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2018.01.26 Friday

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    イズレイト・ディスコ 〜プロローグ〜

    2017.11.24 Friday

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       ある朝、水出穂乃が目覚めると、彼女はこれまでに嗅いだことのない香りが、どこからか彼女の鼻腔へ入り込んでくるのに気づいた。体をベッドから起こし、大学に通うためにひとり暮らしを始めてから1年が経とうとしている部屋を見回す。彼女の視覚に訴えかける光景は、昨日までのもの、そしてそれ以前のものと何ら変わりがなかった。ただ、彼女の嗅覚だけは別である。目ではなく、彼女の小さな顔の小さな鼻が、今日からの世界はこれまでの世界とは違っているのだと、教えていた。

       布団の外は寒く、窓は青白く光っている。目に映るものに、これまでとは大きくかけ離れた異常が見受けられなかったということは、この香りは、家の中からきているのではない可能性がある。念のため、彼女は寒そうに腕を組んで、片方の腕でもう一方の腕をさすりながら、ベッドの外、部屋の中を歩いてみた。ある特定の場所から、香りが強くなっているということはなさそうである。やはりこの香りは、家の中からやってきたのではないようだ。

       窓を開ける。そこから見えるのは、向かいのアパートの窓でも、彼女と同じようにひとりの女が、窓の外の景色を覗きこんでいた。よく見ると、女は誰かと話をしているようである。女の視線の下には公園があり、そこにはひとりの青年が、女の方を見上げて、何かを言っていた。会話は聞こえないが、楽しげである。

       しかし、水出穂乃の目当ては、香りの源は、その青年ではなかった。窓を開けても、香りが弱まったり、強まったりすることは、なかったからである。

       彼女は朝の空気を嗅いでみる。そこで彼女は、これまで以上に、彼女の嗅覚が鋭くなっていることに気づいた。向かいの窓から顔を出している、水出穂乃と同い年くらいの女を意識して匂いを嗅ぐと、女性らしい香りが、彼女の鼻孔に流れてきた。公園の芝の匂い、遊具の錆びた臭い、公園で伸びをしている青年の匂い、意識すればどれでも、嗅ぎ分けることができた。

       だが、それだけ彼女の嗅覚が鋭くなっていようと、どれだけ匂いを嗅ぎ分けることができようと、彼女が起きてから感じている香りの源はわからないままで、しかも、何を嗅いでいてもその匂いが同時に香ってくるような気がしているのだ。女の、青年の、芝の、遊具の錆びの匂いとともに、水出穂乃の好奇心をくすぐるような香りが、常に漂っていた。

       

       水出穂乃は、大学で授業を受けるために着替えを済ませ、久しぶりの早起きから生まれた余裕から、食パンをトーストする時間ができた。しばらく、焼かないままの食パンをかじって登校していた彼女にとって、食パンが焼けていく匂いは、これまでよりも唾液の分泌を促進させた。鋭くなった嗅覚によってパンの焼ける匂いがより芳しく感じるようになったのと同時に、今日が始まってからずっと彼女の鼻をくすぐる、あの香りも吸い込んでいるからであった。

       冷蔵庫を空ける。冷気が彼女の小さな体にゆったりと当たり、水出穂乃は少し身震いする。チューブのバターを取り出し、冷蔵庫を閉める。トーストが焼けたことを知らせる音が部屋に響く。聴覚は、これまでと同じ程度の敏感さであった。

       

       朝食と身支度を終え、水出穂乃は、普段利用している自転車をアパートの駐輪場に閉じ込めたまま、大学を目指して歩き始めた。今日の彼女は、ゴミ収集車が走っていようとも、大型のトラックがガスをふかしながら通過しても、不快な臭いとともに、幸せを感じることができたからである。香りの原因が家の近くにあるとしたら、大学に行くまでの道中、だんだんと香りが薄れてしまうかもしれない。少しでも長く、芳しい香りを満喫するために、彼女は時間をかけて通学することにしたのだ。

       しかし、彼女の予想は外れ、大学に近づけば近づくほど、香りは遠くなるどころか、どんどんと濃くなっていた。彼女は寒さではなく、その芳しさに少し身震いしたあと、突然路上で身震いしたことを誰かに見られてないかと、周囲を見回した。知り合いはいないようだ。彼女は安堵の息を漏らし、吐いた分を取り返すように、大きく鼻から息を吸う。例の香りが、彼女を満たす。

       比較的、朝早い時間であったから、人が多いようには感じられなかった。キャンパス内の光景には、今までになかったようなもの――香りの正体となりそうなものは見つからず、彼女は少し不安になった。自分はいったい、何の香りを感じ取っているのだろう。自分はいったい、何を求めているのだろう。

       

       授業の教室には、誰もいない。香りが強くなったわけでもない。彼女は、普段座っている場所に座り、荷物を置いた。ぼうっとしていても、香りが彼女を満たす。香りに酔うと、ぼうっとしてしまう。無限に嗅いでいられる。彼女はそう感じた。

       授業が始まっても、教室に人が増えても、香りはずっと彼女を刺激し続けた。授業どころではなく、彼女は授業中も、授業が終わってからも、香りの元が何なのだろうかと想いを巡らせていた。おいしそうな食べ物だろうか。何らかの化学反応によって生じた香りだろうか。動物の香り、あるいは、人間の香りか……。

       彼女の受けていた授業が終わり、次の授業の受講者が席に座り、次の授業が始まって、彼女はようやく思考の世界から脱出することができた。まったく使わなかった筆記用具をしまい、こそこそと教室を抜け出す。

       教室の外に出て、彼女は、自分の次の授業に出席する気になれなかった。この調子では、次の時間も先の時間と何ら変わりがないだろう。無為に時間を過ごすよりは、香りの元凶を明らかにし、明日からまた平穏な生活を送りたいと考えるようになった。このままでは、単位が危うい。

       

       入学してから初めて、彼女は自らの意思で授業を出席せず、広い大学の敷地内を歩き始めた。

       彼女の家から感じることのできた香り、これまで感じることのなかった香りの正体を、突き止めるために。

      ばにらものがたり 登場人物設定集

      2016.11.18 Friday

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        七里ヶ浜創威(しちりがはま そうい)

        ・『ルナティック影法師』『獅子脅しカメレオン』等、『七里ヶ浜シリーズ』の主人公。

        ・男。髪を伸ばしており、首の後ろで1本に結んでいる。右目を隠しているが、特に不思議な力があるというわけではない。

        ・一人称は俺。

        ・身長176センチメートル。

        ・『ルナティック影法師』以降、響の計らいで千香と同棲を開始する。

        ・女性に対してのこだわりの弱さゆえに、中学高校時代はやたらと女子から恋愛絡みの相談を受けることが多かった。

        ・女性が羨むほどの美肌と美しい髪を持っている。

        ・酒に弱い。少量で爆睡する。

        ・冷たい性格のように思われがちだが、実際は人間への興味関心がないだけ。

        ・戦闘能力が高いが、別に鍛えているわけではない。

        ・自身の信ずる正しさにこだわる。

        ・正体は○○○○○の○。

         

        響秋晴(ひびき しゅうせい)

        ・『ルナティック影法師』『獅子脅しカメレオン』等、『七里ヶ浜シリーズ』の主要人物。

        ・『秋の空に、響く』の主人公。

        ・一人称は僕。

        ・身長173センチメートル。

        ・自称「殺し屋」。

        ・響秋晴は本名。

        ・死神である西出澄臥と深い関係にある。

        ・○○○○○○にしか○○できない運命を背負っている。

        ・大学生である創威と同い年であるが、現在大学には通っていない。

        ・というのも、既に海外の大学を卒業しているからである。

        ・仕事上命を狙われることも多々あるが、全員返り討ちにしている。

        ・仕事場には自身の通り名を書き残す。殺害対象の血液によってダイイングメッセージを装うのがメインだが、液体であれば何でもいい。

        ・西出曰く、「史上最強の○○○○○○」。

        ・性格は気さくで人懐っこい。

        ・ピッキングスキル等、仕事に必要な技術はかなり熟練されている。

        ・仕事柄大金を稼ぐが使い道がない。

        ・「人ならざる者」を始末するという巨大な依頼を何者からか受けている。

         

        平栗千香(ひらぐり ちか)

        ・『ルナティック影法師』『獅子脅しカメレオン』等、『七里ヶ浜シリーズ』の主要人物。

        ・一人称は私。

        ・身長162センチメートル。

        ・酒には強い。

        ・創威との同棲生活が始まってからは、家事分担ジャンケンにおいて脅威の敗北率を誇る。

        ・なおジャンケンに負けても家事はなかなかやらない模様。

        ・金遣いは荒くないが、菓子類を大量に買いこむ癖がある。菓子のゴミが創威の生活圏内に侵食してきたことをきっかけに、家事分担ジャンケン制度が設けられる。

        ・創威とは性格が正反対であるが、絶妙なバランスで共存している。

        ・恋愛には疎く、自身の創威への想いについてもよくわかっていない。

        ・しかし創威から何も思われていないことを少々気にしているようである。

        ・髪を伸ばしたいが、創威の髪に対してコンプレックスを感じ始め、なかなか伸ばす気になれない。

         

        マナティエル

        ・眼差しの精霊。

        ・自己紹介のたびに「マナティーと呼んでくれ」と主張するが、これは○○○○からつけられた愛称である。

        ・パーカーを着ていることがほとんどだが、これも○○○○からもらったものである。

        ・一人称は俺。

        ・自称キューピッド。

        ・恋する視線が実体化したものであり、視線の主には見えない。マナティエル曰く「自分の視線は自分には見えない」から。

        ・そのため、彼が姿を見せた相手というのは、視線の主が想っている相手である。

        ・精霊としてある程度の不思議パワーを備えており、物理法則を捻じ曲げることができるが、生命に関わる力の使い方は下手くそ。ゆえに戦闘向きではない。

        ・ただし、恋愛を成就させるという役割の都合上、時を止めたり時を巻き戻すことが得意。時間操作能力に関しては最強の死神である西出をも凌駕する。

        ・二代目死神(ガイコツ)の遠い親戚である。パーカーを得るまでは、死神のような服装を好んでいた。

        美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (34) (エピローグ)

        2016.03.29 Tuesday

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          「なるほど。それで石生さんは、相談された身であるのに、人目も気にせず、わんわんと泣いてしまったわけだね」
          「うるさいなぁ」
           ファストフード店。濡れたタオルで拭かれたためか、きらりと表面が光っている、雫を何粒か散りばめた白いテーブル。
           丸いテーブルの上に、私と美雨くんは、それぞれの手から数の重複したトランプを投げていく。赤と黒の数の書かれたカードたちがばらばらに積みあがっていった。けれどその量は多いわけではない。私と美雨くんの手には、結構な量のカードが残っていた。
          「結構、やりがいのある戦いになりそうだね」
           美雨くんが笑った。私は笑わない。私は、それどころではないのだ。私はどうにかして、彼に勝ちたいのだ。余裕などない。見せる余裕なんて、まったくなかった。

          「そんなに気張らなくていいじゃないか、石生さん」
           目を細めて、ふわふわした毛先を微かに揺らしながら、美雨くんがいった。うるせぇ黙れ。
          「ゲームなんだからさ。時の運っていうものがあるんだよ。運命は変えられない。運は変わらない。太陽がこちらの背後に立てば勝ちを見るだろうし、僕たちの目の前に現れたら負けるしかない。その程度のものなんだよ」
           彼はすっと握り拳を出してくる。右ひじをテーブルに乗せて、軽く握ったこぶしの美しさを見せつけているように見えた。私も負けじとグーを出す。どうみても、彼の手のきれいさには勝てそうもなかった。なんなんだ、こいつは。女として悔しがるべきところだろうけれど、彼の手は相当美しかったため、そんな醜い感情は全く芽生える気配がなかった。しばらく私は、その彼のグーの手をじっと眺めてしまったほどである。上から、人差し指、中指、薬指、小指……。完全には姿を現さない親指が、ぴょこりと頭を出していた。
           私と美雨くんは声には出さず、アイコンタクトを取りながらジャンケンをはじめる。お互いの右手が、上下した。私は美雨くんの言葉にこたえる。
          「運は変わらない。たしかに、そうかもね」
           私はパー。彼はグー。私が先に、彼の手札からカードを引くことになった。
           美雨くんは少し驚いたようなそぶりを見せて、私の手札からカードを引き、巧みに捨てていく。こいつ、透視とかしてないだろうな。
          「石生さんはもう少し、人間の運命とかを否定していくような人だと思っていたけれど、完全にその思想を定着させたんだね」
           ポテトをつまむ。口の中がかわく。冷めてしまったフライドポテトから伝わってくるのは塩味と湿気だけ。あつあつであったはずのそれが、袋の中で少しずつ蒸れていき、かりかりに油で揚げられていたはずの外殻は、箸を持てば重力に負けてしなってしまうほどになっていた。
          「人には運命がある、これはもう、私が最初から考えていたこと」
           美雨くんが小さくうなずく。私の手札は減らない。指に油と塩がついているであろうことは全く気にせず、私はポテトを口に運んだばかりの手で彼の手札からカードを引き抜く。不衛生であるとか、まったく気にしない。どうせ彼の私物のトランプだし、ここでの食事代もどういうわけか彼が持ってくれているし、彼はなんか変なところからお金を調達してきてそうだから、別にあくせく働いた結果のお金というわけではないだろうと、一切遠慮せずにふるまっている。
          「そして、この運命が、人それぞれが操作できるものであるということに対する信頼は、まったく動じてない」
           私はいいながら、ようやく手札からカードを捨てられたことを心の中でこっそり安堵する。
          「神は死んだ、という感じかな?」
           美雨くんはいいながら、私の手元からカードを引き抜く。色っぽい指が、カードにさわるとき少しわたしのてにふれて、びくっとした。
          「さすがに、そこまでは思ってないよ」
           私が言う。美雨くんは、カードをさらに捨てた。私の手元にババがないことを考えると、彼の数少ない手札の中にババがいるということなのだろう。どれなのかはまったく、わからない。
          「人の生き方を決めるのは人間だけど、神様だってどこかできっと生きていて、人々の営みを必ずどこかで眺めてる」
          「人間は神様のモルモットということかい?」
          「私たちがモルモットに対してどんな期待をしているのかにもよるわね、それに対する回答は」
           ババを引いた。つらい。
          「石生さん的には、世界にはどんな種類の期待があるんだい?」
           美雨くんはいったんババ抜きをやめて、彼の注文していたオレンジジュース氷抜きの紙コップを手にとり、その色の薄い唇をストローにふれさせた。
           彼のジュースをすする音に負けないように、力を入れて私は発言する。
          「期待されるべき期待と、裏切られるべき期待よ」

           史恵ちゃんとの海デートのことを報告するべく、私は美雨くんをデートに誘った。場所は、明ちゃんと一緒に来た商業施設。
           階段から落ちて、有林さんと明ちゃんと出会って、ジェノサイド赤ちゃん。史恵ちゃんと出会って、彼女が治くんのことを好きだと思ったら、史恵ちゃんは明ちゃんのことが好きで――。
           いろいろあったけれど、どうにか落ち着いた。彼への感謝も込めて、私はこの物語を、彼に語ることで終わらせたかったのだ。
           美雨くんが首をかしげる。
          「期待されるべき期待、か……。頭の頭痛みたいで、あまりしっくり来ないと思われてしまうかもね」
           彼が理解できていないとは言ってないので、おそらく彼は、私の言おうとしていることをなんとなく察してくれているのだろう。
           けれど彼は、私の口から私の思想が語られるのを待っているような目をしていた。私は応える。
          「この人ならこんなことをしてくれるはずだという期待。けれどそれは、予測通りであることと、予想を覆す結果を招くというふたつにわけることができる。物語を読んでいるとあるでしょう?まさかこんなことになると思わなかったというような衝撃的な結末を目の当たりにしても、私たちは楽しむことができる。そうかと思えば、私たちは予想通りの結果ですら楽しむこともできるの。やっぱりそうなったか、あるいは、このキャラクターならやってくれるはずだというような想い。私たちは、やっぱりな、そしてまさかそうなるとは、というふたつに快楽を見出すことができる」
           美雨くんがストローをくわえる。ジュースを吸うことはせず、その口のまま、彼はしゃべった。
          「神が人間に期待しているとしたら、それはどちらの期待だろうね?彼らの思うように動いてくれることを期待しているのか、反対に彼らの意図に反して、予測できない動きをしてくれるのを望んでいるのか」
          「たぶん、両方。厳密には、神によって期待が違ってる」
          「期待が違うっていうのは?」
          「従属を望む神もいれば、裏切りを望む神もいる」
          「なるほど」
           気づくと、私の手札は残り2枚になっていた。彼がカードを引く。1枚になる。彼の引いたカードが、彼の手札の一枚と一緒に捨てられる。彼の手には、ババだけが残っている。私がこれを引けば、負け。
          「はい、期待通り」
           美雨くんが笑った。ああ、また負けたのか。
          「美雨くん、イカサマしてない?」
           私は彼に聞いてみる。
          「僕は真剣に、石生さんと向き合ってるつもりなんだけどね」
           彼がジュースを飲み終えて、ストローを口で弄んでいるのを視界の端にとらえつつ、私はポテトの袋をひっくり返す。数本残ったポテトが落ちてきて、私はそれを拾って口に運ぶ。彼の分を残さなかったけれど、まあいいだろう。
          「これからどうするの、石生さんは?」
           これからっていうのは、どのことだろうか。
           私が口を開けたままにしていると、彼が「エキス提供のことさ」と付け加えた。
           私はそれを聞いて座りなおし、紙ナプキンで指と唇をふく。
          「続けるよ、これからも」
          「どうして?」
          「私が、女の子たちの人生を証明するために」
           彼は黙って私を見つめている。
          「それに、お金も入ってくるしね」
          「それもそうだね」
           うふふ。彼は声に出して笑った。
          「お金が必要なの、石生さん?」
          「別に困ってるわけじゃないわ。けど」
          「けど?」
           私は立ち上がって、ゴミだけを乗せたトレーを持つ。美雨くんは、トランプをケースにしまう。
           私は言った。
          「おごられてばかりじゃ、嫌だからね。たまには美雨くんに私がおごらないと。そのための、お仕事」
          「楽しくやれるなら、よかった」
           彼は片づけたトランプのケースを、私の手にあるトレーの上に乗せる。いや、これ今から捨てるんだけど。
          「勝ち逃げしたいんだよ、僕は」
          「なにそれ」
           私が笑う。彼も笑う。
          「僕が勝ったまま、トランプを捨ててしまいたいのさ。いつ負けるか、わからないからね」
           そういって彼は、私の手からトレーを奪って、店内に設けられたゴミ捨て場へと歩いて行った。私がその背中をぼうっと眺めていると、彼はざらざらとゴミを捨て、丁寧に紙コップを分類して、トランプを何事もなかったかのように捨ててきた。手ぶらで彼が戻ってくる。
          「もしまたやりたくなったら、今度は石生さん持ちでトランプを買ってきてくれればいいよ。いつでも受けて立つからさ」
           そういう割には自分で調達した分は捨てたのか。よくわからない部分がたくさん残ってるな、彼は。
           今回の件で親密になった気になっていたけれど、まだまだ彼についてわからないことがあるみたいだ。当然のことでは、あるけれど。
          「さて、石生さん。このあと、どうしようか」
          「このあと?」
          「そう、このあと。今から」
           私は少し考える。美雨くんは、水色のシャツごと両手を細身のジーンズのポケットに突っ込む。私は明ちゃんのことを思い出した。
          「映画が観たい」
           私が言うと、美雨くんが間髪入れずにつっこんできた。
          「ジェノサイド赤ちゃん?」
           それはもういいかな。
          「明ちゃんが、今度治くんと観に行くらしいから、少し気になっちゃってね」
          「へぇ、どんなジャンル?」
          「恋愛もの」
           美雨くんは「なるほど」とつぶやく。そしてにこりと笑って、私の背中を軽く押して店を出る。
           近くにあるゲームセンターの音が少し耳障りだった。

          「ねえ、美雨くん」
          「うん?」
           私は背中を押す彼の方を振り返ることなく、惰性で映画館へと足を動かしながら、なんとなく脳裏をよぎった史恵ちゃんとの会話を思い出す。
          「恋愛映画ってさ。恋人と観るものなのかな。それとも、恋人になりたい相手と観るものなのかな」
           彼は笑った。耳元で声が聞こえる。
          「馬鹿だなぁ、石生さん」

          「誰でもいいんだよ。好きな相手ならね。だって僕たちは、今石生さんが提示したどちらにも、当てはまらないでしょう?」
           私も笑った。

          胃の中の蛙、蛇に気づいてもらえず

          2016.03.19 Saturday

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            「また新しいのだね」
             特に深い意味もないが、私の口からそんな言葉が漏れだした。自分でも驚いている。そんなことを言っても、誰も幸せにならないのに。もしかしたら、私の不注意で彼を傷つけてしまったかもしれない。
             別に覗こうとしていたわけではない。けれど、彼のカバンの中にきらりと光るものを確認してしまったから、私の気の利かない唇は反射的に言葉を紡いでしまった。
             彼は私の言葉に動きを止めて、こちらを見る。長い前髪から覗く眼には、不快感のようなものは見受けられなかった。
            「ああ、そうだな」
             彼は私の言葉に対してただ義務的に返すように口を開く。カバンに突っ込まれた腕が引き抜かれ、一緒にライターを釣り上げてくる。読めない。読めないけど、おそらくは英語か何かで書かれたホテルの名前。
            「今度はどんな娘と?」
            「気になる?」
            「いや、別に」
             私は彼から顔をそむけ、否定の言葉を伝えた。しかし彼はそんなことお構いなしで、しれっと話を続ける。
            「授業で一緒になった女の子」
             彼はライターの火をつけると、細い炎を見つめて、ぼうっとしながら答えた。前髪が燃えるんじゃないかとハラハラしながら見ているが、彼の場合燃えてしまった方がいいのではないかとも思う。
            「授業で一緒になっただけの女の子と肉体関係を持てるなんて、相当モテるみたいだね」
            「相当モテるんだって」
             何度も消しては灯してを繰り返し、彼はライターの先から発生する弱々しい火を、まるで足元に寄ってきた子猫を見るような目で捉える。そのまま、小さな炎の中に飛び込んで行ってしまうのではないか。そんなことをふと思った。
             ライターをカチカチするのに飽きたのか、彼はそれを再度カバンの中に放り込み、枕を無視する形でベッドの上に寝転ぶ。
             それ、私のベッドなんだけどな、などとは思わない。むしろ彼に遠慮がなくなってきたので私としては嬉しい限りである。
            「どうだった?」
             私はなんとなく、彼の顔を見下ろして尋ねてみる。長い前髪がはらりと落ちて、男性とは思えないほどつるりとした額が露わになった。横に大きい黒い瞳が、下から私を見上げてくる。
            「どうだった、って。感想聞いてどうする」
            「今後の参考にしようと思って」
             私の回答は惰性で答えたものであった。彼の方も、私のことをある程度理解しているだろうから、それが冗談だと思いつつ、丁寧に答えてくれる。吊り上っている眼が、なんとなく垂れ下がったように見えた。
            「かわいい娘だったよ。まったく経験がなかったわけではないだろうが、おそらくこれまでの相手が身勝手だったんだろう。じっくり時間をかけてするっていうことに慣れていなかったらしい。どうせすぐ終わるだろう、もう少し耐えればいい。最初はそんな表情が窺えた」
             体を起こし、ベッドの近くにあるテーブルの上から彼はグラスをひとつ取る。スパークリングワインの入った、飲みかけのグラス。卓上にあるグラスのうち、より残りの少ない方が彼のものだ。ベッドに座ったままワインを口に含むと、炭酸がはじけ終わるのを待つように、彼は目をつむった。私は彼の横顔をじっと見つめる。目は合いそうにない。
             喉元がかすかに動いて、彼は一息つくと、言葉を続けた。
            「それがだんだん、なるほど、我慢しなくていいんだ、こういうものなんだ。そんな、喜びや恥ずかしさといったような表情に変わっていったのさ」
            「その娘が快楽に目覚めてしまうほど、君は床上手なんだね」
             嫌味っぽく私が言うと、彼は顔の向きは変えず視線だけをこちらに流し、目を細め口角をにっと上げる。ワイングラスをテーブルに戻すと、今度は私のグラスを持って差し出してきた。お前の話聞いてるだけじゃなくて飲め。そんなアイコンタクト。私はそれを受け取って、じっと彼の目を見る。やや沈黙があって、彼がグラスから手を放す。
             彼はうつむきながら小さくこうこぼした。目は愁いを帯びているが、口元は明らかに笑っていた。
            「求められているものがわかるだけさ」



             彼は私の友人である。恋人ではない。彼は私のことが好きというわけではない。私もそれは同じである、たぶん。
             彼には特定の恋人がいないが、その妙な色っぽさから女の子ウケがよく、頻繁にいろいろな女の子と寝ている。そのうち刺されるんじゃないかといったこともあったが、それに対して彼は「こんなことできるのも大学生のうちだ」と答えた。まあ、その通りである。「刺されるんじゃないか」という疑問に対して的確な答えではないが、この際それはどうでもいい。
             探せばいろいろあるもので、彼は女の子と寝るたびに別のラブホテルを開拓してくる。毎回のように、行く場所を変えているのだ。もちろん、ラブホテルの数よりも彼が女の子と寝る回数の方が多いので、何度か周回しているわけではあるのだが。
             彼はいろいろな女の子と関係を持っているが、そこに彼の恋愛はない。女の子の方はおそらく彼に対して一定以上の好意があるのだろうけど、彼は義務的に、求められていることに対して応答しているだけである。彼自身が求めているというわけではない。肉体関係だけを期待したお遊びの方がよほど愛があるだろう。お遊びには肉体への愛があるが、彼にはまったくそれがない。そんな気持ちで抱かれても、気分のいいものではないだろうに。私はそう思っているのだが、どういうわけか彼のことを好きになる女の子たちは、あまりそれを気にしないらしい。
             以前彼と話をしたときに、こういったことがある。
            「誰とでも寝れるんだね、君は」
             嫌味っぽくいってみたつもりだったが、彼は笑って返してきた。
            「寝たいか寝れるか寝れないか、ただそれだけのことだよ」
             どういうことだろう。
            「生理的に抱くことができないだろう女ってのは一定数いるだろう。けど、そんなに多くはない。大半の女は、寝れるカテゴリーに入ってるんだ。生理的に無理というわけではない。金を出されたら寝てやるよっていう相手とでもいうべきだろうか」
            「寝たい人っていうのは?」
            「そのままの意味だよ」
             彼は少しだけ暗い表情になった。
            「積極的に、抱きたいと思う相手だ」
            「なるほど。じゃあ、君は生理的に抱くことができないだろう女性以外なら、誰とでも寝れるってことなんだね」
            「そういうことになるな」
             その時も彼は、ライターをカチカチと指で鳴らして遊んでいた。
            「こいつを抱くくらいなら死んだ方がマシっていう相手か、抱け、さもなくば殺すぞといわれたら抱く方を選ぶだろう相手かって話だな」
            「積極的に抱きたい場合は?」
            「そうだな……。死んでもいいから、この人と抱き合いたいって思う相手、だろうな」
             死んでも抱けない人、死ぬくらいなら抱く人、死んでも抱きたい人。
            「死んでもいいからこの人を抱きたいって、思ったことある?」
             私が尋ねると、彼は指を止めてライターをぐっと握る。ライターを強く握りしめたその右手を見ながら、彼はぼそりとつぶやいた。
            「まあ、ひとりだけ」



             求められているもの、ねぇ。
            「女の子たちは、何を求めているの?」
             彼の顔は見ず、グラスの中のアルコールを口に含みながら私は尋ねる。
            「求めるものは、人それぞれ違っているさ」
            「たとえば?」
            「誰とでも寝ちまう、ビッチの例を考えてみようか」
             自分のことか。
            「行為自体が好きで好きでたまらない、肉体的な快楽に溺れることを望んでいるタイプのビッチであれば、とにかく身体的な情熱、肉欲的な激しさが必要になるわけだ。相手はとにかく性的な刺激を求めているのだから、そこに愛の言葉なんて必要がない」
            「よくわからないけど、誰とでも寝る人ってみんなそうなんじゃないの?」
             グラスを置いて、私は冷蔵庫を開ける。テーブルの上にあるワインの瓶はもうすぐ空になる。しっかりしたものはないけれど、缶チューハイを中に確認した私は、それをふたつ取り出す。冷蔵庫を閉めて、しゃがんだまま振り返りテーブルの上に冷えた缶を乗せる。指先が冷えてしまったので、屈めた膝の裏に挟んで温めておく。
            「ロマンスを求めているビッチがいるのであれば、そいつに肉体的な奉仕はほとんど意味をなさないのさ。そいつが求めているのは肉体的な快楽ではなく精神的な安心感だからな」
            「と、いうと?」
            「激しくちゃいけないというわけではないが、激しさよりもロマンスを重要視するべきだということさ。かわいい、綺麗だ、我慢できない、素敵だ、美しい。これらの愛の言葉を、できるだけ切実であるかのように届けてやるのが、ベストだということになる」
            「切実であるように?」
            「追いつめられると、人間は素が出るだろう?余裕がないようにふるまって見せて、その状況で相手の求めてる言葉を言えば、それっぽいというわけさ」
             彼はベッドから降りると、膝で手を温めている私のところにしゃがみ込む。彼は両腕で私のことを抱きしめると、私の耳に顔を近づけた。息がかかる。
            「綺麗だよ」
             なるほど。
            「恥ずかしくないの?」
            「顔は見せないから、意外と恥ずかしくないのさ。息を多めに使うのがコツだ」
             コツっていわれてもなぁ。
             彼は私から離れると、何事もなかったかのようにベッドの上に再び座る。うんと両腕を伸ばしている彼を見て、私も温まってきた手を脚の間から引き抜いて、立ち上がる。勉強用の机の上から箱を取って、彼の隣に座る。
            「ライター、貸して」
             彼に手を差し出して私がそういうと、彼は自分のカバンの中を漁って、先ほど見えたライターを私の手のひらに乗せる。ひんやりとした感覚があって、せっかく手を温めたのになぁと感じた。
             私は手に持った箱からタバコを1本取り出すと、彼から受け取ったライターで火をつけて、一服を始める。客人がいるから本来であれば外で吸うべきであるのだが、彼が相手だからそこまで気を遣わなくてもいいだろうという謎のルールを適用しておくことにした。彼だって、我が家のように私の家を利用しているのだ。私だって彼をいないものとして扱っていいはずである。お互いに気を遣わないというのが、私たちの間にある暗黙のルールなのだ。ここで気を遣う方が、契約違反なのである。



             彼は女の子と寝るたびに、ラブホテルのライターをもらってくる。それってもらってきちゃっていいのかなと毎回思うのだが、まあそんなに高いものでもないし、問題はないのかもしれない。あるとすれば、清掃員の方が「げ、ライターねぇじゃねぇか」と気づいて新しいものを用意する手間が生じるくらいだろう。
             彼が現在進行形で恋愛しているかは別として、彼が恋愛ごっこに付き合ってあげるたびに、彼のライターが増えていくのである。彼の持つライターの数は、そのまま彼が抱いてきた女の子の数になっているのだ。
             彼自身、タバコは吸わない。それなのに、ラブホテルからライターをもらってきているのだ。まったくの無駄である。意味など、そこにはないのである。使えるから持ってきてしまうのではない。使えるかどうかとは違った次元の、有用性とはかけ離れたところに、彼の行動の意味がある。ライターそのものに意味があるのだ。使えるからではなく、ただ持ち帰ることに意味があるのだろう。
             彼が女の子を抱き続けてからもうすぐ1年が経とうとしているが、そうなる直前、彼から話を聞いた。
            「失恋したよ」
             いつものように彼を家に上げて、のんびりと飲んでいると、彼がポツリと、聞いてもいないのに自分のことを語りだした。横顔を見ると、なんとなく頬が赤くなっているのがわかった。珍しく、彼が酔っていたのだ。
             まず恋をしていたという事実を知らなかったのにいきなり失恋したといわれて、私はどう反応すればいいのかわからなくなった。彼は私が何もしゃべれないでいるのに気付いたのか気づいてないのか、返事を待たずにしゃべり続けた。
            「綺麗な人でさ。ああ、こんな綺麗な人を抱けるなんて、死んでもいいやって思ったよ」
             完全に文脈を無視した、唐突な語りだったので、最初は抱くといわれても何のことかわからなかった。今だから驚かないでいるが、最初に彼の口から性交渉についての話題が上がったときは、私も相当驚いたものである。
            「抱けたの?」
            「ああ」
            「どうだった?」
             顔を赤らめた彼はベッドに横になり、こちらから表情が見えない向きに転がった。わざわざ表情をうかがいに行く必要もなかったので、私はひたすらに、寝そべった彼の背中を見て淡々と会話を続ける。彼は自分の話ではないかのように、まるで本を朗読しているかのような調子で、私の質問に答えた。
            「最中は幸せで胸が膨れて弾け飛んでしまうんじゃないかと感じ、終わった後は、むなしさで胸がつぶれてしまうんじゃないかというほどに苦しかった」
             ずいぶん伸縮自在な心をお持ちのようで。

             彼はその日、そのまま寝てしまった。こっそり寝顔をのぞくと、赤かった顔はさっぱりとしていて、すうすうと寝息を立てるその表情は、どういうわけか幸せそうだった。彼は失恋を、していたはずなのに。
             彼には気になる女性がいたらしく、その人と肉体関係を一度だけ持った。けれど、その女の人には恋人がいるのかどうかもわからない状況で、それ以降彼と関係を持つことはなくなってしまった。彼を恋人にできるかどうか判定するために寝たのか、あるいは一夜限りのお遊びだったのか、そもそも遊びですらなかったのか、今でもわからない。
             年上の人だったらしいが、私にはその人が彼にとってなんだったのかはわからない。学科の先輩、サークル関係、あるいは、本当に一目惚れ。どれだけ綺麗な女性だったかはわからないけれど、当時からモテて女の子に困っていなかった彼が言うのだから、相当な美しさだったのだろうということは容易に想像できる。
             後日、またこの話題を振ってみた時、あの日よりも状況整理ができていたであろう彼はこういった。
            「終わったあと、俺がシャワーを浴びて戻ってくると、あの人はソファーに座ってタバコを吸っていた。下着だけを身に着けて、ベッドからソファーに移動した彼女の背中はどういうわけか、何も着ていなかった、ベッドの上での彼女よりもずっと美しかった」
             酒を入れないと彼は話をしないだろうということで、私はこっそり彼の分だけお酒を強めに作っておいた。顔色は変わっていなかったが、頭の中がどうにかなっていたようで、彼は流暢に、その時のことをしゃべってくれた。
            「耐え切れず俺は、そんなあの人の背中をぎゅっと抱きしめてみた。彼女は振り返って俺の頬にキスをすると、タバコの火を消して、思い切り俺の体を引き寄せた。俺は彼女の引力にこたえる形でソファーを飛び越えて彼女の体の上に覆いかぶさり、妖艶な光を放つ唇を塞いでみた。しばらく重ねたままの時間が続いたあと、俺の中に艶やかな蛇が侵入してきた。蛇は俺の口内を這いずり回ると、タバコの香りをほんのりと含んだ粘液で俺の内側を壊していった」
             人は誰しもが、酔うとこんな風にしゃべるのだろうかと少し気になりながら、私は彼の話を、特に相槌を打つわけでもなく、黙々と聞いていた。なんとなく彼の分のお酒を飲んでみると、口の中がしびれるような気分がして、なるほど少し強くしすぎたかと後悔をした。
            「俺たちはベッドにはいかずに、そのままソファーで体を重ねた。その間、ほとんど蛇は俺の中にいた。俺の一部が彼女の中に入り込んでいる。蛇が俺の孔を楽園に変える。身体の構造上、俺が彼女の中に入っている、俺が彼女のことを犯しているはずが、むしろ俺は彼女に飲み込まれているような気分になった。俺自身が、彼女に犯されている感覚に陥った。俺の中に彼女が入り込んで、その存在を、毒が体を蝕んでいくがごとく、俺の心の中で広がっていったのだ。俺は池に飛び込むのではなく、蛇の腹の中に自ら飛び込んでいったカエルのようだった」
             ここまで喋って彼は、疲れを感じたのか少し口を開くのをやめて、きつめのアルコールを口に含む。水分補給にしてはいささか難があるその酒を喉に通すと、彼は少し声色を落として話をつづけた。目は、うつろである。
            「そう、俺は、蛇に飲まれたのだ。だが、蛇の中は孔だった。飛び込んだのが池であれば、俺の体はぬめりとした液体に覆われていただろう。けれど彼女の中身は、中身がなかった。口の中に入っていったカエルを消化するために体液を出すでもなく、そこにあったのはただの無の空間だった。俺以外に、何もなかった。瞳を閉じれば、そこが彼女の中であるということさえ忘れてしまいそうなほど、そこには俺以外の何物も感じなかったんだ。どうやら彼女は、俺というカエルを胃の中に落とし込みつつも、俺を食料として認識すらしていなかったようだ。俺は絶望した。中に入っていた時は、そのむなしさに抗って幸福と快楽を享受していたが、胃の中から飛び出して、蛇が眼前からいなくなった次の日、俺は蛇よりも恐ろしい、虚無感に襲われた」
             その時の彼の表情が、なんだかとてもかわいそうで、色っぽくて、壊れそうで、生き生きとしていて、美しくて、私は思わず、彼の頬に小さくキスをした。そして彼がこちらを見ると、なんだか恥ずかしくなって、私は部屋の電気を消すと、ある限りの力で彼をベッドに押し倒し、その唇を塞いだ。何をしていたのかは覚えていない。ふたりで少し、お互いの背中や首筋を撫でまわし、舐めまわしてから、私と彼は繋がることはせず、私のつくった強すぎるアルコールに意識を壊され、そのまま翌日の昼過ぎまで、一度も起きることなく、10時間ほど爆睡した。



             おそらく彼は、あの日のことを覚えていない。彼を犯しかけた私ですら、あの時のことを思い出したのは、2か月ほど後になってからだったのである。
             もはや味や香りを楽しむことなく、ただ惰性で吸うだけになってしまったタバコを口から話、私は彼にこう言った。
            「でも結局、女の子たちは性的な快楽、あるいはロマンティックな言葉と一緒に、君のことも求めていたんだと思うけど」
             彼女たちは自身の中で生まれる感情やエクスタシーだけではなく、自分の外にある存在として、彼のことを心から、切実の求めているのだと思うのだけど。
            「さあ、どうだろうな。もしそうだとしても、俺はちゃんとその瞬間、彼女たちの内側に入り込むことで、どういった欲求も満たしてやれてると思うんだが」
             彼女たちは、それでいいのだろうか。一目惚れか、長い恋か、あるいはお遊びか。それはわからないが、彼女たちは彼とその時繋がるだけで、満たされているといえるのだろうか。彼女たちは、彼によって幸せになっているのだろうか。
             これは別に、彼が女の子たちを幸せにできていないならば彼は悪だとか決めつけるために考えているのではない。単純に好奇心として、彼に抱かれた女の子たちと、彼について考えたい知りたいだけなのだ。
             彼の心にもやもやを残した女の人がいた。そして今彼は、その女性と同じような存在になりつつあるのかもしれない。自らの体を犯しつつも、決して自分を満たしてくれないような、けれど、彼女たちの中で彼の存在が膨れ上がっていくような、少しずるくて色っぽく、エロティックなお友達。
             眠たくなってきたのか、彼がもそもそと布団の中に潜り込んでいくのが見えた。私はタバコをくわえて少し黙ると、煙と一緒に彼への言葉を吐き出した。
            「結局君は、あの人を抱けて、幸せだったのかな」
             布団のせいで少し籠っているが、はっきりとした口調で彼から返答が来る。
            「そんなん、幸せだったに決まってるだろ」
            「そっか」
             彼は眠った。
            「じゃあ、君が抱いた女の子たちも、きっと今、幸せなんだろうね」

             いろいろな女の子と関係を持っている彼であるが、性欲過多であるというわけではない。彼は性欲の基づいて女の子を抱いているわけではない。彼は自らに対する需要に対して応対しているだけなのである。性欲のままに抱くよりは綺麗に見えるが、性欲に従っているよりも彼の方が残酷であるように見える。
             私が一度彼を襲いかけたことを除けば、私と彼が肉体的に結びついたことは一度もない。彼自身にそもそも利己的な性欲がないからか、私に女としての魅力がないからかはわからない。どっちかかもしれないし、両方かもしれないし、あるいは、それ以外に何か、理由があるのかもしれない。
             ぼけーっとタバコを吸っていたら、部屋の中が煙たくなっているのに気付いた。むせ返るほどではない。ただ視覚的に、もやっとしているだけだ。視線を枕の方に落とす。彼が寝ていた。部屋は明るい。ああ、このままでは、せっかく寝れた彼が目覚めてしまうかもしれない。
             私はタバコの火を消して、部屋の電気を消そうとする。電気のスイッチに指を乗せた瞬間、なんとなく閃いてしまった。
             なるほど。私はタバコを吸っているから、彼にとっては手の届かない存在になってしまっているのだな、と。彼がかつて愛した女性はタバコを吸っていたが、その点で私はその女性と共通しているのだ。
             彼はなぜ、ラブホテルのライターを収集しているのだろうか。あの日、彼が好きな人を抱いたあの日に持って帰ることができなかったもの。それを忘れないために、満たすために、彼は女の子を抱くたびに、あの人のことを忘れるため、そして忘れないために、ライターを持って帰ってきているのだ。あの日手にできなかったものを、今の自分は手にすることができる。その自覚のために、ライターの存在は必要なのだろう。
             ライターを見るたびに、そして私がタバコを吸っているのを見るたびに、彼はあの人のことを思い出す。煙は、彼の思い出を思い出として現実から隔離するためのヴェールなのだ。決して手が届かない存在。それを隠すための煙。彼はきっと、タバコを吸った女性に触れることができない。
             ふと、禁煙でもしようかと思ってしまった。なぜかはわからないが、私がタバコをやめれば、彼に抱いてもらるんじゃないかという思いが胸の内に芽生えたからだ。別に彼のことを愛しているわけじゃないし、彼に抱かれたいわけでも、性的に欲求不満だというわけでもない。なのにどうして、私はいま――。
             タバコを吸えば、私は彼にとっての幻想になる。タバコをやめれば、私は彼に抱いてもらえるかもしれない。わからない。けど、どちらもおもしろそうだ。それ以外の感情がない。心の底で彼に抱かれたいと思っているわけでもなく、ただなんとなく、好奇心でそう思ってしまっただけなのだろう。そう思うことにする。
             彼の隣には、少しだけスペースがある。もう一人男の人が入るには厳しそうだが、私の体くらいなら、容易に収まりそうだ。
             私は電気を消して、暗闇に目が慣れるのを待ってから、ゆっくりとベッドの中に入る。彼の隣に寝転んで、私は闇の中ぼやけて見える彼の輪郭をそっと手の平でなぞってから、頬に短くキスをした。
            「おやすみ」
             目をつむって、彼の寝息に合わせて呼吸をする。薄く目を開くと、タバコの煙が、白く残っているように見えた。

            美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (33) (終)

            2016.02.02 Tuesday

            0
               真っ白い砂浜に、真っ白い泡が押し寄せている。白と青の境界線は、立体感のある不安定な白によって規定されていた。
               海が青い。前に彼と来た時よりも、青くなっているような気がする。これは誰かの顔色を表しているものなのだろうか。そんなことを考える。ふと、隣に座りこむ彼女の顔色を窺ってみた。特に落ち込んでいる様子はない。だとしたら、この海は誰の顔色を反映したものなのだろうか。
              誰のものでもないのだろうか。自然は人を癒すが、暴力を行使しない限り、自然は変わらない。自然の方が人間に合わせてくれるというのは、ありえないのだろう。人間は自然の崩壊を見て悲しむことはあるが、自然は人の崩壊を見たところで、何も思うことはないのだろう。ただ淡々と、ありのままの姿で生き続けているからだ。もし自然そのものに対する脅威が眼前に迫ってきていたとしても、彼らは決して憶することなく、自分の役目を全うするのだろう。
               何か持っていればよかったな。下に敷けるものがあれば、彼女のお尻は濡れずに済むだろう。
              「いえ、大丈夫ですよ」
               史恵ちゃんはそういった。
              「思ったよりも、砂浜は乾燥してるみたいです。そりゃ、立ち上がった時にお尻に砂がついてるでしょうけど、手で払えば簡単に落ちそうですよ」
              「それならよかった。じゃあ、私も」
               私は答えると、史恵ちゃんの隣に座る。じゃりっと小さな音がした。あさりを食べた時たまに味わう、あの感覚だ。今私のお尻は、砂を食む口になっている。
               隣に座ってみるが、密着するわけではない。私にはわからないが、人にはそれぞれ安心する距離というものがあるのだろう。遠すぎるということはない。けれど、私たちの間にはもう二人くらい座れそうなスペースがある。ここにいない二人を置いているような気分になって、微妙な気持ちになる。
              「すごいですね」
              「何が?」
              「こんな海があったなんて」
              「本当にね」
               いいながら私も、この間美雨くんに教えてもらうまで、全く知らなかったわけなのだけど。彼には感謝する一方、本当に彼の助言通りに行動してしまっているんだなぁと、私はますます、自分の単調さに落ち込むばかりである。
               私と河野史恵ちゃんは、美雨くんが以前私を連れてきてくれた海に来ている。えーっと、あれは確か、火曜日か。史恵ちゃんから「嘘を見抜けない」というメッセージを受けた日に彼が案内してくれた、人間だったらしい黒いシミのある、少し怖い海である。
               相変わらずガードレールはへし曲がって道路からはみ出ていて、特に車が走行しているような気配もない。カモメは飛んでいなかった。本当にあのシミは、カモメが人間を食い散らかした跡なのだろうか。疑わしい限りである。死神と友達で、存在自体ファンタスティックな彼の言ってたことだしね。あまり信用しないようにしよう。この地域の歴史を収めた書物に人食いカモメの記述があれば、信用してもいいけれど。
               今日は日曜日。明ちゃんと映画デートをし、美雨くんを交えてババ抜きをして、どういうわけか彼からリュックを買ってもらったあの日から1週間が経った。
               そうか、このリュックになってから1週間しか経ってないのか。もうだいぶ時間が経過したような気がしている。と、ここまで考えて私はあることに気付いた。今背中にかかっているリュックサックは、比較的新品である。しかしそれは今、私に背負われたまま砂浜の上においてあった。汚れるわ、アホ。
               右隣に座っている史恵ちゃんに当たらないよう、私は座ったままリュックを左側から回し、脚の間に挟む。地面に触れていた部分を確認すると、白い砂がぱらぱらと付着していた。下の方は黒いデザインなので、やたらと砂が目立ってしまっている。私はそれを手で叩く。さらさらと砂は落ち、ツヤのある黒が現れた。どうやら、汚れてはいなかったようである。
              「大事なものですか?」
               史恵ちゃんが尋ねた。
              「いや、最近買ってもらったばかりってだけで」
               そんなに大切ではない……。たぶん。
              「買ってもらった?」
               史恵ちゃんが食いつく。
              「誰にですか?」
              「うーん……」
               説明しづらいな。彼は私にとって何なのだ?彼氏、違うな。友達、違う気もする。知り合い、そんな浅い関係ではない。夫、いや結婚してねぇよ。
               彼だったら、私を何と紹介しそうだろうか。すぐ、ひとつの例が思い浮かんだ、私は彼にならって、こんな返答をしてみる。
              「そうだねぇ。天使、みたいな人かな」
               
               
               木曜日の朝。予想通りというか、予言通りというか。史恵ちゃんに嘘を見抜く力はすっかりなくなっていた。そのことを報告する淡々とした口調のメッセージが史恵ちゃんから送られてきて、私は少し安心する。これで彼女は、力から解放されたのだ。
               その時私は、特に彼女に確認するということはしなかった。まだ知らないのであれば私から言うべきではないだろうし、もし知っていたとしても、わざわざ掘り返すということもないだろう。過去の想い出は、掘り返して使えるものではない。一度地面に埋めてしまえばもう綺麗な状態には戻れない。涙でしけった地面に埋めてしまうと、もう砂がべったりとまとわりついて、非常に不愉快なものになってしまうのだ。そしてその想い出の付着物は、なかなか指から離れない。想い出は、基本的に持ち続けるか棄てるかしか、できないのである。
               
               
               水曜日。自称死神の西出さんと美雨くんとバスで地獄デートをしたあの日の夜。また癖の強い人()と出会ってしまったものだとベッドの上で嘆いていると、私のスマートフォンが小さく通知音を奏でた。メッセージが来たようである。差出人は、明ちゃん。真っ暗な画面に、ぽんとメッセージの内容が表示された。字面でしか判断できなかったが、きっと相当喜びながら送信したに違いない。あまり縁のない私にも送ってくれたのだから、そういうことなのだろう。いったい私は、彼女の喜びを共有した人たちのうち、何番目にこのことを知った人物なのだろうか。そんなことを一瞬考えたが、私は返信を打ち始めた。
              「おめでとう」
               できるだけかわいいっぽい絵文字もつけて送ってみる。ありがとうございますという、彼女からの返信。すぐに返ってきたところを見ると、彼女は相当暇そうである。「祝え!」といわんばかりに多くの友達に同じ文を送り続け、スマートフォンを床に置き、その目の前で正座をしているに違いない。
               明ちゃんからの「ありがとうございます」と、私からの「おめでとう」、さらにその上に、明ちゃんからのメッセージが書かれてある。
               さっき告白をされて、治と付き合うことにしました!
               
               付き合うことになったという報告はスマートフォンを介して送られたが、まさか治くんとやらは、スマートフォンで告白するなんて野暮なことはしてないだろうな。
              「そんなことないですよ!直接、言ってくれました!」
               これが彼女からの返信だった。
               それなら、いいや。ケータイで愛の告白をするなんて、地雷でしかない。気持ちが伝わりにくいというのもあるが、誤送信したり、回線の都合でうまく届かなかったりするからだ。どんなきっかけがあったのかは知らないが、未だに私の中では顔がぼやっとしている治くんとやらが、きちんと明ちゃんに思いを伝え、彼女がそれに応えたのなら、きっとその選択は間違ってなかったのだろう。私が何もしなくても、事態は好転したらしい。私自身の無力を痛感しつつも、人に影響されない人間の偉大さというものを、しみじみと感じずにはいられなかった。
               文章から伝わってくる明ちゃんの幸せオーラで、おばさんもにやにやしちゃうわ。って、誰がおばさんじゃ。
               昔は「メールで告白するなんてマジありえないよね」とか言われていたが、今の状況はどうなっているのだろうか。最近コミュニケーションツールとしてスマートフォンアプリが浸透しているが、「アプリで告白なんてマジありえないよね」とかになっているのだろうか。もしかしたら、どうせ告白するならメールじゃなくて手紙!という時代から、どうせ告白するならアプリじゃなくてメール!とかになっていくのだろうか。昔の手紙の立場が、ことごとくメールに取って代わるのだろうか。そうなったら手紙で告白とかすごいことになるんじゃないかな。わけがわからなくなってきた。とにもかくにも、文化の発展と並走しながらも直接告白した治くんと、それに応えた明ちゃんには敬意を表そう。愛の告白なんって、簡単にできるものじゃない。石生さんは天使みたいなものだねとか言い出すアホはいるけれど、あれは特殊だ。
              「今度映画を観に行こうと思って!」
               明ちゃんがいった。いや、送った、か。
              「へぇ、何を観に行くの?」
               私が適当な(いや、気持ちはこもってるよ?)返信をすると、まさに秒速で返信が返ってきた。
              「恋愛映画です!」
               そうか。よかった、ジェノサイド赤ちゃんとかじゃなくて。びっくりするわ、彼氏。
               恋愛とかよくわかんないと言っていた明ちゃんが、恋人ができた途端に恋愛映画を観に行こうとするのである。恋の力は偉大だ。偉大というか、強大か。強すぎて、彼女を妙な方向に引っ張っていかなければいいけども。


              「恋愛映画ってさ」
               私は砂浜に座りながら、話し始める。
              「恋人と観るものなのかな。それとも、恋人になりたい相手と観るものなのかな」
               自分で言っておいてなんだけど、すさまじくどうでもいい話題だな。少なくとも、海でする話じゃねぇ。
               真面目な史恵ちゃんは、うーんと考えるような声を上げる。
              「恋人になりたい人と、観に行くんじゃないですかね」
              「どうして?」
               彼女は今日、メガネをしていない。目に砂が入るんじゃないかと、心配になった。今は比較的穏やかだが、海で風が吹けば砂が目に入って痛くなってしまうだろう。桶屋が儲かるぞ。何の話だ。痛ぇ、こっちに着やがった砂が!右目が!右目が痛い!
              「恋人と観に行ったところで、比較しちゃうじゃないですか。画面の向こうでは素敵なロマンスが繰り広げられているのにこの男ときたら――みたいな」
              「確かにねぇ」
               私は目をこすりながら返事をした。ああいうのって、やたらと恋が実るまでを描きたがるので、誰もそのあとを教授してくれないよね。付き合ったよ!で、何すんの!って感じになるでしょ。まあ、私は喪女だから関係ないけど。って、誰が喪女ですか!
              「だから、私はこんな恋愛を望んでいるのよ、だから、こんなロマンティックな告白を、私にもしてほしいな、みたいな」
              「圧力がすっごい」
               私と史恵ちゃんは笑った。


               木曜日。明ちゃんから恋人ができたという報告を受け、史恵ちゃんからは能力がなくなったという報告を受けた日の夕方ごろ。私は道を歩いている美雨くんを捕まえた。
              「珍しいね」
               彼の着ていた白いシャツの袖を、可愛げもなく全力でつかみかかった私に対して、美雨くんが発した第一声がそれである。
              「石生さんの方から、僕を捕まえるだなんて」
              「ちょっとね」
               本当であれば水曜日の夜の段階で明ちゃんの話をしたかったのだけど、文面にするのは面倒で、かといってあまり頻繁に電話をするのもどうなのだろうかと感じ、私は大学で直接彼に話をすることにした。
              「なるほどねぇ」
               以前ふたりで話をした学食に来て、おそらく前回と同じ席に同じ配置で座った私は、協力者――というか相談相手であった伊勢海美雨くんに、状況を説明する。
              「――結局明ちゃんと治くんが、カップルになったわけか」
              「そういうこと」
               彼は少し考えて、急に顔を明るくしてこんなことを言い出した。
              「ところで、どうでもいいんだけどさ」
               じゃあ黙ってろ。
               美雨くんは指でテーブルに漢字を書きながら話をする。
              「明ちゃんの明って、この字だよね?」
               彼は、日という字の隣に月を書く。
              「そうよ」
               私は答えた。
              「じゃあさ、治くんの方は――こう?」
               さんずいの隣に、台という字を書く。
              「そうだね」
              「ふたりのファーストネームをつなげると、さ」
               今度は彼は、ささっとふたりの名前を漢字で記す。
              「明と治。明治になるんだよねぇ」
              「すっげぇどうでもいい」
               自分でも信じられないような突き放し方をしてしまった。もちろん彼は、笑ってくれたが。


               金曜日。私は失恋した史恵ちゃんを、美雨くんと一緒に来た海に誘った。いきなり「海に行こう」という文章を送ったので、返信も「送る人間違えてませんか?」と、あっさり返ってきてしまったが。
              「砂浜に座ってぼけーっとするだけだから、特に何にもいらないよ」
               現に私は、美雨くんと海に行ったときも何も持って行かなかったのである。せいぜい電車賃があれば、充分なのだ。砂浜に下りるために階段を使うから、歩きやすい靴だとちょうどいいとか、あってもそのくらいである。
              「どうして、急に?」
               史恵ちゃんからそんな言葉が返ってきた。どうして、急に?か、なるほど、たしかにその通りである。だいたいお前誰だよって感じだもんね。
               私の意図としては、失恋によって傷心中かもしれない史恵ちゃんを、ぜひ美雨くんのいう通り、自然の力で魂を癒せたらというものだ。しかし、「失恋してかわいそうだからさ!慰めてやろうと思ってな!ひゃっはー!」みたいな言葉を送るわけにもいかない。そんなものが送られてきたら、私ならスマホ投げる。
              「いや、いろいろあったからね。なんとなく」
               我ながら、適当すぎるごまかし。ごまかす気があるのか、お前は。
               この段階で私は、史恵ちゃんが明ちゃんと治くんのことを知っているのかまだわからなかった。「明ちゃんとこがくっついたじゃない?」なんてことも、迂闊に言えないのである。同じ部活ならば知ってそうなものだが、念には念を、だ。下手なことはこっちから吹っかけまい。
               ややあって、返信がくる。
              「そうですね。いろいろあったので、ぜひ」
               この返事を受けて私は、ああ、もう知ってるんだろうな、そう考えた。


               史恵ちゃんと海を眺めること10分。波の音が騒がしくなった。海が何かを急かしているように感じられる。急かしている相手は、私か、史恵ちゃんか。
               私はできるだけ、自分が喋るようにしていた。美雨くんとのエピソードを、延々と靴にするだけのおばさんに成り下がっていたが。彼にまつわる話は何かと面白いものが多いので、話題に困ったらぶっこんでおくと楽になる。なんだろう、ピエロというか一休さんというか、なんかまあ、そんな感じの立ち位置のキャラクターだと思えばいい。我ながら散々な言い様である。
               私が、他にどんな話があったかなと思い出しつつも口を休めていると、ぽつりと史恵ちゃんがこんなことを言った。
              「私は結局、何がしたかったんでしょうか」
              「……それは、どういう?」
               私は何がしたかったのか。それはむしろ私のセリフである。今隣にいる女の子には何もできず、明ちゃんのために何かできたというわけでもない。運命を証明する存在として生きようにも、明ちゃんや史恵ちゃんからすれば私は、よくわからない人になってしまう。この生き方に疑念があるわけではないが、これから関わっていくだろう人たちとの付き合い方を、私は考える必要がありそうだ。私が定める私の立場だけではなく、私が関わろうとする人々にとって私がなんであるのかを、どうやら導き出さなければならないようである。
               史恵ちゃんは言った。
              「私はあの3日間、嘘を見抜く力を与えてもらって、何を変えられたのかなって」
              「なにか、できたのかな。なにか、やってみた?」
               質問文に対して質問で答えるマヌケの図である。
              「治先輩に、催促はしてみたんですよね」
              「催促、っていうのは?」
              「ちゃんと思い伝えた方がいいですよって」
               そういって彼女は、空を真っ直ぐ見上げた。涙をごまかそうとしているわけではなさそうだ。ただ遠くに、思いを馳せているだけである。
               彼女だ。彼女がキーになったのだ。彼女が何もしなければ、きっと今明ちゃんと治くんは恋人関係になかっただろう。私は明ちゃんを変えることも、史恵ちゃんを変えることもできなかった。しかし、史恵ちゃんが治くんを変えたのだ。
              「治くんの背中を押したのは、どうしてだろうね」
               私は彼女に聞くように言ってみた。実際にはこの言葉を、私は史恵ちゃんに向かって言ったのではない。彼女に倣って空へ顔を向けた私は、真っ青な空に向かって問いかけたのだ。治くんの背中を押したのは何故かなんて、彼女の方が聞きたいはずなのである。私には、答えるすべがない。
              「わかりません。わからないけど、やっぱり確かなことはあります」
               目線を彼女の横顔に向ける。眼鏡をかけていないからか、以前会ったときよりも目元がはっきりしているように見えた。ぱっちりと開かれたその目に、雲は映っていない。
              「たしかなこと?」
               私は視線を戻して、彼女に尋ねる。
              「好きだったんだなぁって、思って」
               彼女はそういって、しばらく口を閉じた。私はその間、何を言おうか迷って、結局、こんなわかりきったことしか聞くことができなかったのである。
              「誰を、好きだったの?」
              「……怒りませんか?」
               首を小さく傾けて、少しだけ笑って史恵ちゃんは言った。大人っぽい彼女だから、いたずらっぽい表情が非常に似合う。私は彼女の顔を見てなんとなく、有林さんを思い出した。彼女の元に弟子入りをすれば、きっと史恵ちゃんはいい女になるだろう。いや、今でも充分、綺麗なんだけど。
              「怒るも何も、私は答えを知ってるからね」
               私も真似をして、くすりと笑ってみた。有林さんの真似――いや、うまくできなかったかな。たぶん、美雨くんみたいな笑い方になってしまったと思う。
              「ずるいですね」
               彼女は笑いながら言った。その表情に、私は心がむずむずと痒くなる。
               数秒の後、鼻からか口からか、小さく息を吐いて、ゆっくりと紡がれた、彼女の言葉。
               
              「好きだったんです。明先輩のこと」
               
               
               水曜日。死神と美青年とのバスデートの後半戦。
               弓道部の練習風景をじっくりと観察できるような絶妙な位置を走っていた私は、袴姿の河野史恵ちゃんを見つけ、彼女の目線が、いったいどこに向かっているのかを明らかにしようとした。とはいっても、本当に一目瞭然で、謎らしいものはまったくなかったのだけれど。
              「そうか、そういうことだったのか」
               私がぽつりと呟くと、美雨くんが隣で小さくこういった。
              「事態は、本当にシンプルだったんだね。実際に見てみれば、僕や石生さんにだって、真実に気づくことができるほどに」
               バスは高校の前を通り過ぎていく。どんどん遠ざかる母校。私はそれに悲しみを感じなかったが、史恵ちゃんにとって弦にかかる矢がどんなに重いものだろうかと考えて、胸が苦しくなる。
               私が美雨くんの言葉に対して小さく頷くと、彼はそれきり、西出さんのバスが私の家の近くに止まるまで、ひとことも言葉を発さなかった。
               
               有林さんの指摘。河野史恵ちゃんと私が似ているというような言葉。私は最初その言葉を、同じリュックを使っているから、くらいの意味にしか捉えていなかった。しかし実際は、違ったのである。私と河野史恵ちゃんの共通点。それは、女の子が好きだということだった。
               彼女の熱視線は、治くんではなく、彼に熱視線を向ける、塚本明ちゃんに向かっていたのだ。史恵ちゃんの好意は、最初から彼女に注がれていたのである。
               
               
              「軽蔑しました?」
              「んーん」
               私にさえも気持ちを打ち明けてくれた彼女に対して、いったい誰が軽蔑などできようか。
              「私も、似たようなものだから」
              「あ、そうなんですか?」
               少しだけ、史恵ちゃんの口調が軽くなる。
              「明ちゃんに会ったときもかわいいって思ったし、史恵ちゃんに会ったときも、綺麗だなって感じたよ」
              「ありがとうございます」
               途端に私は、横を向く気になれなくなった。少しずつ震えていく彼女の声が、彼女の現在の表情を容易に想像させるからだ。
               ああ、この娘は――この娘はこんなにも綺麗で、失恋をしてもなお、いやむしろそれを経験したからこそ、ますます輝きを増している。からりとした日光をさんさんと浴びて育ってきたバラが、朝露に濡れて、妖艶さが増したような感覚。

               だめだ。なぜだ。どうして私が。

              「どうして石生さんが、泣いてるんですか?」
               私が聞きたいよ。

               なんでだろうね。私が失恋したわけじゃ、ないんだけど。

               史恵ちゃんがつらいんだってことは、痛いほどわかってるつもりなんだけど。中途半端な力を与えてしまったことの申し訳なさと一緒に、得体の知れない感情がどっと溢れてきて、真っ直ぐ見つめていたはずの空を歪ませる。

               ああ、なんだ。私はこんなにも無力だったのか。
               いや、もはや無力感というような言葉では言い表せない、もっと空虚な何かが、私の胸の、中に、奥に、底に、そこに。

              美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (32)

              2016.02.01 Monday

              0
                 外から中の様子がわからなかったのと同様に、バスの中に入ってみても外の景色が全く見えなかった。なんなのだ、このバスは。いったい私をどこに連れて行こうとしているのか。
                 美雨くんの声に招かれて、時刻表にない時間にやってきたバスに乗った私は、美雨くんの隣に座って、何も見えない窓を眺めていた。中の様子はそこらのバスと何ら変わりはない。
                 車両の中ほどにあった緑色の座席に座っていた美雨くんを見つけて、彼の隣、窓側の方に座った私は、窓にかかっているカーテンをひらりとめくってみたが、そこには闇しかなかったので、なんともいえない顔になっている。乗らなきゃよかった。
                 そういえば、普通のバスは真ん中のドアから乗るのに、このバスは車の頭の方から乗車したな。どういうことだ。
                 前から乗って、運転席らしきものを確認したら、そこにいたのは真っ黒な男の人だった。真っ黒というのは肌の話ではない。肌自体は白かった。美雨くんと並ぶほどの美白である。髪を伸ばしているためか、横からではしっかりと顔は見えなかったが、唯一見えた顎のラインはすらっとしていたので、おそらく相当な美形なのだろう。美形の知り合いは美形か。どういうことだ。
                 カーテンをめくったまま固まっている私の様子を見て美雨くんは笑った。笑ってんじゃねぇぞ。
                「石生さんのことだから、色々考えてしまって家に帰るのもままならないと思ってね。バスを借りてきたよ」
                「はい?」
                「まあ、タダなんだけどね」
                 言い終えて彼は、口元だけをにっこりと歪ませる。
                「本当なら無償で乗せるべきものじゃないんだぞ、これは」
                 前の方から、低い声が聞こえる。運転手の男性のものだ。
                「えっと、彼は?」
                 私は美雨くんに尋ねる。バスは揺れているが、窓の景色は一向に変わらないので、どこかに向かっているという感じはしない。
                「彼は……そうだな」
                 美雨くんは言い出した途端に、手で顎をさわりはじめた。沈黙。言葉を選んでいるようだった。
                「彼は、変なやつだ」
                「うっせぇ」
                 美雨くんの言葉に敏感なのか、運転手の男性はすばやくツッコミを入れてくる。
                「なんてお呼びすれば……」
                 私は小さく呟く。私は運転手の方に尋ねたのだ。本当であればもう少し声を張るべきだったのだが、低い声と乗車のときに見えた姿に萎縮してしまっている。
                「西出澄臥だ。そいつとは縁があってな。まあ、あまり気にするな」
                「僕も結構、大学に通うのに彼のバスを利用させてもらってるんだ」
                 美雨くんが脇から言葉を差し込んでくる。えっ、これに乗って学校来てるのか。
                 バスの中は静かだった。エンジンの音も聞こえない。繰り返すようだが、本当に車が走っているのか疑わしい、そう感じた。
                「お嬢さんの家の近くまで乗せればいいってことか?」
                「ああ、お願いするよ」
                 私ではなく美雨くんが答える。なぜお前が。
                「けど、できれば寄り道をして欲しいな」
                「どこに?」
                「そうだなぁ。君の職場にでも」
                「いいのか?」
                「石生さんは神経が図太いからね。問題ないはずさ」
                 おい。さっきから好き勝手決めよって。お母さんか、お前は。
                「西出さんは、何者なんですか?」
                 カーテンをめくるのをやめて、私は手を膝の上に置く。電気らしいものもないこの空間は薄暗く、普段きらきらしている美雨くんでさえも霞んでしまうほどであった。私の目が暗い中でも車内を見れるのは、私の目が暗さに慣れたからか、美雨くんが若干発光してるからか、どっちなのか。そんなどうでもいいことを考えてしまう。
                 西出さんというらしい男性は、少し悩むように唸ってから、嫌そうにこういった。
                「死神……かな」
                 
                「さあ、カーテンをめくってごらん」
                 西出さんが自分の正体を明かしてから数分経過したあたりで、美雨くんがいきなり私に声をかけてくる。西出さんの発言にどう反応したらいいか迷っていると、美雨くんが適当な世間話を振ってきて、それに返して、彼がそれに……というようなことをやっていたら、完全に私は西出さんの言葉に反応するタイミングを見失ったのである。許さねぇ。いや、これが彼の意図だったのか。気まずくならないように、話題を振ってくれたのか。だったら死神だなんて自己紹介させるな。何がしたいんだ、お前は。
                「何がしたいか、か。俺にもよくわからないんだ、そいつのことは」
                 西出さんが言った。私は何もしゃべっていない。……ああ、心を読んだ的なやつですか。
                 私はカーテンを右手でめくる。先ほどまでの暗闇ではなくなっていた。乾燥した地面、ひび割れた地面を、私たちは今走っているようだ。けれど、これはこの世のものとは思えない光景でもあった。薄灰色をした地面は全く動じない。風が吹いているということはなさそうだ。ただ延々と、具合の悪そうな大地が窓の外に広がっていた。
                 空は赤い。メラメラと燃えているように見える。西出さんの声が聞こえた。
                「窓は開けるなよ。俺やそいつはともかく、お嬢さんなら一瞬で燃えちまう」
                「バカだなぁ。今の僕は人間の体なんだ。今窓を開けたら僕だって消えてしまうよ」
                 よくわからないけどつっこむところはそこじゃないと思う。
                「びっくりしただろう、石生さん。ここは彼の職場――の、一番綺麗なところ」
                 これで?
                「もう少し奥までいけば生々しいものを見せられるが、別にそんなもの御所望じゃないだろうしな」
                 西出さんの言葉である。え、なにそれ、こわいわ。
                「だいたい、こんなもの見せて何になるっていうんだ」
                「ああ、ごめん。実はこれは僕が見たかっただけなんだ」
                「はあ?」
                「いいじゃないか。どうせ君の運転なんだから」
                「おい」
                 美雨くんと西出さんが会話をしている。死神と会話をしているのか、この男は。何者なんだよ、本当に。
                「さあ、カーテンを閉じよう」
                 美雨くんは私の手を取って、すっとカーテンを戻す。黒いカーテンしか見えなくなった。
                「殺風景だったろう、地獄は」
                 え、今の地獄だったんですか。
                「諸事情により、天国の方は見せられないんだけどね。地獄の様子を見れば、なんとなく神というものが、そして人間というものがどんなものかわかったでしょう?」
                 全然わかんねぇんだけど。
                「ちゃんと説明してやれ」
                 西出さんが言った。ちょいちょい心読むの、やめてくださいよ。喋らないで済むから楽だけどさ。
                 西出さんの言葉を受けて、美雨くんは笑って言葉を続けた。私が見たことのある笑顔とは少し雰囲気が違っているように見える。気のせいかもしれないけど。なんというか、自然体というか、なんというか。
                「神様は自分の土地でさえ手入れをしたがらないんだ。人間一人ひとりの運命なんて、決められるはずがないよね。そんなことを伝えたかったんだよ」
                 見せないでも口で言えばよくないかな。思わず口からそんな言葉がこぼれた。

                「人智を超えた力に関与している石生さんだから、少し人間離れした景色でも見てもらおうかなと思ってね」
                「私からすれば普段美雨くんと話をしているだけでだいぶ非日常的な気分を味わえているんだけど」
                「ふふっ、ありがとう」
                 褒めてねぇよ。
                「これは少しチートに近いんだけど、どうせ時間もないからね。もうひとつだけ石生さんに見せたいものがあるんだ」
                 美雨くんが西出さんに向かって「よろしく」というと、カーテンが光りだした。いや、違う。カーテンの向こうが、光りだしたのだ。車内が明るくなる。カーテンをめくると、そこは普通の道だった。
                「ここは普段バスが通ってないところなんだが」
                 西出さんが言う。
                「いいじゃないか。誰もどのバスがどこを走るなんて、しっかり把握してないよ」
                 そういう問題なのか。
                 妙に見覚えのある景色だなと思いながらバス揺られていると、ふとあることに気づいた。エンジンの音が聞こえるのである。さっきまで暗闇に包まれていた車内と世界は、完全に音というものが死滅していたのに対し、ここではそれが復活しているのだ。死神のバスが市の世界を走っていたとしたら、今私たちは生の世界を走っている、とでもいうべきか。
                 いや、自分の想像でいったはいいけど、本当にさっき私たちはどこを走ってたんだ?地獄?じゃあここは?
                 などと考えているうちに、見覚えがある理由がだんだんとわかってきた。全然使うことのなかった道。しかしこれは、間違いがない。窓の向こうに見えるのは、確実に私の母校の高校だった。
                 つまり、明ちゃんや史恵ちゃん、治くんが通っている場所でもある。
                 美雨くんがいった。
                「直接会うのは不自然だからね。せめて石生さんにきちんと見せてあげられたらと思って。あとは、石生さんの洞察力に賭けることにするよ」
                「洞察力?」
                 それっきり、美雨くんは喋らなくなった。幸せそうに目を閉じている。おい、寝るな。どういうことだってば。
                 西出さんも喋ろうとする気配がない。彼が本当に死神だとしたら、私たちの世界はあまり鳴れていないのかも知れないと思った。慣れない道を走っているのだから、そりゃ神経質にもなるはずだ。違うか。
                 私に見えるのは、高校の背中側だった。背中というのはつまり、正門の反対側である。野球場の近くにある裏門の方から、高校の敷地をぐるりと回るように、西出さんのバスは走行しているのである。こっちの方に信号はないので、黙々と車道の上を滑るだけであった。
                 野球場の形に沿ってバスが曲がると、しばらくして校舎が見え始める。3階建てだっけ。もう忘れた。懐かしいけれど別に入ってみようとは思わない。
                 袴を着た高校生が見えた。彼らの手にはしなった木のようなものが握られており、こちらに向かって何かをしているように見える。ああ、そういうことか。
                 弓道部である。今私たちは、弓道部の練習風景を見ているのである。何も路上に向かって矢を射ることはないだろうに。飛んでいったらどうするつもりなのだ。歩いてるおじいちゃんとかに刺さったら大変だぞ。
                「あっ」
                 美雨くんが言っている意味がわかった。絶妙な位置である。これを狙ったのだとしたら相当であるが、きっと本当に狙ったのだろう。
                 明ちゃんの姿が見える。史恵ちゃんの姿も見えた。明ちゃんの袴姿かわいい。間違えた。明ちゃんのそばには、男の子の姿も見える。顔ははっきりと見えない。けれど、おそらく彼が治くんなのだろうということは、馬鹿な私でもわかる。
                「……そういうことか」
                 私はその光景を、史恵ちゃんの姿を見て、あることに気づく。私は、大きな間違いをしていたのだ。有林さんの言葉が思い出される。なるほど、彼女の言葉は、そういうことだったのか。
                「美雨くん」
                「うん?」
                 美雨くんは目を瞑ったまま返事をする。
                「洞察力、ちゃんと機能したみたい」
                「それはよかった」
                 さて、どうしたものかな。いや、結局私には、どうしようもないことなのだ。
                 どうしようもないことを考えるよりも先に、私はいったいどのようにこの死神と美青年のデートを終えればいいのかを考えなければならない。運賃払わなきゃいけないかな。まあいいか、請求されても、どうせ美雨くんが払ってくれるだろう。

                 部活が始まっている時間にしては、やたらと外が明るかった。

                美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (31)

                2016.01.31 Sunday

                0
                   水曜日。河野史恵ちゃんに与えられた嘘を見抜く力。その効果は、おそらく今日の間しか機能し得ない。明日の朝になれば、彼女に力はなくなっているのだろう。
                   今更だが、私は大学生である。対して塚本明ちゃん、河野史恵ちゃんらは、ピチピチの女子高生であった。基本的に私たちには縁がないはずである。明ちゃんとはたまたま駅で私が倒れている(寝ている?)時に出会ったというだけで、史恵ちゃんにいたっては有林さんがエキスを売ったということで私が何の前触れもなく突撃していったのだ。
                   今でこそ文章でやりとりをしているが、直接会うということはなかなか不自然なこととなる。これ以上やたらめったに直接会うのは、友達関係でなければ不可能であろう。もちろん、先日まで見ず知らずの他人だった女子高生と女子大生が友人関係になるというのも、いささか怪しすぎるというものだが。

                   水曜日の授業は少ない。文系大学生の特権である。3時のおやつ頃には、私は暇になる予定なのだ。しかし、今日はできるだけ時間に余裕があって欲しくなかった。というのも、何もできない現在の状況だからこそ、「何かしなければならない」という圧を与えてくる時間の余裕は、苦痛でしかないからである。
                   まともに話を聞くこともないまま、授業がすべて終わった。さて、どうするか。何もしたくない、何もできない。
                   私はこれを、いったい誰に話せばよいのだ。何かを伝えたいわけではない。何かのアドバイスを得たいというわけではない。美雨くんにはすべて伝えてある。かといって、彼が話をしたい対象から外れるということもない。とにかく、何かの話をしたいという気持ちは間違いなく存在しているのだが、私が何をしたいのかという意図が、ごっそりと抜け落ちているのだ。何もできない、何もしたくないからこそ、話がしたい。けれど、何もしたくない私は、話すことによって何をしたいのかということも、分析できずにいるのだ。
                   私が何か行動を起こさなくても、明ちゃんは、治くんは、史恵ちゃんは自らの運命を操作していく。運命の車輪はとても重く、彼女たちの力では、神の定めたルートから外れるほど、運命を引っ張ることは難しいかもしれない。けれど、不可能ではない。人生は長い。ほんの少しの軌道修正でも、長い時間をかけてみると、すさまじい脱線を果たすことになる。彼女たちの運命がどうなるのか、彼女たちが選んだ道がどこにたどり着くのかは、彼女たちにしか決められない。彼女たちの運命のハンドルは、私には触ることができないのだ。
                   
                  「できるなら、未だに話を聞いていない治くんの方にもアプローチをかけたいところだけどね」
                   昨晩美雨くんは、そんなことをいった。私はそれに対して返答をする。
                  「そうだね。けど、私と治くんには、話をするべき縁がない」
                   明ちゃんとの会話は、ほとんど避けられないものであった。気絶していた私が、状況を確認するためには、彼女に聞くのが確実だったからである。
                   いったいどこの世界に、気を失っていた間自分のそばにいてくれた人間から意見を聞かず、むしろその人のもとから全速力で逃げるというような人間がいるだろうか。

                   史恵ちゃんとの出会いは私の作為的なものである。出会うはずのないふたり、という感じだ。しかし、彼女はエキスを提供された人間であり、私はそのエキスの提供者、いわばソースなのである。
                   もちろん、彼女が私の意図――明ちゃんの問題解決のために近づいたという下心が理解されているかどうかはわからないけど。そうか、もし彼女がそれに気づいてなかったら、私は「何をしに会いにきたのかわからない人間」になっているのだろうな。ははは。

                   それに対して、明ちゃんと史恵ちゃんの想い人である治くんとやらは、まったく私と繋がる要素がない。女の子ではないから、将来エキスを提供されるという可能性もゼロだ。
                  「彼から話を聞くのが有効なことのように思えるけど、今回はそれは諦めた方がよさそうだね」
                   美雨くんのいうとおりである。
                  「しかし、あれだね」
                   私がぼうっとしていると、彼がさらにこんなことを言った。
                  「他にもエキスを提供している女の子がいるのだとしたら、どうにか知り合いになって、これからは彼女らと協力した方が、事態はうまくいきそうなものだけどね」
                   
                   史恵ちゃんの能力が切れるのは明日の朝である。それまでにどうにかするのはもちろん難しい。だが。
                   もし私がこれからも迷える女の子たちに嘘を見抜く力を与え続けるのであれば、美雨くんの提案を受け入れる必要も出てくるだろう。どこにいるのか、どんな女の人なのかもわからない。けれど、他にも便利な力が存在しているのであれば、彼女たちの力を借りない手はないだろう。
                   今私は、明ちゃんの史恵ちゃんとの問題に苦戦しているが、私から生み出されたエキスが存在している限り、この力に翻弄される女の子が、必ず現れる。これからどれくらい出てくるかはわからない。けれど、私の責任――力を与えるものの責任は、その権力が存在している限り、いつまでも付き纏うことになる。たとえそれが、私には(嘘を見抜く)力がないとしても、だ。
                   世界には嘘が溢れている。たとえそのいくつかが人を傷つけるものだとしても、人にしか嘘がつけないことを考えれば、嘘というものは人間の象徴であると考えられた。人間の、神と動物の中間にいる存在の象徴である嘘は、人が居続ける限り、必ず世界のどこかに存在し続ける。
                   神でもなければ人でもないわたしは、その嘘の価値を、認め続ける存在でなければならない。嘘は悪いものなのではない。嘘をつけない人間がいるのだとしたら、むしろ人間性が欠如しているともいえるのだ。人間性が欠けている私の役目は、人に人間性の――嘘の可能性を忘れさせないこと。
                   嘘が悪いものであるという認識は、覆さなければならない。嘘を見抜く目的は、相手の悪意を暴くことではないのだということを訴え続けなければならないのだ。好意による嘘か、悪意による嘘かの篩にかけて、前者であれば感謝をし、後者であれば非難をする、そのために見抜くというわけでもない。嘘の質、嘘の内容、嘘の意図を問うのではなく、ただひたすらに、嘘の存在を認識するだけのために行使するべき力。与える存在として、私はそれを常に意識し、これからこの力を受けるであろう女の子たちを、導いていかなければならない。

                   
                   授業が終わったあと、ぼんやりと、意味もなく私は大学の外に出て、普段通らないような道を歩く。大学進学のためこの近辺に引っ越してきた人であれば知っているのかもしれない道を、私は全くのノープランで歩いている。
                   普段利用している駅とは反対の方向へ足を進めるが、特にいきたいところがあるというわけではない。ただなんとなく、美雨くんが教えてくれた海のような、心や魂を癒す風景のようなものを、私自身の脚で、目で、心で、魂で、探したいと思ったのである。

                   歩き疲れて、私は日頃使わないような、いったいどこに向かうバスが来るのかも知らないようなバス停を見つけ、そこに設けられた小さなベンチに腰をかけた。時刻表を確認したところ、しばらくバスは来ないらしい。しばらくは休憩地点として、利用ができるはずだ。
                   車の通りもなければ、人が歩いている気配もない。私はいったいどこに来てしまったのだろう。そんな気分に襲われた。あまりにも人がいないので、有林さんと駅のホームや女子トイレで話をするときのことを連想する。誰もいない空間など、そうありえるものではない。
                   そんな中、一台のバスが来る。おそらく、ここではなく別の路線を走っているものだろう。このベンチに座り続けて5分くらいして、ようやくまともに動く物体を見たような気がした。家はあるが人が出てくることもなく、公園のようなものもなければ信号もすぐ近くには見当たらない。そんな地域だった。
                   バスが止まる。あれ、ここにはしばらく何も止まらないはずだったけど。腕時計を確認する。スマートフォンでも時間を確認したが、時刻表に書かれていた時間とは全く異なっていた。
                   バスのドアが開く。低い声、しかしローテンションでおちゃらけたような声が、真っ暗なバスの中から聞こえる。
                  「おう、待たせたなお嬢さん」
                  外は明るいのに、バスの中はまったく見えそうになかった。まるでこの車の中だけ、地獄に繋がっているようである。
                  「澄臥。できればあまり石生さんに、そんな乱暴な言葉は使わないで欲しいんだけど」
                   中から別の声が聞こえた。
                  「……美雨くん?」
                   間違いなく、彼の声だった。
                  「ごめんね石生さん。たぶん君は今頃とてつもなく時間をもてあましていることだろうと思ったから、お節介をしたくなってしまってね」
                  「お節介?」
                  「まあいいや、乗ってくれればいいよ。安全運転だからね。運転手は柄が悪いけど」
                   開いたドアの方から低く「うっせぇ」という声が聞こえる。運転手と呼ばれた男性のものだろう。ここからでは、美雨くんの姿も運転手さんの姿も見えない。
                  「どこに行くの、これ?」
                   私は美雨くんに尋ねる。
                  「貸切みたいなものだからね。このバスは、君の望むところにならどこにだって走っていくよ。さあ、暇つぶしに、ドライブでもしようか」
                   美雨くんの明るい声が聞こえて、私はベンチから離れた。「運転するのは俺だろうが」、そんな低い声が聞こえる。

                  美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (30)

                  2016.01.30 Saturday

                  0
                     作戦を練ろう。
                     明ちゃんの方は、ぶっちゃけかなり脈がある。もちろん、フラれたりする可能性というものもあるわけだけど、それでもかなり低いだろう。幼馴染は必ず恋人になれるとかいうつもりはないけれど、そこら辺の女の子――縁はないけど憧れているだけの娘とかよりは、よほど可能性が高いように感じられた。
                     そもそも、明ちゃんはきちんとまだ自分の好意の正体というものに、気づいていない可能性があるのである。彼女は恋愛なのかどうかよくわからないといっていた。つまり、彼女が嘘をついている可能性というのも、充分にありえるのだ。少なくとも、彼女が本当に治くんの嘘を確かめることができなかったのだとしたら、史恵ちゃんと違い完全な能力を持つ彼女が嘘を見抜けないのは、信頼のせいである。これが恋愛かそうでないかの判断まではおそらくできないのだが、嘘を見抜けないのが事実だとしたら、恋愛なり友情なり他の形なり、確実にそこには信用や行為というものが存在することも事実になるのだ。こればかりは、否定ができない。
                     もし、明ちゃんが実際には治くんの嘘を見抜けていたとしたら、彼女から嘘を見抜く力が消えているだろう。もちろん、これは彼女の願いが「治くんの気持ちを知る」ということであったらという仮定のもと出される結論ではあるが。とにもかくにも、明ちゃんの方はまだ時間がある、あるいは既に問題は解決しているのだ。彼女が嘘を見抜けていないのなら、まだ能力の消滅には時間がある。嘘を見抜けていたのに嘘をついたとしたならば、嘘を見抜くという本来の願いを解決できているからだ。
                     問題は史恵ちゃんである。彼女の願いは、私には具体的な形で認識ができていない。誰の気持ちを知りたいのか、治くんへの嘘判定がいつ効果が出るのか(これは有林さんにもわからなかった)といった謎もいまだ残っている。
                     
                     トイレから去ろうとして、しつこい女だなと自分で思いつつも、私は有林さんにこんな質問をしてみた。
                    「有林さんは今私が関わっているこの件について、もう答えを知り尽くしてるの?」
                     有林さんは首を横に振る。
                    「勘違いしないで、石生さん。私は万能選手というわけではないのよ?」
                     毎回質問したいときに現れるあなたにいわれても説得力がない。普通に壁抜けとかできそうである。
                    「私にできるのは、エキスの生成と缶での提供、あるいは、必要に応じて提供者の前に出てきて質疑応答をするくらいなの。提供者ではない人たちの背景は、ほとんど知らないわ」
                     私には、彼女のこの言葉の真偽を確かめる術がない。相変わらず何色なのか判断しがたい彼女の髪が揺れているのを、黙々と見つめるだけしかできない。
                     私はこんな質問もしてみる。
                    「じゃあ、河野史恵ちゃんの願いの正体は、わかる?」
                    「それは、もちろん」
                     彼女は首を縦に振るということはしなかった。
                    「願いがある女の子を見抜いて声をかけるんだもの。全員の女の子に声をかけるわけにもいかないから、ある程度内容を覗かせてもらってるわ。もちろん、彼女の願いも把握済み」
                    「なるほど」
                     私は去ろうとする。
                    「教えて欲しい?」
                     有林さんは意地悪そうに私の背中に語りかけてきた。私は首を振る。
                    「ヒントだけちょうだい」
                     私が返事をすると彼女はクスリと笑って、こういった。
                    「そうねぇ。事態は絡み合っている。そうとしか言いようがないわね」
                     
                     事態は絡み合っている。美雨くんがいつだか指摘してくれたことと同じだ。
                     私は部屋のコンセントからスマートフォンの充電ケーブルを外す。スマホを持って、バッドの上に座った。寝るとき以外はベッドにいない方がいいという話をどこかで聞いたことがあるが、知ったことではない。
                    「嘘を見抜くのに時間がかかるケースもあるってことだったけど」
                     私は史恵ちゃんに向けてメッセージを送信した。今アプローチするなら、時間制限のある彼女の方にするべきだろう。
                    「史恵ちゃんに缶を渡した女の人がいるでしょう?」
                     10分ぐらいして、ポロロンという通知音とともに、彼女からの返信が返ってきた。
                    「はい。あの、綺麗な人ですよね?」
                     そうです。
                    「最長どれくらいで効果が現れるのかって聞いてみたんだけど、彼女にもわからなかったみたい」
                    「ああ、そうでしたか」
                    「まだ嘘の判定はできない?」
                    「そうですね。もうだいぶ時間が経ってますが、まだまだ……」
                     スマートフォンの画面右上を見る。夜の11時を少し回ったぐらいである。史恵ちゃんから「嘘が見抜けない」という旨のメッセージをもらったのが4時とか5時とかだったか。そうなると、6時間とかの時間が経っていることになる。さすがに6時間は待ちすぎだろう。
                     ふと、史恵ちゃんと同じく、効果が現れない明ちゃんのことを思い出した。彼女は治くんに対して好意があるから、彼の嘘が判定できない。能力が不完全である史恵ちゃんとは、この点で異なっている。しかし私は、この前提の穴に気づいてしまった。
                     史恵ちゃんと明ちゃんの状況が違うなんて、いったい誰が決めたのだ。
                     私は今浮かび上がった可能性を検証するべく、史恵ちゃんに対してこんな文章を送ってみる。
                    「塚本明ちゃん、私の知り合いなんだけどね」
                    「え、そうなんですか」
                    「うん」
                     私はさらに続ける。
                    「彼女のこと、どう思う?」
                     ややあって、彼女から返信が来た。
                    「憧れの先輩ですよ。かわいくて、明るくて。一途で、素敵ですよね」
                     
                    「と、いうわけなんだけど」
                     海の音が聞こえる。お前今日海いっただろ。とはいわない。
                     史恵ちゃんからの返信に適当な返事をして、私は美雨くんに電話をかけた。有林さんはある程度色々なことを知っているし、別に彼女の連絡先を知っていたとしても、彼女に相談したいとは思わないので、必然的にこの件についてある程度理解のある人間かつ相談できる相手は、美雨くんだけになる。
                     この間とは少し違った音。いったい何種類の海の音が販売されているのだろう。彼の息が小さく聞こえる裏で、波がざばざばと音を立てていた。ふと、美雨くんが息をしているということに気づき、驚いた。
                    「なにそれ」
                     彼は笑う。
                    「いや、あんまり美雨くんって人間っぽくないからさ。息してるのかなって」
                    「僕だって喋ってるからね。呼吸は必要だよ」
                     まるで喋るためだけに呼吸をしているのであって、黙ってれば呼吸をしなくても生きていられるというような口ぶりである。
                    「それで、石生さんの見解は?」
                    「うん」
                     私は言葉を口にしながら、自分でその意味を噛み締めた。
                    「月曜日かな。史恵ちゃんと駅の近くで一緒に話をしたときのことを思い出して」
                    「どんな話をしたの?」
                    「店がおしゃれで困るとか、そういう話もしたんだけど」
                     本題はそこではない。
                    「彼女に、嘘を見抜く力を欲している理由を尋ねたのね」
                    「うん。そうしたら?」
                    「彼女の答えは、こうだった」

                     同性の先輩がいて、すごく明るい人で、いいなぁ、ああなりたいなぁって。

                     で、その先輩が恋をしていて、先輩の恋の相手のことも、知るようになって。

                     好きになっちゃった?――いいなぁって。

                    「ほう、それは、なかなか」
                     美雨くんが、唸り声のようなものを上げる。
                    「なんともいえないね、それは」
                    「うん。私もいったい、どうすればいいのかわかってない」
                     私の想定が事実だとしたら、私のやったことは、やろうとしていることは、かなり史恵ちゃんにとって酷なことだ。彼女に対する申し訳なさから行動していたつもりが、結局私は、彼女に対してひどいことをすることで償いをしようとしているのである。償いとはなんだったのか。
                     そもそも、人の恋愛にどうのこうのということが間違っていたのだろう。今更ながら、そんなことを思う。
                    「でも、今更止まれないよね、石生さんは」
                     そうだ。そうなのだ。私は悪い女でありたい。やさしさがなく、やさしさの価値を知り、常に人に助けられ、感謝されることのない女。それがきっと、私に与えられた仕事なのである。運命というものが存在するのだとしたら、私が階段から落ち、有林さんと出会い、目覚めたとき明ちゃんがそばにいたのは、すべて運命のいたずらなのである。
                    「それが、私の運命だから」
                     これは、誰かが決めたことではない。神様がいたとしても、この私の運命だけは、神様が決めたものではないのだ。私は人間ではない。やさしさのない、嘘をつけない私は、人ではないのだ。人の運命は神が決めているとしても、神は私の運命を、定めることはできない。
                    「どうするの?」
                    「私は人を変えられないもの。何をしたって、事態は変わらないわ」
                    「じゃあ、何もしない?」
                     美雨くんはいった。たぶん彼は、口元をほころばせているのだろう。
                    「私は、彼女たちの人生を見届けて、証明しなきゃいけない。変えることはできないけれど、彼女たちの現実が事実であることを、証明する存在でいなきゃいけないから」
                     河野史恵ちゃんには、憧れの同姓の先輩がいる。その女の子には好きな男の子がいて、史恵ちゃんはそんな2人を見ているうちに、男の人を好きになってしまった。
                     河野史恵ちゃんは、塚本明ちゃんに憧れている。史恵ちゃんは治くんの嘘を見抜くことができなかった。私はこれを、能力の不完全性から来るものだと思っていたのだ。
                     違う。事態は、人間は、そんなに独立したものではない。美雨くんや有林さんがいっていたように、状況は絡み合っているのだ。
                     河野史恵ちゃんが治くんの嘘を見抜けなかった理由。それは能力が不完全だったからではない。彼女が治くんとやらに、信頼を持っていたからだ。ちょうど明ちゃんが治くんの嘘を見抜けないように、史恵ちゃんもまた、同じ理由で――つまり、治くんに好意があったために、彼の言葉の嘘判定ができなかったのだろう。
                     
                     河野史恵ちゃんの想い人は治くんだ。そして、明ちゃんと治くんがお互いに認め合うということは、彼女の失恋を意味する。

                    美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (29)

                    2016.01.29 Friday

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                       哲学の授業を野外でやってみましたよ。そんな感じの海デートを終えて、例によって私は美雨くんに地元の駅まで送ってもらった。
                       美雨くんの意図は、ざっくりいうと「この件が終わったらまた誰かとこの海においで」ってことだったのだろう。私はそう解釈している。
                       海から帰る電車に乗っていたときは、もう私たちは明ちゃんや史恵ちゃんの話題は一切出さず、私たちの問題や、どうでもいい世間話などに徹していた。リュックのお礼をいつかしなきゃとか、いやいやいいって、僕が勝手にしたことなんだから、とか、他にはこんな海があってね……とか、そんな具合である。
                       
                       こうなっては、もう私は明ちゃんと連絡はしばらく取れないのだろうと考えた。少なくとも、私から積極的に関わろうとすることはしない。問題は史恵ちゃんの方にあった。
                       明ちゃんに何かしたいという私の気持ちは、お礼という感謝の念から来ているものだった。階段から落ちて、くたばっていた私の雄姿()を見届けてくれた彼女に対して何かをしたい、そんな気持ちだ。
                       けれど、史恵ちゃんについてはそうではない。私は彼女に何かをしてもらったというわけではないのである。私は当初、明ちゃんの問題解決のために彼女を利用しようとしていたが、今はそれが原動力となっていた。私の利己心のために彼女を巻き込もうとしたという情けなさ、それに対する償いである。加えて、私自身が直接関与したわけではないけれど、有林さんが史恵ちゃんに、嘘を見抜く力を与えるエキスを提供したことが、彼女にとって大きな事件になりえるのだとしたら、私はエキスのソースとして、彼女に詫びたいのだ。明ちゃんに対しては感謝、史恵ちゃんに対しては補償なのである。
                       明ちゃんに与えられた能力は、彼女が願っていることを達成しなければ消えることはない。これは確かに厄介ではあったが、私は史恵ちゃんに与えられた能力の不完全さの方が重要であることに気づいた。というのも、彼女が能力を発揮するには時間がかかるかもしれないのに、能力自体に時間制限が設けられているからである。
                       史恵ちゃんの証言が本当だとすれば、彼女がエキスを飲んだのは、月曜日の朝ということになる。有林さん曰く、缶のエキスの効果は72時間ほど。つまり、木曜日の朝には効果が切れているはずなのだ。私が史恵ちゃんのために動くことができるのは、残された今日の時間か、明日ぐらいなのである。
                       今私がするべきことは、史恵ちゃんの能力について情報を仕入れることだ。そして仕入先は、当事者である史恵ちゃんでも、提供者である私でもない。

                       美雨くんが乗っているであろう電車が発車していき、何もなくなったホームにぼんやりと立って、私は階段を見上げる。私が落ちた階段だ。
                       上ってみると、結構階段一段一段の幅が狭いということに気づく。これは駆けたら落ちるだろうな。そう思った。もちろん、今更階段の工事をしますといわれても、困るわけだが。せいぜい私にできることといえば、「落下注意!」と書いたポスターでもつくって、階段の近くにでも貼ることぐらいだ。もちろん、数日も経たぬうちに、駅員さんや他の人に剥がされる未来が容易に想像できるけれど。
                       階段を上りきったところで、目の前には改札ではなくトイレが見えた。左が、男子トイレです。盲目の人のためのアナウンスが、小さく聞こえる。女子トイレの方に近づくと、その音はだんだんと大きくなった。
                       さて、私には会いたいと思うとどこにでも現れてくれる人がいる。彼氏ではない。
                       トイレに入る。出入り口のすぐそばに、鏡が3枚ほど並んでいた。個室がいくつか私の後ろに並んでいるが、私の目当てはそれではない。鏡の前に立ち、化粧台(と呼んでいいのかわからない。まあ、鏡のところにある台のようなスペース)に両手を置く。私以外に誰もいない。目を瞑る。どういうシステムなのかはわからないが、目を開けているうちは、きっと彼女は現れないだろうと考えての行動である。
                      「最近よく会うわね」
                       声がして、目を開ける。鏡の中には、女の子。私より幼く見えるが、私よりもずっと綺麗で、私よりもずっと不可解な女の子である。
                      「こんにちは、有林さん」
                       私は振り返り、その姿と向き合う。
                       
                      「もうこんばんわの時間よ、石生さん」
                       有林さんはそういって笑った。声に笑いは出ていない。口元だけ笑って、目元は怪しく私を見据えている。何かに似ている。ああ、そうか。美雨くんの目に似ているのだ。私の中身を、私の心を通り越して、私の魂の姿を凝視するかのような、鋭い視線。けれど、ふたりの目には違いがある。美雨くんのものがやさしさのヴェールに包まれたものであるとしたら、彼女の瞳は私を犯しかねないもののように感じた。私の目から心に侵入し、私を支配しようとする力。これが美雨くんと彼女の違いだった。
                      「聞きたいことが少しだけあるの」
                       私は彼女に向かって言う。今回は鏡越しではなく、しっかりと彼女の本体を見据えておきたかった。
                      「河野史恵ちゃんに会って来たわ」
                      「あら、そうなの。わざわざご苦労様」
                       嫌味な返しである。
                      「あなたに似ていたでしょう、彼女」
                      「似てる?」
                      「あら、気づいてなかった?」
                       小さく首をかしげて、彼女は私を煽った。普段であれば、あるいは私が男であったら、この仕草に落ちていたであろうが、今はそんな場合ではない。
                       なるほど、私と史恵ちゃんは似ているのか。え、どこが?まあいいや。似てるとしたら、そりゃ気も合うわけだ。
                      「彼女には、缶でエキスを提供したのよね」
                      「そうよ」
                       彼女は頷く。
                      「缶でエキスを提供すると、直接投与したときよりも効果が現れるまでに時間がかかることがあるってことだったけど、具体的には最長でどれくらい時間がかかるのとか、わかる?」
                       妙に長く喋ったものだ。息切れしそう。
                       私の長い問いに合わせるように、彼女も少し長めに考え込む仕草をする。考えたわりに、彼女の答えはシンプルなものだった。
                      「わかんない」
                      「わ、わかんない?」
                      「具体的な時間で統計取ったわけじゃないからね。効果が現れるより先に効果が切れることもありえるだろうし、直接投与のときと大差ない時間で判定できる場合もあるし」
                      「――それは」
                       私は彼女の返答に対して、ブーメランともいえる反論をする。
                      「それは、あまりにも無責任じゃないかな」
                       彼女は笑った。
                       こちらから投与をしておいて――いくら女の子の側から望んだものであるとしても――それに不十分に応対するのもどうなのだろう。
                      「仕方のないことなのよ」
                       有林さんは寂しそうにいった。たぶん……いや、間違いなくその表情は演技だ。
                      「けっきょく、嘘を見抜けるかどうかは、あまりその人の人生に大きく作用するっていうことがないんだもの。悪いことをしたと素直に告白する人がいたとして、その人の悪事をとがめる人もいれば、正直さを肯定的に捉える人もいる。あるいは、嘘だとわかっていても騙されてあげるっていうのも、生きていればありうるでしょう?嘘だとわかったところで、何も変わらないわ。そもそも、嘘が絶対的に悪いことだとする人もいれば、嘘の存在そのものでは善悪の判断をしない人がいるんだもの」
                       随分長いこと喋るものだ。カンニングペーパーでも用意されてるんじゃないだろうか。顔の向きはそのまま、私はこっそり鏡の中を確認する。特にカンペは見当たらない。
                       ああ、なるほど。こういうところが有林さんと美雨くんは似ているのだ。さっきも私は、海で彼の言葉をだいぶ聞いてきたところなのである。自分の信念というべきか、そういった確固たる何かを持っているからこそ、それだけ長いこと喋れるのだろう。頭の中がどうなってるのか気になるところである。
                      「違うわ」
                       私は彼女の言葉を否定した。
                      「嘘は、人だからこそつけるものよ。嘘こそが人間の尊厳の象徴で、嘘を見抜くということは、実際に未来が変わるとか、そういったところには求められないわ」
                       美雨くんの言葉を借りながら、私はぽつぽつと言葉をこぼし、せっせとつむいでいく。
                      「人に嘘をつけない私は、人に対して優しくできる機会を失った状態にある。嘘はやさしいものもあるし、人を傷つけるためのものもありうる。けれどそのどちらも、やさしさという判断基準が存在している。やさしさのない嘘。やさしさのある嘘。気づいたことによって何かが変わるというわけじゃない。嘘かどうか、やさしさがあるのかどうか、実際に怒るかどうか、その人の善悪ではないの。そこに嘘があるかどうかの判断は、人間全体への感謝、尊敬の気持ちの再確認をする役割を果たすだけだわ」
                       つかれた。
                      「ただの再確認の手段でしかないのね、あなたの持っている力は?」
                      「そうよ」
                       私は彼女の確認に対して肯定し、さらに言葉を続ける。
                      「私にはやさしさがない。でも、やさしさを知らない私も、やさしさが美しいものだと感じることができる。むしろ、やさしさを持たないからこそ、私はやさしさの価値を、他の人よりも高く感じることができるのかもしれない。やさしさに溢れている人たちは、やさしさを義務的なもの、なければならないもの、当然のものとして認識しているかもしれない。そうじゃないの。やさしさは、神や自然の意図に反して、人間が独自に作り出したもの。その表現のひとつとして、嘘が存在している。やさしくない私は、嘘をつくこともできない。だからこそやさしさと同様に、私は嘘の価値をはっきりと認識することができる。人間らしさ――嘘ややさしさを欠いた、けれど何よりもその価値を理解することができる心を、私はエキスとして提供しているに過ぎない。私の役割は、私の与えられる力は、嘘を克服することじゃなくて、嘘を肯定するために存在しているんだわ」
                      「なるほどね」
                       私が喋っている間、退屈そうな素振りを一切見せなかった有林さんは、私が話し終えたあと、小さく拍手をした。
                      「あなたのいいたいことはわかったわ。それに対して私は否定をすることもないし、かといって石生さんの考えをこれからの人生の指針にするということもない。これは、石生さんの考えをどうでもいいものとして扱おうとしているのではないわ。何かを強制させ、変化させることを求める、それを否定したあなたの考えに対する、敬意であるといってもいいわ」
                      「ありがとう」
                       喉かわいた。

                      「あまり私は今回役に立たなかったけれど、他に何か聞きたいことはあるかしら」
                       ああ、そうだ。私は効果が現れるまでにどれくらいの時間がかかるかということを聞きたかったのだった。
                       特に、ないかな。いや、ひとつだけあった。
                      「私は最近、ある人に嘘をついたのだけど」
                       美雨くんのことである。
                      「私の力がそれによってなくなることはありえるかしら」
                      「ないわ」
                       即答。
                      「これに関してははっきりいえるわ。石生さんが嘘をつこうとつくまいと、あなたのエキスには何ら影響を及ぼさない。あなたから抽出したエキスは、心じゃなくて魂を素材にしているから」
                       はあ、そうっすか。よくわかんねっす。
                      「っていうか」
                       彼女は少し嬉しそうな顔をした。
                      「嘘つくんじゃない、あなたも」
                      「そのひとりにだけだけどね」
                       私は少しふてくされて答える。有林さんはさらに続けた。
                       
                      「石生さんはその人にだけは、やさしくなれるってことなのね」

                      美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (28)

                      2016.01.27 Wednesday

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                         やたらと綺麗な海である。こんなにマイナーな、穴場ともいえる海を知っているのは、さすが美雨くんというべきだろうか。彼は波の音を家で聴いているぐらいである。相当海が好きに違いない。

                        「これは僕の独り言だから、聞き流してくれればいいんだけど」

                         美雨くんが話し出す。風に髪をはためかせながら、彼は遠くの方を見ている。この海を懐かしそうに見ていた。

                         やたらと険しい崖が、私たちの後ろに見える。山道の下にあるような海なので、あまり海水浴には向いてなさそうだ。上の方に、ひん曲がったガードレールが見える。

                        「僕と君はここで出会ってね」

                        「え?」

                        「あの時の君を見たときは、どうしようと思ったんだけどさ。僕にできることといえば、傷だらけの君をどうにか治そうとすることだけで、実際に何かをできたわけじゃない。今でも悔しく思うよ。僕には歌うことしかできないから、傷ついた君に、何もすることができなかった」

                         私を見ずに、ひたすらに話し続ける美雨くん。おそらく、これは私の顔を見ずに私に語りかけているのではない。海に語りかけているのだろう。あるいは、それ以外の、この場にいない、君と呼ばれる何か。少なくとも、その対象は私、石生夏香ではなかった。

                         美雨くんは続ける。

                        「けど、今はそうじゃない。この世界は、彼らからすればおかしなものかもしれない。そうだとしても僕は、この世界でようやく君と、楽しく、満足に生活できそうだという期待に、この魂を震わせているよ」

                         私には、彼の言っていることがわからない。けれど、だんだんと「君」の招待のようなものが、漠然とわかってきた。

                         美雨くんはここで、私の方を振り向く。ポケットに手を入れて、目を細めた彼は、風にさらわれそうな小さな声で、けれど今まで聞いてきたどんな彼の声よりも、うんと優しい声で、私にこういった。

                        「ありがとう。また僕たちはこうしてめぐりあえた。僕はそれが、とても嬉しいよ」

                         

                         ここから見える崖は、道路になっているのだが、美雨くん曰く、この道はやたらと事故が多いらしい。よく浜辺を見ると、たしかに金属のようなものが埋まっていたり、転がっているのが見える。結構な高さがあるから、ガードレールを突き破って落下したらひとたまりもないだろう。

                        「桜が綺麗なとき、どういうわけか、地面の下に死体が埋まってるとかいうだろう?」

                         美雨くんがいった。

                        「あれが小説を起源とする空想なのか、あるいは実際にあったことを理由にしているのかはわからないけれど、ここの海は、間違いなく死体と仲良しだね」

                        「死体と仲良し?」

                         あまり聞かない表現を使った彼の言葉に、私は首をかしげる。

                        「ここの海は、きっと人の命を糧にしているのだろうと、僕は思ってしまうわけさ。この海の、美しさをまじまじと見つめる度にね」

                         だいぶ日も落ちてしまっているのだが、妙にこの海は魅力で満ち溢れていた。ぎらぎらと白く輝く太陽と砂浜。そういった美しさではない。むしろ反対に、静かさゆえに少し騒がしく聞こえる波の音と、どんよりとした空と黒に近い海とが、私の感覚を刺激する。死の儚さだとか、そんな言葉では表現できないような、奇妙な悲壮感。

                         私はいった。

                        「桜やこの海が人の死を糧にしているとしたら、人の命は美しいということかしら」

                        「どうだろうね」

                         美雨くんは笑う。

                        「僕は武士ではないし、死ぬことこそ生きることだというつもりはないけれど」

                         彼は口を開けたまま、少しの間しゃべるのをやめた。

                        「まあ、この辺は死に詳しい知り合いがいるから、彼に聞いた方がいいのかもしれないね――とにもかくにも、ここで死んでしまった人たちは、海に命を捧げたのだろうね」

                        「海に命を?」

                        「見えるかな、あそこ」

                         美雨くんが指を指す。私はその方向に顔を向けた。暗い中で白く光る砂浜の上に、黒いしみのようなものが見える。

                        「あれはね、人間だったものだ」

                        「人間だった?」

                        「崖から落ちて倒れた人が、あそこで死を迎える。するとここにいるカモメたちが、その人たちの肉をついばむんだ」

                        「カモメが、人を?」

                        「って、僕は聞いただけで、実際にその現場を見たわけではないんだけどね」

                         美雨くんが指を下ろす。再び彼が両手をポケットに入れるのに合わせて、私も顔を海の方へ戻した。

                        「食われて体が汚くなる前に、せめて魂だけでも、美しいうちに海に返してしまうのさ。海を生命の起源とするならばの話だけどね。体は朽ち果てても、ズタボロに食い散らかされても、魂だけは美しいまま、海に溶けて、流れていく。僕はこの海とあのしみを見る度に、そんな妄想をしてしまうんだよ」

                         まるで彼自身が、この海から生まれてきたかのような言い草である。いや、たぶん私は彼に「僕はこの海で生まれたんだ」といわれても信じてしまうと思うけど。

                        「美雨くんはどうして、今日ここに私を連れてきたの?」

                         美雨くんは私の質問に答える前に、ふふっと小さく笑った。

                        「この海にはね、傷を癒す力があるんだ」

                        「え?」

                        「傷に塗ればいいってことではないよ。むしろ塩水だから、傷口に染みたらとんでもなく痛い。人間の体なら、とんでもないことになる」

                        「じゃあ、どういう?」

                        「たとえ体が傷ついていたとしても、魂の傷を治し、その美しさを回復させるような働きがあるということさ。海を見ていると、色々なことが小さく思えたりすると思うんだけど、この海は違う。それとは反対に、自分がその時悩んでいること、あるいは自分が抱えていた問題といったものの存在を、膨らませることになる。いかに自分が苦しみ、苦しんできたかという事実を、残酷なまでに明らかにしてくれるんだ。自分の罪のようなものを、はっきりと僕たちに見せつけてくるのさ」

                        「それに、いったい何の意味があるの?」

                        「海を見れば、心を癒すことができる。けれど僕たちは結局のところ、心よりもっと深い魂の部分には、手が届かないんだ。いくら心が癒され、その形が美しくなろうとも、魂の醜さのようなものは、ごまかすことができない。自らの罪を、大したことではないと捉えることで、僕たちは心の安寧を得ることができるけれど、魂の解放にはその反対に、自らを醜いものとして受け入れる必要があるんだ。心を癒すのは海だけど、この海は心を壊して魂を清める力がある。心も魂も、ともに癒されるのがベストなんだけど、どういうわけか人間の体はそういう構造になっていない。でもこれは欠陥じゃなくて、そうなるように設計されたものなんだと思ってる」

                         彼はその髪に指を通して、さらに付け加えた。さわりたいなと思ってしまうほどの、手触りのよさそうな彼の髪が、今まで以上に風に靡く。

                        「人は非合理的な生き物だからね。両立するということに、向いていないんだよ」

                         

                         海は心を癒してくれる。けれど魂を癒すことはしない。この海は心を癒さない。けれど魂を癒してくれる。彼らしい、わかりにくい言い回しだ。

                         けれど私は、彼の言葉は理解するために発せられたものではないのだろうと感じた。彼の言葉は、私が理解するために口から出てきたものではなくて、私の中に入ってくることだけを意図して発せられたものなのだろう。

                         私には、わかるはずのないものなのだ。私の中にある、彼がさっき語りかけた対象が、それをはっきりと理解しているのだろう。彼の言葉に、懐かしさのようなものを感じているのだろう。私ではない何かが、私にはわからないものを、理解しているはずだ。

                        「石生さんが今抱えている問題は、思ったよりも複雑な構造をしていて、けれどそれは、中に入ることさえできれば、いたってシンプルなものなんだと思う」

                         美雨くんはいった。似たような言葉を、彼の口から聞いたような気がする。ああ、そうか。電話をしたときに、彼の口から発せられた言葉に似ているのだ。

                        「もちろん僕には、恋愛というものがわからない。塚本さんと河野さん、どちらが傷つくことになるのかも、予測できるわけじゃない。せいぜい僕にわかることがあるとすれば、この一件が解決したときに、傷つくのが誰であれ、石生さんなら、その人の心を癒すことができるということだけさ。人にしか癒せないものがある。人には癒せないものがある。人に癒せないものは地球や自然が癒してくれるけれど、自然が治癒できないものは人が治すことができるんだ。この海がきっと、石生さんの手助けをしてくれる。そんな気がして、ぼくはここを紹介したんだ」

                        「なるほど」

                         いや、わかってない。うん、わかったわけでは、ないんだけど。

                         心がざわざわしている。これが不快感なのかどうかは、判断ができない。そもそも、騒いでいるのが心なのかどうかもわからないのだ。心とは違った――彼の言葉を借りれば――魂が、彼の言葉と共鳴しているのかもしれない。

                         

                        「私は、どうすればいいのかな」

                         普通の海とは違った雰囲気の海を見ながら、私はぽつりと呟く。どうしようもない。彼に聞いても、海に聞いても、答えが返ってくるわけではない。もし返ってきたとしても、私がそれを実行しなければならないわけでもない。結局私たちは、自分のことは自分で決めなければならないのだ。

                         いや、もしかしたら。自分ですら決められないのかもしれない。非合理的な人間は、心とは違った尺度を胸に宿している。自分の心よりも強い意志がそこから発せられて、私の意図とは違う動きを促すかもしれない。他人でも、自然でも、神でもなければ自分でもない存在が、私というものを突き動かすことがあるのだろう。

                         美雨くんは笑った。

                        「僕は石生さんの行動を規定することはできないけれど、石生さんが事態の変化を受け止めて、よりよい発展を促してくれればいいと思っているよ」

                        「よりよい発展かぁ」

                        「あまり難しく考えなくていいさ」

                         彼が歩き出す。海の方ではなく、そびえ立つ崖の方へ向かって。白い砂浜に、足跡が浅くできていく。波の音は静かになり、空の色もだいぶ落ち込んできた。彼の髪は小さく上下左右に揺れて、ここの砂のように白い首筋が、ちらちらと姿を見え隠れする。

                        「結局石生さんが完全に変えることができるのは石生さんだけなのさ。もちろん、彼女たちのことも変えられるだろうし、幸せにもできるだろう。けど、石生さんが何をしてもしなくても、彼女らは変わるだろうし、幸せになるだろうね。彼女たちの変化に石生さんが立ち合う事ができるかどうか……。人間の役割に嘘をつくことが挙げられるとして、もうひとつ考えられるとしたら、ここだろうね。人には他人を大きく変えることはできないけれど、他人が大きく変わる瞬間を見届けることができる。人の使命は変化を促すことじゃなくて、変化の事実を証明するということにあるのかもしれないね」