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2018.01.26 Friday

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    イズレイト・ディスコ (10)

    2018.01.05 Friday

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       額を押さえながら、楓遊音は伊豆に言った。

      「まあちょうど、俺も文藝部に用があったからな。付き合ってやってもいいぜ」

       文藝部の部室の方角を体を向けた伊豆は、首を捻り、顔だけ楓の方へ振り返る。

      「文藝部に用事? お前が?」

       まあそうなりますよね。楓は心の中で呟いた。

       

      「まさか、お前も入部希望者だったとはな」

       楓は事情を説明し、楓が入部を諦めてくれてよかったと、伊豆は考えたのだが、楓はそれに気づいた。

      「お前今、俺が入るのやめてよかったって思っただろ……」

      「よくわかったな」

      「バカほど変化に敏感でね。顔が変われば何となくわかる」

       伊豆は考え込む。能天気に見えるが、この男はかなり鋭いのではないか。そんなことを考え始めていた。自分でもわからなかった伊豆自身のことを理解したのだから、そのような能力があるとは思っていたが、これは……。

      「お前は何でもわかるんだな」

      「何でもってことはねぇよ。わからないやつもいる」

      「例えば?」

       楓は言葉を選んだ。

      「長いこと一緒にいるから、変化がわかりにくくなっちまったやつとか、な」

       

       文藝部へ向かうふたりは、時折吹く冷たい風に速度を落としながら、黙々と歩いていた。伊豆玲斗が口下手なことに楓は気づいていたので、世間話や無駄話、くだらない話はしないことにしたのである。当然、楓はその手の話が大好物なのだが。

      「風で飛ばされちまったってことはないのか」

       風を真正面から浴びて目を細める楓は、思いついたように尋ねた。

      「十分にありえるが、考えたくもないな」

      「だろうな」

      「それに、部室を出る時メモはしっかりとパソコンに挟んでおいた。そのパソコンもしまっておいた。吹き飛ばされることは早々あるまい」

      「そうなると、メモは部室に落としちまったか、あるいは……」

       しばらく沈黙が続く。

      「――あるいは?」

       風が止んで、楓はようやく口を開けるようになった。

      「誰かが持っていっちまった、とかね」

       伊豆玲斗は、メモがなくなる直前、自分が部室で居眠りをしていたことを思い出す。楓の言うことが正しければ、その最中に誰かがやってきて、メモを持っていったのだろう。そのとき部室の鍵は開けたままだったから、文藝部員でなくとも侵入することはできる。

       しかし、彼がポケットにしまっておいた財布は無傷であった。財布ならまだしも、メモだけを持っていくような人間がいるとは思えなかった。

       仮説を唱えた楓は、自説にツッコミを入れる。

      「まあ、そんなもん持っていくやつがいるかって話だけどな。執筆のネタに困ったやつとかじゃねぇの」

       メモをなくした自分が、今まさにネタに困ったやつになっている。伊豆玲斗は溜め息をついた。小さく漏れた音は、再び強く吹いた風にさらわれた。

       

      「ここには部員がそこそこいて、みんな入部当初は、書きたい話があってバリバリ書いてたんだけど、しばらくしたら、誰も原稿を出さなくなってしまったのよ」

       中野のひとりごとに、水出は質問をぶつける。

      「それは、どうして?」

      「最高に書きたいものを、書き終えてしまったからよ」

       水出は小さく唸った。容易に想像できてしまう。つまり文藝部員は、目標がなくなってしまったのだ。入部テストと称して、長編小説の提出を求められる。これを機会に新入部員は、自分の書きたかった物語を執筆し、提出する。そして、次の話のネタがなくなってしまう。書きたいものが、なくなってしまう。

      「提出した物語について、しばらくはここでも話が盛り上がったんだけど、会誌を出さなければ、という時期になると、みんなもう、自分が書きたくて書いた物語について話すこともなければ、書きたい物語もなくなってしまう、というわけ」

      「それは……」

       文藝部にはいったこと自体間違いなのではないか。水出はそう考えた。仮にも文藝部に入部したいと考えるものならば、次から次に書きたいネタが溢れてきて……。

      「そう思うでしょう? でも、執筆するとそうもいかないのよ」

       水出は首を傾げる。中野は笑う。

      「書きたい物語とかキャラクターとか、ストックしてたものが、執筆中の物語に出てきちゃうんだよね。別の話で使う予定だったのに、盛り込まれていってしまうの」

      「ストックも、なくなってしまう……」

      「そう。次はこんな話を書きたいなと思いながらも、どんどんそれが現在の物語に浸透していって、最終的に自分の中に何も残らなくなる。書きたいと願い続けた過去と、執筆中の現在、そして将来書きたいと思ったネタ全てが、ひとつの作品に吸い込まれていく」

       無計画すぎるのではないか。水出は口に出せなかった。

      「無計画と思うでしょう? でも、そういうものなのよ。少なくとも、ここの部員たちにとってはね。それだけ、創作というのは、楽しいけれど、恐ろしいものなの」

       過去と未来を吸い取ってしまう現在。自分の感性を枯らしてしまう創作。

      「中野さんも、そうなんですか? 最初に書いて、それっきり、書きたいものが――」

      「いいえ、そうじゃないわ」

       寂しそうに笑う人だ。水出は中野の笑顔を見てそう思った。

      「私と――あともうひとり、男の子がいるんだけど、中にはストックの尽きない人もいるの」

       そもそも中野は、編集作業をしているのである。そうなれば、他の部員も執筆はしているということになる。しかし、そうであるならば――。

      「じゃあなんで、中野さんは編集ができるんですか? 他の部員のストックがないのなら、他の人たちが原稿を持ってきて、それを中野さんが編集すること自体、成り立たなくなる」

      「みんな、書きたいものはないけれど、書きたい想いは残ってるの。少しの間だけど、執筆中に励まし合った文藝部。完成した作品を読み、感想を言い合った文藝部。愛着がないわけじゃない。でも、書けない。全て、吸われてしまったから」

       中野は座り直した。水出は、目を瞑った中野が、瞼で何かを封じ込めているように見えた。涙か、それ以外の、何か。

       中野は続ける。

      「書きたい。書くものがない。では、どうするか。……問題です。彼女たちは、どうしたでしょう? 私は、どうしたでしょう?」

       部員たちは、ストックがない。ストックがあるのは、中野と、もうひとりだけ。しかし、その男はここまでほとんど話に登場してきていない。中野は物語が書けない。編集作業がなくなったとしても、書けないだろうといっていた。水出は推理する。

      「中野さんが、自分のストックを――」

       部員たちに、提供している。水出は、中野の瞳が「正解よ」と言っているような気がして、最後まで言い切ることができなかった。

       中野は、正解よと口に出すことはなかった。言葉を止めた水出が、正解したことを察したことに、気づいたからである。

      イズレイト・ディスコ (9)

      2018.01.04 Thursday

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         日が変わって、授業もなくなった時間に、水出は文藝部を訪れた。

         中野だけがそこにいて、水出を歓迎する。まさか、入部希望を取り下げるためにやってきただなんて思っていないだろう。水出は、中野の胸中に想像をめぐらせて、どのような謝罪の言葉であれば、期待を裏切ったことによる痛みを、最大限緩和できるだろうかと考えていた。

         しかし、入部を諦めたことを告げられた中野は、水出が想像していたよりもショックを受けていなかった。少なくとも、見かけのうえでは、である。実際のところは、彼女にはわからなかった。

         入部をやめることにしたという話を聞いて、「気にしないでいいよ」と笑う中野の容姿を見て、水出は疑問に思った。

         彼女は文藝部の部長というよりも、弓道や茶道の部長の方がぴったりな気がする。華のある空間、あるいは、緊張感のある空間。カタカタというキーボードの音やクリック音ではなく、沈黙が似合う、そんな女性だと感じた。

         中野は笑う。

        「そうかもしれないわね。私、高校では弓道をやっていたし。……あまり文学少女っぽくないでしょう?」

         十分文学少女に見えるのだが、と水出は感じたが、黙っていた。文藝部よりも、という話であって、決して文学少女に見えないというつもりではなかったのである。

         水出がどんな言葉を返そうかと悩んでいると、中野が窓の外、そして文藝部のドアが閉まっているのを確認してから、水出に声をかけた。

        「水出さん。文藝部と関係がなくなったあなたに、つまらないひとりごとを聞いてもらっていいかしら」

         ひとりごとを聞いてもらうというのもなかなか矛盾した表現だなと、水出は思う。水出はこくりと頷き、姿勢を正す。

        「私ね」

        「はい」

        「物語が書けないの」

         

         伊豆玲斗は、嫌な顔をした。

        「そんなあからさまな反応しなくたっていいのによ……」

         普段よりも不機嫌3割増量中といった雰囲気を纏いながら、早足でどこかへ駆けていく伊豆を見かけ、楓は彼よりも速いスピードでそれを追いかけ、肩を叩いた。

        「それがファンに向ける顔かよ。サービス精神が足りねぇっていうかなんていうか……」

        「俺のサービスは物語だ。俺自身じゃない。どんな顔しようと勝手だろう」

        「そんなんじゃお友達が出来ないぜ?」

        「放っておけ」

        「お前、俺ぐらいしか友達いねぇんじゃねぇの?」

        「お前は友達じゃない」

        「想像はしてたがはっきりと言われるのはなかなかつらいもんがあるな……」

         などという具合に、伊豆玲斗にしてはかなり会話が続いたため、彼らの会話の様子をたまたま視界の端に捉えた文藝部の女子部員の何人かは、自分たちの目を疑った。伊豆は彼女たちに気づかない。あの伊豆くんが、あんなに雰囲気の違う男の子と話をしている……。彼女たちは伊豆の話題を共有することはなく、その場を通り過ぎたあとに誰もそのことには触れなかったが、全員の胸のうちにその光景が深く刻み込まれていた。

         伊豆玲斗は、彼女たちのことを気にかけている場合ではなく、そもそも楓と口を利けるような余裕はなかった。

         伊豆の纏っている雰囲気は常に冷たく、誰も彼の移動中に声をかけようとは思わなかった。そして彼は、プロットを記したメモが行方知れずになったことで苛立っていたため、なおのこと話かけづらいオーラを見せていたのである。

         しかしそんな伊豆にあえて声をかけた楓は、無神経なのではなかった。その冷たい雰囲気は、あくまでも雰囲気でしかないのだと、楓は予感していたのである。つまり、彼は怒っているように見えて全く怒っていない。冷たいように見えて、冷え切ってなどいない。楓にはそれがわかっていた。

         無神経に(見えるだけだが)自分に声をかけてきた楓との会話から、伊豆自身、自分が思ったよりも苛立っているわけではないのだということに気づいた。余裕がなければ本当に言葉が出なかっただろうし、楓を突き飛ばしてでもメモを探しにいったであろう。しかし自分は、こうして楓と立ち話をしている……。

        「……なんでまた不機嫌になるのよ」

         ほとんど初対面である楓と打ち解けてしまったような気がして、伊豆は顔をしかめた。

         

        「で、お前はこれから文藝部に行こうとしているわけだ」

         打ち解けてなどいないと意地を張り続けるのも馬鹿馬鹿しいと思い、伊豆は現在の状況を楓に説明した。

        「まあ、最後に作業したのが文藝部の部室なのだとしたら、メモが落ちているのもそこだろうな」

         伊豆は、目を瞑っている。遠くから見れば、立ちながら眠っているように見えるのではないだろうか。楓ではそんなことを考えた。

        「でも、昨日既に探したんだろ? 今日見つかるとも思えないけどなぁ……」

        「昨日は邪魔なやつがいたからな」

        「邪魔なやつ?」

        「入部希望者だ」

        「邪魔とか言ってやるなよ……」

        「昨日よりも、隅々まで探してやる。それに――」

        「それに?」

        「ふたりで探せば、効率がいい」

         ふたり。

        「……俺に、手伝えと」

         伊豆は頷きもせず、肯定もせず、ただ楓に冷たい目線を投げかけた。当然、否定もしなかった。

        「それがお前なりのお願いの仕方なんだな、覚えておくぜ」

         本当に不器用な男なんだなと、楓は小さく笑う。伊豆は、そんな彼のニヤケ面を見て、右手の中指を内側に曲げ――。

        「いてぇ!」

         デコピンを喰らわせた。

         

         外から悲鳴のようなものが聞こえ、水出と中野はちらりと窓や扉を見たが、誰かが入ってくる気配はなかった。

         水出は咳払いをして、中野の言葉を繰り返して尋ねる。

        「えっと、物語が書けないっていうのは……?」

         文藝部の部長が、物語を書けないというのは変な話である。中野は文藝部の部長を任されているのだ。そんな彼女が、文藝部として一番求められている能力を欠いているとは思えない。そうでなければ、いったい彼女はここで何をしているのだ。

        「じゃあ何をしているのか……って顔してるわね」

         しばらく無言でふたりは見つめ合い、小さく笑い合った。

        「私はここのところ、編集作業ばかりやっているわ。会誌をつくるから、そのためのフォーマットを決めたり、デザインを考えたり、印刷業者に料金を相談したり」

        「つまり中野さん自身は、ここのところ物語が書けないでいる、と……」

        「そういうこと」

         ここのところ、という中野の言葉から、当然、あるひとつの推測が可能になる。

        「前は、じゃあ……」

        「ええ、書いていたわ」

        「中野さんに時間があれば、書けるってことですか?」

         質問をしながら、水出は現在中野が担っている仕事を押しつけられるのではないかと考えた。文藝部への入部を止めると伝えた直後に、執筆以外のことをやってくれと言われそうな雰囲気になったため、水出は帰りたくなった。

         しかし中野は水出にそう頼むことはなく、大きな溜め息を吐いた。

        「私に時間があっても、書けないんでしょうねぇ」

        「それはいったい、どうして……?」

         段々と面倒な話になってきているような気がしたが、水出は退室することはなかった。自分が推理小説に巻き込まれているかのような気分になってきたのである。水出自身は、インドアよりもアウトドアを好み、文学少女らしい雰囲気はあまりないのだが、読書は好きだった。小説を書かない文藝部の部長。部室で部長以外を見かけない文藝部。そして、その文藝部から漂う『香り』……。

         改めて水出は中野の香りを確認したが、水出の拾ったメモに残る香りや、これまでに彼女を魅了してきた香りとは異なっていることに気づいた。香りの源は中野ではない。つまり、この文藝部には彼女以外に何かがある。そして、中野自身にも何かがある。

         水出穂乃は、探偵気分になっていた。

        イズレイト・ディスコ (8)

        2017.12.18 Monday

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           どうしたものか。

           水出は、自宅のベッドの上で寝転びながら考える。彼女の腹には、メモが置かれていた。彼女が文藝部の部室から調達してしまったメモである。

           水出は鼻から思い切り息を吸う。メモから香りがやってくる。これ以上吸えない――これ以上吸ってしまったら、発狂してしまう。香りが彼女に与える刺激はとてつもなく強大なものだった。

           勢い余って持ってきてしまったこのメモを、私はどうしたらよいのだろうか。私はこれから、どうすればよいのだろうか。

           水出は、状況を整理し始めた。

           

           起きたら、強烈な香り――不快ではなく、むしろ狂おしいほどの情熱をもたらすような香りがどこからか漂ってきた。それに加えて、彼女の嗅覚はこれまで以上に強くなっていた。

           香りの源は家の中ではなく、大学に近づくにつれて強くなっていった。さらにいえば、文藝部の部室から漂ってきたのである。

           そして、彼女が今日初めて出逢った楓という男が、残り香のようなものを纏っていたのである。つまり香りの源は、楓の知り合い、少なくとも今日接触した人物、あるいは人間ではない何かの動物だということだ。

           とはいえ、このメモから香ってくるということは、源がこのメモに触れていたということで間違いないであろう。そうなれば、人間である可能性が高くなる。

           

           吸い過ぎないように注意しながら、水出はもう一度息を吸った。残り香。しかし、その濃度は……。

           体を起こす。メモを見る。たしかに香りは残っている。しかし、楓に残っていた香りのように薄いものではない。長い時間をかけて、香りが浸透したのだろう。彼女の嗅覚はそう推測した。

           彼女はこれまで、メモの内容を見ていなかった。じっくりと文字を追う。メモである。文藝部の部室に落ちていたのだ。部員の誰かが創作のメモとして使っていたが、落としてしまった。そう考えるべきだろう。

          とすれば、持ち主はこのメモがなくて困っているかもしれない。すでに完成していれば話は別だが、現在執筆中であれば、このメモの不在はきっと執筆を妨げているだろう。

           だとすれば、彼女は明日にでもまた文藝部を訪れ、部長の中野かその他の部員にメモを渡すべきであろう。そのついでに、自分が入部を諦めたことを伝えればよい。もともと入部の意志などないが、入部希望と聞いて嬉しそうな表情を見せた中野のことを考えると、その気持ちを裏切ることになってしまったことをしっかりと謝罪するべきであろう。

           だが、このままメモを返してしまっては、手がかりが途絶えてしまう。楓の知り合いであるならば楓を追跡すればよい。部室やメモに気を取られていたが、中野の香りはどうであろうか。彼女から、残り香が漂ってくるということがありえるのではないか。あるいは、そもそも中野自身が香りの源なのではないか……。

           考えれば考えるほど、気が遠くなった。香りの痕跡が多すぎるのである。

           

           楓遊音も、気が遠くなっていた。彼の目の前には、一文字も書かれていないワードを表示するノートパソコン。真っ暗なスマートフォン。通知が来る。富木だった。

          「作業はどう? 進んでる?」

           進んでいるはずがなかった。あらためて向き合ってみると、楓には書きたいものが何もなかったのである。

           水出に紹介されて図書館で借りた本は、ベッドの上に転がっていた。インスピレーションが得られるかもしれない。まずは読んでみよう。そこまではよかったのだが、楓は先の見通しがない作業が苦手であった。どのような話なのか。喜劇なのか悲劇なのか。ある程度の情報がないと、楓は読む気になれなかったのである。

           中野のことを思い浮かべた。人のよさそうな部長である。伊豆玲斗という部員がいて、大変だろう。さらに、上級生のいない中で入部希望者が来たのだ。彼女は今、多くの仕事を抱えているのではないだろうか。そしてその仕事のひとつは、自分なのである。

           楓の狙いは、幼馴染みから距離を取ることであった。伊豆、水出、中野といった人物と出逢った今、彼の世界は広くなったはずである。はずなのである。だが、しかし……。

           スマートフォンの画面を伏せる。「富木智香」の文字は見えなくなった。しかし、見える。瞼の裏に残っている。何も書かれていないはずのワードに、彼女の名前だけが書かれているように見える。文字数を確認すると、0文字であった。無意識に彼女の名前を打ち込んでいたというわけではない。しかしそれでも、彼女のことが離れなかった。彼女との思い出――恋人ではないうえに、幼馴染みという耽美な響きとはかけ離れた温かみのない関係性ではあったが、それでも彼女のことが離れなくなっている。

           本末転倒ではないか。彼女以外の人たちと関わりを持ち、自分の世界を広げ、相対的に彼女の占める割合を減らそうとしたのにも関わらず、世界の拡大とともに、彼女の存在も、拡大しているのである。

           楓にとって世界とはまさに、富木智香自身のことであった。

           しかし楓はそれに気づかない。気づこうとしない。気づいてはならない。仮にそう感じたとしても、富木智香との関係性、色気のなさ、これらが情熱を冷ましてしまっただろう。

           中野は優秀な部長であろう。しかし、なぜか富木智香が見える。比べているのではない。しかしそれでも、富木智香が見えるのである。

           水出は愉快な人間であろう。しかし、なぜか富木智香が見える。比べているのではない。しかしそれでも、富木智香が見えるのである。

           不思議なことに、伊豆玲斗は伊豆玲斗だった。彼のことを考えているとき、富木智香は完全には消えなかったが、それでもかなり薄まって感じた。伊豆が男だからだろうか。

           文藝部の部室を訪れても、伊豆の姿はなかった。おそらく、頻繁に部室に出入りしているということではないのだろう。彼の性格を考えれば容易にわかることだった。そうであるならば、文藝部は伊豆玲斗との結びつきを得るためのコミュニティとしては、やや不適切であるように思えた。彼が所属している、しかしほとんど姿を表さないコミュニティに属すことに、メリットを感じられないのである。

           文藝部員としてではなく、個人として伊豆と関わることができればいい。楓はそう考えた。文藝部という団体は、むしろ彼の中の富木智香を増大させるだけなのだ。

           明日、文藝部を訪れよう。そして、入部を諦めるということを伝えよう。どうせならば、彼の多くの知り合い――富木智香ほどは大きな存在ではない知り合い――にあたって、文藝部に興味がある人間がいないかを調べ、出てきたら代わりにその人を連れて行こう。そうすれば中野のショックもやわらぐだろう。

          「全然進まねぇ」

          「やっぱり俺には向いてないのかねぇ」

          「智香の知り合いに、文藝部興味あるやついないかな」

           素早く返信の文章を打ち込み、素早く画面を伏せる。それでも、彼女はいなくならなかった。文字を打ち込んだ指の腹。スマホの画面をなぞっていただけの指。そこに富木智香が住んでいるような気がした。笑ってしまう。

           ベッドを見る。本がある。せっかく紹介してくれたからな。おもしろくなくとも、読むだけ読んでしまおう。それが水出に対しての礼儀だ。

           

           楓は本をひとつ手に取り、そのタイトルをインターネットで検索にかける。あらかじめ内容がある程度わかっていれば、読もうという気になれるのだ。喜劇ならばそのつもりで、悲劇ならばそのつもりで読み進めていけばいい。心の準備ができていれば、何でも楽しく感じられる。

          「まあ、俺の人生は、先が見えないんだけどな」

           楓には、心の準備ができていなかった。富木智香と向き合う準備が、全くできていなかったのである。彼女との時間を純粋に楽しめないのは、不安になるのは、まさにそのせいであった。

          イズレイト・ディスコ (7)

          2017.12.11 Monday

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             文藝部のこの習わし――入部前に小説を書きあげてくるというミッション。伊豆玲斗も当然、入部当初これをこなした。

             入部の条件といいながらも、平井という入部希望者がまさにそうであるように、文藝部員になる前から文藝部の本は貸し出されている。部員でなければ借りることができないというわけではなく、部員と入部希望者の違いは基本的にない。

             それでもわざわざ入部テストのようなものを設けている理由は、本格的に参加する意志があるかどうかを判別するため――正確には、不純な動機で入部しようとする人間をふるいにかけるためである。

             現在伊豆が唯一の男子部員であるように、文藝部はハーレム状態である。それを狙って入部しようとする人間がいないわけではなく、伊豆が入部する何年も前に、一度問題になったことがあった。それ以降、女遊びを目的とする人間を払い落とすために、このシステムが導入されたのである。

             書くのに時間がかかる者でも、女ではなく文藝部自体に興味のある人間は、本を借りるなりアドバイスをもらうなり、しつこくやって来て必ず書き上げるのが常であった。目的が遊びである場合は、入部テストが出されると二度と姿を現わさなくなる。ふるいとしてはかなり効果が高い制度であった。

             そして、わざわざ借りたものを返しに来て、更に借りようとしているのであれば、この平井という男は、不純な目的など持たずに、文藝部自体に興味がある人間なのだろう。伊豆玲斗はそう推測した。

             

             伊豆の目的は、なくしたメモを回収することであった。しかし、中野が少し席を外すことになり、伊豆はその間、入部希望者の相手をするように命令された。

             だが、伊豆玲斗はそれに応じるような男ではない。実際には、本人は丁寧に対応しているつもりでも、相手からすれば冷たくあしらわれているように感じさせる才能の持ち主であった。特に伊豆から平井に質問することも、入部のための原稿の進捗を聞くということもしない。沈黙が続いていたが、それに気まずさを感じているのは平井だけであった。

             何か聞かれれば答えればいい。伊豆はメモが落ちていないかどうか、床やイスの上、可能性のあるところを全て探してみた。しかし、伊豆の望むものはどこにもなかった。

             黙々と何かを探している伊豆を、平井は落ち着きなく見ていたが、結局伊豆が諦めるまで声をかけることはなかった。

             伊豆はメモを探すのを止め、少し考え込んだあと、中野の座っていた席に腰かけ、パソコンを開いた。自分がどこまで書いたのかを、思い出すためである。もしこのまま見つからなかったとしたら、もう一度プロットを書き直す必要がある。前のものと同じ話が出来上がるかも知れないが、伊豆にとって作品は基本的に一期一会、流れを考え直すと、これまでとは異なった話が出来上がることがよくあった。

             今回の作品にはモデルがあるとはいえ、細かい点で、プロトタイプのものとは違った作品になってしまう可能性がある。仮にそうなってしまったら、原型の話はどうなるのだ。そもそもメモがないということは、原型の話を誰かが読んでいるかもしれない。そしてその誰かが、伊豆の作品を読んだらどう思うであろうか。プロトタイプのものと比較して、「ここを直したんだな」などと考えるだろう。

             このような読み方は、伊豆の嫌う読み方であった。伊豆は、作品をそれ自体で読んでほしいのであって、どこがよくなっただとか悪くなっただとか、そういった観点で読んでほしくなかったのである。

             そして、そのような信念を自分に話してくれた誰かがいたはずなのに、それを思い出せないという状況が、より伊豆を苛立たせた。

             何なのだ、この違和感は。

             伊豆が苛立っているのを知りもせず、平井はこれまでの原稿をチェックしている伊豆に声をかける。

            「あの……」

             伊豆は睨みつけるように平井を見た。平井はびくりとするが、小さく咳払いをして――勇気を振り絞ったようにして、伊豆に問いかける。

            「それは、原稿、ですか?」

             楓のような、ルックスと性格の特異な男子大学生に比べると、何てこの男は地味なんだろうか。伊豆はそう感じてしまった。

             伊豆はその質問に対して、小さく「ああ」と答えて、ふたりの会話はそれで終わることになる。中野が戻ってきたのだ。

             本の貸し出しには、学生証の番号等を記載してもらう必要があった。平井は本を借りに来たのだが、たまたまその貸し出し用のノートが切れたため、中野はそれを買いに行っていたのである。

             自分の役目は終わった。そう判断した伊豆はパソコンをたたみ、席を立つ。ちらりと中野と目を合わせて、伊豆は部室を出た。ドアは静かに閉まったが、伊豆自体が非常に静かであったため、ドアの音は平井にとってやかましく聞こえた。

            「進捗はどう?」

             伊豆が出ていったあとに平井が安堵したので、おそらく伊豆はまともに対応をしなかっただろうと推測した中野は、緊張の糸が解けた平井に問いかける。

            「実は、全然進んでなくて……。何を書いたらいいのか」

             平井は、ちらりと中野の方を確認しながら、貸し出し用のノートに自分の個人情報を書いていく。

             中野は、できる限りフレンドリーに接しようと思いつつも、肝心の対象である平井にあまり関心がなかった。平井は中野のその様子に気づき、彼女の視線の先を見る。

             窓の外には、眉をひそめながらどこかへ向かっていく伊豆の姿が見えた。

            イズレイト・ディスコ (6)

            2017.12.02 Saturday

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               伊豆玲斗は、その日の授業を全て終えたあと、滞った執筆活動を再開すべくメモを出したところ、枚数が足りないことに気づく。

               しかも、彼のインタビューの結果だけではなく、伊豆が創作したプロットの方も紛失しているのである。もはやインタビュー内容の方にはあまり用がない。重要なのはプロットの方なのだ。

               そして、簡潔にではあるが物語の流れが全て書かれているメモを落としたかも知れないということは、それを伊豆以外の人物が拾った場合は物語のネタバレになってしまうのである。伊豆玲斗は何よりも、自身の書いた物語のネタバレが行われることを嫌っていた。

               文藝部の部室でなくしたのだろう。最後に作業をしていたのは、つまり最後にメモを見たのが、そこだからである。当然、道端に落としたという最悪の事態も考えられたが、伊豆はともかく、部室に落ちているという前提で、創作を始めることにした。

               繰り返しになるが、伊豆はネタバレを嫌っているのである。探し出すための時間が無駄だと感じているわけではない。仮にすぐ発見されたとしても、それを誰かが見てしまっていたら、何の意味もないのである。

               伊豆が文藝部の部室をノックもなく開けると、そこには文藝部の部長である中野と、ひとりの男が座っていた。男は伊豆を見ると、おじぎをする。

               彼は、伊豆の知っている男、つまり、楓遊音ではなかった。

               

               楓遊音と水出穂乃は、伊豆が今朝作業していた場所、図書館の前にいた。ベンチに並んで座って、ふたりは唸っている。しかし、水出の唸りは偽りのものであった。彼女に入部の意志はなく、『入部の条件』に頭を抱える必要性は全くなかったのである。頃合いを見計らって楓に、入部を諦めることにすると伝えるつもりだった。しかし、水出の性格と楓の性格の相性があまりにもよかったために、水出はいつの間にか楓と一緒に悩んでいた。

               

               入部の条件は、長編小説を書いて、部長である中野に提出すること。

               これまで物語を書いた経験のない楓にとって、小説、それも長編を書いて持ってくるようにという条件は、酷なものであった。

              「作文くらいなら書けるんだけどな……」

              大学生になってからのおよそ1年間、レポート等は書いてきたが、小説は書いたことがなかった。

              とはいえ楓は、最初から入部するつもりのなかった水出と状況はやや似ている。彼は文藝部に入りたいというわけではないのである。幼なじみである富木智香と距離をつくる。それが彼の目的だった。誰とでも仲良くなれる彼だが、富木との時間が多い。富木以外との時間をつくることにより、彼のいない時間を彼女がどのように感じるか、そこに関心があった。文藝部という形でなくとも、伊豆、あるいは水出との時間が増えてくれれば何でも良かったのである。

               とはいえ、楓の水出への関心は偶然のものであった。彼はもともと伊豆玲斗に目をつけていたのである。冷酷であるように見えながら物語への情熱の激しい伊豆への関心が、楓に小説への関心――正確には、彼と同じことをするということへの関心――を呼び起こしていた。入部できなくとも、完成しなくとも、彼の努力を感じ取れればいいのではないかと、楓は考えつつあった。

               試しに水出に、彼女が過去に読んだ文学作品でおもしろいと思ったものを聞いてみた楓は、図書館の外で考えていても仕方がないと思い、水出オススメの作品を、彼女とともに探し、借りて読んでみることにした。

               楓の興味は、水出ではなく伊豆に向けられたものであった。しかしそれでさえも、富木智香を意識しないようにするという、彼女へのどうしようもない感情を捨てようとする試みであった。楓遊音は、誰といてもどこにいても、富木智香を捨てられずにいた。

               

               楓とともに本を探しながら、水出は、油断すると楓にも聞かれてしまうのではないかという疑問を起こさせるほどに、自身の鼓動を大きく感じていた。楓くんへのドキドキではない。水出は即座に判断した。楓には魅力を感じるが、それは情熱的なものではない。楓とのやりとりは、どちらかというと荒んだ心を落ち着かせる方向の力を持っていた。しかし今は、その力には一切効果がなく、彼女の血管はひたすらに伸縮を繰り返している。

               間違いなく、メモのせいであった。香りが、凄まじく強烈なのである。メモから漂う空気、香りによって体内のタービンが回り、水出の原動力になっているのではないかというほどであった。

               実際彼女は、本など探している状況ではなかった。今すぐ叫び出すか、図書館中を駆け回りたい気分だったのだが、彼女の常識がそれをどうにか阻んだ。

               彼女の背では届かない場所の本は楓が取りつつ、彼女は自分のオススメを楓に抱えさせる。楓が借りるのだから当然ではあるが、何も持っていないことが水出をそわそわさせた。エネルギーが余っているのだ。楓に見えないところで、彼女の手指は落ち着きなく動いていた。

               楓の関心が最も水出に注がれているのではないのと同様に、水出の関心も、楓に対して一心に注がれているわけではなかった。彼女が楓との接触を断てないでいるのは、彼についた残り香のせいである。

               優れた彼女の嗅覚は、楓についた香りですら嗅ぎ分けたが、それが楓由来ではないことも明確に理解させた。水出が楓と関わることの最大の動機は、香りの源と楓に何らかの関係があるだろうという推測である。

               楓が上限まで図書を借りると、彼らは図書館の出入り口からそのまま別々に帰っていった。結局水出は、入部を諦めるということを楓に伝えそびれていた。

               とはいえ、連絡先を交換したわけではないから、今後彼との縁は切れるのだろう。ここまで考えたところで彼女は、楓の連絡先を知っていることで、香りの源を見つけ出すことが容易になったのではないかと後悔した。

               

              「こちら、入部希望者の平井くん」

               入部希望の男、平井は、もう一度伊豆にお辞儀をしたが、伊豆はそれに返すことはしなかった。中野と平井の間にある机には、文藝部に置かれている本、小説を書くために手引書がいくつか置いてあった。

              「何日か前、平井くんがここに来てね。入部したいって言うから、長編小説の完成・提出を条件として出しておいたの。で、そのときに借りていった本を返しに来て、また別のものを貸そうとしてるところ」

               それはもう、ほとんど入部しているんじゃないか。伊豆は口に出さなかった。

              イズレイト・ディスコ (5)

              2017.11.29 Wednesday

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                 伊豆玲斗ほど人付き合いを嫌っている人間ではないため、水出穂乃は、楓遊音のフレンドリーな態度を、彼ほどうっとおしいと感じなかった。水出自身も明るい性格と評されることが多いため、そもそも楓との相性は悪くない。

                 しかし彼女は、特別楓に惹かれるということはなかった。彼女が今楓に興味を持っているとすれば、楓から『香り』がするということであった。今朝から彼女を刺激し続ける香り、それが楓に染みついていたのである。だが優れた彼女の嗅覚は、それが楓自身から漂うものではなく、いうなれば彼に『残り香』がついているのだということをはっきりと導き出した。

                 そして彼女の求める香りは、文藝部の部屋からも流れてくるのである。

                 

                 香りのせいでぼうっとしていた水出だったが、楓との会話のために、ぼうっとしているわけにはいかなかった。楓と水出は――少なくとも、伊豆と楓よりは――性格が似ているために、無理なく雑談を続けることができていた。

                 文藝部の部室の前で楽しそうに男女が話をしているという光景は、傍から見れば彼らが文藝部であるかのように思わせたが、文藝部の部員は、知らないふたりが自分たちの部室の前で談笑していることに驚くだろう。

                「――何か御用ですか?」

                楓と水出が他愛もない話を和気藹々と続けているうちに、ひとりの女性、水出よりも背が高い女性が、ふたりの後ろに立っていた。ふたりは振り返り、急いで扉の両側に分かれる。

                「俺、文藝部さんに興味があるんです。ぜひ見学というか、話を聞くというか、そういうことができたらと思いまして」

                 10分ほど、文藝部とは関係のない話をしていたために、水出は自分が「文藝部への入部を検討している女子大生」という仮面をかぶっていたことを忘れていた。

                 文藝部の部員らしい女子学生は、楓の言葉を聞いて柔らかに微笑んだ。

                「鍵開けますから、もう少し待ってくださいね。開けたら、中へどうぞ」

                 

                 文藝部というくらいだから、夏目漱石や宮沢賢治など、いかにもな文豪たちの著書が棚にずらりと並べられているのだと思っていた楓は、実際の光景に少し驚いた。文藝部の部室に置かれていた本は、名作ではなく名作を作るための本、つまり、小説を書くための手引書のようなものが圧倒的に多数を占めていたのである。

                 そんな楓の目に気づいたのか、文藝部の女はこう言った。

                「うちは読むよりも書く方に力を入れてるから、こういう本が自然と多くなっちゃうの」

                 ベンチのようなイスに並んで座る楓と水出の正面に、文藝部の女性は座る。

                「私は中野と言います。1年生ですが、一応部長を務めています」

                「上級生は、いないんですか?」

                 入る気はなかったが、水出は興味本位で中野に尋ねた。中野はその質問を受けて、少し悲しそうに微笑み、水出の質問に答えた。

                「ええ、そうなの。ひとりだけ、2年生に女性の先輩がいらっしゃるんだけど、半年前から留学してて、だから事実上、今は1年生だけ……」

                 随分と殺風景な光景だな。楓は口には出さず、胸のうちでそうつぶやいた。部室というよりも、図書館のようであった。イスと机以外には、棚や本、窓。テレビもなければ、ゴミ箱の中にも何もない。生活感のない空間。仮にここに文藝部員が休み時間に集まるとして、いったいどんな楽しみ方をしているのだろうかと、楓は疑問に思った。

                「部員は、どれくらい? 俺としては、男女比が気になるところなんだが」

                 相手が同い年であることを知った楓は、少しだけそのフレンドリーな口ぶりを強める。中野はそれに眉をひそめることはなく、彼女の側も楓と対等に接しようと試みた。

                「1年生全員で、10人になるわ。男の部員は、ひとりだけ」

                 妙な顔をしている楓に、中野は首をわずかに傾けて笑う。

                「当然、男子部員は大歓迎よ」

                 文藝部の活動や現在の状況にほとんど関心はなかったが、伊豆玲斗に興味がある楓は、彼についての質問を少しだけしてみることにした。

                「ひとりだけの男子部員ってのは、伊豆玲斗か?」

                 中野は小さく頷く。

                「ええ、そうよ。あなたは、彼の知り合い?」

                 彼女とは対照的に、楓は大きく頷いた。伊豆がこの場にいたら、大きく首を振っていたことだろう。

                 

                 伊豆玲斗が誰なのか知らない水出は、適度に質問をして、文藝部への興味を偽装していたが、伊豆のことを少しでも引き出そうとする楓とは違い、彼女の興味はもっぱら部屋の中の匂いにあった。水出は伊豆玲斗を知らなかったから、伊豆の話をする楓と中野の話には、ついていけなかったのである。その間に彼女は、香りが部屋のそこら中に満ちていることに気づく。特に、現在楓の座っているあたりから、そして目の前のテーブルから、香りが強くなっている。しかし、そのどれもが残り香であった。彼女が求めているものは、今この空間には存在しないのである。

                 しかし彼女は、香りの源が文藝部と関係していることを確信した。文藝部員をひとりずつしらみつぶしに調べて行けば、匂いのルーツに行きつくことができるだろう。彼女の『旅』は、その目的を定めつつあった。

                 ふと水出は、足元にメモが落ちていることに気づいた。水出はそれを拾うために屈んだが、話に夢中になっている楓と中野は、その行動をあまり気に留めなかった。

                 メモに触れた瞬間、水出は血流が速くなるのを感じた。この部屋の中で、最も香りを染み込ませているもの、それがこのメモだったのである。

                 中身を開く。水出にはその内容がはっきりとはわからなかった。おそらく、文藝部の誰かが、自身の創作活動に役立てるためにメモしたものなのだろう。

                 

                 水出穂乃は、メモをこっそりとポケットにしまった。

                イズレイト・ディスコ (4)

                2017.11.28 Tuesday

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                   次に伊豆玲斗が目を覚ましたとき、伊豆の受講している授業の開始時刻が迫っていた。長いこと眠っていた彼は、腕時計で時刻を確認すると、急いで上体を起こして、荷物をまとめ始める。

                   思ったよりも、楓との会話が疲労のもとになったらしい。彼が苦手、あるいは嫌いとするタイプの人間――しかし、嫌いになれないタイプの人間という、これまでに彼があまり関わってこなかった人種との交流を持ったために、伊豆の魂は休養を必要としたのだった。

                   メモをまとめ、胸ポケットに押し込む。畳んだパソコンをカバンに詰め込んで、彼は部室の鍵を取り、部屋を出て施錠する。昼の時間には人が多くなる部室だが、午前中に来るような人間はほとんどいなかった。もし彼が眠っている間に女子部員が来ようものならば、その睡眠中の伊豆玲斗――普段の彼とは違った、無防備な彼の姿は撮影され、誰にも共有されることなく、ひそかに撮影者によって見返され、楽しまれただろう。

                   駆け足で行けば授業には間に合う。伊豆はメモの枚数を確認せずに、暖かくなり始めた空気を背に受けながら、教室へと向かった。

                   

                  「というか、随分といきなり声をかけたのね」

                   図書の自動貸出機の前で、借りる本をスキャンしながら、富木智香はつぶやいた。

                   楓遊音は、富木の借りた本に返却期限のスタンプを押しながら彼女の方を向き、首を傾げる。

                  「伊豆くんのことは、前から知ってたんでしょう? それなのに、話しかけたのは、今日が初めて。どうして急に、そんなことを」

                   楓が大雑把にスタンプを押しているため、返却期限はやや傾いていた。富木は楓から本を受け取り、その傾きに少しだけ怪訝そうな顔をしてから、自身のリュックサックに本を詰める。

                   楓は、富木の嫌そうな顔を見逃さなかったが、そのことには触れず、彼女の質問に答えた。

                  「知ってたっていっても、去年文藝部が会誌を販売していたときに、出展場所で見かけたなってくらいなんだけどな」

                   楓はその時のこと、伊豆玲斗を初めて見かけた時のことを思い出す。富木に頼まれて、彼女の分と自分の分を買いに行ったときのことである。富木が何か別のものを、ふたり分――楓と富木の分――を買いに行っていたときのことである。大学祭での出来事だった。何人かの女子部員が、少しビクビクしながら伊豆に話しかけていたのが印象的だったのだ。伊豆の方は、彼女の怯えた様子など気にもせず、黙々と頼まれた仕事をこなしていたのだが、そのまなざしが、楓にとって魅力的だったのだ。彼が瞬きをするたびに、周囲の空気が冷えていくような気がしたのである。

                  「けどまあ、俺も物語のひとつでも書いてみようかなと思ったから、コネっていうのも変だが、文藝部の知り合いのひとりくらい、あらかじめ作っておいた方がいいと思ってな」

                  「遊音が物語、ねぇ……」

                   ふたりはゲートを抜け、図書館を出る。

                  「随分と不服そうじゃねぇか。そんなに俺は、知的な活動、精神活動が似合わないかねぇ」

                  「何かあるの、書きたい話?」

                   楓は数秒だけ目を瞑って考えた。

                  「ない」

                  「なのに、入ろうって思ったのね」

                  「何かやらなきゃ行けないような気がしてねぇ。お前もどうだ?」

                   富木は両手を開く。

                  「私こそ、書きたいものがないもの。というか、書きたいのがないのにどうするの? 入部するためにとか、入部したあととか、すぐ何か書かなきゃいけないとしたら、大変じゃない」

                  「もしそうなったら、そうだな……」

                   楓は前を向いたまま、にやりと笑う。

                  「伊豆から、ネタをもらうことにすっかねぇ」

                   

                   昼休みになって、楓は珍しく、富木と一緒ではなく、ひとりで文藝部の部室の前にやって来た。入学したての頃に見学などをしていなかったため、しばらくすると学年が変わるというこの時期に、部の活動がどのようなものであるのか調べておく必要があった。途中からの入部ができないとは思えないが、もしそうであったならば諦めがつく。

                   楓は、富木から離れる必要があると考えていた。彼の生活は、彼女に依存している。彼女自身に頼ることはあまりないつもりだが、一日の始まりと終わりや、その他の多くの時間を彼女と過ごしているという点で、楓は彼女を失うと、人生が空っぽになってしまうのである。

                   しかし、彼女の方が楓と同じ気持ちになってくれるかはわからない。彼女の方は、万が一彼がいなくなったところで、気にも留めないのではないか。楓はそんなことを考えるようになっていた。笑みがこぼれる。あいつらしい、智香らしいと思ったのだ。

                   なぜか彼は、彼女と離れる未来が見えたのである。それがいつのことかはわからないが、彼女に会えなくなる、彼女が世界にいなくなる予感がしたのだ。

                   そのときのために、少しずつひとりになる時間をつくってみようと思ったのが、彼が文藝部を訪ねようと思ったきっかけである。しかし実際彼は文藝部など用がなく、興味もなかった。読みものとして会誌を欲しがった富木に頼まれて並んだあの日、楓は伊豆玲斗に興味を抱いたのである。

                   楓と富木が離れ離れになった時、彼の、あるいは彼女の力になってくれるのが、彼であるような気がしたのだ。伊豆玲斗がいなければ、楓は文藝部に入る理由がほとんどないのだ。

                   SNS等の情報から文藝部の部室を調べた楓は、扉を叩けずにいた。文藝部であることを示すものが部屋の前に何もないので、本当にここが文藝部であるのかわからなかった。中に人はいるだろうか。音がしない、電気もついていない。出直すか、もう少しここで待ってみるか。楓は悩んでいた。

                   昼休みには、部室で雑談をするもんだろうと考えていた楓は、やや期待を裏切られた。しかし、文藝部の他の部員はまだしも、伊豆玲斗が昼休みに部員たちと談笑している光景が想像できず、楓の口元は自然と緩んだ。

                   どうしたものかと考えてから、扉の前に突っ立ってから数分が経過したところで楓は、誰かが鼻をすすっている音を聞いた。鼻づまりだろうか。季節の変わり目が近づいてきているとはいえ、まだまだ寒いこの時期であるから、防寒対策を怠った誰かが風邪を引いたのだろう。その程度に考えていた。鼻をすする音が近づき、彼は心の中で「お大事に」とつぶやく。

                   しかし、鼻をすする音は楓に近づいたが、通り過ぎるということをしなかった。一瞬だけ音が止んだあとに、再びすする音が聞こえる。

                   楓が音の方に、自分の右後ろに顔を向けると、そこには、彼よりも背の低い――「智香よりも背が低いな」と、彼はすぐに富木と比較したのだが――ひとりの女が立っていた。そして楓は、自分のそばに立つその少女(大学生であろうから少女という表現が正しいのかはわからないが、少女と呼ぶのにふさわしい背丈であったその女性)が、背中のあたりのにおいを嗅いでいるのが見えた。思わず彼は、一歩退く。その様子をみて女の側は、自分の気候に今更気づいたようで、楓を見上げてから頭を下げた。

                  「ごめんなさい。あなたから、香ってるみたいだったから、つい」

                   その言葉を聞いて楓は、自分の袖の臭いを嗅ぐ。

                  「そんなに変な臭いするかね、俺?」

                  「いや、そうじゃなくて――」

                   女は、突然顔を扉に向けた。

                  「……どうかしたか?」

                  「ああ、ごめんなさい。何でもないの」

                   女は、扉を注視していた。文藝部の子だろうかと、楓は推測する。

                  「文藝部の人かい? 俺は楓遊音っていって、ちょっと文藝部に興味があるんだが――」

                  「ごめんなさい、私は文藝部の人じゃないの」

                   謝る女。

                  「じゃあ、もしかして、あんたも、入部希望者かな?」

                   女は少し考える。女に入部の意思はなかったのだが、このあとの行動のために――扉の向こうの臭いを確かめるために――楓に話を合わせたほうが楽だと彼女は思った。

                   女は頷いた。楓の髪が男性にしてはやや長く、肩のところで結ばれているために、ついさっきまで彼のことを女性だと思っていた女は、楓の顔をまじまじと見上げる。

                   匂いの元ではなさそうだ。彼女はそう感じた。

                   自己紹介をされて、返さないのは不自然かつ無礼だと思ったので、少女のような女子大生は、楓に自己紹介をする。

                   

                  「私は、水出です。水が出ると書いて、ミズイデ。入部するかはまだわからないけど、よろしくね、楓くん」

                  イズレイト・ディスコ (3)

                  2017.11.27 Monday

                  0

                     楓が伊豆との会話に満足した頃、それを知ってか知らずか、伊豆は立ち上がり、楓の方へ顔を向ける。

                    「というわけで、これ以上作業効率を落とさないためにも、俺は場所を変える」

                    「だったら最初から、こんな空の下でやらなきゃいいのに。こんなところで作業してたら、知り合いのひとりやふたりに、声をかけられるだろうに」

                     データを上書き保存する。カーソルが回る。文書を閉じて、USBを抜く。パソコンを畳み、USBのキャップをつけると、伊豆はそれらを抱える。

                    「俺を見つけて、わざわざ俺に話しかけるやつなんていない」

                     ここにいるんだけどなぁと楓は思う。

                    「友達がいないのか、そもそも知り合いすらいないのか、何なのか……。いや、文藝部のコミュニティーがあるから、知り合いがいないってことはないか。お前のことだから、文藝部の連中は友達には加算しないんだろうけど」

                    「その通り」

                    「では、お友達じゃないとしても、知り合いであることには変わりない文藝部の人々が、伊豆くんに話しかけないのは何でだい?」

                     荷物をまとめ、それを背負う伊豆。振り返らず、歩きながら伊豆は答える。

                    「俺が、伊豆玲斗だからだ」

                     

                    「――で、その伊豆くんって人と、友達になったわけね?」

                    「おう!」

                     伊豆と別れた後、彼の遥か後ろを歩いていた彼の幼なじみ、富木智香(とみきともか)と合流してから、楓遊音は伊豆玲斗との会話の内容を、彼女に伝えた。

                     富木は、伊豆のような冷たさでもなく、楓のような明るさでもなく、無表情に、しかし怪訝そうにコメントする。

                    「話を聞いている感じだと、あんまり友達になれてるって感じがしないんだけど」

                     楓は人差し指を立てて、彼女の前で振る。そんなことないぜ。俺とあいつはもう大親友。そう言おうともったいぶっていると、彼女が追い討ちをかけてきた。

                    「そもそも遊音、友達いるの?」

                    「お前なぁ……」

                     電池の切れた時計の秒針さながら、チクタクと揺れていた楓の指は、楓の表情が固まるのと同時に、動くのを止めた。人差し指は、妙な角度に傾いたまま。楓はため息まじりに富木に問う。

                    「仮に俺に友達がいないとしたらだ、俺とお前の関係はなんだって言うんだよ」

                    「幼なじみ」

                     無表情のまま、彼女は答えた。

                     富木智香は、感情がないわけではない。しかし、幼なじみである楓との会話の中では、長年気を遣わずに時間を過ごしてきたせいか、相手に共感したり、あるいは逆に自虐を否定したりという、和気藹々とすることがほとんどなくなっていた。相手の気持ちを読み取るという活動が、相手との関係維持の必須条件ではなくなっているのである。感じたことを胸の内にとどめ、口に出していいことなのかを考えることなく、富木は楓に対して、感じたままを吐き出している。

                    「なるほどねぇ……。お前の中では、幼なじみとお友達は、連立不可能な属性なんだな」

                     富木が図書館で借りる本を選んでいる脇で、楓は小言をいう。

                    楓と富木は、共感し合うことが少ない。富木が、楓との時間の中ではドライになりがちなのが原因であるが、楓はそれにへこたれることなく、20年近く彼女との幼なじみ関係を続けている。

                     しかし富木は、楓に無関心だというわけではない。彼女は彼女で、伊豆玲斗――正反対の性格だろうに、わざわざ楓が声をかけた男に、そして何より、楓自身に興味を持っていた。だから彼女は、本を選びながらという「ながら作業」ではあるが、楓に質問を投げかけたのである。

                    「でも、どうして急に――いくら見かけたからとはいえ、それまで接点も何もなかった伊豆くんに、声をかけたりしたの?」

                     ちなみに、富木が借りることにした本は、楓が持たされている。

                     楓は、片手ではギリギリ持ちきれない本を脇に抱え、そのタイトルが、彼にとっては魅力に欠けるように感じながら、富木の質問に答えた。

                    「文藝部にでも、入ろうかと思ってね」

                     本を取ろうとした腕が、空中で止まる。富木は、キリキリと首だけ楓の方へ向けて、例によって――無関心ではなく――無表情に言った。

                    「――あんた、文字書けるの?」

                     富木の取ろうとした本を、空いている手で取って、楓はやれやれといった様子で、しかし、彼らにとっては当たり前な、淡白な会話を喜びつつ、目を瞑って答える。

                    「そろそろ俺のことを、知能を持った人間として扱って欲しいもんだぜ」

                     

                     文藝部の活動場所――というよりは集合場所である、サークルや部活動のための会館にある部屋のひとつ、つまり部室の中で、伊豆玲斗は執筆していた。

                     部室には、昼にならないと人がやって来ない。伊豆は今、ひとりである。屋内よりも屋外の方が空気が悪くないので、彼は図書館前のスペースで執筆をしていたのだが、楓遊音が声をかけてきたので、空気が悪くともひとりになれるこの部室に、彼はやって来たのである。

                     机の上に置かれた十数枚ののメモを見ながら、彼はキーボードを叩く。実話を元にした彼の作品は、実話のインタビューが充実しすぎたため、ひとつの物語として収束させるのに手間がかかった。インタビューから得られた事実にあまり一貫性がないため、そのまま物語に使うことはほとんどできず、伊豆は別のメモに、作品として完成させるためのプロットのようなものをつくってあった。インタビューのメモが紛失すれば、ネタの提供元である伊豆の知り合いの男とその恋人のプライバシーが侵害されるだけだが、プロットの方のメモがなくなれば、伊豆の作業に支障が出る。風の強い日が続いているから、うっかりメモを飛ばされないようにしなければ。伊豆は鼻から息を強く吐きながら、そんなことを思った。

                     ふと、窓のそばに誰かが立っている気配を感じて、伊豆はちらりと窓の外に目を向ける。人影が消えたのが見えた。今、部室のある1階の窓から見えるのは、大学に附属している小学校のグラウンドだけである。

                     席を立って窓を覗きこむ気にもなれず、伊豆は人影をなかったことにして、作業を再開しようとする。しかし、一度集中力を乱された彼は、途端に眠気を感じた。朝早くからの作業というだけでなく、見知らぬ男――それも、面倒くさそうな男との会話は、伊豆のエネルギーを浪費させたのである。

                     眠る時間はある。彼は自分の財布をズボンのポケットに入れて盗まれないようにし、パソコンをずらし、空いたスペースに腕を置き、腕を枕にして、少々の仮眠を取ることにした。

                     

                     部室のドアは、内側から鍵がかけられないようになっている。今なら誰でも、部室に入ることができるだろう。 

                    イズレイト・ディスコ (2)

                    2017.11.26 Sunday

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                      「大作家先生は、次はどんな話を書く予定なんですか?」

                       楓は、自分の名前を教えたことで伊豆の警戒心が解けたと思うことにし、自分の興味のある質問をぶつける。

                       伊豆はその質問に対して眉をひそめ、楓から顔を背けて作業に戻った。タイピングの音が、まだ寒い朝の風に乗って消えていく。正確には、風の音でタイピングの音が弱められた。伊豆は寒そうにしているが、楓の方は気になっていないようである。

                      「公開前の作品を、ネタバレするバカがどこにいる?」

                      「公開前の作品を、ネタバレしてほしいバカがここにいる」

                       伊豆の言葉を元に楓は返事をし、伊豆は少しだけ、その口元に笑みを浮かべた。

                      「恋愛モノだ、とだけ言っておこう」

                       伊豆はそっけなく答えたが、楓の方は目を丸くする。

                      「お前が、恋愛モノ?」

                       声のトーン、表情、ともに不信感を隠さない楓に対して、伊豆は不服そうに、顔を向けずに視線だけ楓に送る。その冷たい眼差しを受けて、楓は眉を下げた。

                      「お兄さん、恋愛したことは?」

                       楓は、答えがわかりきっているとは思いつつも、質問を投げかける。

                      「ない」

                       伊豆は即答する。楓は、予想通りの答えが返ってきて思わず笑顔になるが、彼の好奇心はとどまることを知らず、更に別の質問が出された。

                      「恋愛経験のないお前が、恋愛モノを、ねぇ。ちゃんと書けるのか?」

                       彼が恋愛モノの小説を書いたなら、いったいどういうことになるのだろうか。楓だけではなく、伊豆と同じ文藝部の女子たちも、同じように好奇心を掻き立てられただろう。恋愛に関する噂の立たない伊豆玲斗の恋愛観が窺えるかもしれない。会誌が出されたなら、読者たちもその作品に期待をするだろう。これは、彼の理想の恋愛を描いたものなのだろうか。それとも、何かしらの恋愛小説からインスピレーションを受けた結果のものか……。

                      「安心しろ。実体験を元に、小説にしたものだからな」

                       伊豆の返答に楓は意表をつかれる。楓が更に問い詰めようとする前に、伊豆が先制した。

                      「ただし、俺の実体験ではない。繰り返すが、俺に恋愛経験はない。少なくとも、記憶にない」

                      「ってことは、誰かの恋愛談を元に、って感じかな」

                      「そういうことだ」

                       伊豆は腕時計を確認する。次いで、画面に表示されている文字数を見た。作業の進度が悪い。ひとりで、誰とも会話することなく作業に取り組んでいればもっと早く書き進められただろうが、知らない男の相手をしたために、作業効率が低下したのである。伊豆は小さくため息をついたが、楓はそれを聞き逃さなかった。

                      「邪魔しちまったかな?」

                       楓の表情には申し訳なさは感じられなかったが、図々しさも浮かんでいない。伊豆はそう感じた。

                      「そうだな、邪魔だ。作業効率が落ちた」

                      「じゃあ、次は作業中じゃないときに声をかけることにするよ」

                       話しかけるな。伊豆は口に出さなかったが、楓はそれに気づいたようである。

                      「まあ、伊豆先生は、もう二度と俺に関わりたくないとでも言いたそうでありますが」

                      「わかってるなら、消えろ。これ以上効率を下げさせるんじゃない」

                      「はいはい」

                       伊豆は妙な気分になった。彼が他人に対して冷淡に振る舞うのは常であったが、楓に対して冷たい態度をとると、まるで彼らには長い付き合いがあり、お互いにその冷たさを了承し合っているかのような気分になった。今日が、彼らの初対面であったのにも関わらず。

                      「それじゃあ、完成を待ちわびておくかな」

                       何かに気づいたように、楓は後ろを振り返る。遠くの方、本当に遠くの方に、人が歩いているのが見える。伊豆には、その表情は全く見えなかったし、その正体が男のものか女のものかさえもわからなかった。しかし楓は、それに気づいたようである。

                      「知り合いか?」

                       冷たくあしらっておいて、なぜこんな質問をしているのか。伊豆は自問するが、気にしないことにした。楓の纏う不思議な雰囲気に飲まれたのだということにした。

                      「そうそう」

                      「恋人か?」

                       伊豆が聞くと、楓は顔を引きつらせる。

                      「そういうんじゃないな、残念ながら。幼なじみだ」

                       伊豆は少し考え込んだ。

                      「幼なじみか。大学が一緒だなんて、なかなかあることじゃない。お前は、随分と物語の主人公のような生活をしているんだな。どうだ、俺の創作のネタになるっていうのは?」

                       冗談を言うなんて、我ながら珍しいものだ。伊豆の口角は、少しだけ上を向いていた。楓は両手を小さくあげて、やれやれというジェスチャーをとる。鼻から息を吐きつつ、彼は嘆いた。

                      「俺の話は、恋愛モノというよりコメディーだな。コメディーが書きたくなったら教えてくれよ。ネタは豊富だから」

                      イズレイト・ディスコ (1)

                      2017.11.25 Saturday

                      0

                         伊豆玲斗は、見知らぬ男に声をかけられて、困惑していた。

                         伊豆は、人付き合いが嫌いである。ただでさえここ数日、彼は身近にあったものが突然なくなってしまったような喪失感、しかもそれが何なのかわからないというもどかしさを感じていたため、新たな人物との出会いに対処する気持ちにはならなかったのである。

                         

                        「おっ。お前、文藝部で本売ってたよな」

                         顔の横で結んだ黒い髪を、どういうわけか肩越しに鎖骨の前あたりにもってきている男が、フレンドリーに、伊豆の感覚からすれば「馴れ馴れしく」、彼に話しかけてきた。

                         伊豆は男の方をちらりと見ることもせず、ノートパソコンを叩き続けた。男に話しかけられたことで発生した作業中断の数秒間が、もったいなく感じられたのだ。当然彼は、男に対して何らかの返答をすることもなかった。

                        「おいおい、無視ってのはひどいぜ……」

                         妙に抑揚のついた声で背後の男が嘆くので、伊豆は殊更、男をうっとおしく感じ始めていた。何なんだ、この男は。

                         男の気配がより近づいたのを、伊豆は感じ取った。作業中の画面を、後ろから覗き込んだのである。

                         伊豆は男の方を見ずに、机の上に置いてあった英語で書かれた小説を手に取って、それで男の頭を叩いた。うめき声が聞こえ、気配が遠のく。

                        「初対面なのによくやるぜ……」

                         顔を手で押さえているからか、男の声は先程までよりもやや曇って響いた。男が伊豆の予想に反するほどの大男であったり、暴力的な振舞いに逆上するタイプであったりすれば、伊豆は叩きのめされていたかもしれない。しかし彼はそれを一切恐れなかった。彼にとっては、見知らぬ男に殴られるよりも見知らぬ男に声をかけられる方が苦痛なのであった。

                         殴られた側の男はといえば、伊豆の行いに対して小言を漏らしはしたが、決して怒るということはしなかった。顔を押さえていた手をどけてから伊豆を見て、彼が申し訳なさそうにしている様子を見せることもしなければ、振り向くことさえしない彼の態度に、むしろ笑みがこぼれたほどである。予想通りの変わり者だと、男は思った。

                        「そりゃあ、反応してくれないわけだ。大作家先生は、目下執筆中でしたか」

                         伊豆は男の言葉で更に眉をひそめ、タイピングの手を止めずに、初めて男に言葉を返した。

                        「大作家じゃない」

                         男の側は、まさか声が返ってくるとは思わなかったので、やや驚いた表情をして、本で殴られてしゃがんでいた状態から立ち上がる。鼻の頭が熱をもっているのを感じた。しかし男は鼻の熱が気にならないほど、目の前の男、伊豆玲斗という男の不思議な魅力に、胸を熱くしていた。

                        「お前の話はわかりやすい。俺みたいなバカでも、読めば話がわかっちまうくらいには、な。ということは、大作家に違いないってことだ」

                         男は、自虐することが多い。この時も普段通り、決して他人を見下すことはしないが対照的に自分はいくらでも卑下する彼の性格に従って、伊豆玲斗の創作した物語を賞賛した。

                         ここで伊豆玲斗は、振り返って、男の顔を見たのである。

                         

                        「――たしかに、バカみたいな顔だな」

                         男の顔を見るなり、伊豆玲斗は辛辣にそう言った。

                        「随分とズバズバ言ってくれるじゃねぇか。そんなに冷たいと、お友達がいなくなっちまうぜ?」

                        伊豆は手を止める。

                        「――いなくなっちまったのかもな」

                        「うん?」

                         伊豆玲斗は、妙な喪失感に襲われていた。ひとつ結びの男の言葉から、ふと伊豆は、昨日までの世界と今日の世界が違ってしまっているように感じていたのだ。昨日のことを思い出すことができる。現在作業中の短編小説のデータも、今日開いた時は、昨日保存した状態のままであった。世界が分断されたわけではない。間違いなく世界は同じものである。しかし、何だこの違和感は。

                         まるで、世界から消えた何かを埋め合わせるために、この男が現われたかのような――。

                        「俺の話は、よく難解だといわれる」

                         大学附属の図書館の前には庭のようなものが広がっており、そこにはいくつかのテーブルとイスが点在していた。伊豆はその中でも最も日あたりのよい場所――とはいっても早朝なので、そこまで暖かいわけではないが――で執筆活動に励んでいる。風が吹き、男の後ろに見える木が揺れる。まだ風は肌寒く、伊豆は、しばらく外で作業をするのは止めようと考えた。寒いから、というだけではなく、現在直面しているような、よくわからない出会いに襲撃されるからだ。

                         

                         深い話だという気はするのだけれど、私にはちょっと、難解かも知れない。ごめんね。

                         別に誰も謝ってほしいわけではないし、何なら、誰かに読んでほしいというわけでもないのだが。伊豆は、文藝部で会誌を出す際に行われる部員同士の批評の中で、必ずといっていいほど耳にする女子部員たちの言葉を思い出した。

                         伊豆玲斗は、表情が冷たいという欠点を抱えながらも、文藝部の女子からは人気があった。そもそも文藝部には男子部員が伊豆しかいないのだが、そういった希少価値を抜きにしても、彼の容姿は女子ウケが良かった。それは、批評の際に妙に遠慮がちになる女子部員の態度からも読み取れる。彼女たちは決して伊豆を怖がっているのではなく、魅力ある男性からの評価が下がることを恐れているのであった。

                         しかし伊豆玲斗は、孤独であった。女子部員、あるいはそれ以外の伊豆と交流のある女性たちは、多くが彼に魅力を感じていたが、彼の持つ独特の雰囲気、孤立感、気高さ――それが魅力なのかも知れない――が、彼の噂を封じ込めた。彼に出会った女の多くが、伊豆玲斗に魅力を感じながらも、「伊豆くんって素敵よね」と、誰も言えないでいたのである。

                        「そんな難解な俺の話が、お前みたいなバカそうなやつにわかるわけがない」

                         伊豆の言葉を受けて、男はやや誇らしげになって返した。

                        「バカにはバカなりの解釈の仕方があるんだよ」

                         男は歯を見せて笑い、そこに敵意が全くないことを伊豆に示すことができた。伊豆はこれまでに、このように明るく、誰かに話しかけられた記憶がなかった。

                         ――いや、あったかもしれない。伊豆は胸のうちでそう思った。誰かが、いたはずだ。だが、誰だ。そいつはいったい、どこにいるのか。

                         

                        「そういえば、俺の名前を名乗ってなかったな。俺はお前のことを知っているが、お前からすれば誰だこいつって感じだろうしな」

                         今更だな、と伊豆は思う。

                        「俺は楓。楓が遊ぶ音と書いて、カエデ・ユオ、だ」