、本当に水出が、伊豆と図書館前で出会えたことに驚いていた。運がよかったのか、そもそも本当に、伊豆がそこにしかいないのか。しかし今は、その疑問は重要ではなかった。水出が伊豆に会いに来た理由はわかっている。

          「水出は、何か言ってたか」

          「中野の話。文藝部の話」

          「ああ、そこはちゃんと伝わってたんだな。そのあとに倒れたってことね」

          「お前も知ってたのか」

           楓は頷く。

          「なんなら、俺も水出に協力してるからな」

          「どうしてお前も水出も、そんなにお人好しなんだ」

          「お前だって、協力してくれるんなら、俺たちお人好しの仲間入りだぜ?」

           伊豆は溜め息をつき、水出に話したことをそのまま楓に繰り返した。

          「んん? 中野さんが物語を書いている?」

          「間違いない」

          「話がややこしくなってきたな……。直接中野さんを問い詰めた方がいい気がしてきたぜ。元々は、彼女に隠れていいことしようと思ってたが」

          「頼まれてもいないことをやるんじゃない。ありがた迷惑というものだ」

          「でもわざわざ、部外者の水出に話をしたんだぜ? 仮に嘘だったとしてもさ。どうにかしてほしいんじゃねぇの、部外者でも、誰でもいいから」

          「それを直接聞けといってるんだ」

          「そうだな。直接聞かなきゃならねぇかも、そのうち」

           楓は思い出したように付け足す。

          「そんで? 伊豆くんは協力してくれんのかい?」

          「メモが見つかったら考えないこともない」

          「そうでしたわね。大先生はそれどころじゃねぇか……。いやぁ、これでも結構探してみてはいるんだけどよ。そろそろ犬を雇おうと思ってたくらいに絶望的でね」

           伊豆が鼻で笑ったのを聞いて、楓は少し得意げになる。伊豆玲斗が、自分の冗談に、鼻でとはいえ、笑ったという事実。随分と仲良くなったのではないか。彼はそう感じた。

           メモが見つかっていないとはいえ、伊豆は協力の姿勢を見せた。水出は一応、目的は達成したというわけだ。そうなると、自分も平井の執筆を――。

           そこまで想いを巡らせたところで、楓は平井の悩みを思い出した。

          「そうだ。入部希望の平井ってのがいただろ。あいつ、今がんばって書いてるみたいなんだけどさ。なんか悩み事っていうか、困ってることがあるみたいでね。俺はものを書かないから答えてやれなかったんだけど、伊豆なら何かアドバイスとかあるんじゃないかなって思って」

          「平井……。ああ、いたな、そんなやつ」

          「ひでぇ言い様だな。これから同じ文藝部としてがんばっていくかもしれない仲間だってのに」

          「それで?」

           冷ややかな伊豆の言葉に、楓は鼻から息を強く吹き出す。

          「物語を書いていて、登場人物はどれも魅力的に感じてはいるんだが、自分の中でそいつらに序列をつけちまうんだってさ。好きな度合いに差があるっていうかさ。そんなん当たり前だろって気もするんだが、読み手ならまだしも、書き手がそんな感じでも大丈夫なのか、不安になってたぜ。どう思う、大先生?」

          「なってないな」

           しばらく沈黙が流れる。

          「伊豆先生。だめなのはわかったから、もう少し具体的なアドバイスっていうかさ。どうすればいいとか――」

          「一人称の形式で書いているのか、三人称形式なのか。あるいはそれ以外なのかはわからないが、いったいどの目線で書いているのかによって変わってくるだろう。一人称視点で書いているのであれば、どうしても風景描写や心理描写がその視線の持ち主――たいていは主人公だな――その人物の感情に感化されることは多くなるだろう。主人公が好きな人物なら好きになるし、主人公があまりよく思っていない人物に対してはネガティブな感情を抱くだろう。そいつの目線で、物語を進める必要があるからな」

          「……なるほど」

           楓には、伊豆が何をいっているのかはわからなかったが、とりあえず伊豆の言葉をスマートフォンに打ち込んでいた。

          「一人称視点で物語を記していながら、平井の登場人物に対する想いが主人公のそれと異なっているのであれば、それは問題かもしれない。物語を綴る目線や想いと、物語の進行を目の当たりにしている登場人物との間に差が生まれているのであれば、必ずどこかでガタがくる。一人称形式で、かつ主人公の感情に共鳴しているのであれば、何ら問題ないだろう。しかし、一人称形式でありながら視線の持ち主と異なる想いが生まれているのであれば、今からでも見直すべきかもしれない。三人称形式で好き嫌いが分かれているのならもっと問題だ。俺たちは読み手じゃない。好き嫌いは読者の感性に委ねられるべきだ。委ねるべき部分で、俺たち書き手の想いがにじみ出てしまったら、それはもはや物語ではなく俺たちの想像にすぎない」

          「物語ってのは、想像じゃないのか?」

          「似たようなものだろう。しかし、大きく違ってる。想像は俺たちの感性を元に構成されるものだ。それに対して物語は、登場人物自体の感性によって成り立つものだ。俺たちが世界をどう見るかではない。キャラクターが世界をどう見るか、あるいは、世界が世界をどう見るか」

          「……なんていうか」

           楓は途中で打ち込むのをやめていた。伊豆は怪訝そうに楓を見る。

          「お前、本当に、話書くのが好きなんだな」

           沈黙。

          「……どうだろうな」

          「うん?」

          「好きだったのかもしれない。けど、今は――」

           謎の喪失感。伊豆の周りにあったもの。それも、彼にとってかなり大事なものであった何かが、急に消えてしまったような感覚。しかも、それが何か思い出せない。伊豆の現在の感覚は、そのようなものであった。

           自分は、誰のために物語を書いていたのだろう。誰に見てほしかったのだろう。なぜ自分は、誰かの実体験を元に話を書こうという気になったのだろう。

           創作活動、執筆活動が好きだった自分。それを支えていた何かが、世界から消えてしまった。活動は止まらない。変わらず、彼は物語を書き続けている。しかし……。

           彼は今、物語を書くのが好きなのかどうか、わからなくなっていた。以前よりも、話をつくるということが、難しくなっているような気がしていたのである。

           伊豆はゆっくりと息を吐く。楓はそれが終わるのを待つ。

          「とにかく、書き手としての自覚が足りないんだ、平井は」

          「なるほどね。読み手にならないように、形式を選ぶ必要があるってわけだ」

           伊豆は頷く。

          「あまり書くことに慣れてないのかもしれないが、それだとまるで、自分が考えたわけではない話を無理矢理書かされているようなものだ」

           言いながら伊豆は、自分の言葉が自分に突き刺さる想いをした。

           自分は今、無理矢理書かされているのではないか。人付き合いの嫌いな自分が、実体験を何日もかけて聞いて、それを元に話を書こうと思ったなんて。その話はいったい、誰に見せるものなのか。ネタの提供者か? 違う。それじゃない。では、何? なら、誰?

           欠落している何かが、まさにそれなのだろう。メモは見つからない。しかし伊豆は、それ以外にもっと見つけなければならないものがあるような気がした。

           

           楓は、授業の教室へ向かっていく。打ち解けてしまった楓という存在ではあるが、伊豆はその後ろ姿を、見慣れないものだと感じながら見送った。

           水出はまだ眠っている。呼吸はしていた。名前を呼ぶが、反応はない。安らかに眠っている。しかし、あまりにも急すぎた。何だったのだ、いったい。所構わず眠る癖でもあるのだろうか。

           他人に興味を持ち始めている自分。伊豆玲斗は頭を振った。変わったものだ。あれだけ人が嫌いだった自分が……。じっくりと、時間をかけて変化したのではない。いきなりだ。楓が現われ、水出が現われた。運命に適応しようとしているかのように、伊豆自身、大きく変わっていってしまっているのを感じた。

           そもそも楓と水出という存在が、急に大切な何かを失った伊豆の変化に合わせるために呼び出されたのかもしれない。

           消えた何かは、どこにいるのだろうか。生きているのなら、今それは伊豆に、何を求めているのだろう。

           期限に余裕はあるが、できるだけ早く書いてしまいたい。しかしメモはない。それに、勝手に倒れたとはいえ、女がひとり、隣のベンチで眠っている。

           何もするべきことはない。ただ彼女が起きるのを、伊豆玲斗はぼうっと待っていた。

          イズレイト・ディスコ (17)

          2018.01.13 Saturday

          0

             楓はしばらく平井の執筆活動を応援していたが、平井が授業に行ってしまったため、ついに彼もやることがなくなってしまった。彼の授業は午後からであった。あと2時間ほど、彼はどうにかして時間を潰さなければならない。やるべき課題はない。2時間もメモを探し歩く気にはなれない。眠気が楓を襲う。眠れる場所が欲しい。そうだ、図書館。図書館ならば、横たわっても眠っていても怒られないスペースがある。そこで仮眠を取ろう。

             楓は学生証を取り出して、図書館のドアを抜けた。

             

             水出穂乃が目を覚ますと、楓と別れてから1時間ほど経過していた。スマートフォンを確認し、伊豆の連絡先が得られなかったことを知る。

             1時間足らずの睡眠であったが、彼女の目は冴えていた。体を起こす。着替える必要はない。寝ていたためについてしまった服のシワを伸ばし、水出は荷物をまとめ外に出る。

             彼女が冴えていたのは、目だけではなかった。彼女の嗅覚も、相変わらず敏感だったのである。家のドアを開けると、離れた道路を走る車のガスの臭いがしたし、そして何より、伊豆玲との香りがした。

             彼女の嗅覚は、伊豆の残り香さえも認識してしまうため、伊豆の現在地を嗅ぎ分けることまではできなかった。しかし、残り香と本体の香りの区別が、全くできなかったわけではない。詳しい場所がわかるわけではないが、伊豆のいる方角くらいであれば、今の彼女には認識できた。今、伊豆の香りは、大学の方から香ってくる。

             伊豆玲斗が今大学にいるか、あるいはそちらの方角にいるか。楓の話では、伊豆は図書館前にいるかも知れないとのことだった。図書館の方へ向かい、伊豆がいれば問題ない。もし図書館に近づいても彼の姿が見えなかったら、香りの方角を頼りに、もう少し歩いてみようと水出は考えた。

             水出穂乃は伊豆玲斗を最近まで知らなかったが、香り自体は彼を知るよりも先に知っていた。しかし伊豆はそうではない。彼女のことを、ほとんど意識していなかった。いきなり声をかけても、覚えてもらえていないかもしれない。しかし、連絡先が得られなかったとはいえ、楓が自分の話を伊豆にしただろう。今日のうちに会うことができれば、もしかしたら、記憶してもらえているかもしれない。

             香りが強くなっていくのを感じながら図書館に向かう。遠くから人影を見るよりも先に、彼女は彼の存在を認識した。いる。伊豆玲斗が、図書館の前にいる。姿は見えないが、香りは、残り香ではなく本体が、確実にそこにいた。

             呼吸の仕方に、気をつけなければならない。身近で多量に香りを吸ってしまえば、彼女はどうなるかわからなかった。気が狂うかもしれないし、意識を失うかもしれない。

             伊豆玲斗が見えてきた。脚を組んで、パソコンに向き合っている。執筆中だろうか。その最中に話しかけたら、彼は気分を害するであろうか。そうなってしまえば、おしまいだ。水出の仕事は、彼の協力を得ることなのだ。楓が平井を説得する。そして彼女は、伊豆玲斗を説得しなければならない。

            「あのっ」

             恐る恐る、彼女は伊豆に声をかけた。

             

             執筆作業中に声をかけられる経験があまりなかった伊豆玲斗は、ここ数日でそれを2回も経験することになるとは、思ってもいなかった。1度目は、楓。そして今回の2回目が……。

            「水出、だったか」

             水出はこくりと頷いた。

            「俺に用があるみたいだな。何の用だ」

             伊豆はタイピングをやめて、水出の方に体を向ける。

            「え、ええ。そうなの。ごめんなさい、作業中に」

            「問題ない。それよりも、用件を言え」

             実際、メモを失くしてしまった伊豆に、今できることはほとんどなかった。下手に完成させて、メモの内容とかけ離れてしまうのが一番の問題だ。次に会誌が出されるのは、4月。まだ時間はある。それまでにメモを見つけられさえすれば……。

             執筆について考えていた伊豆は、水出の声で現実に戻される。

            「相談したいこと、というか。協力してほしいことがあるの」

             

             中野の話を聞かされることになるとは思っていなかった伊豆は、水出が話し終えて一息つくと、すかさず質問した。

            「中野の状況はよくわかった。俺もこれまで知らなかったことだ」

             水出は、やはりなと思う。知っていてあえて助けないというほど伊豆玲斗は冷酷ではなさそうだ。楓の話と、香りの情熱から、彼女はそう感じていたのである。実情を知った今、彼が今協力してくれれば――。

            「だが、水出。なぜお前がそれを頼む? 中野にいわれるのならまだわかる、しかし、どうして、文藝部ではないお前が、俺にそんなことを頼むんだ?」

             なぜ、か。なぜ、自分は中野を助けようとしているのか。違う、中野はどうでもいい。この事件をきっかけに、彼女は伊豆と接点を持ちたかったのである。どうしてあなたはそんなにいい香りがするの? そう聞くことはないだろうが、彼と関わることで、その問いの答えを自分で見つけることくらいはできそうだった。

            「誰かが困っていたら、助けたいって思うでしょう?」

             そう返すことしかできなかったが、伊豆はそれ以上問い詰めることはしない。からかっているのではないかと、気になっただけなのである。

             困っていたら助けたくなる。伊豆にはわからない行動原理だった。そもそも彼自身、原因不明の喪失感を感じているのである。それに加え、メモまで消えた。助けて欲しいのは、困っているのは、彼であった。人を助けている場合ではない。少なくとも、メモが見つからなければ――。

            「ああ、そうだ。この間、メモを渡してくれただろう」

             伊豆は思い出したかのように水出に話題を振る。

            「え、ええ。そうね。見つかってよかったわ」

            「いいや、見つかってない」

            「え?」

            「俺がなくしたのは、あのメモだけじゃない。今必要なのは、あれじゃない。まだ、見つかってないメモがあるんだ。中野を助けるよりも先に、俺を助けてくれないか」

            「メモを、探して欲しいってこと?」

            「ああ」

             この際、使えるものはなんでも使おう。伊豆はそう考えた。

            「わかったわ。メモが見つかったら、中野さんに協力してね」

             伊豆は頷く。しかし、伊豆には先ほどの水出の話に、いくつか気にかかる点があった。

            「まず、中野が執筆していないという話だったが」

            「ええ」

            「彼女は、書いてるぞ」

            「え?」

            「どういうわけか、会誌に載ることはないんだがな。さっきの話だと、まるで中野が編集作業ばかりしているような口振りだったが、中野自身、物語を書いているのを見たことがある。それも、そんなに前のことじゃない」

            「……それじゃあ、中野さんの話は、どういうこと?」

             水出穂乃は、混乱した。

            「他の文藝部員が話を書いていないということは、当然、俺は知らなかった。会誌には、きちんと名前が記されていたからな。まさかそれが、中野から提供されたネタを元に書かれていたものだとは、知りもしなかった。部員たちが、自分で書いてるものだとばかり、思っていた。しかし、実際はそうではなかったんだな。そして、提供してしまったためにネタがなくなって、中野自身は物語を書けなくなった……。そこが引っかかる。ならば彼女は、何を書いていたんだ? あれは編集作業じゃない。1から文章を作っていた。編集後記か? いいや、そんなもんじゃない。編集後記に何十ページも割かないはずだ」

             伊豆が嘘をついている? 水出はそれを疑った。自分のことをからかっているのだろうか。いいや、彼はそんな人間ではないはずだ。彼は嘘をつくくらいならば、元々会話を拒むタイプだろう。香りと、楓の話から、水出はそう考えていた。

             ならば、嘘をついているのは、中野か? 何のために? 誰のために?

            「中野は何かを隠している。少なくとも、水出、お前に対して。もしかしたら、俺も」

            「他の部員さんたちは、普段何をしているの?」

             水出は、これまでに中野から聞いた話、全てを疑っていた。伊豆が嘘をついているという可能性も捨て切れないが、そもそも部外者に真実を話している保証もないのである。

            「俺は滅多に部室に行かないから、誰がどうしてるかは詳しくはわからない。だが、少なくとも前回の会誌を作っているときは、何人か部室で作業をしているのを見た。俺は彼女たちが苦手だが、彼女たち同士は仲が悪いわけじゃない。むしろ全員、楽しく作業しているように見えた。中野の話――水出が中野から聞いた話が本当だとしたら、そのネタは、中野が提供したものってことになるんだろうが……。それでも、楽しそうな部室だった。そこにも中野はいた。ネタを提供しているのが彼女だとしたら、その場にいてもおかしくはないが、悩んでいるようには見えなかった。仮に本当に提供しているとしても、そのときの光景を思い出すと、むしろ喜んで、提供していると感じてしまうくらいには、楽しそうな空間だった。俺が入りたくなくなるくらいには、な」

             伊豆が真剣に対応してくれて、水出は嬉しかった。

             しかし、彼女は純粋に喜んでいられない。中野が、嘘をついているかもしれないからだ。悩んでいるそぶりを見せず、相談しにくいこととはいえ、伊豆にもその悩みを告げず、自身で書くことはないと言いつつも、伊豆によれば、彼女は執筆をしている。そして、悩みを水出に相談した。なぜ、部外者に。部外者なのに。部外者だから、だろうか。

             メモ探しを手伝えば、伊豆は中野に協力してくれると言った。彼女は自分の嗅覚のことを話していないが、これを駆使すれば、少なくとも伊豆が自分で探すよりも効率的だろう。メモさえ見つかれば、中野は助けてもらえるはずだった。しかし、今は……。

             その中野が、わからない。彼女の意図が、わからない。そんな状況でメモを見つけ、伊豆が協力してくれたとしても……。それはいったい、何になる? その協力は、誰のためになる? そもそも、協力が必要なのだろうか。

             落ち着くために、水出は深呼吸しようとする。

             

             彼女は忘れていた。伊豆の香りを、深く吸い込んではならないことを。

            イズレイト・ディスコ (16)

            2018.01.11 Thursday

            0

              「すごい、難しいんですよ」

               平井は、画面を見ながら楓に話し始めた。目が合わないことを知りつつ、楓は平井の表情を観察する。

              「主要な登場人物たちは魅力的にできあがっているんです。だけど同時に、自分の中でその登場人物たちに序列があるっていうか、できてしまったというか……。話の筋書きが捻じ曲がるほどじゃないんですけど、気にいった人物のシーンとかセリフがやたら長くなっちゃったりして、登場人物を平等に扱えないっていうか……。読者の人たちの間で、キャラクターの序列ができるのは全然問題ないと思うんです。というかきっと、物語ってそういうものだから。だけど、僕が、物語を執筆しているこの僕が、キャラクターに順位をつけたらだめな気がして……」

               えらい喋るやつだな、と楓は思う。

               楓が何の反応を示さないことで自分が喋り続けていることにようやく気づいた平井はハッとして、目を合わせずに頭を垂れた。

              「すみません、僕ばかり喋ってしまって……」

               言葉が段々と小さくなっていく。さっきまでは逆だったのだ。だんだんと言葉の調子が強くなっていた。それが、自分の独走に気づいた途端、これである。伊豆玲斗とは異なり、この男は喋るのが嫌いなのではなく苦手なのだと、楓は気づいた(楓は、伊豆も人付き合いが苦手なだけで嫌っているわけではないと考えているのだが)。

              「謝ることはねぇさ。むしろ、こっちはもっと失礼なことを言おうとしてるんだからな」

               平井がびくりとする。楓は悩む。彼に、中野と文藝部の話をしてもいいのだろうか。

               

              「それは……なんていうか、複雑なんですね」

              「そうそう。複雑みたいよ、文藝部」

               楓の予想とは異なり、平井は深く考え込み始めた。なんじゃそりゃと、引く姿勢を見せるかと思ったが、彼はそれをしなかったのである。

              「そこで、だ。俺は全く文藝部とは関係のない部外者だけど、中野さんのことが気がかりでね。これから入部しようと考えている平井くんには、ぜひこのことを知ってもらって、入部後の創作活動には注意してもらわなきゃいけないと思って。たまたま見かけたから、忠告っていうか、お願いをしてみたってわけ」

               平井は頭を下げて、ありがとうございますと小さく呟く。目は合わないが、体ごと楓の方を向いた。

              「そうか、困ったな……。実は僕、書くのがかなり苦手で」

              「はい?」

              「僕、文藝部って、本を読むのが大好きな人たちが集まる場所なのかなって思ってたんです。僕、すごい読書が好きで、新しい本が本屋さんに並ぶと、最初の1ページは絶対立ち読みしちゃうんです。ジャンルはもう、何でもよくて。小説じゃなくても、歴史の本でも、自己啓発本でも。何でしょうね、活字が好きっていうか――」

              「ちょっと待ってくれ、平井くん」

               楓に遮られて、平井は小さく頭を下げた。

              「いや、別に謝ることじゃないんだ。ただちょっと、俺もわけがわからなくなってきたところでな」

              「はい……」

              「っていうとだ、平井くん」

               楓は咳払いをする。

              「お前は、物語を書きたくて文藝部に入りたがっているのではなく、読むのが好きだから、文藝部に入ろうと思ったんだな?」

              「そういうことになります」

               より困ったことになったぞ。楓は溜め息をついた。

               

               中野の話では、正確には、楓が水出から聞いた話では、文藝部の部員たちはみな、書くことが好きで、書きたい話を抱えて入部してくるが、入部テストの際にそれらのやる気を全て注入してしまうため、ネタが尽きてしまう。そして会誌を出さなければならない段になって、誰も執筆しようとしない、執筆できない状態になってしまうため、中野が自分のネタを提供して、それをもとに書いてもらう……。

              「そもそも、なんで文藝部なのに、会誌なんだろうな」

               楓はひとりごとのように言ったが、平井はそれに返答した。

              「同好会だったときの名残みたいですよ。もう随分前に同好会から部に昇格したのに、会誌っていう癖がついちゃったって」

              「よく知ってるな」

              「ええ。中野さんから、話を聞く機会が多いので」

               そうだった。楓は思い出す。平井は、楓や水井よりも前から入部希望をしていて、今なお、執筆中なのである。創作活動の参考になるような本を大量に借りていながらも、なかなか書き進まず……。

              「努力はしてるんだよな……」

               平井は、楓が画面を見ているのに気づいて、楓の沈黙が何を意味しているのかを察した。

              「はい……。なにせ、読むことばかりで、書くことは、ほとんどしていなかったもので」

              「それでも書こうとしてるんだろ。今はほとんど真っ白だけど、とりあえず、ネタはあるわけだ」

               楓はここで、平井のパソコンの脇にメモが置かれていることに気づいた。

              「メモまでつくってさ。まだまだ時間はかかるかも知れねぇけど、絶対、書き終わるって」

              「ありがとうございます……。ありがたいです、励ましてもらって。やる気が出てきました。……いつも、励ましてくれる誰かが、隣にいたらいいんですけどね」

               中野がいるではないか。楓は言いかけたが、やめた。平井からすれば、中野の存在は執筆活動に対する圧力でしかないのかもしれない。まだ書き終わらないのかと、無言で、プレッシャーをかけてくる存在。当然、楓は中野の人となりをある程度知っていたので、彼女がそのような人間ではないことはわかっていたが、気の強くない平井にとっては――これまで、創作活動をしてこなかった彼にとっては――創作意欲に満ち溢れている中野の存在は、脅威的であるのだろう。

              「じゃあ、俺が見てやるよ」

              「え?」

              「そりゃ、執筆時に毎回隣にいるってのはできねぇだろうが、ここで作業してる時に見かけたら、そばで応援してやるよ。たまに俺に見られるって思えば、書かなきゃって気にもなるだろ?」

               中野の問題は、協力者がいないことである。彼女の仕事を、提供でも編集作業でも、いくらか負担してくれる部員さえいれば、彼女の状況はよくなるはずであった。そのためには、今の部員である伊豆、あるいは、これから入部しようとしている平井を、協力者にする必要があった。伊豆がだめでも、彼を中野の味方にできればいいのである。しかし、彼が文藝部に入るためには、とにかく今、執筆を終わらせなければならない。そのために協力できることがあるのなら、それが楓のやるべきことだった。

               伊豆のメモ探し。中野の悩み。そして、平井の応援。やることがどんどん膨れ上がっているような気がしたが、楓はそれを全てこなす覚悟を決めた。やることがなければ別のものが、楓の中で膨れ上がってしまうからである。

              イズレイト・ディスコ (15)

              2018.01.10 Wednesday

              0

                「水出は平井を知らない。伊豆のことは知っている。俺は平井も伊豆も知っている。ふたりに協力を頼まなきゃいけないとしたら、俺たちで分担した方がいいだろうな。つまり、こうだ。俺は平井とどうにかして接触を図る。部外者ではあるが、本当に文藝部でやっていく気があるのか、ストックがあるのか、中野に頼らないでいられるのか。そういう話をするしかない。そんで水出は、伊豆をどうにか説得する。中野さんの代わりにネタを提供するか、少しでも分担するか。伊豆がどの程度まで文藝部の実態を知ってるかは知らないが、そのあたりの話も聞きだしておかないと、うまくいかないだろうな。伊豆が中野さんの苦悩を知っているとは思えないし、あるいは逆に、俺たちの知らないことを、伊豆が知っているかもしれない。情報が多い方が有利だからな」

                「楓くんは、どうやって平井くんと話をするの? さすがに、彼とまでは連絡先、交換してないだろうし」

                「俺が知らなくても中野さんが知ってるかもしれないだろ? できるだけ巻き込まないように、けれど最大限、中野さんからうまく有利な情報を引き出す必要がある。中野さんでも平井のことがよくわかってないんだったら話は変わってくるが、とりあえず今はそれに賭けるしかない」

                 楓は立ち上がる。空のカップの乗ったトレイを持ち、返却口へ向かう。水出もそれに倣った。ふたりで話し合いことは、もう他にない。あとはそれぞれが独自に動いて、状況を変えるしかない。

                 駅を出て、水出はまだ楓に伝えていなかった言葉があることに気づいた。

                「ありがとう、楓くん」

                「うん?」

                「協力してくれて、ありがとう」

                「いいんだよ。さっきも言っただろう? やさしい中野さんと、そんな彼女を気にかける、やさしい水出さんのために、俺は動いてんだからさ」

                「どうして、会ったばかりの私たちのために、そこまでしてくれるの?」

                 楓は考えた。幼馴染が、頭をよぎる。

                「ちょっと、考え事をしててね。それを忘れるため。思い出さないため。それ以外のことに取りかかってねぇと、なんか、だめになっちまう気がして……。早い話が俺のため?」

                 

                 楓と別れた後、水出はどうしたものかと考えた。楓は大学の方へ向かったが、彼女は特に、今大学に用事はなかった。家に帰って寝直すのもいいだろう。と、ここで、彼女は自分に課せられた役割を思い出す。

                 楓は平井と話をする。そして水出は、伊豆と話をする。香りの源と、話をしなければならない。水出は身震いした。香りが強すぎる。息を止めるなり、空気の吸い方を変えるなり、呼吸の仕方を何かしら変えなければ、水出の敏感になった嗅覚が、水出を壊してしまうかもしれない。そして厄介なことに、伊豆の香りは不快なものではなかった。彼の香りは水出を狂わそうとするが、それは快楽のようなものをもたらすが故、である。目の前にご馳走があるのに、決してそれに手を触れてはいけない。そんな状況だった。

                 そして、水出は伊豆玲斗の連絡先を知らない。彼とコンタクトを取るには、どうしてもそれが必要となるであろう。彼女が知っているのは、楓の連絡先だけだった。

                 結局彼女は家に帰ることにしたが、その道中、解散したばかりの楓にメッセージを送り、伊豆の連絡先を入手しなければならなかった。

                 メモを返してしまったが、伊豆と関わる機会が得られた。しかし、得られたからどうだというのか。水出は考える。そもそも自分が巻き込まれているのは、伊豆の香りが原因なのだ。しかし、それについて伊豆を責めることはできない。では、伊豆に会ってどうするのだ。中野に協力してほしい。それが解決したところで、彼女の嗅覚が元に戻るとは限らない。彼女の生活が、彼女自身が元に戻る保証はない。

                 

                 なかなか面倒なこと、しかしおもしろそうなことに巻き込まれたものだと、楓は思う。朝の風は冷たかったが、楓にはこなすべきイベントが盛りだくさんであり、胸のうちが熱くなっていた。

                 まず、先ほどの水出の依頼。文藝部を救う、あるいは中野を救う。そのために楓は、これまた会ったばかりの平井と関わりを持つ必要がある。最初は伊豆だけであったが、それが中野、水出と広がり、今は、あまり刺激的ではなさそうな平井という男と接点を持とうとしているこの状況が、非常におかしく感じられた。

                 そして、楓は忘れかけていたが、そもそも伊豆からも頼まれごとをしていたのである。彼の創作のメモが紛失した。それの捜索依頼。

                 ふたつの事件が交差することはないであろうから、優先的に、文藝部や平井のことへ取りかかり、それと同時並行で、伊豆のメモを探そう。そもそも伊豆の依頼の方が解決しにくいものであり、いったい何をしたらいいのかもわからない。それに比べて文藝部の方は、いかに目的や手段が明確なことか。

                 平井と関わるのは、骨が折れるだろう。中野のように人当たりがよいというわけでもなく、人と関わるのを避ける傾向の強すぎる伊豆のようでもない、ごく普通の男の子。それを相手に、部外者から文藝部の問題や中野の悩みの話をしなければならないのである。既に入部している伊豆とは違い、彼は入部希望者だ。そんな彼に、文藝部のネガティブキャンペーンのようなことをしてもよいのだろうか。

                 文藝部のことなど放っておいて、伊豆のメモ探しだけに専念すればいいのではないか。そんなことを考えたが、楓は頭を振り、その考えを消す。メモ探しは途方もない。解決の目途が立っていない。そんな作業だけに没頭していたら、必ず富木智香が頭を占有し始めるだろう。刺激的で、難易度の高い問題を解決しようとしなければ、彼は富木から離れられない。

                 彼は中野にメッセージを送る。

                「平井ってのがいただろ? 彼って、どんな人なんだ?」

                 1限の授業に間に合うような時間に水出と話をしたために、大学内も人が少ない。中野がひとり暮らしなのか、もう起きているのか、そもそも授業なのかはわからない。返信はすぐに来ないかもしれない。そうしたら、どうしようか。水出と別れてから勢いで大学の方へ来てしまったが、特にやるべきことも思いつかなかった。富木はどうしているだろうか。頭を強く振る。

                 スマホが震える。返信が来たかと思ったが、送り主は中野ではなく、水出だった。要件は、伊豆の連絡先。

                「そうか、あいつは、昨日伊豆と会ったばっかりだもんな」

                 伊豆の個人情報を横流しにしようと思ったところで、楓は踏み止まった。そもそもなぜ楓が聞いてなかった伊豆の連絡先を知っているのかといえば、楓の連絡先を伊豆から聞かれた中野が、楓に無断で教えたからである。楓はそのことについて中野をいじるのを忘れていたことに気づく。次会ったら、ネタにしてやろう。

                 楓自身は、無断で教えられたとはいえ、中野と伊豆であったから、そこまで気にはしなかった。しかし、伊豆はどうであろうか。間違いなく、気にする。彼の性格のせいもあるし、何より水出と伊豆は、ほとんど話をしたことがないのだ。楓と中野、楓と伊豆のようにはいかないだろう。そうなると……。

                 

                「いずくーん」

                「お前の連絡先を教えてほしいってやつがいるんだけど、無断で教えるのもなぁ……って思ってね。許可をもらいにきたぜ」

                 突然スマートフォンが2件の通知を伝え、伊豆玲斗はその音に起こされた。誰だ、朝早くから。画面を確認して、それが楓からのものであったので、彼の苛立ちはより強くなった。画面を伏せて、彼は再び目を瞑る。

                 通知音。画面を見る。楓である。苛立つ。

                「まあ、それが誰かって話なんだけど、メモ拾ってくれた女の子がいただろ。水出っていうんだけど、その子が知りたがっててね。何のために連絡先を必要としてるのかはわからねぇし、お前の欲しがってたメモじゃなかったとはいえ、一応拾ってくれたんだからさ。もう一回くらいちゃんとお礼を言っといたらどうだ?」

                 よくもまあこれだけの長い文章をスマートフォンで打ち込もうと思えるものだと、伊豆は感心しながらも呆れる。彼はパソコンのタイピングは得意であったが、もっぱらコミュニケーション・ツールとして使うことの多いスマートフォンは苦手であった。苦手というか、嫌いであった。スマートフォンが嫌いというかは、コミュニケーションが嫌いだった。これが、伊豆玲斗である。

                「断る」

                 伊豆は楓にそれだけ返信して、再び眠りについた。

                 

                 まあ、予想していたことではあるけれど。楓遊音は乾いた笑い声を小さく漏らした。全くこいつは、どうしようもないやつだなぁ……。今度は小さく声に出ていた。

                 そうなると、楓が仲介して、ふたりを会わせる必要があった。もう、自分が伊豆を説得すればいいのではないかと考えたが、分担するということにしたのは楓なので、素直に我慢する。

                 というか、ここで楓が何も行動を起こさなかったら、水出はどうするつもりなのだろうか。文藝部の部室前で待機でもするつもりだろうか。いや、伊豆はめったに文藝部には来ないはず。かといって、他に伊豆のいる場所として考えられるのは……。

                「すまねぇな、水出。伊豆に振られちまった」

                「けど、伊豆がよくいる場所なら想像つくんだ。出待ちっていうと変だけど、時折そこを気にするようにすれば、もしかしたら会えるかもしれない」

                「俺が初めてあいつに声をかけたのが、図書館の前だったんだ。そこで執筆してたんだよ。今もあいつが執筆中なのかはわからないけど、そこなら伊豆に会えるかもしれない」

                 楓は水出にそう送った。メモがない今、伊豆が物語を書いているかは定かではない。だが、運がよければ、水出はそこで伊豆に会える。

                 実際のところ楓は、図書館前で伊豆玲斗に遭遇する確率よりも、伊豆玲斗が協力してくれる可能性の方が低いと考えていた。伊豆が協力してくれるかどうか自体、運試しのようなものなのだから、伊豆を見つけることも、運に任せていいだろう。慣れない探偵ごっこのようなことをしているため、いつも以上に疲れ、だんだんと面倒になっていたのである。

                 伊豆は今、どこにいるのだろうか。なんとなく不思議に思った楓は、図書館の前にやってきた。しかし、そこには伊豆はいなかった。伊豆玲斗は現在、睡眠中なのである。そして楓は当然、それを知らなかった。

                 代わりに、図書館の前では、楓の知った顔――印象は薄いが、今楓が会う必要のある男が、ノートパソコンを開いて唸っていた。伊豆のように、スマートに作業をしているのではない。明らかに捗っていない。少し遠くから見ていても、ほとんどキーボードに触れていないのがわかるからだ。

                「朝からえらいねぇ、平井くん。課題でもやってるのかい?」

                 平井に近づいて、楓は気さくに声をかけた。平井はびくりとして、座ったまま楓を見上げる。画面にはワードが開かれていたが、ほとんど文字は書かれていなかった。

                イズレイト・ディスコ (14)

                2018.01.09 Tuesday

                0

                  「まさか朝の呼び出しだとは思わなかったぜ」

                   駅のドーナツショップに呼び出された楓は、水出のおごりで注文したチョコレートドーナツを眺めながら小言を言った。朝からドーナツを食べる気になっていなかったのである。対して目の前で水出は、おいしそうに3つのドーナツに代わる代わるかじりつき、のどを通過させていた。ごくりという音が聞こえそうなほど、水出の小さく細いのどを押し広げるようにドーナツが降下していく。口の中で噛まずに飲み込んでいるのではないかと楓は考えた。

                  「まあ、時間帯についてはどうでもいいや。それで、文藝部がなんだっていうんだい?」

                   ようやくかじる気になったドーナツを右手でつかみ、楓は水出に用件を尋ねる。テーブルの上には温かいコーヒー。これも水出のおごりである。水分のないドーナツ。喉を潤す機能はあまり優れていないホットコーヒー。楓はドーナツをふたつに割って、片割れの先をコーヒーにつける。チョコレートドーナツの色とコーヒーの色の関係で、コーヒーがきちんと染みているのかはわからない。

                   ドーナツを揺する。ドーナツが少し崩れる。楓がドーナツを引き上げるのと同時に、水出は文藝部の、中野の話を始めた。

                   

                   ドーナツひとつに対してはあまりにも長すぎる話をすべて聞いた楓は、ドーナツの油が浮いて、少し甘くなったコーヒーをすする。音を可能な限り立てず、しかし可能な限り冷めるようにすすった。

                  「まあ、簡単な解決策は、他の部員たちが全員、自分の話は自分が思いついたものだけにするってことだよな。そうすれば、中野さんは自分の話を好きなだけ書ける」

                  「そう。というか、たぶんそれがあるべき姿だと思うの。自分が書きたいものを書く。書きたくなかったら、書く気がなかったら、書かない」

                  「書く気がなくても、書く内容がなくても、書かなきゃいけないことになっている。それは、開始を定期的に出してるからだな。会誌を出すなら書かねばならぬ。書かねばならぬなら、中野さんがネタを提供しなければならない。他の文藝部員全員が急にネタを閃きまくらない限り、会誌の販売頻度を下げるべきだろうな。そんな頻繁に出してないとはいえ、さ」

                   しかしそれでは、文藝部が文藝部であるための条件が欠落してしまうことになる。会誌を出さない文藝部。物語を読んでもらおうとしない文藝部。創作の楽しみを知らない文藝部。

                   書くことが文藝部の条件なのだろうか。会誌を出すことが文藝部の条件なのだろうか。書きたいと思っていなくとも、ネタがなくとも書く。それが文藝部なのだろうか。水出は考えた。そんなはずはない。

                  「部員さんたちは、書きたくないわけじゃない。ただ、書く内容がないだけ。だから中野さんからネタがもらえれば、楽しそうに彼女たちは書く。けれど、それは文藝部全員が楽しんで書けているわけじゃない。中野さん一人が、創作の楽しみを我慢しているに過ぎない。かといって、中野さんが自分の好きなものだけを書いて、他の人のことを何も考えないでいれば、他の人は――伊豆くん、だっけ。彼を除いた文藝部員は、創作を、文藝部を楽しむことができない」

                  「ひとりが犠牲になれば多数が楽しめる。場所が場所なら、状況が状況なら、それも仕方のないことだと思えるかもしれないな。だが……」

                  「楽しむための文藝部。それなのに、犠牲にならなきゃいけないって、なんか、違うと思う」

                  「同感だ」

                   議員が多数決をとって、ひとりだけ反対意見を示している。その際には、自分の考えを曲げてでも、多数の意見を飲まなければならないだろう。しかし、中野は議員ではない。責任のある文藝部の部長であっても、議員ではないのである。それも、彼女は押しつけられた部長のようなものだ。上級生がいない現状で、リーダーを決めておかなければならない。

                  「伊豆は部長に向いてないからなぁ……。必然的に、中野さんになったんだろう」

                   水出は楓の言葉を聞き、先日会った伊豆玲斗――香りの源――の性格をイメージする。見たまま、なのだろう。水出はそう考えた。整った顔。しかしそこには温かみが見て取れない。しかし、と水出は考える。彼の香りは情熱的であった。どれだけ見かけが冷たそうでも、どれだけ態度が冷ややかでも、彼は温かい。彼の香りは温かい。

                   メモを渡すときに少し言葉を交わしただけの水出ではあったが、彼女の優れた嗅覚のおかげで、彼女は楓とはまた違った方法で、伊豆玲斗の自覚していない伊豆玲斗を知っていたのである。

                  「私が考えたのは、その伊豆くんが中野さんに協力してくれないかなってこと。中野さんが部員たちに話のネタを提供してしまって、中野さんが自分の話を書けないでいるのなら、中野さんと同じようにネタの尽きていない伊豆くんが、せめて半分――いいえ、ひとり分でもネタを提供してくれれば」

                  「伊豆が出したおかげで浮いた分のネタを、中野さんが自分で書けるかもしれない」

                   とはいえ、問題はいくつもあった。

                   第一に、伊豆玲斗がそれに協力してくれるかどうかである。

                  「俺はあいつと話をするようになってまだそんなに時間が経っていないが、あまり文藝部に顔を出してはいないようだからな。この間メモを失くしたときは、たまたま部室で作業をしてたみたいだが、いかんせん女の子ばかりの部活だしな。性別の違いと、伊豆自身の性格の難点を考えると、伊豆はなかなか他の部員たちに愛着が湧きにくいだろうからな」

                   コーヒーを飲み切る。楓は眼が冴えてきた。朝からこんなことを考えることになるとは思わなかったが、探偵みたいで楽しいじゃねぇか。楓は胸の内でそうつぶやいた。

                   伊豆玲斗がネタを提供することの問題の二点目としては、やはり文藝部のあり方に関するものであった。

                  「そこまでして会誌を出さなきゃならないものなのか。そこまでして書かなきゃいけないものなのか。やっぱりそこが引っかかるよな」

                  「私は、そうは思わないの。私は、文藝部員じゃないし、部外者だけど、やっぱり楽しくやるために集まってるんだから、楽しめる人が増えるとしても、誰かが我慢しなきゃいけないのって、おかしいと思う」

                  「それに、中野さんは自分が書けないだけじゃなくて、編集作業も引き受けているからな。仮に伊豆が創作のネタを提供したとしても、彼女がその責務から逃れられるわけじゃない。編集作業、その他色々がどれだけ忙しいのか俺には想像もつかないが、それらがある以上、中野さんは十分に楽しむことはできないだろ」

                  「その作業を、他の部員たちも共有してくれればいいんじゃないのかな。みんなで少しずつやればさ。みんな忙しいならせめて、余裕のある伊豆くんだけでも、中野さんの手助けを……」

                  「結局ここでも、伊豆が協力してくれるかが問題になるってわけだ」

                   とんでもなく面倒くさい男だな、伊豆。楓はそう思った。文藝部の問題を考えると非常に厄介な存在である。しかし楓はそんな伊豆のことが嫌いにはなれなかった。当然、香りに惹かれている水出も、それは同じである。

                  「文藝部のあり方の問題。執筆以外の作業の問題。そして、伊豆の問題。……なおのこと、俺たち部外者が考えるべき問題ではないような気もしてきたな」

                   水出も同じことを考えていた。楓に協力を依頼するときにも、何度も考えた。楓の側も、水出の表情から何となくそのことを読み取っていた。しかしそれでも、手助けをしたいと思ったのだろう。

                  「やさしい中野さん、そして、やさしい水出さんのためにも、もう少し考えるとしますかね」

                   楓は自身の財布を手に取り、エネルギー源であるドーナツを注文しに行った。

                   

                   コーヒーを飲み干してしまったため、コーヒーのおかわりを注文した楓は、コーヒーがやってくるまでドーナツに手をつけられないでいた。朝のドーナツは喉を通らない、コーヒーに浸さない限りは。

                  「そういえば、昨日入部希望らしい男を見たな。結構前から来てるみたいで、今は入部テスト用の小説を執筆中だとかなんとか。平井ってやつなんだけど」

                   コーヒーを待つ間、楓は昨日出会った平井の話をした。

                   水出は平井を知らなかったが、文藝部への入部希望者であるという点で非常に興味深かった。

                  「その平井くんが、どれだけ文藝部に、中野さんに貢献できるのかが気になるわ」

                  「っていうと?」

                  「平井くんも、他の部員たちと同じように、入部用の小説で燃え尽きてしまったら、入部後に中野さんの負担が大きくなる。ネタの提供先が増えてしまうから。逆に彼もネタがあふれて止まらないみたいなタイプであれば、中野さんと分担してネタを提供して、中野さん自身が書きたい話をキープできればいい」

                  「そうだな。中野さんの悩みの種は部員それ自体だから、平井が入部することで悩みが増える可能性も十分にありうるわけだ。一番理想的なのは、平井くんが有用で、伊豆も協力してくれて……っていうのなんだがな」

                  「その平井くんは、どんな雰囲気の人だった? 伊豆くんみたいな……」

                  「いいや、伊豆とは似ても似つかねぇや。気が弱そうで、けど、人に頼まれたら断れないだろうし、頼られるのは嫌いじゃないって感じかもしれない。伊豆よりも期待できるかもしれないな。まあ、能力があるかまでは、俺にはわからねぇけど」

                   水出は、少なくとも負担にはならないよう平井に頼まなければならないような気がした。ネタの提供をしてくれなくとも、される側にさえならなければいい。入部後も書き続けられるだけのモチベーション、ネタのストックがあればいい。

                   楓に協力を依頼したが、結局伊豆と平井の協力がなければ中野の状況は改善されない。水出は、どんどん話が大きくなっているような気がした。最終的に他の文藝部員や、中野自身の協力が必要になったらどうしよう。そこまで来ると、部外者のやることではない。入部できるだけの文才も、ネタのストックもない。

                   話を大きくしたくないが、協力は各方面から得なければならない。悩ましい。なぜ自分は、こんなことをしているのだろうか。なぜ自分は、文藝部に足を突っ込んでいるのだろうか。

                   元をたどれば、伊豆の香りを追って、文藝部の部室に来てしまったのである。そしてそこで楓と出会い――ああ、結局。

                   結局、伊豆くんのせいではないか。

                   水出は紙ナプキンで口を拭い、それをくしゃくしゃに丸める。

                  イズレイト・ディスコ (13)

                  2018.01.08 Monday

                  0

                     水出は悩んでいた。自分がどのように振る舞うべきか。中途半端にいろいろなことを知ってしまった身として、何をすべきだろうか。そして、伊豆玲斗とどのように関わるか。

                     突然嗅覚が敏感になった彼女は、当然なぜ自分がそのような体質になったのかがわかっていない。なぜ伊豆玲斗の香りに対して、特に過敏になっているのかがわからない。これまで関わったことのなかった人物の香りが、なぜ急に、家の中からも感じられるほどに、自分の人生に蔓延するようになったのか、彼女にはわからなかった。

                     伊豆玲斗に聞いてみても、わからないかもしれない。彼がそもそもの原因であるかどうかも、わからないのである。彼のせいで、ひとりの人間のせいで、水出の嗅覚が鋭くなったとは思えない。神や、運命のいたずらによって、彼女の嗅覚が過敏になったのであれば、まだしも……。

                     水出は、中野のことも気がかりであった。なぜ彼女は、ほとんど初対面の自分に、中野自身の悩みを打ち明けたのだろうか。部外者だからこそ言いやすかったのだろう。そうだとしても、それによって中野は、自分に何を求めたのだろうか。たまたま楓がそこにいたなら、彼にも話を聞かせたのだろうか。

                     現在在籍している部員たちは、創作のネタがなくても創作活動を楽しみたい。中野も、おそらく自身で作品を書くことを望んでいるだろう。中野が部員たちにネタを提供していることを、提供を受けている部員たちは当事者なので知っているとして、伊豆玲斗はどうだろうか。彼は、中野の苦悩を知っているのだろうか。知っているだけでも、彼女の支えになるのでは……。

                     中野は、彼女と男子部員だけは、ネタが尽きることがないと言っていた。その男子部員が、伊豆という男なのだろう。彼女はそう推測する。伊豆がモデルつきで執筆するのは今回が初めてで、実際彼にはまだ自身の創作のネタが豊富にあった。

                     中野は書きたいものを思いついても部員に提供してしまい、手元に何も残らなくなっているのだろう。そうであるならば、伊豆が部員たちにネタを提供すれば、中野のストックの減少速度は半分になる。彼女の書きたいもののいくつかは、そのまま彼女に残り続ける。そうすれば、彼女はまた、自分自身で創作を楽しむことができるのではないだろうか。

                     ついさっき出会ってメモを返しただけの女から、創作のネタを他の部員に提供してと頼まれて、伊豆が頷くかはわからなかった。そもそも、これまでに中野から、既に悩みを打ち明けられて、ネタの提供を頼まれたかもしれない。仮にそうだとして、さらによくわからない女からも頼まれたら、きっと不快になるだろう。

                     ではやはり、自分が入部するべきか。そして自分がストックの提供に一役買えばいい。そこまで考えて、水出はそれが現実的ではないことに気づいた。そもそも、彼女に現在書きたいものがないため、入部テストを通る自信がなかったのだ。仮に1本捻り出してみても、入部後にネタを思いつけるとは思えない。それでは何の役にも立たない。

                     結局、中野を助けられる人物がいるとしたら、それは伊豆玲斗以外にありえないのだ。

                     香りを辿れば、伊豆玲斗の居場所が、いつでもわかるかもしれない。しかし、水出の嗅覚は敏感すぎた。そこら中に伊豆玲斗の香りを感じてしまうのである。残り香を追いかけてしまう可能性だった十分にありうる。そして彼女は、伊豆の連絡先を知らない。知るためには、楓の協力が必要だった。

                     そう、ひとりで対処するには難しい問題だ。楓に協力を頼めばいい。彼なら、わかってくれるはず。水出はそう考え、スマートフォンを取り出した。

                     

                     伊豆と別れた後、楓はなんとなく、メモが落ちていないかと大学内を散歩し始めた。

                     伊豆がなぜ楓と連絡をとれたのか。それは、伊豆が中野に聞いたからである。中野は、楓と連絡先を交換していた。しかし、楓に何の許可もなく、中野は伊豆に、楓の連絡先を教えた。

                    「俺の個人情報は、いったい誰が守ってくれるんかねぇ……」

                     小言を言いながら、楓は地面を見る。楓の予想に反して、メモのようなものは多く転がっていた。しかし、伊豆の見せてくれた「メモの残り」と同じものは見当たらなかった。仮に見かけたとしても、楓にはその中身をチェックする権利がないのだから、困りものである。

                    「犬でも雇えってことかな」

                     伊豆の香りを記憶させて、メモの行方を追わせる。自分で思いついておいて、楓は馬鹿らしくなった。どれだけ優秀な犬でも、そこまではできないだろうと考えたのである。

                     そんな楓のもとに、誰かからかメッセージが届いた。スマホを確認する。水出であった。

                    「今日はやたらと、知り合ってばかりの奴から連絡が来るんだな」

                     アプリケーションを開く。

                    「文藝部のことで相談したいことがあって。都合がよければ、明日またどこかでお話ができないかな」

                     楓は首をかしげる。文藝部のことで、相談したいこと。どうして水出は、文藝部に入部する気のない俺に、文藝部についての相談をしたいと思ったのだろう。

                     ……まあ、文藝部の人たち本人には言えないことなんだろうな。楓はそう思うことにした。楓遊音は、可能な限り人を疑わないようにしているのだ。

                     水出に返事をしてから、楓は、これ以上歩いても何も見つからないということにし、捜索を諦めて大学を出ようと考えた。しかし、気ままに歩いてしまったため、どこが門なのかわからない。

                     見覚えのある景色を探しながら歩いていると、サークル会館を見つけた。文藝部はどうしただろうか。少し気にかかった楓は、文藝部の部室の窓を探す。

                     ゆっくりと窓を覗くと、そこに中野の姿が見えた。そして、楓の知らない男がひとり。文藝部に男は、伊豆しかいなかったはずではないか。それなら、この男はいったい誰なのか。楓は不思議に思った。

                    「よう、中野さん。まだ残ってたんだな」

                     楓は、窓の外から中野に声をかける。中野はくるりと振り返って微笑んだ。

                    「あら、楓くん。あなたこそ、ここを出てからだいぶ時間が経ったじゃない? いったい何をしていたの?」

                    「ちょっと、探し物をね」

                     伊豆のメモの話はしなかった。

                     楓は視界の端に、中野の体面に座っている男が自分を見ているのを捉えた。目を合わせる。男はぺこりと頭を下げた。

                     なんだか、ずいぶんと弱々しそうな男だな。楓はそう感じた。

                    「こちらは、入部希望者の平井くん。楓くんは諦めちゃったけど、彼はまだ、粘ってくれてるわ」

                     中野は楽しそうに笑った。嫌味ではなく、ジョークとしての発言。それをわかっている楓は、中野の笑顔に応えて同じように笑う。

                    「そりゃすげぇな。俺は、全然小説書けなかったのに」

                     目の前で中野と楓が盛り上がり始めてしまったために、平井は少し不安げな表情を見せた。それを察した中野が、楓を平井に紹介する。平井の表情が和らいだ。

                     テーブルの上、平井の近くには、本が積んであった。文藝部が貸したものだろう。ちゃんと読んだのかと、楓は感心する。自分は、本を借りることすらしなかった。そもそも、あまり入部の意志が強くなかったのだから、当然といえば当然ではあるが。

                    「やっぱり小説を書くには、書き方がしっかりしてないとだめなのかねぇ」

                     もうさほど文藝部に興味はなかったが、楓は共通の話題として――居心地悪そうにしている平井とも共有できる話題として――小説の話をしてみた。

                     曖昧に笑う平井。彼はまだ部員ではないのである。

                     中野は、平井が答えられないのを確認してから、楓の言葉に答えた。

                    「大事なのは書き方じゃないわ」

                     寂しそうに笑ったのを、楓は見逃さなかった。

                    「大事なのは、その人にしか書けない物語が記せるか、ということよ」

                    イズレイト・ディスコ (12)

                    2018.01.07 Sunday

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                       大学図書館前のスペース。伊豆玲斗と楓遊音が初めて出会った場所。そこに伊豆は座っていた。手には先程、水出から受け取ったメモが握られている。

                       楓は、伊豆からの連絡を受けてすぐに、文藝部の部室から図書館のほうへと歩いた。風は冷たく強い。暖かくなる気配はない。今日1日、こんな調子だろう。楓はそんなことを考えた。

                      「さて、メモを探して欲しいってことだけど、伊豆くん。いったい俺は、何のメモを探せばいいのよ?」

                      「何度も言わせるな」

                       伊豆は、楓の声を聞いてから脚を組み、体をやや楓から逸らす。

                      「俺の物語の展開を示したメモだ」

                      「だから、それじゃねぇの?」

                       楓は伊豆の手にあるメモを指差す。

                      「さっき水出がくれたじゃねぇか。あいつが拾ってたんだな」

                      「これじゃない」

                       むっと眉をひそめる楓。

                      「これは、確かに俺の落としたものだが、必要なのはこれじゃない」

                      「どういうこと?」

                       

                       伊豆玲斗の今回の作品には、モデルがあった。

                       数週間前に出会ったある男。伊豆は彼の実体験を調査し、それを物語にすることを約束したのである。そのため伊豆玲斗のメモには、まずインタビューの結果を記したもの、そしてそこからつくりだした物語のプロットがある。

                       水出が拾い、先程伊豆に渡したメモは、インタビューの成果の方であった。今の伊豆に必要なのはプロットの方であり、それがなければ執筆ができない。

                      「できないってことはねぇだろ」

                       楓は反論する。伊豆が不機嫌になる。もはや楓はそのことを気にせず、伊豆もそれを気にしなくなっていた。彼が不機嫌になるのはもはや反射のようなものであり、何を言われても彼は顔をしかめるのである。

                      「今書き途中なんだったら、その続きがわかんなくても、どうにか書けるだろ、思いつきでさ」

                       伊豆は説明するのが面倒になっていたが、自分の作品、執筆に対する想い、こだわりを、楓に語った。

                       メモを誰かが拾ってそれを読み、完成した作品を読んだとき、どのように感じるか。

                      「ここが変更になった、とか思われたくないわけだ」

                      「そういうことになる」

                      「自分の作品と自分の作品を、比較されたくないわけね」

                      「ああ、そうだ。だから必要なんだ。俺の、メモが」

                      「でもよ、伊豆くん。もしそのメモを誰かが拾っていて、もう既に読んじまったなら、そいつは絶対、比べちまうじゃねぇか」

                      「それが誰なのかわかれば、そいつに完成品を読ませないようにすればいいだけのことだ」

                       楓は、やれやれといった様子で肩をすくめた。

                       伊豆の作品に対する妙なこだわりや情熱は、いったいどこから来ているのだろうか。伊豆は小説を書くし、小説を読む。豊かな感性、温かい心が養われているはずなのに、どうしてこうも、不器用な性格なのだろうか。

                       楓は伊豆に対して少しの同情心、そして多くの興味関心を抱いた。つくづく面白い男だ。富木智香に占められた自分の人生を豊かにし、広げる存在として、彼ほど適した男はいないだろう。

                       伊豆の方も、現在唯一の入部希望者である平井を無意識のうちに楓と比較してつまらない男だと評したように、楓の存在を認めつつある。

                       ふたりの男は相互に認め合い、そして今、協力しようとしているのである。

                      「でもよ、すでに文藝部の部室は見ただろ? そうなると、もうあそこにはないわけだ。そしたらもう、探す場所がないじゃねぇか」

                       

                       伊豆玲斗がメモを紛失した時、文藝部のドアのカギは開いていた。眠っていた伊豆玲斗には、誰かが入ってきたかどうかはわからない。

                      「たまたま、他の文藝部員が入ってきたかもしれない」

                      「その子が持って行っちまったと?」

                      「あるいは、そのときに風が起きてメモが落ちたり、落ちたメモが部屋の外に出たり」

                      「範囲は、部室の外もありえるってことか……。骨が折れるぜ」

                       当然、可能性としては部室に近ければ近いほど高くなる。事実、水出はメモを部室で拾ったのだ。しかし、通行人に蹴飛ばされたり、風に吹かれたりということを考えれば、メモのある範囲は、大学全体、もっといえば、地球全体になる。

                      「とりあえず、文藝部全員にも協力を頼んでみるってのはどうだ? 他はみんな女の子だって言ってたが、頼めば協力くらいしてくれるだろ」

                       文藝部員は全員、口にしないだけで伊豆玲斗に好感を持っていた。彼のためになるならと、真面目に探すものもいただろう。

                       しかし、伊豆の表情がさらに曇ったのを見て、楓は両手をあげた。

                      「まあ、お前がそんなことするわけないよな。俺が悪かったよ」

                       

                       楓が協力を頼める人物は、まず中野であった。

                       しかし、伊豆が失くしたメモの捜索への協力を、伊豆ではなく楓が、中野に頼むのは妙である。なぜ本人から頼まないのかという話になるからだ。そして伊豆自身、文藝部員の協力は仰ぎたがらない。完成作品を間違いなく読むだろう他の部員たちにプロットのメモを見られる可能性があるからである。また、そもそも彼が他の部員を信用していないというのもある。

                      「じゃあ俺のことは信用してるのね」

                      「利用しているだけだ」

                       こんなに冷たい反応があるか。楓は胸のうちで小言を言った。

                      「ところで、思ったんだけどよ」

                      「なんだ」

                      「結局お前は、メモを見られるのが嫌なんだろう?」

                      「ああ」

                      「で、俺がメモ探しに協力する、としてさ。中身見ちゃいけないのに、どうやってお前のメモかもしれないって判断するんだよ」

                       しばらく沈黙が流れた。

                      「ひとつは、中身を確認してプロットらしいものを見つけたら、お前が完成品を読まないというのがある」

                       比較できないから、である。

                      「あるいは、中身を一切確認せずに、紙が落ちていたら逐一俺のところに持ってくる、か」

                      「日が暮れちまうな……」

                       伊豆の落としたメモは、一般的なノートのページを折り畳んだものである。そのサイズの紙はそこら中に転がっているだろうから、全てを伊豆のところに持って行っていくのでは切りがない。

                      「せめて、メモが変わった形をしてるとか、独特の肌触りだとか、変わった匂いがするとかだったらな……」

                       楓はため息をついた。

                      イズレイト・ディスコ (11)

                      2018.01.06 Saturday

                      0

                         中野との会話が途絶え、気まずい空気が流れてから数秒後、水出穂乃は、強烈な香りを感じた。これまで以上に、強烈な、源のような、香り。

                         足音がする。ひとり分ではない。早足で、短い間隔で歩いているものと、それよりも大股で、ずかずかと歩いているもの。どちらが、源だろうか。水出はできるだけ冷静に嗅ぎ分けようとした。

                         文藝部のドアが開く。香りが舞い込んでくる。この人だ。間違いない。

                         水出がこれまで見かけたことのない青年、伊豆玲斗が、ドアを開けたのである。

                         

                        「お、中野さん」

                         ドアを開けたまま立ち止まった伊豆の後ろから、楓が顔を出し、中野に挨拶をする。中野は楓に笑いかけるが、すぐに表情をやや固くして、伊豆の方を見た。

                        「伊豆くん、珍しいわね。あなたが部室に来るなんて」

                        「ちょっと探しものをな」

                         伊豆は中野に見向きもせず、口だけで答えて、しゃがんで部室の中を探す。残念そうな表情をする中野に気づいた楓は、やれやれといった様子で、鼻から溜め息をついた。

                        「そうだ、中野さん。入部希望の話なんだけどさ、やっぱり、やめようかと思って」

                         中野は、にこりと笑う。

                        「そう、残念だわ」

                        「あら、あんまり残念がってないように見える」

                        「どうかしら」

                         おどけて笑う中野を見て、水出は、先ほどの話を思い出した。

                         中野には、書きたい話のストックがある。しかし、ネタ切れを起こした部員にそれを提供しているため、中野自身は物語をつづることができない。

                         部員がいなければいないほど、中野は物語を自分のものにできるのである。部員を支える部長と、ひとりの作家、そのふたつの立場における、ジレンマ。

                         水出は、自分が入部を取りやめるという話をしたときに、あまり中野がショックを受けなかった理由を、そこに結びつけた。彼女は、部員を望んでいないのではないだろうか。

                        「でも、楓くん。そういう話なら、何も直接じゃなくてもよかったのに。せっかく、連絡先を交換したんだから」

                         いつの間に、と水出は驚く。

                        「こういうのは、直接話して、誠意を示した方がいいかと思ってね。まあ、ちょうど伊豆にも出くわしたし……」

                         伊豆……。

                         水出穂乃はこの間、息を止めていた。無闇に息を吸い込んでは、刺激的過ぎる香りに、狂わされそうだったからだ。

                         彼女の気を狂わせかねないのはあくまでも嗅覚であるから、呼吸を止めていれば、いくら見ようが触れようが、どうということはない。水出は可能な限り吸い込む量を抑えながら呼吸を再開し、伊豆を見た。

                         整っているが、そのせいで冷ややかに見える青年。あごに手を当てて、不機嫌そうに、何かを考えている。

                        「あ、そうだ」

                         水出は突然、拾ったメモのことを思い出した。

                        「伊豆……くん? あの、これって、もしかして」

                         水出は、呼び慣れない名前を呼ぶ。伊豆がしゃがんだまま顔を向ける。ポケットからメモを取り出し、手を差し出す。

                        「この間、ここで拾って、何か探してるみたいだから、もしかして」

                         水出は、確信していた。もしかして、ではないのである。メモの残り香と、この青年の香りは、一致していた。間違いなくこの伊豆玲斗が、香りの源なのである。かといって彼女は、香りでわかったというわけにはいかなかった。

                         しかし、と彼女は思う。予測していたことではあれ、まさか香りの源が、男だったなんて。ある男の香りに、心狂わされていたなんて。

                         水出穂乃は、急に恥ずかしくなった。

                         

                         楓遊音は、水出穂乃の表情の変化に気づいた。彼の言葉では、バカほど変化に敏感なのである。

                         一目惚れ、だろうか。しかし、そんな単純なものでもないような気がする。楓遊音は、ここ数日の水出の変化を知らなかった。彼が彼女を知ったのは、彼女の嗅覚が鋭くなったあとなのである。

                        「お礼くらい言ったら、伊豆くん?」

                         何も言わないどころか、差し出されたメモをなかなか受け取ろうとしない伊豆に向かって、楓は言った。伊豆は楓の方をちらりと見て、メモに手を伸ばす。

                         水出穂乃は、再び息を止めた。

                        「助かる」

                         伊豆はそれだけ口にして立ち上がり、部室のドアを開ける。早足に出て行く伊豆玲斗を、誰も追いかけようとはしない。

                        「さて、早くも俺のお仕事は終わっちまったわけだ」

                         中野はきょとんとしている。水出は、香りの源がいなくなってしまったとはいえ、楓に出会えた機会を見逃さなかった。

                        「楓くん」

                         人懐っこい顔を、楓は水出に向ける。源がいなくなったため、呼吸は通常通りでいい。少し間をおいて、水出は楓にこう言った。

                        「連絡先、教えてくれる?」

                         

                         文藝部での用事を済ませたので、伊豆が去ってしばらくしてから、楓と水出は退出した。

                         ひとりになって、楓は考える。そもそも伊豆玲斗と接触したのは、彼が富木智香という幼馴染から距離を取るためだった。メモ探しという、結びつきを強めたかもしれないイベントが予想よりも早く終了してしまい、楓は、どうしたものかと考える。

                         伊豆玲斗を、彼の人生に組み込みたかったのだ。楓は、伊豆の連絡先を知りたかった。しかし、交換する前に伊豆は退出してしまい、偶然出会わない限り、伊豆と会える機会はなくなってしまったのである。

                         代わりに楓は、水出の連絡先を入手した。水出としては、結局入部しなかった文藝部の中野とさえ連絡先を交換している楓だから、伊豆の連絡先も知っているだろう。楓から伊豆の連絡先を教えてもらい、伊豆と接触を試みようと考えていたのである。

                         しかし実際は、楓自身伊豆の連絡先を欲しがっていた。そして楓は、水出穂乃よりも伊豆玲斗に関心があった。同じ女である以上、水出は富木智香を思い出させやすかったのである。

                         富木智香は、現在バイト中である。そもそも、彼女と距離を置くためにこうして伊豆と接触を試みたというのに、やることがなくなったために彼女に声をかけるというのは、本末転倒であった。

                         楓は考える。中野であれば、伊豆の連絡先を知っているのではないか。彼女から伊豆の連絡先を得ることができれば、伊豆との結びつきは少なくともキープできるかもしれない。

                         当然、問題はどのような口実で伊豆と接触を図るかだ。メモは見つかってしまった。伊豆のことだ、無意味に連絡を取ろうとしても、何食わぬ顔で無視するだろう。口実が欲しかった。伊豆玲斗と仲良くなれる、今この時点での、共通の話題、共通の課題……。

                         メモ見つかってよかったな! 完成楽しみにしてるぜ! 文章を送るだけなら、その程度でもよいだろう。しかしそれでは、その言葉だけで終わってしまう。関係性が続かない。どうしたものか。

                         楓のスマートフォンが鳴る。水出だろうか。そう考えた楓のスマートフォンには、彼の予想していなかった人物から、予想していなかった文章が送られてきていた。楓はにやりとする。即座に返信を打ち込んだ。ツイている。

                         

                         メッセージの差出人は、伊豆玲斗。内容は、「メモ探しに付き合え」という、短い文章であった。