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2018.01.26 Friday

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    美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (27)

    2016.01.26 Tuesday

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      「そうなると」

       美雨くんがいう。

      「嘘を見抜くのに要する時間というものが、いったい最大でどれだけの長さになるのかということを、明らかにする必要があるね」

      「そうだね。それがわかれば、そもそも能力が効いていなかったのかどうかが判定できるからね」

      「問題はそれを、誰に聞くべきか、だね」

       そう、そこなのだ。私が問題にしたいのは。

       しつこいようだが、私には与えることしかできない。私自身が嘘を見抜くということができないのである。初めて私は、このことをひどく痛感した。人の力になりたい。そのために暗躍しようにも、私には一切の力がないのである。

       もし有林さんから史恵ちゃんの方に、能力が効き始める時間について詳しい数値が教えられていたとして、史恵ちゃんが私にそれを正しく教えてくれるという可能性は、100パーセントではないのである。彼女を疑っているわけではない。私はただ、私を信用していないだけなのである。私には力がない。嘘を嘘をだということもできなければ、真実を真実であると断言することはできないのだ。

       そもそも、有林さんが史恵ちゃんに説明をしていたとしても、その説明自体が正しいかどうかはわからないのである。史恵ちゃんが嘘をついていなくても、有林さんが嘘をついていたらどうなるだろうか。有林さんにとっての嘘を、史恵ちゃんは真実として発する可能性があるのだ。私はまだ、この力のことをすべて知り尽くしているというわけではない。人からの伝聞情報に嘘が含まれている場合、判定されるのはどちらなのか、わからない。情報の出所である有林さんが嘘をついていたとしたら、嘘の判定が出るのだろうか。それとも、情報源が嘘をついていたかどうかは関係がなくそれを言葉にした史恵ちゃんが嘘をついているかどうかで判定されるのだろうか。

       あるいは、有林さんに力について聞いてみるのも手であろう。しかし、これでも問題は出てくる。史恵ちゃんが嘘をつく可能性がゼロではないのと同じように、有林さんが嘘をつく可能性もゼロではないのである。よく考えれば――そこまで顔合わせをしたわけではない彼女の性格を私が語るのもなんだが、彼女は人があわてたりするのを楽しんでいる気がするのだ。今こうして私が右往左往しているのを彼女は知っていそうだし、またそれを見て笑っているような気もする。

       そうなると私は――。

      「そうだとしたら私は、いったい何を信じればいい?」

       足元に小さな鳥が寄ってくる。スズメだろうか。私にはよくわからない。ちゅんちゅんしてればスズメなのかな。ちゅんちゅんっていってるかしら。いや、ちゅんちゅんには聞こえないだろう。どういう耳してんだ、最初にちゅんちゅんとか言い出したやつは。

      「僕がありがちな、臭いマンガやアニメの世界の住人だとしたら」

       美雨くんはいった。

      「誰を信じるかじゃない。お前を信じろとか、恰好のいいことを言うんだろうけど、あいにくここはマンガの世界じゃない。現実の世界だからね」

       彼ほど現実味のない人間もいないだろうと思いながら私は、美雨くんの言葉をしっかり聞く。

      「最初から世界には嘘しかないものだと考えた方が、いいのかもしれないね」

      「最初から?」

      「存在そのものの否定は、もちろんできないけどね。今ここにいる私自身が嘘だ!とかは、絶対に言うことはできないけれど」

      「うん」

      「大前提を、すべて覆すことができるということさ」

      「大前提?」

      「近いところから遡って、なんでもひっくり返せるということさ」

       遡って、ひっくり返す。

       

       今日。史恵ちゃんから「力が通用しない」という連絡がきた。これが嘘かもしれない。本当は、彼女には嘘かどうかの判定ができていたかもしれない。

       昨日。明ちゃんから、治くんとの出来事を教えてもらった。これが嘘かもしれない。史恵ちゃんから、エキスはもう飲んだという話を聞いた。これが嘘かもしれない。彼女から、気になる異性がいるという話を聞いた。これが嘘かもしれない。

       一昨日、日曜日。明ちゃんから「治くんの嘘が見抜けない」という話を聞いた。これが嘘かもしれない。3人でのババ抜きで、明ちゃんは美雨くんの嘘をすべて見抜くことができていたと、美雨くんは言っていた。これが嘘かもしれない。

       大前提。明ちゃんは治くんのことを好きだ。このこと自体が、本当かどうか怪しい事案である。

       はて、困った。

       いったい私は、これらのどれを、あるいは、今挙がらなかった事柄のどれを、ひっくり返せばいいのだろうか。そして、どれを絶対的に信用すればいいのだろうか。

       

      「気づいたことがあるの」

      「うん?」

       美雨くんは首をかしげた。

      「私には、嘘を見抜く力がない。私には与えることしかできない。私自身が何かできるというわけではない」

      「うん、そうみたいだね」

      「もちろん、これ自体が嘘の可能性だってある。有林さんが私に説明してくれた内容が、すべて真実であるという保証はない。私に嘘を見抜く力を与えることができるという設定自体、彼女の嘘かもしれない。そもそも、明ちゃんが階段から落ちた私のことをずっと気にかけてくれていたということも、本当かどうかはわからない」

       そもそも彼女が私にそばにいたらしい時間の大半、私は気絶していたかそれに近い状態にあったのである。彼女についても、本当であるかどうかはわからない。

      「そんな私でも、嘘を見抜ける相手がいる」

      「へぇ?」

       私は指をさす。

      「美雨くん」

      「うん?」

      「私は、だんだんと君の言っていることが本当なのか冗談なのか、見抜けるようになってきた」

      「それはそれは。うれしいね」

      「でもたぶん、美雨くんも私のことを理解してしまっている」

      「すべてはわからないよ。僕は石生さんと真逆のタイプだからね」

      「結局私が自信を持って、これは真実だと、あるいはこれは偽りだと声を上げることができるのは、美雨くんに関しての問題に限定されてしまうの」

      「僕の言ったことだけは、どっちなのかわかるということかい?」

      「ええ」

      「じゃあ、試験をしてみよう」

       美雨くんは私の隣に座りなおす。私の顔を見ることはない。私はその横顔に合わせて、彼を直接見るということはしなかった。顔は彼と同じように真っ直ぐに、けれど意識だけは彼の方へ。

      「今の石生さんの話を、僕は信用している」

      「ええ」

      「僕は石生さんが好きだ」

      「ええ」

      「僕は本当は人間じゃないんだ」

      「ええ」

      「僕の言うことは何でも信用してくれるようだね。そこが石生さんの一番いいところだと、僕は思ってるよ」

      「嘘だね」

      「ふふっ」

       彼は笑った。

      「なるほどね」

      「たぶんだけどね、美雨くん」

       私は、こう思っている。これは本当だ。嘘ではない。

      「美雨くんは、私が世界で唯一理解できる相手で、同時に、私が唯一嘘をつける相手だと思うんだ」

       

       我が家には門限というものが存在しているわけではないが、基本的に私は授業が終われば直帰する。家でやらなければならないことがあるからではない。家の外でやらなければならないことがないからだった。

       電車に揺られて、普段通ることもない窓の外の景色を見ている。家に帰ろうと乗る電車の反対方向へと、今私たちは進んでいた。

      「美雨くんの家は、こっちの方向なの?」

      「そうだねぇ」

       私と美雨くんは向かい合って、電車のシートに座っている。この時間に帰ろうとすると私の利用している電車はやたらと混んでいたりするのだが、どうやら反対側はそこまででもないらしい。この時間に空いている電車に乗っているというのも、妙な気分だ。

      「人は非合理的な生き物だね。いつもいつも、行動に一貫性がない」

      「たとえば?」

      「生きるのは大変で、つらいものだと思っていながらも、どういうわけか死を選ぶことがない。むしろ、自ら死を選んだり、人の生を奪うということが、最大の悪の一つだとみなされている」

       夕日だなんておしゃれなものは見えない。もう暗くなった、灰色と青を混ぜたような色の空が、淡々と空に伸びているだけだった。けれど、雲のようなものは何一つ見えず、比較的高いところを電車が走っているからか、人の生活臭のするもの、家だとか会社だとか車だとか、そういったものは眼下にしかない。視線を落とせば普段の生活が見えるが、まっすぐ前を見つめると、そこには空くらいしかなかった。あとはせいぜい、山とかそういうものか。

      「ここはやたらと景色が良くってね。すぐ建物だらけになってしまうんだけど、このあたりを走っている数分間は空を堪能することができる。昼でも夜でも、雨でも晴れでも、いつも空だけは僕たちと同じ高さにある」

       美雨くんの「海を見に行こう」という謎の誘いに乗ってしまって、今私は彼と電車に乗って、彼の好きな海にいこうとしている。黙々と家に帰るだけの私が、大学内でも人気の高い、人間味のない彼とこうして一緒に海を見に行こうとしているのも、変な話だ。少し前まで私は、彼のことを気に入っていなかったではないか。けれど今では、そのことすら疑わしい。本当に私は、彼のことが苦手だったのか。実は好意を抱いていた、あるいはまったく無関心だった、そういう可能性だって、十分にあり得るのである。結局私は、私のことを信用できないでいるのだ。私の気持ちもわからなければ、私が嘘をついているのかどうかを見抜くことができない。

       私の嘘を見抜けるのは私ではなく、私から生まれたエキスを飲んだ女の子たちか、ここにいる伊勢海美雨くんだけなのである。

      「ここからはまだ海は見えないし、駅で降りてもすぐは見えないんだ。しばらく駅から歩くことになるけど、大丈夫?歩きやすい靴かな」

      「大丈夫よ」

       私は、歩きにくいおしゃれな靴が嫌いなのだ。

      「時間とかは?」

      「ノープロブレム、たぶん」

      「たぶんって」

       彼が笑った。

      「遅く帰ってくるなんて珍しいわねとか、いろいろ突っ込まれるとは思うけど、事前に連絡しておけば大丈夫でしょう」

       彼氏はできた?好きな人できた?散々質問をぶつけてくるうちの母親のことだ。帰ればかなり面倒くさいことになるだろう。「大学一の美少年と海を見に行った」。これだけいえば、納得してくれるだろう。もちろん喪女な私のことだから、母はきっと嘘だと思うだろうけど。

       海に行こうといわれたから行くことになってしまったが、私はいったい海を見て、なにを発見できるのだろうか。何に気づくことができるのだろうか。そんなことを思いながら私は、窓の外の景色を見ていた。彼の言っていたように、もう外はいつも通りの風景になってしまっている。踏切で迷惑そうにしている、車や自転車、そして歩行者。

       彼の言うとおりである。もし人間が合理的なのだとしたら、わざわざ信号機や踏切など合理的なものをつくりだす必要がない。人は合理的ではないから、合理的なものを作り出す必要があったのだ。そして不思議なことに、合理性を備えていない人間がつくりだしたものには、合理性が備わるのだ。鳶が鷹を生むというようなことわざがあるが、まさにそれである。人が持っていないものを、人がつくったものに備わってしまうのだ。そして、人の価値の一つはそこにあるのだろう。もっていないものを、与えることができる。それが、人間なのだ。

       私は、私のことを思い出した。私自身には嘘を見抜く力がないというのに、私は嘘を見抜く力を与えることができる。なるほど、私も人間なんだなぁ。そう思った。

      美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (26)

      2016.01.25 Monday

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        「また、ずいぶん面倒なことになったようだね、石生さん」
         ここまで来ると、彼のさわやかな笑顔が心の安定をもたらしてくれる。
         少しだけ眉を下げて心配そうにこちらを見る美雨くんへと顔を上げて、私は声にならない笑いを浮かべた。ははは。空気だけが抜けていく。
        「私の努力はいったいなんだったんだろうね……」
         努力というほど、努力したわけではないけれど。
        「努力というよりは、気遣いという方が正しいのかもしれないけどね」
         美雨くんがさらりと口を挟む。そうだ、私が言いたいのはそういうことなのだ。彼はやたらと私の思考を読む癖があるが、今となってはそれが非常に助かる。私は私の気持ちがわからなかったり、言葉にできなくなるような状況に陥ることがあるが、そんなときでも彼は私の状態を理解し、私にもできなかった私の感情の表現を代行してくれるのだ。私は私のことを、彼を通じて知ることができる。
        「いや、困ったわね、ほんと。ああ」
         どうしよう。
         
         私は階段から落ちた。それを助けてくれたのが塚本明ちゃん。彼女には好きな男の子がいて――その「好き」が、恋愛感情であるかどうかは別にして――、彼女は彼の気持ちをなんとなく知りたそうにしているのである。嘘であるのかどうかを見抜くために、私は彼女にエキスを直接投入した。美雨くんの嘘を見抜くことができた彼女であったが、肝心の想い人、治くんとやらには能力が通用しなかったらしい。
         彼女の持つ嘘を見抜く力は、一定期間以上好意を持った相手には通用しないようなのである。ざっくりいえば、好きな人の嘘を見抜くことはできないのだ。これでは彼女の願いはいつまでも達成されず、いつまでも嘘を見抜く力を持ち続けることになってしまう。
         それを回避するために、私は有林さんが私のエキスを提供したという、治くんの後輩であるらしい河野史恵ちゃんとコンタクトを取った。妙なことにはなるが、彼女が治くんに「明ちゃんについて」聞いてみれば、彼が明ちゃんをどう思っているのかが明らかになるからだ。
         だが、しかし。今はこの有り様である。
        「河野さんには、石生さんが直接エキスを投与したわけではないんだよね」
        「そう、だね。有林さんが缶で提供したらしいし」
         食堂を出た私たちは、大学内を散歩し、疲れたらその時に見つけたベンチに座るという作業を繰り返していた。普段見ないような風景に心を動かされながら、今見える人たちは、ここで多くの時間を過ごしているのだろうなと推測する。普段生きていて、彼らなりにいきいきと、さんさんと輝きながら精一杯生きているのにもかかわらず、私がここを訪れないという理由だけで、彼らは私の世界に存在していなかったことになるのだ。私と美雨くんは、普段見ない――日常から追い出してしまっていた人たちを、自分たちの世界に住まわせる。
        「彼女に聞くのが一番いいのかもしれないけど」
         美雨くんは言った。
        「缶として提供するよりも、直接投与したほうが強力なのかな?」
        「そうだと思うよ」
         有林さんが以前、直接投与の方が効果は強い、みたいなことを言っていた気がする。
        「だとしたら、河野さんに投与されたエキスの力が弱かったっていうのは、考えられないかな」
         美雨くんはベンチに座って、少し前かがみになっている。視線の先には、真っ黒いカラス。彼の視線とカラスの暗い眼差しが真っ直ぐ交わり、美雨くんはにやにやと、カラスの方はじっとしていた。目と目で通じ合っているのだろうか。私とこうして会話をしながら、彼はカラスと目で語り合っているのかもしれない。そんなことを思った。
        「なるほどね」
         有林さんによれば、直接投与でないことによる差異には、時間制限の存在や勘が鈍ることがあるということらしい。
         この、缶が鈍る感じというのが、私にはどうも怪しく感じられるのである。
        「直接じゃない場合、勘が鈍ったりすることがあるって」
        「勘が鈍る、か」
         美雨くんはカラスに向かって手を振った。すると、カラスはまっすぐどこかへ向かって飛んでいく。本当にコミュニケーションをとっていたのだろうか。
         カラスの会話との同時進行ではなく、彼は私の顔を見て言葉を続けた。姿勢は前かがみのままである。手を組んで、肘を膝の上に乗せ、前髪を垂らしてこちらを向く彼の姿は、一瞬性別を疑ってしまうほどの、幻想めいた雰囲気を醸し出していた。うっすらと笑っている彼の顔には、カラスから答えを聞いたかのような、少しの自信がにじみ出ている。
        「他には?」
        「時間がかかる、とも言ってた」
        「時間がかかる、か。なるほど、その可能性もゼロではなさそうだね」
        「その可能性?」
         彼は立ち上がった。うんと腕を上に伸ばして、伸びをしている。なぜだかその無防備な彼の細い体に、一瞬抱きつきたくなってしまったのは秘密。
        「河野さんが嘘を見抜くにはもっと時間が必要だから、治くんの言葉の嘘を判断するにはまだまだ時間が必要だった。けれど、結果が出てこないことで彼女は彼に力が通用しなかったのだと勘違いしてしまった。こんな可能性だよ」
         
         もし。もし、本当にそうだとしたら。相当厄介なことである。
         彼女には直接エキスを投与したわけではない。だから、明ちゃんの場合とは違って時間制限がある。けれど、彼女の得た能力は不十分であるために、効果が現れるのには時間がかかる可能性があるのだ。不完全であるがゆえに時間制限があり、不完全であるがゆえに時間がかかるのだとしたら、「お前は本当に嘘を見抜かせる気があるのか」というくらいの欠陥が存在することになる。
        「もしそうだとしたら、問題はその効果が現れるまでの時間、だよねぇ」
         美雨くんがいった。
        「長ければ長いほど、河野さんや石生さんにとって都合が悪いということになるわけだ」
         その通りである。
        「そもそも、河野さんとやらは本当にエキスを飲んだのだろうか」
        「え?」
        「まあ、そんなことをいったら、そもそも本当に彼女の手にエキスがいっているのかどうかも怪しいところだけど」
        「あー」
         私は答える。
        「史恵ちゃんがエキスを持っているのは間違いないと思うよ」
        「どうして?」
         美雨くんが聞いてきた。
        「説明しづらいんだけど、そういう直感が働くから」
        「なるほど。そればっかりは石生さんにしかわからなそうだね。僕がどうこういえる問題じゃなさそうだ」
        「でも……」
         私は言葉を続ける。
        「彼女が本当に飲んだかどうかは、確かに確かめる術がない」
         私には、嘘を見抜く力がないのだ。私には、信じるか信じないか、そのどちらかしかできない。
        「もちろん、彼女が石生さんに、エキスを飲んだっていう嘘をついた可能性も充分にありえるね」
        「それで、何か得することはあるのかな」
         私は少し不満をぶつける。
        「時間制限があるって聞かされてるんだから、本当に重要なときに飲んでみよう、とかは思うかもしれないね」
         なるほど、たしかにそれはありえるかもしれない。でも。
        「それなら、わざわざ嘘をつく必要はないよね」
         まだ飲んでないんですよっていう答えも十分にありえただろう。
        「それもそうだね」
        「正直に言っても、なんのデメリットもないだろうしね。私に嘘をついても、正直に言っても、大した違いはないと思うんだけど」
         むしろ私には、さらに嘘をつかなければならなくなるため、嘘をつかない方が楽になる、合理的でいられる気がするんだけど。
        「合理的か。たしかにそうだね」
         美雨くんはいった。
        「けどね、石生さん」
        「え?」
        「たしかに嘘をつかない方が、世の中は合理的に進行していくと思う。欲をそのまま表出して、うまく調節していって、最終的にはみんなである程度の幸福を実現する。嘘をつかないできちんと自分の願望を出しておいた方が、自分の望む結果が達成されるかもしれない。いわないでいたら、目的地にたどり着いていなくても、目的が達成されたと思われてしまうからね」
        「うん」
        「けれど結局それは、嘘をつかないことが合理的だと言っているに過ぎないんだよ」
        「どういうこと?」
        「嘘をつかない方が合理的だ。けど」
        「けど?」
        「人間は、合理的じゃないんだよ。合理的じゃないから、合理的じゃない嘘を生み出すんじゃないかな。ああ、僕はここで、人間は愚かだとか優れているとか、そういった議論をするつもりはないけどさ。要するに人は、非合理的だとわかっていても、誤魔化す必要がないと知っていたとしても、嘘をついて、誤魔化そうとする生き物なんじゃないかな。嘘をつくって行為はきっと、人間にしかできないことでしょう」
         むしろ人の尊厳――価値というものは、その非合理性、つまり、「地球上で唯一の、嘘をつく生き物である」というところにあるのかもしれないね。彼はそう付け加えた。

        美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (25)

        2016.01.23 Saturday

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          「おつかれのようだね」

           うっせぇ。

           私たちは今、滅多に来ない学食にいる。とはいっても、学食で働いているおばさまたちのつくったものを食べているわけではない。もはや学食といっても場所だけで、各自持ち込んだものをテーブルについて貪っていたりする。ノートパソコンでレポート作業をしている人もいれば、ゲームを持ってきて数人で騒いでいる男の子たち、黙々と本を読んでいる女の子、ひとりスマートフォンをいじっている人など、多くの人がこのスペースを利用していた。

           私の左側には、小さめの木が見える。大学内に植えられているものだ。どうしてそんなものが見えているのかといえば、ここ1階のスペースは外側の壁がすべてガラス張りになっているからである。誰が整備等をするのかはわからないが、がたがたになっているレンガに囲まれた花壇のようなスペースに、ひっそりと、私ふたり分程度のサイズの木が生えているのだ。学食がある隣に木を生やして、なんの得があるのだろう。ぶっちゃけ歩くのに邪魔になっているし、そもそも建物に囲まれているのだから、あの木はほとんど日光を浴びることがないだろう。夏ならまだしも、冬の間まったく日の光を浴びていないのではないか。ひきこもりがちな私よりも、日の光を浴びていないように思えた。とはいっても、私よりもすくすくと成長しているようだが。

          「うん。そりゃあ、ね」

          「何か結果は?」

          「まだ何もわからない」

          「だから、気になって仕方がないというわけだね」

           私の前に座っているさわやか大学生は、両腕をテーブルの上に乗せて、やや体を前のめりにさせていた。そんな体勢をされても、そんなにおもしろい顔はしてないのだけど。

           ちらりと視線を逸らす。こっちの方を見て、ひそひそと会話をしている女子大生がいくらか見える。彼はこの大学では有名人みたいなものなのだ。彼を見る視線と、私に突き刺さっている目線のふたつが感じられた。近くに座っている女の子たちも、ことあるごとに彼のことを見ている。男の子たちは全くといっていいほど彼に対して無関心であった。

           できれば、こんな人と視線が集まりやすいような場所に彼と一緒にはいたくないのだけれど。せめて、彼の必殺技である鼻唄でも歌ってくれればいいのだが。そうすれば、どんな人も私たちへの興味を示さず、眠りに落ちてしまうというのに。

           美雨くんは、頬杖をついた私の左腕のそばにおいてあるスマートフォンに一度視線を落としてた。

          「特にまだ、連絡はない?」

          「そうだねぇ」

           時刻は1630分。火曜日である。ジェノサイド赤ちゃんを観たのが一昨日の日曜日で、河野史恵ちゃんと出会ったのが昨日の話である。これまでの生活からは考えられないほど、妙に濃い数日を、私は現在堪能していた。

          「朝の練習とかもあるのかもしれないけど、長い時間練習できるのは放課後だろうからね。ちょうど今始まったぐらいだろうね」

           特に何かを食べるわけでも飲むわけでもなく、私と美雨くんは、徒然なるままに時間を浪費している。人生には目標というものが、小さいものから大きいものまでいくつか存在しているが、今望んでいる目的が達成されるには、まだまだ時間がかかりそうだ。人生は何かを成すにはあまりにも短く、何も成さないにはあまりにも長い。そんな言葉を何かで見た気がする。逆だったかな、まあいいや。

          「会いに行かないのかい?」

           美雨くんが、少し眠そうな顔で私に尋ねてくる。彼に眠気というものは存在するのだろうか。彼は今、やさしさを表現するのに目を細めているのかもしれない。あるいは、人と話をするときはいつもこういう顔をしているのだろうか。改めて向き合ってみると、私がいかに彼のことを知らないのか、そしていかに彼が人間離れした存在であるかを痛感する。

          「2日連続で部活終わるの待ってたら、それはそれで怖いでしょう?」

          「それもそうだね。卒業生とはいえ、学校に私服で入るのは抵抗があるだろうし」

          「そうそう」

           ここしばらくの目的が明ちゃんの問題解決であるために、自分自身の生活に対する興味が薄れていた。人のために生きよう――というと大袈裟だが――そういった心情にある状況では、自分だけの時間の過ごし方がわからなくなるのだ。これは私だけのことなのかどうかは、わからない。

           そんなわけで、ぼけーっと大学内を歩いていたら、偶然なのか狙っていたのか、美雨くんと出会った。昨晩寝たら消えたはずの、妙な疲労感が私の体を支配していたのだが、彼の姿を見たらそれが一気に消し飛んだ。体がどんどん彼に対して依存しつつある。困ったものだ。私の意思としては、できるだけ彼には屈しないようにしようとしているのだが、体の方はどういうわけか、完全に彼に屈服しているのである。

          「美雨くんはさ」

          「うん?」

           流れで今は彼と一緒にいるが完全に帰るタイミングを見失ったので、私はいつここを出るのだろうかと疑問に思い、きっとそれは史恵ちゃんから連絡があったときなのだろうなと考えて、私はそれまでの時間つぶしに、彼と会話をしようと口を開いた。

          「人のために生きてる瞬間って、ある?」

           美雨くんは目を細めたまま口元をさらに緩める。とろんとした顔、とでもいうのだろうか。女の子たちが彼を見る顔がまさにこれなのだが、そんなスキだらけな表情を、彼は今していた。

          「難しいことを聞くね」

          「難しいことかな」

          「人のために生きる瞬間って、たとえばどういうことだろう?」

          「今の――」

          「石生さんみたいに?」

           セリフを取るな。

           私は左手から顔を離し、コクリと頷く。

          「僕は石生さんみたいに、天使のような生き方はできないからね」

           言葉だけ聞くと冗談に聞こえるのだが、彼の口から発せられると胡散臭すぎて逆に本音に聞こえてしまうから困る。そしてよく向かい合ってる状況で天使だなんていえたものだ。こっちが恥ずかしいわ。今日ほど他人に聞かれたら困る会話をしたこともあるまい。

          「結局僕は、人のことを見るのが楽しいからね」

          「人間観察ですか」

           人間観察というフレーズほどつまらなそうなものはない。人間を見て何が楽しいのだ、というようなことをいっているのではなく、自分から人間観察してるとか、人間観察が趣味だとか言ってしまうような人間が、胡散臭いのである。やることないだけでしょ。そう言いたい。なぜそんなことを思うのか。それは私が、暇なときに人を見てしまうからである。人間が人間を見ているとき、それはたいてい暇つぶしなのだ。人は自分のことで精一杯のときには人のことが見えなくなる。つまり、人は余裕があるか暇があるときに、初めて人間になれるのだ。人は生きるのを休憩している間に、初めて他者をしっかりと認識することができる。生きることが人間の仕事であるとするならば、人が人を見るのは余暇のひとつなのだろう。

           対して、この美雨くんは「人間観察が仕事です」といっても信用出来てしまうほど、人間らしさが欠落していた。彼が鼻唄を歌えば、それを聴いた人はメロメロになるか眠り出す。そんな彼を、普通の人間にカテゴライズすることは難しい。人間ならば人間観察は仕事になり得ないが、彼は人間ではないので、人間観察が仕事でも納得がいくのである。

           もしかして、私よりもむしろこの美雨くんの方が天使の類なのではなかろうか。人間を監視するべく天上から送り込まれた使者なのではないだろうか。あるいは、人々の争いを止めるために降りてきたのかもしれない。彼がひとたび戦地で歌えば、どんな戦場もぴたりと動きが止まるのではなかろうか。

          「人のために生きるどころか、僕のために人間がいるようなものだからね」

           なにいってんだこいつ。

          「僕が楽しく生活するには、人間という存在が不可欠なんだよ。僕が誰かに依存されるというよりは、僕が誰かのために生きるというよりは、僕の生が、人によって支配されているといってもいい」

           私が首をかしげていると、彼はくすりと笑って、さらに言葉を続ける。

          「結局僕は、人がいないと生きていけないのさ。生きるのはそれくらい、つらく苦しいことだからね。もしここに、タバコや酒がなければ生きていけないような人がいるとしたら、僕もその人と同じで、人がいないと生きていけないんだよ。僕にとって人間は酒やタバコなんだ。贅沢品なんだよ。しかも、無料のね。楽しみがないのに生きるなんて、修行僧じゃなきゃできっこない」

          「私には」

           私は言葉を返す。

          「私には、美雨くんにとっての人間みたいな、生きがいみたいなものは、ないんだけど」

          「お酒は?」

          「飲まない」

          「タバコは?」

          「吸わない」

          「だろうね」

           頬杖をついていた腕を入れ替える。右手に顎を乗せたとき、小さく指の骨がぽきぽきと音を立てた。

          「だからこそ、君は天使なんだよ」

          「は?」

          「きっと石生さんは――少なくとも今は、人のために生きることを目的としている。僕とは違って、石生さんは誰かの役に立つことができるけど、結局のところ、石生さんも他者なくして人生を楽しむことができないのかもしれない」

          「……」

          「似ているね、僕と石生さんは」

          「似てないよ」

           君の影響力は、すさまじいものだよ。いったいどれだけの女が、あなたに踊らされていることか。悪いことではない。少なくとも、私なんかよりも、影響力がある。

          「へぇ」

           美雨くんがいきなり、納得したような声を上げた。え、何が。

           彼の視線は、再び私の左肘に落ちていた。スマートフォンの画面を見ている。私もそれに合わせて、自分の持ち物の画面を確認した。何かメッセージが届いたようだ。

          「史恵ちゃんかな」

           私は左手でスマートフォンを取って、目の前に持ってくる。

          「事態は思ったよりも、面倒な構造をしていたみたいだね」

           ああ、デジャブというやつだろうか。どうやら私の世界は、私ではなく美雨くんを中心に回っているようだ。誰だよ、さっき僕は人の役に立つことはないとか言ってたの。あなたと一緒にいるときに限って、私の世界は変革が起きるではないか。

           数日前のことを思い出す。いったい私は、これからどうすればいいだろうか。ああ、それを結局、私はこれから彼に相談をしてしまうのだろう。彼は私にとっての預言者といったところか。天使だもんな。仕方ないね。

           スマートフォンに浮かぶ、無機質な文字列。

           

           彼に力が効きません。

          美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (24)

          2016.01.21 Thursday

          0

             文字だけの淡々としたやり取りではあったが、明ちゃんは私の質問に答えてくれた。できれば電話でもして彼女のかわいい声に癒されたかったけれど、もうすぐ日が変わるというような時間帯に、電話をするのは申し訳がない。それに、私の耳にはもうすでに美雨くんの声がねっとりとまとわりついていたから、おそらく彼以外の声を聴いても、彼の声の膜によって遮断され、まともに私の頭に入ってくることはなかっただろう。

             

            「こんばんは」

             以下、私と明ちゃんの、文章によるやり取りである。

             数分してからポロロンとスマホが通知音を上げ、確認をしてみると明ちゃんからの返信であった。

            「こんばんは。どうかしましたか?」

             疑問文で返してくれるあたりに、彼女の気遣いを感じる。

            「この間映画を見に行ったとき、一緒にババ抜きをした男の子がいたでしょう?」

             美雨くんのことだ。

            「ああ、あの格好いい人ですね」

             これは明ちゃんからのレスポンス。そうか、やっぱり格好いいのか。

            「彼氏ですか?」

            「ちが」

             きっぱり断っておこうとした結果、頭の悪そうな文章になった。

            「あ、違うんですか。それは失礼しました」

             きっと画面の向こうで彼女はニヤニヤしているんだろうな。

            「それで、その彼がどうかしたんですか?」

            「私、彼との付き合い方をきちんと考えてみようと思って」

             明ちゃんは、文章からでさえも嘘を見抜くことができるかもしれないので、下手に嘘をつくことはできない。これまでまともに嘘をついてこなかった私にとって、これはかなりの苦行である。おおっぴらに支援を申し出ることはできないが、嘘をついて情報を聞き出すこともできないのだ。

            「おっ。恋に発展ですか?」

            「そういうのではないんだけどね」

             ちなみに、彼との関わり方を考えようと思っているのは私の本心である。しかしそれを恋愛ではないと否定したのも真心であるはずだ。

            「彼と私は、結構接点があってね。大学内で会うことはあったんだけど、この間みたいに外で会うなんてことは滅多になかったから」

            「なるほど」

            「あの日明ちゃんが帰ってから、どういうわけか彼は私に新しいリュックをプレゼントしてくれたんだよね」

            「ほぁ!?」

             ほぁ!?だとぅ?かわいい。

            「まあ、そういうわけで。あんまりこれからは彼に対して適当な態度でいることはできないだろうなと思って」

            「なるほど」

            「だからここは是非、こういったことに疎い私に、先輩である明ちゃんにアドバイスをしていただきたく思い、ご連絡させていただきました」

            「なんで敬語なんですか」

             笑った絵文字つきの返事が返ってきた。私は少し、考え込む。嘘をついていないとはいえ、考える時間が今の私には必要だった。私は今日ほど、自分の胸の内を明かそうと思ったことはない。そもそも、私はそれを誰にも打ち明けたことがなかったというより、自分と向き合うということすら回避していたのかもしれない。

            「えっと、幼馴染の男の子がいたよね」

            「はい。治のことですね」

             一応確認をしてみる。治で合ってたか、よかった。

             しかし呼び捨てか。私は美雨くんのことを呼び捨てにすることは生涯なさそうだな。

            「彼のことについて、少し話を聞きたくて」

            「何から話しましょう?」

            「ざっくりでいいから、今の関係について、かな」

            「なるほど、わかりました」

             ここからしばらく、明ちゃんの返信が途絶えた。何かあったというわけではない。ある程度まとめてから一気に送信をしてくれたのである。

             

             彼は彼女にとって幼馴染のような存在で、親同士が仲良しでもある。明ちゃんと治くんは、幼い頃ほど仲がいいというわけではないが、親同士の交流はいまだに続いているので、お互いの情報は共有されている。そして同じ高校に通っているので、歩いてると出くわすということもたまにあるようだ。

             家も遠いわけではない。わざわざ約束をして、ということはないが、登校時に通学路で出くわすと、一緒に登校するような仲であるらしい。
             並の男子高校生と比較すると彼は落ち着いた性格らしく、昼休みや放課後は、彼の所属している弓道部に赴き、ひたすらに矢をびゅんびゅん飛ばしている。なお、明ちゃんも弓道部であるらしい。そりゃ朝の練習とかもあるだろうから、頻繁に会うだろうな。

             改めて彼女から彼の情報を聞いていると、本当に彼女は彼のことが好きなんだなぁと思う。

            「好きですよ」

             明ちゃんの返事はこうだった。

            「好きですけど、これが恋愛なのかどうかは、わかりません」

             たぶん恋愛なんだってば。経験のない私が言うのもなんだけど。って、誰が喪女ですか!

             彼女と初めて会った日にわが母校まで送り届けた時にも、彼女から治くんの話は聞いた。内容は確かに彼への愛にあふれたものであったが、「かっこいい」とか、そういった言葉は発されていなかったのを思い出す。「おかしいですよね」とか、「おもしろいんですよ」とか、そういう評価の仕方だったのだ。つまり、彼女は彼のことが好きなのは言葉にも表れているのだが、それが明らかに恋愛であるかのような発言は、これまで彼女の口から発せられているわけではないのである。

             

             適当に情報を聞きだして、私は彼女とのやり取りに終止符を打った。とにもかくにも、私はこの問題の解決が結構容易であることに気付いた。美雨くんの言葉を借りれば、事態は私の思っている以上にシンプルな構造をしていたのだ。

             明ちゃんと治くんの共通点のひとつに、弓道部であるということが挙げられる。そして、私が今日出会った(もうすぐ昨日になるが)おとなしそうなメガネ美人の河野史恵ちゃんも、同じ高校の弓道部なのだ。

             つまり、史恵ちゃんに協力を依頼することは、かなり容易いことなのである。というのも史恵ちゃんは、明ちゃんが嘘を見抜くことのできなかった相手である治くんと接点が多いため、嘘を見抜こうと質問を投げかけるための会話の機会が多いはずなのだった。見ず知らずの男の人に質問させるよりは、よほど安全だろう。

             こうなると、私の取るべき行動は決まった。史恵ちゃんに遠慮なく、「史恵ちゃんの部活になんとか治って男の人がいるでしょ?その人に、たまに一緒にいる塚本明ちゃんのことどう思ってるか聞きだして、嘘かどうかを調べてみて」みたいなことを依頼すればいいだけなのである。これによって彼女の得られるメリットは存在しないが、そこはまあこれから私がどうにか彼女の願いのために東奔西走して埋め合わせればいいだろう。これは価値の決定ではない。明ちゃんを優先させたのは、明ちゃんの方が高価値で、史恵ちゃんは比較的無価値であるということを証明するものではない。物語の中心人物たちがつながっていたために、願いのもとが明らかである明ちゃんの問題を解決し、そのお礼として、今度は私が史恵ちゃんに協力を申し出ればいいのである。明ちゃんに対して図々しい女でいれさえすればいい。史恵ちゃんにとっては聖女でも喪女でもかまわない。誰が喪女ですか!

             

             日付けが変わっていたようだ。火曜日になっている。夜ももう遅いけれど、失礼を承知で史恵ちゃんにメッセージを送信させてもらった。特に返事を待つつもりもない。妙に疲れた。ベッドに横たわる。

             もうスマートフォンとにらめっこする気にはなれない。けれど、青白い光を浴びすぎたのか、眠たいのに眠れそうにないという謎の状況に陥っていた。これは困った。このままでは眠れないじゃないか。

             頭と目玉が疲弊しているのを感じつつも、私は力を振り絞って、枕元に置いたスマートフォンをいじる。通話ボタンをタップして、声が聞こえるまで待ってみた。

             数秒してから、声が聞こえ始める。

            「ん、どうしたの?」

             さわやかな声。

            「今日できることはやり尽くしたよ、美雨くん」

            「へぇ、それはそれは。おつかれさま。疲れただろう」

             とっても、疲れた。気疲れってこういうことを言うのね。

            「で。どうしたの、こんな時間に?」

            「美雨くんに、お願いしたいことがあって」

            「できることがあれば、なんだってするよ」

             私は目をつむる。
             さっきまでの疲れが、少しずつ気化していくような気がした。凝り固まって私の中に蓄積された疲れは、彼の声に溶かされて、真っ白い天井に吸い込まれていく。

            「羊をさ、数えてほしいんだ」

            「なんだい、それ?」

             彼の笑った声が聞こえる。

            「そうだなぁ……。5050匹まで数えてほしい。数え終えたら、この電話は切ってくれて構わないから」

            「そんなんでいいのかい?」

            「それでいいの」

             不本意であるが、私は彼の声以上に癒される音というものに出会ったことがない。少し前までは、彼の声が、彼自体があまり好きではなかったのだけれど、最近心地よさを感じてしまっている。由々しき事態だ。

             まあ私は、ほかの女の子たちみたいに、彼に対してメロメロになってしまうというようなことは、なさそうだけど。

             

             美雨くんの声が、羊を数え始める。ふわふわとした彼の声に手足が生えて、かわいらしい羊になって私のまぶたの裏をよちよちと歩いていく。

             1匹――。2匹――。3匹――。

            美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (23)

            2016.01.20 Wednesday

            0

              「石生さん、人はね」

               美雨くんはいった。

              「人にやさしくするためにも、嘘をつくことがあるんだよ」

               人に優しくするために嘘をつく。以前有林さんにもいわれたような気がする。それとも、私が前から考えていたことだったか。詳しくは覚えていないけれど、とにかくこの言葉は、やたらと私の頭の隅に残っている。

               人に嘘をついたことがない人が、どんなにかわいそうであるか。人を傷つける嘘もあるし、そういったうそのほうが、もしかしたら世界には多いのかもしれない。そうだとしても、嘘をついたことがないということは、やさしさゆえの嘘もついたことがないわけで、それはつまり、嘘によって人に優しくするということを行ったことがないということになる。親切な態度で人と向かい合うという機会を、ことごとく逃しているということになるのだ。やさしくなれる機会がなかった。そう考えると、嘘をついたことのない人はかわいそうに思えてくるのだ。

               美雨くんは、(彼以外に)嘘をついたことのない私を、やさしくなれるチャンスを逃してきた私を、やさしいといってくれたのである。

              「でも私は」

               美雨くんの言葉を受け止めながら、私は自分の胸のうちを彼に明かす。

              「私は、明ちゃんと史恵ちゃんのどちらかを優先しなきゃいけないって考えてる。もしここで明ちゃんを優先すれば、少なくとも私の中では、史恵ちゃんの価値が下がることになる」

               そして、それは逆も同じである。選ばれなかった方の価値が、選ばれなかったことによって下がってしまうのだ。たとえ本当に、どちらも自分にとって価値の高いものであるとしても。同等の価値を持っているものだとしても。

              「それが人間の辛いところだね」

               彼はいった。

              「僕はその河野さんには会ったことがないけれど、曲者の石生さんと気があったんだから、とてもいい娘なんだろうね」

               おい。誰が曲者じゃ。

              「人は選んだものの価値が高いと思い込んでしまう。自分にとって価値が高いものをあえて選ばないというシチュエーションが、限られてるからだ。ほとんどの場合価値がないものを選ばないからね。母親と恋人が溺れていたらどっちを助けるみたいな質問があるけど、あれなんか典型的な例だね」

               どうでもいいけど私には恋人がいないので、あの手の質問ほど無意味なものはない。ああ、友達と母親とかにすればいいのか。あれ、ぱっと友達が思い浮かばないぞ?泣きたい。

              「結局人は、価値というものを、比較することでしか決めることができない」

              「うん」

              「だから石生さんは、どっちかを価値のないものと決めることにためらっているんだ」

               なるほど、そうかもしれない。

              「じゃあ、なにもしないのがいいってこと?」

              「どうして?」

              「選ばなければ、価値の優越がなくなるから」

              「なるほどね」

               美雨くんは笑った。

              「でも石生さん。君はひとつ重要なことを忘れている」

              「え?」

              「選ばれなかったものに価値がなくなるんだ。どちらも選ばないならば、それはどちらにも価値がないということになってしまうんだよ」

               ややこしいな。

              「でもね、石生さん」

               美雨くんはつけくわえる。

              「今回は、別にふたりが溺れているわけじゃないんだ。どっちかしか助けられないわけじゃない。たしかに順番はあるけれど、もしかしたらふたりの問題を同時に解決することができるかもしれないんだ」

              「どういうこと?」

              「石生さんが思ってるよりも、この問題が難しいかもしれないし、想像以上にシンプルな構造をしているかもしれないということさ」

               

               美雨くんとの電話を終えたあと、私が連絡を取ったのは明ちゃんの方だった。

               というのも、史恵ちゃんを見捨てたわけじゃない。私は史恵ちゃんと明ちゃん、どちらの問題もできるだけ同時期に解決したいのである。時間に制限があるのは、私から直接エキスを投与されていない、つまり効果の小さい史恵ちゃんの方だ。彼女の方の効果は、明々後日には間違いなく切れている。それまでに片をつけなければならない。

               しかし、私は明ちゃんの方も同時進行で解決させるべきだと考えているのだ。というのも、彼女の方はタイムリミットがないので安心できるとさっきまだ考えていたのだが、ふと美雨くんとの電話で彼から受けた言葉が妙に引っかかった。

               

              「嘘を見抜く力かぁ」

              「ね。信じられないでしょう?」

              「僕はなんとなく、人が嘘をついているのかどうかは表情を見ればわかるんだけどね」

              「へぇ、すごいね」

              「でも、結局それはきちんと相手の表情を見れば、の話だからね。気を抜けば嘘かどうかなんてわからない。だから楽しいんだけど」

              「うん」

              「だから、僕は少しだけ彼女のことが心配かな」

              「どうして?」

              「彼女は、念じれば嘘かどうかの判断ができるんだよね」

              「そうだね」

              「ってことは、本当に嘘かどうかを知りたいわけじゃなくても、少しでもどっちなのか知りたいなぁとか思ってしまったら、嘘かどうかわかってしまうわけだ」

              「そうね」

              「僕にはわからないけど」

              「うん?」

              「人には、嘘に酔いたいときがあるんだよ、きっと」

              「嘘に酔いたい、かぁ」

              「けど、彼女はそれができないね」

              「え?」

              「だって、ほとんどの場面で嘘かどうかの判断がされてしまうんだよ?」

              「うん」

              「人にやさしくするための嘘があるとしても、彼女は常にそれが本音であるかどうか判断できてしまうんだ。ってことは、彼女はその力を持っている限り、人のやさしさを素直に喜べないってことになる」

              「喜べない、っていうのは?」

              「嘘に気づかない、あるいは、少しは本音が混ざっているんだろうという期待があるからこそ、人は嘘にさえもやさしさを感じることができるんだ。嘘の判断ができるということは、そうした期待を持つことができなくなるってことで、それはつまり、人を信用できなくなるに等しい」

               

               彼女にはタイムリミットがないからこそ、危険性があるのだ。嘘を見抜く力は、たしかに手にした瞬間は、便利だと感じるかもしれないが、それが長期的なものとなれば話は変わってくるのだろう。神のような存在がいるとするならば、そのような存在が、どうして人間に嘘を見抜く力を与えなかったのかを考えれば、このことは明らかになる。人には、嘘を見抜く力は必要ないのだ。

               明ちゃんの問題を、私のエゴで解決するためには、史恵ちゃんの力が必要になる。明ちゃんと同じ、嘘を見抜く力を持った彼女に。

               明ちゃんが力を失うことができるのは、彼女の願いが達成されたときになる。しかし彼女の願いを叶えることは、彼女にはできない。ある願いを叶えるために与えられた嘘を見抜く力ではその願いを叶えることができないという矛盾である。

               明ちゃんの問題が解決しなければ、明ちゃんが力を手放すことはできない。明ちゃんの問題の解決には、史恵ちゃんの協力が必要になる。けれど、私は史恵ちゃんに協力を依頼するには、あまりにも情報が不足しているのだ。情報、つまり、明ちゃんの幼馴染である治くんとやらの情報である。

               どうやら明ちゃんに、赤裸々に彼女らのエピソードを語ってもらう必要があるらしい。史恵ちゃんへ協力を依頼するためには、最低限度の情報さえあればいいのだが、最低限の情報だけ聞き出すというのはなかなか不自然だろう。できるだけ、明ちゃんには私が彼女の問題に干渉しようとしていることを悟られたくないのである。私が彼女の手助けをしたいと思うのは、彼女に対する感謝の念からである。けれど私は、恩知らずな女だと思われていたい。妙な力を与えるだけ与えて、自分はホームへの階段から落下しておいて、それに対して映画だけで済まそうとする、そんな図々しい女だと思われていたいのだ。

               

               夜遅くではあるが、明ちゃん宛てにメッセージを打ち込む。あくびをしながら、私は美雨くんとの電話のことを思い出した。

              「図々しい女か」

              「どう思う?」

              「いいんじゃないかな、石生さんぽくて」

              「それは、私がいつも図々しい女だってこと?」

              「違うよ」

              「じゃあ、どういう意味?」

              「普通の人なら、図々しい女になりたいなんて思わないでしょう?」

              「そうかな」

              「石生さんは、他の人が絶対にやりたくないようなことをやってしまう、なりたくないようなものにみずから変身してしまう、聖女のような女の子なんだよ」

              「聖女?」

              「天使、とでもいうべきかな」

               私のことを天使なんて呼ぶのは、これからの人生できっと、美雨くんだけなんだろうな。

              美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (22)

              2016.01.19 Tuesday

              0
                 スマホの画面とにらめっこし続けること早20分。私はどっちの娘に連絡をするべきか迷っていた。本来であれば頭を敷くべきはずの枕を、私はしばらく座布団にしてしまっている。
                 私は史恵ちゃんとのデートのあと、連絡先の交換だけしてそのまま家に帰ってきた。私は結局、駅前のカフェにいる間は彼女にあれ以上能力についての話をしなかったのである。帰ってきてから私は、それを後悔していた。いったい私は、今からどうするべきなのだろう。
                 明ちゃんの幼馴染である治くんとやらは、長い間明ちゃんに信頼されているために、彼女の嘘を見抜く能力が全く効かなかったらしい。とはいえ、それはあくまでも明ちゃんから治くんへの能力の発動であって、全く無関係な史恵ちゃんからであれば、治くんの言葉の真偽が読み取れるかもしれないのだ。
                 しかし、さらに困ったことは、その史恵ちゃんは明ちゃんとは違い私から直接エキスを投与されたわけではないから、嘘を見抜く力に時間制限がついているということである。彼女から聞いた話では、今朝あたりにエキスを体内に取り入れたらしいから、明後日ぐらいには能力が切れてしまうのだ。
                 史恵ちゃんに明ちゃんの問題を解決するための協力をお願いするとしたら、早くしなければならない。そうでないと、史恵ちゃんはただの普通の女の子になってしまうのだ。そうなっては、明ちゃんのためにできることがなくなってしまう。私としては、階段から落ちた(そしてそのあと有林さんと会話をした)あの日に助けてくれた彼女の力になりたいという想いが強い。最初は、彼女のためであれば多少無関係な女の子を巻き込んでもかまわないとさえ思った。けれど。けれど、実際今日史恵ちゃんに会ったらどうだったか。
                 美雨くんに買ってもらったリュックサックが、もう全く使わなくなった自室の勉強机の足元に転がっている。私が一昨日彼に新しいものを買ってもらうまで使っていた古いリュック。それと同じものを使っていた河野史恵ちゃん。私と彼女は、明ちゃんのときもそうだったが、初対面でやたらと気があってしまったのだ。
                 今となっては、そんな彼女を利用することに抵抗がある。明ちゃんのために近づいたといっても過言ではないけれど、今私は史恵ちゃんには時間一杯彼女の幸せを追求して欲しいと思っている。有林さんから渡されたエキスで、時間の限り、納得のいくまで嘘を見抜いて欲しい。できれば、彼女が本当に願ったことが、はっきりすればいいのだけど。
                 そうなると、時間制限のある史恵ちゃんの方を優先するべきだろうか。彼女のためにここ数日は暗躍して、彼女にエキスの効果がなくなったら、再び明ちゃんの方へ……。
                 いや、だめだ。明ちゃんの方は協力者がいなければ――それも、彼女や治くんと同じ高校に通っていてある程度接触が取れるような娘がいなければだめなのだ。そのために私は、有林さんから聞いた女の子、つまりは史恵ちゃんに協力を仰がなければならない。明ちゃんたちの高校、私の母校に通う女子高生が、有林さんや私から能力を与えられる可能性は、かなり低いのだ。
                 なにをするべきだろうか。史恵ちゃんにすべてを打ち明けて、協力を依頼するか。あるいは、史恵ちゃんの願いをかなえるべきか。それとも、明ちゃんの願いを最優先に……。
                 最後はないだろう。そうなると、やはり史恵ちゃんにアプローチをしなければならないのだが、ここでやはり問題が出てくる。明ちゃんは私を助けてくれた人だから、執拗なまでに私から協力を申し出ても、そこまで不自然ではないだろう。しかし史恵ちゃんはどうだろうか。彼女との縁は全くといっていいほどない。彼女が有林さんから受け取ったエキスの元が私というだけで、今日以降積極的に彼女に関わるということは不自然だろう。
                 明ちゃんに連絡をするべきか、史恵ちゃんに協力を依頼するべきか、あるいは彼女の願いをかなえようとするか……。私は20分間、ずっとこの脳内議論を展開している。たちの悪いことに、明ちゃんはまだしも史恵ちゃんの方にはタイムリミットが迫っているのだ。こうして悩んでいる時間も惜しいのである。決断をしなければならない。いっそのこと、彼女らふたりをこのまま見捨てるというのも手ではある。
                 いや、だめだ。それは私が私を許せない。私は正直に生きてきたのだ。だからこそ、こんな厄介な事態になってしまっているのだ。嘘をついたことがないゆえに不必要なまでに他人の人生に干渉しているのだから、それを解決するのも正直によってでなければならない。
                 生まれてから一度も嘘をついたことがない。有林さんからの言葉を思い出し、ふとあることに気づく。あれ?今まで嘘をついたことがない。本当か?
                 最近私は、嘘をついたではないか。

                 滅多に押すことのない通話ボタンをタップする。耳には少しうるさいメロディを耳にしながら、私は相手が電話に出てくるのを待つ。
                 急にメロディが止み、さわやかな声が私の耳に届いてきた。今は夜だが、まるでたった今太陽が昇り、空が青白く光りだしたかのような、眩しい声だ。声が眩しいというのも変な話だが、表現力の乏しい私にはこの表現しかできない。
                「どうしたの?珍しいね、石生さん」
                「美雨くん」
                 私は声の主の名前を呼ぶ。
                「うん?」
                 柔らかい声が私を眠りに誘おうとするが、頭を振ってそれを振り切る。
                「私の話を聞いてくれる?」
                「どうしたの?さびしい?」
                「うっせぇ」
                 電話の向こうから笑い声が聞こえる。彼はいったい、どんなところに住んでいるのだろうか。波の音が聞こえる。
                「海、近いの?」
                「ううん。どうして?」
                「波の音が聞こえるから」
                 彼はへぇと声を漏らした。
                「そんな音まで聞こえてしまうのか。怖いね、電話っていうのは」
                 うっせぇ早く答えろ。
                「僕は波の音が好きなんだ。海と一緒に生きてきたみたいなものだからね」
                「へぇ?」
                「これは波の音のCDだよ。リラックス効果があるんだ」
                 私からすれば、美雨くんの声の方がよほどリラックスできそうではあるのだけど。どうやら彼の声の魔力は、彼自身には効果がないらしい。
                「ごめんね。話が脱線してしまった。うん、聞きたいな、石生さんの話」
                「ありがとう」
                 私はお礼をいってから、淡々と、他人の話をするように自分の話を始めた。ある日、駅のホームへ走っていたら階段から落ちて、意識を失っている間に有林さんに会って――。

                 一通り必要なことを話し終えてから私が小さく息を吐くと、電話の向こうから美雨くんの小さなささやきが聞こえた。
                「ありがとう、自分の話をしてくれて」
                「あ、信じるの?」
                 自分から打ち明けておいてなんだけれど、あまりすぐ信用できる話でもないと思うのだが。
                「石生さんの話だからね。僕はなんだって信じるよ」
                「もし、今の話が嘘だとしたら?」
                「そういう夢を見たんだって話に思い込むよ」
                 なんじゃそりゃ。
                「しかし、そうなると不思議なものだね」
                「ん?」
                「あの日、ババ抜きをしたとき、たしかに石生さんは僕に嘘をついた」
                 彼は私のいいたかったことを察してくれたようである。
                「君に不思議な力を与えることができるとして、もしそれが、石生さんが嘘をつかないことによって保障されているのだとしたら、僕に嘘をついた段階で効果が切れてもおかしくないけどね」
                 それなのだ、私が引っかかっていたのは。
                「まあ、効果が切れるとしてもそれは、僕に嘘をついたあの瞬間からもうエキスがつくれなくなっただけで、現存してる分にはまだ力が残っているとか。あるいは、そもそも人に嘘をついていないというだけで、人間離れした僕に嘘をついてもノーカウントであるか」
                 自分で人間離れしてるとか言っちゃうか。まあ、たしかにそうなのだけど。
                「どうすればいい?」
                「なにが?」
                「私は、誰に何をすればいい?」
                 うーんと、美雨くんが唸る声がする。顔は見えないが、たぶんそんなに困っていないのだろう。私は、彼が次にいう言葉がなんとなく予測できる。
                「石生さんは優しいんだね」
                 予想していた通りであった。これだから、私は彼に甘えてしまうのだ。
                 とはいっても、一昨日会った時に少し彼のことを認めようと思っただけで、昔から彼のことを信用していたわけでも、知っていたわけでもないのだけど。どういうわけか、私は彼に甘えるようになってしまったのだ。
                 彼は私が考えていることを、そっくりそのまま口にするだろう。そして彼自身がまるで私であるかのように、今後の私の取るべき行動を一緒に考えてくれるのだ。
                 時刻はもう、夜の10時を回っている。日が替わる前に何か行動を起こせればいいけれど、どうなるか。このまま彼と話をしていたら、彼の持つ謎の魔力にやられて、気付かぬうちに眠ってしまいそうである。そしてきっと彼のことだから、私が起きるまで電話を切らないでいてくれるのだろう。困ったな、いびきとか聞かれたら恥ずかしいな。

                 私はどのように眠気に打ち勝とうかというようなことを考えながら、眠れない夜には彼の声を聞けばすぐ眠れるんだろうなというどうでもいいことを思った。いつか彼の寝顔を写真かなんかに収めてやりたいが、逆に私の寝顔が盗撮されるのがオチなのだろう。

                美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (21)

                2016.01.14 Thursday

                0

                  「いいね、ここ」
                   やっとの思いで席に座り、私と彼女はゆったりとイスに寄りかかった。
                   やっとの思いで――というのも、私と彼女は不慣れなこのカフェに入ったはいいが、全くもってシステムがわからなかったのである。入口から入ると、ファーストフード店のようにすぐレジ的なものが見えたが、そういった店とは違って、入口とは垂直に設置されていたのである。
                   多くのファストフード店では、入ると真正面に、店員さんが自分と向き合うような形でいらっしゃいませを浴びせてくる。しかしここは違ったのだ。入った瞬間、店員さんは横を向いていたのである。なるほど、たしかに女子高生たちが通うような有名なカフェでは、店内はそういったつくりになっていたかもしれない。私はきらきらした女子高生生活を送ってこなかったためにまったく実感を持って理解することはできないのだが、テレビなどで見かける店の雰囲気はまさにこんな感じであった。
                   少し前に明ちゃんと――そして図らずも美雨くんとファストフード店に入った私には、こういったつくりの店はもうフロンティア、新天地なのである。まさに右も左もわからない状態。入ってすぐ「やばい、帰ろう」と思ったぐらいだが、どこから入ってきたのかも一瞬忘れるほどであった。
                   やっぱりだめだね、どんなにおしゃれな空間でも、多くの人が利用する場所はできるだけつくりを同じにしてもらわないと。まじでわけがわからなくなる。
                  「いいですね……。新しくできたんだぁって思ってても、なかなか入りにくいですもんね、こういうところ」
                   史恵ちゃんがいった。その手は膝の上にあり、私の呟きに対してかなりの文字数で返しをくれたけれど、実際かなり混乱しているようである。きょろきょろとあたりを見回して、腕がそわそわと動いていた。今はテーブルで見えないけれど、きっと膝の上で指はダンスをしているだろう。なぜなら私も落ち着かず、同じようなことになっているからである。
                   おしゃれとはいえ、その辺のレストランのようなものだろうとタカをくくっていた私であったが、店に入って奥の方に見えたテーブルに向かおうとすると、急に横から店員さんに声をかけられた。お決まりになりましたら〜というやつである。うるせぇ。先に座りたいんだよこっちは。
                   なんてことはいえず、私と史恵ちゃんはおされ空間の雰囲気におされて(ダジャレみたいになった)、荷物を通常の三倍くらいに重々しく感じながら、輝かしい笑顔を安売りしている店員さんの前に立ち、その笑顔をできるだけ直視しないようにメニューを睨みつけた。何かを頼んで、「席でお待ちください」というやさしい言葉に従って、私と史恵ちゃんはようやくテーブルについたのである。これが「やっとの思い」の正体だ。早くも帰りたい。
                  「そうだよねぇ。勝手に、新聞とか読んでる人で埋め尽くされてるイメージがあってさ」
                  「わかります」
                   同意しながら、彼女は眼鏡を外した。眼鏡を取った方が明らかに美人であったが、わざわざいうことでもあるまい。このオサレ空間の重圧に耐え抜いた戦友であるとはいえ、私と彼女は今日が初対面なのである。
                  「でも、勘違いだったみたいね」
                   私はいいながら、あたりを見回す。新聞を読んだり、ノートパソコンを叩いたりしているような会社員の姿はほとんどなかった。
                  「そうですね、結構女子高生とか、多いみたいで」
                   彼女が言ったように、周りには女子高生がたくさんいたのである。まあ、私が急いで帰ってきたとはいえ、史恵ちゃんの部活終わりぐらいの時間なのだ。女子高生が多くてもおかしくはない。むしろ、この時間にここでゆったりしている会社員の方があやしい。仕事が終わったら帰ればいいのだから、もし仕事終わりでここにいる人がいたとしたらそれはよほどここが気に入っているか家が嫌いなのだろう。もしここに来て休憩だとしたら、もう夕方なのにまだまだ働かされるのか……と同情せずにはいられなくなる。
                   女子高生は、うるさい。ここでならどんな話でもできるだろう。
                   
                  「いくつか聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
                  「はい」
                   なぜか眼鏡を外した彼女は、テーブルの上に畳んだ眼鏡を置いていたので、私はその黒い眼鏡に視線を落としながら尋ねた。別に眼鏡好きというわけではない。あまり彼女の目をみても、変に圧力を感じさせてしまうだけだろうと考えたのだ。
                  「答えたくないことがあれば、全然黙秘してくれていいからさ」
                   彼女がこくりと頷いたのを確認して、私はこれから聞こうとしていることを自分の中で整理する。
                   彼女は河野史絵ちゃん。普通の女子高生であるが、少しだけ奇妙な体験をしたであろう女の子だ。有林さんから、私のエキスを受け取ったのである。ということは彼女は、私が明ちゃんにキスをしたときほど強力ではないだろうけど、ある程度嘘を見抜く力が備わっているはずなのだ。
                  「嘘を見抜くってことだけど、力を試したことはある?」
                   威圧的にならないように、質問しながらも後ろを振り返る。注文したものは、まだ来そうにない。
                  「ええ、何回か」
                   私が向き直ると、彼女もちらちらとレジの方を確認しているのがわかった。レジの奥に調理場が見えたから、頼んだものが来るのなら、私が背を向けている店の入口の方からなのである。
                  「時間制限については?」
                   私は彼女に尋ねながら、緊張していて自分がいったい何を注文したのかわからなくなっていた。
                  「ええ、72時間って話をされました」
                   今度は彼女が目線を眼鏡の方に落とし始める。
                   有林さんはどうやら、彼女にきちんと説明をしたようだ。私と初めて会ったときは、明らかに説明不足だったというのに。どういうことだってばよ。
                  「摂取したのは、いつ?」
                   ふたつ隣の席に座った女子高生たちがテーブルの上に開いている教科書らしきものの内容を把握しようと目を凝らしながら、私はさらに具体的な質問をしてみた。摂取してから72時間が、嘘を見抜ける時間なのである。状況によっては、もう彼女に嘘を見抜く力はない。そうなってしまうと、私が今日彼女に会いに来た意味が全くといっていいほどなくなってしまう。
                  「今朝ですね。買わせていただいたのは、もう少し前なんですけど」
                   どうやら杞憂だったようである。私は少しだけほっとした。彼女にはまだ嘘を見抜く力があるのだ。明ちゃんのために、少しだけ心は痛むが彼女を利用させてもらおう。もちろん、ただ利用するだけでは申し訳ないので、彼女に悩みのようなものがあればぜひ協力を申し出たいところだが。
                  「使ってみて、どうだったかな」
                   今朝飲んでみたということは、今日の学校生活の中で能力が発揮されたのだろうということは容易に想像できた。
                  「最初は信じてなかったんですけど、友達との何気ない会話で色々わかったので、あぁ、ほんものなんだなって」
                   彼女の視線がちらりと動く。私もそれに気付き、同時にそばで人の気配を感じた。注文していたものが、運ばれてきたのである。ご苦労さまです。私だったら間違いなく「てめぇで取りにこいやぁ!」とかいってしまうに違いない。
                   女の子らしい店員さんがおじぎをして、私たちもそれに釣られて軽く会釈をすると、店員さんは戻っていった。史恵ちゃんは改めて私の方に向き直り、先ほどよりも深くお辞儀をする。
                  「ありがとうございます」
                   きっと、能力のことについてだろう。私がさっき「あれは私からつくられたもの」みたいな発言をしたからだ。
                  「いやいや、私は何もしてないっていうか」
                   本当に、私は何もしていないのである。人生における嘘をつくというイベントを奇跡的にすべて回避し続け、ミステリアス美女、有林さんに熱烈なキスをされただけなのだ。私は常に、受身である。何か感謝されるようなことを直接したわけではない。
                   それに、そもそも私の力自体が不完全なものであるということが、明ちゃんとのやり取りの中で明らかになっているのである。嘘を見抜けるといいながら、「好きな人相手には通用しない」という詐欺まがいのあやしいエキスを渡してしまったことを、むしろ謝りたいぐらいなのだ。
                   
                  「で、本題なんだけど」
                  「はい」
                   エキスは時間制限つきである。できれば交渉だけはさくさくと済ませてしまいたい。
                  「どんなことに一番力を使ってみたい?」
                   彼女がエキスを欲した意味を確認しようと思った。有林さんがいうには、誰にでもエキスを渡せるということではないらしいので、彼女なりの願いがあって、嘘を見抜く力を欲するに至ったのだろう。そうなると、私の彼女への要求はかなり一方的で自分勝手なものになってしまう。自分の本意があるというのに、さっき会ったばかりの喪女に「私のために少し協力してくれない?」といわれるのである。誰が喪女だ。
                  「そう、ですね」
                   彼女は少し考え込むようにして、ゆっくりと口を開いた。口を開いてから言葉が出てくるまでに、少しラグがあったような気がする。
                  「恋愛、ですかね」
                  「ほえぇ」
                   間抜けな声を上げてしまった。
                  「意外ですか?」
                  「あ、ごめんね。ちょっとだけ」
                   失礼なことをしたかもしれないと思い彼女の表情を窺ったが、彼女は微笑んでいて、むしろさきほどまでよりも緊張感がなくなったように見える。このオシャレ空間に慣れたのか、あるいはそれ以外の理由か。
                  「いいんです。私自身も、あんまり恋愛だと思ってないっていうか」
                  「恋愛だと思ってない?」
                   私は彼女の言葉を反復するように聞き返す。
                  「単なる憧れなんだと思うんです」
                  「憧れ?」
                   憧れ、というのは。
                  「同性の先輩がいて、すごく明るい人で、いいなぁ、ああなりたいなぁって」
                   彼女は続けた。彼女の前においてあるワッフルには、まだ手がつけられていない。いいつつ私も、目の前に置かれたイチゴパフェにスプーンを突き立てるタイミングを見失っていたのだけれど。
                  「で、その先輩が恋をしていて、先輩の恋の相手のことも、知るようになって」
                   なんとなく察してしまった内容が正しいかどうかを確かめるために、私はゆっくりと質問した。
                  「好きになっちゃった?」
                  「いいなぁって」
                   ふむ、なるほど。
                   史恵ちゃんには憧れの女性の先輩がいて、その人には好きな人がいて。どんな人だろうと見ているうちに、その人のことが気にかかってしまった、と。
                  「わからないんです、ほんとに。今まであんまりそういった経験もなくって」
                   私こそわかんねぇよ。とはいえなかった。
                  「モテそうだけどね、史恵ちゃん」
                   私はわざとらしくならないように本音をこぼす。そしてここぞとばかりにスプーンを手にし、もりもりと山を作ったソフトクリームの部分につきたてる。
                  「そんなこと――」
                  「いや、ほんとうに」
                   彼女は否定したが、私はその否定を遮って彼女を褒めてみた。恥ずかしそうに笑って、彼女もようやくワッフルを消化するべくフォークとナイフを両手に持ち出す。
                   恋愛のことをよく知らない私だ。あまり解決を焦っても仕方がない。ただでさえ、史恵ちゃんは明ちゃんとは無関係なのである。明ちゃんの幸せを願う私のエゴのために、彼女を拘束するのもいかがなものか。少し前の自分を省みて、少し反省する。
                   今はとにかく、この妙な出会いを楽しむことにしよう。ソフトクリームの足場が崩れたために転がり落ちそうになった丸めのイチゴをスプーンで支え、私はそのまま口に運ぶ。思ったよりも大きくて、すっぱかった。

                  美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (20)

                  2015.09.11 Friday

                  0

                    「河野史恵ちゃん、でいいかな?」

                     私は彼女に尋ねた。人違いということはなさそうだけれど、いきなり話を進めるのもまずい。

                     わさびのような、ツンとした感覚がしたので、おそらくそれが有林さんのいっていた感覚なのだろう。明ちゃんから話を聞いたときのような気持ち悪さはなく、すぐその感覚は去ってしまったが。

                     今普通に話をしているこちらの女の子には、いったいどんな感覚が走ったのだろうか。

                    「は、はい」

                     彼女が緊張した様子で返事をした。顔色や動作に大きな動揺は見られないが、少しだけ目が泳いでいる。リュックを背負った背中が、少しだけびくりとしたのが見えた。

                    「あ、ごめんね。いきなりなんだよって感じだよね。私は石生夏香、大学生で」

                     私は彼女の様子から、とにかく少しでも緊張感を解かなければそのうち逃げられて今うだろうという予感がしたので、弁明を始める。私も相当な慌てぶりだ。話しかけたのお前やんけ。セルフツッコミをかます。

                     私も目を泳がせながら話をしていると、彼女の方も親近感を覚えたのか少しずつめがある時間が延びてきた。真っ直ぐ目が合ったタイミングを逃さずに、私は本題に入る。

                    「えっと、なんかきらきらした髪のお姉さんから、缶買わなかった?」

                     なんかきらきらした髪のお姉さん。そうとしか形容ができなかった。有林さんといっても、きっと彼女には伝わらない。彼女が無闇に自分のことを喋るとは思えなかったのである。

                    「買い、ました」

                     彼女はこくりと頷いて答えた。その様子からは、もう動揺のどの時も見受けられない。今では私の方がよほど混乱している。

                    「それが私からつくられたっていうか、なんていうか。とにかく、関係者だと思ってくれればいいよ」

                     なんだその適当な説明は。そんなんで信用してもらえると思ってんのか。帰れ。

                     なんてことを、この落ち着いた瞳で蔑むように言われたらぞくぞくするだろうなぁ。ついさっき会ったばかりの女の子でそこまで想像してしまって、自己嫌悪に陥る。が、すぐにどうでもよくなった。落ち込んでいる場合ではない。私は彼女と話をしたいのだ。

                    「なんていうか、このあと、時間ある?」

                     できるだけやさしいお姉さんみたいになるよう声を和らげていったつもりだったが、異常なまでに声が震えてしまったので、再び彼女の方がびくりと動いた。私は言い訳をするように、別の言葉を添える。

                    「変なことはしないよ!ただ少し、お話したいことがあるというか」

                     見れば見るほど綺麗な子だなぁ。明ちゃんはかわいいけれど、この子は美しい。びじんっていう感じじゃなくて、あぁ、なんていうべきだろう。

                    「信用できないよね、ごめん」

                     出直すか。私がそう考えてみると、彼女の方も慌てたように言葉を返してくれた。

                    「いえ、大丈夫です」

                     両手を顔の前でふるふると振って、全然そんなことないですよアピールをしてくれる。どうやら敵意はだいぶ薄れたようであった。

                    「怪しい人じゃなさそうなので」

                     いや、めちゃくちゃ怪しい人だったけど。

                    「ありがとう」

                     私はお礼を言う。手を膝の辺りに当てて軽くお辞儀をすると、彼女もさらに申し訳なさそうに、おそらく悪気なく言葉を続けた。

                    「なんていうか、いい意味で抜けてそうっていうか」

                     あ、はい。ありがとうございます。

                     

                    「河野さんに会うつもり?」

                     トイレから出ようとしたとき、有林さんが私を見ずに聞いてきた。鏡の前から離れていたので、久々に肉眼で彼女を捉える。

                    「ええ」

                     私はそっけなく返事をした。彼女のマネをしてみたが、たぶん似てない。

                    「いきなり?」

                     本家はこれである。やさしさが混ざってるのか混ざってないのかわからない、妙に冷たい感じの物言い。私は返答に困る。

                    「えっと、ですね、はい」

                    「不信がられるよね?」

                    「えっと、はい、そうかもです」

                    「ただでさえ石生さん抜けてるところあるから、挙動不審発動して通報されるかも」

                    「あ、もうそのくらいで勘弁してください」

                     土下座する勢いで誤ってしまった。

                    「ごめんね、少し遊んでみただけよ」

                     そしてこれだよ!くそ!かわいい!あぁ!美少女の特権!あぁ!罵られたいってこういうことをいうんだよなぁ。

                     弄ばれていることに妙な快感を覚えながらもじもじしていると、有林さんが安心させるように言葉を発した。

                    「安心して。石生さんを介さないとはいえ、ある程度石生さんと相性がよくないと私はエキスを提供しないから」

                     相性がいい。

                    「と、いいますと?」

                    「初対面でも彼女はきっとあなたとお話ができるし、あなたもそんなに緊張せずに仲良くなれるわ」

                     

                     結局、有林さんの予想は的中し、私は不審者に間違われる勢いで動揺しながら話をすることになったものの、またまた彼女の予測通り、だんだん緊張感が急速にほぐれていった。

                     彼女と並んで校門を出る。私服姿の女と、制服姿の女子高生の組み合わせがなかなか奇妙だったのか、校門を出てしばらくはやたらとちらちら見られてしまった。けれど、だいぶ高校から離れていくと、その視線は姉妹を見るような目になっていき、その環境の変化から、私は少しずつ緊張を解きほぐす。

                     明ちゃんともすぐ打ち解けられたけれど、あれは彼女の持つ明るさのようなものが明らかにアシストしていた。今私の隣を歩いている河野史恵ちゃんは、彼女ほど明るいということはなく、むしろ落ち着いた女の子である。

                     けれど、話をしていくうちに、妙に息が合うことが明らかになっていった。会話のペースや、歩くペース。顔色の伺い方。信号機と往来する車に対する警戒心。そういったものがほどよくシンクロしていたため、だんだんと私も私がおしとやかになったらこんな感じだろうかと、彼女のことを考えるようになった。

                     いや、もちろん今もおしとやかなレディーですわよ、おほほ。

                     適当な会話をしながら、そかし無意味に精神をする減らすことなく一緒に歩き続けて、私たちは駅の方を目指した。落ち着いて話をしたかったので、どこか建物に入る必要があったわけである。下校時刻ですよと放送が響く中で高校の教室に進入する勇気はない。駅の方に行けば、落ち着いて座れる場所があるだろうと踏んだのである。

                     あ、と彼女が声を漏らす。彼女の顔の方へ私も首を捻ると、そこには少し前にオープンしたらしい、田舎にはあまり似つかない、おしゃれな雰囲気の漂うカッフェエがあった。

                     ちなみに私は、異国情緒を満喫するために、カフェのことをカッフェエと発音する癖がある。原因は、大学入試のために近代の文学を読んでいたときに、あの妙なカタカナ交じりの文体にあてられたからだった。ラブレターが届いたよを、ラァヴからのレッタアが届いたよっていっちゃうあの感じね。各都道府県で3人くらいが共感してくれると嬉しい。

                    「新しくできたんだねぇ」

                     私が通っていたときには、少なくともここにこんなおしゃれ空間は存在していなかった。あったのはやたら狭く繁盛していないドラッグストアだったのである。

                    「みたいですね」

                     リュックとは別に、教科書を入れる用のプラスチック製のカバンを両手に持っていた彼女は、立ち止まってじっとそのカッフェエを見ていた。そろそろ自分でもうざくなってきたので、素直にカフェと発音することにします。

                    「来たこと、ある?」

                    「ない、です」

                     返事をしつつも、私には目もくれず、彼女は体ごとそのカフェの方を向いていた。その口は少しだけぽかんと開いており、その眼鏡から見える目線は、表に立てられていたメニューの書かれた看板へと突き刺さっている。

                     おそらく提供しているパフェやケーキを描いたイラストが、ほどよく不鮮明で興味をそそられる。チョークで描いた、雑な塗り方。それが妙にうずうずさせるのである。私はこういう仕事任されたらしっかり塗ってしまうだろうから、あんまりおしゃれにみえないんだろうなぁ。

                    「入ろっか」

                     私はにっこりと微笑んで、彼女に言った。その言葉に彼女はハッとなって、慌てふためく。顔が少しだけ赤くなって、下を向いてぽそりと謝る。

                    「すみません……」

                     きれい。だけど、なんか、かわいらしいなぁ。うん、やっぱり女の子最高。

                     私は笑顔を崩さないようにして、店の自動ドアの前に立つ。センサーが反応して、ゆっくりとドアが開いた。ドアを開けたままくるりと振り返って、彼女の顔を見る。目が合ってから、ひょいひょいと手招きをしてみた。えへへと笑って、彼女が歩き始める。その足取りはさっきよりも軽くなったようにみえる。

                    美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (19)

                    2015.09.09 Wednesday

                    0
                       タイムリミットつきであるために、私は月曜の授業を終えてすぐ、わが母校へ向かうことにした。この間明ちゃんを送るときに校門の前まで来たけれど、中に入るのは合格報告をしにきたとき以来である。
                       え、ほんとに報告したっけ、私。
                       ともかく、もし報告に来ていたとすれば、今が2年生なので、1年と数ヶ月前ということになる。そんなに来てなかったのか。そのわりにはそこまで懐かしいと思うことはなく、何日か前に訪れたかのような感覚でいる。
                       きっと思い出というものは、そうやって廃れていくのだろう。まだ鮮明に思い出せる。そういった感覚が、いつまで経っても続くと思い込んでしまう。1年経っても忘れないもんだね。そういった思いが、思い起こすことを阻害する。覚えているのだという一瞬の想いが、継続的な想起の邪魔をしていく。思い起こす必要性を根絶やしにする。そして本当に思い出せなくなってしまっても、そんな思い出なんかなかったかのように日々の生活を送れてしまうのだ。
                       まあ、かといって毎年ここに来ようなんて気にもならないし、有名人でもない普通の卒業生が母校をふらふらするのも問題だろうから、私はもうここへは来ないんだろうななんてことを考えている。
                       マラソンでやたら私の足首を痛めつけたアスファルト。やたらと多い下駄箱。昇降口の入口に置かれた、真っ黒に汚れてしまっているマット。
                       ふたのないゴミ箱。目線を変えると、そのふたはドアの隙間に挟まっている。横スライドのドアの中に、ひとつだけあるノブつきのドア。オートロック仕様になっていて、外側からは開かないようになっている。部活動の時間になると、そのドア以外は全て鍵が閉められ、外に出ていた人が中に入るには、たまたま内側にいる人が外に出るときに出くわさなければならない。そのため、はじめからゴミ箱のふたをドアに挟んでおくことで、ロックがかからないようにしているのである。なんのためのオートロックなのかわからない。
                       私がここにきたのは、ある女の子に会うためである。もちろん、エキス絡みで。さきほど「二度と来ないのだろう」なんてことをいったが、もしかしたらたまに来ることになるのかもしれない。今みたいに、エキスを摂取した女子高生と話をするために。
                       
                       明ちゃんと美雨くんとのデートのあとトイレで有林さんと話をした私は、エキスについてもう少し知っておきたいと思った。彼女にいくつか質問をしたわけである。
                      「エキスは缶でも提供できるのよね」
                      「ええ」
                       私の問いに、有林さんは頷いた。
                      「私は明ちゃんに直接キスをしてエキスの投与を行ったわけだけど、その必要はあったのかな」
                       仮に缶での提供ができるのであれば、私の努力は全く必要なかったことになりそうなのだけど。
                       有林さんは少し考え込んだ。言葉を選んでくれているようである。おそらく、理解力の低い私にもわかりやすいような、丁寧な言葉を厳選しているのだろう。
                      「直接提供の方が効果が強いのよ」
                       彼女は閃いたようにそういった。鏡の中で、彼女は指をピンと立てている。豆電球が頭の上に見えた。彼女は無邪気な表情をしている。生きるのが相当楽しそうだ。
                      「効果が強いっていうのは、例えば?」
                      「そうね。ひとつは、時間の制限が違うわね。さっきもいったけど、直接投与は利用者が一番知りたいことの真偽を知ることができるまで効果が続くわ。けれど、缶での提供での効果持続時間は、およそ72時間」
                       3日間、か。長いのか、短いのか。文字通り夢のような時間なんだろうなぁ。夢を見ているかのように、自分以外の人の気持ちを知ることができる。
                       それが幸せかは、わからないけれど。
                      「制限については同じよ。強い信頼を一定期間寄せている人には力が通用しない。それと、少しだけ勘が鈍る。時間がかかる、って感じかしら」
                       ババ抜きで試すにも、時間をかけないと効果が出てこないということか。質問して、答えが来ても、すぐに判断ができない。嫌がられそうである。
                      「あぁ、あと少しだけお金がかかるわね」
                      「どれくらい?」
                      「ひと缶150円」
                       やっすい。
                      「どういう感じで?」
                      「自動販売機」
                       そんなんみたことないぞ。どこで売ってるんだそれは。魔界か。魔界かどこかか。異次元の世界で販売中なのか。
                       などと考えていたら、ふとある考えが浮かぶ。有林さんはそれを見透かすように、言葉を続けた。
                      「エキスを欲している人は、私が専用の空間をつくっているわ。私とその人と、自動販売機だけしかその場にない、ちょっと特殊な空間」
                       それはちょっとではない。私はそう突っ込みたかった。
                       おそらく、私が彼女と出くわしているとき――ちょうど今みたいな空間を作り出しているのだろう。風景は全くそれまでと同じ。けれど、自分と彼女以外の生物は存在しないような、寂しい空間。
                       もしかしたら彼女の力はそれなのかもしれない。そんなことを考えた。
                      「ん、惜しい。半分正解」
                       私はハッとなる。彼女はまた嬉しそうな表情を浮かべていた。私が今考えていたことについてだろうか。
                      「空間生成はおまけみたいなものよ。私のもともとの能力じゃない。私が能力と引き換えに手に入れた力が、この空間生成というわけ」
                       引き換え。
                      「有林さんも、前は提供者だったんでしたっけ」
                      「そうね。前は」
                       彼女の指が髪をいじり始める。くるくる巻きつけてはいるが、とてもなめらかなのでするすると指から離れて元通りになっていく。水のような髪なんだろう。なにいってんのかわかんないな、私。
                      「缶の大きさは、そうね。コーンポタージュくらい」
                       小さいんだね。いや、私が投与した量を考えれば多い方か。
                      「あと、あなたのことだから忘れてそうだけど、売り上げはしっかり後日あなたに渡すわ」
                       あぁ、そういえばそんな話もあったな。
                      「どれくらい売れたの?」
                       ひと缶150円のわりに私がもらうのは1回につき3万円という謎システムだから、売り上げって言葉は不適切なのかもしれないけど。
                      「そうねぇ」
                       有林さんは髪をいじるのをやめて、指を折り始める。
                      「今のところ3……あぁ、今あなたががんばってる件も含めれば4になるのかな」
                       と、いうことは。
                      12万円」
                      「そう、12万円」
                       私より嬉しそうである。
                       
                       12万円という非常識な臨時収入に喜べないでいるのは、なぜだろうか。たぶん、実感がないからであろう。私の知らないところでどんどん私のお金が膨れていく。妙な感じだった。
                       株取引とかであれば、株価変動に一喜一憂している時間などがあるだろうからまだ実感はあるのだろうけど、これは完全に知らないところでおきてることだからなぁ。
                       私が目指しているのは弓道部の練習場所である。大学で授業を済ませて電車に乗り、高校の最寄り駅で降りてここまで来ると、ちょうど部活動が終了する時間になるのだ。
                       有林さんから聞いた女の子――河野史恵ちゃんというらしい女の子は、どうやら弓道部らしい。エキスの提供者と利用者の関係であるから、もし出会えたらお互い直感的にわかるということだったが、本当だろうか。怪しいところである。有林さん自体存在がうさんくさいからなぁ。かわいいけど。
                       的の立ててある練習場の方には袴姿の高校生が見えなかったので、おそらくもう練習を終えて制服に着替えているのだろう。部室棟という名前の簡素なつくりの一階建ての建物。そのドアのひとつに、弓道部女子と書かれた表札のようなものが貼りついている。私はそのドアから少し離れたところに寄りかかって、ドアの中から出てくる高校生たちを待つ。
                       がちゃっとドアをあけて、地味めなセーラー服が一人ずつ出てくる。私と目が合うと全員少しびくっとするのはなぜだろう。あぁ、私が私服だからか。そりゃびびるよね。
                       私も同化するようにセーラーで来るべきだったか。いや、痛々しいな。やめておこう。
                       何人かが既に出てきたけれど、特別びびっと来るような女の子はいなかった。「あ、この娘かわいい」とかはあったけれど、お互いにシンパシーを感じあうようなことはない。
                       まだ帰ってなければいいけれど。そんなことを考えながら、音もなくドアが開く。中から出てきたのは、眼鏡をかけた控えめそうな女の子。控えめってのは胸の話ではない。性格の話だ。え、そんなこと聞いてないって?うっせぇばーか。
                       何か整髪量のようなものでまとめているのかはわからないが、かなり綺麗に首のうしろ辺りで1本縛りになっている黒い髪。そのしっぽの生える場所を少しずらして、彼女からみて右の肩の方へ流している。
                       黒い髪とは対照的な真っ白い肌の色。日が落ちているせいか、その表情はやたらと青ざめて見えた。なんとなく、少しだけ不健康そうな、なんだろう、なんとなく文学少女のような雰囲気である。
                       ドアから出てきた感じだと、身長は私と同じくらいであろうか。眼鏡のフレームはその髪と同じ黒であり、レンズは少し丸みを帯びていた。
                       綺麗にすっと鋭く弧を描いている顎の形。首が少し長く見える。胴長というわけでもない。
                       外に出た彼女は一度持っていたスマートフォンを確認し、ちらりとこちらに視線をくれる。
                       ぱちん。あぁ、これか。
                       私が感じたのと同じような感覚を彼女の方も感じ取ったのか、彼女の動作が一瞬止まる。
                      「……こんばんは」
                       なんとなくそんな言葉だけが出てきた。しまった、いうことをまとめてから来るべきだったか。なにを話せばいいんだ!
                      「こ、こんばんは」
                       細い声が返ってくる。彼女の背負っているリュックサックは、今日の朝まで私が使っていて、今私が背負っている新品の中に詰め込まれているものと、同じであった。

                      美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (18)

                      2015.09.07 Monday

                      0

                        「どういうことだろう」
                         彼女からのメッセージは、彼女の力がおそらく治くんとやらに効かなかったことを意味している。
                        「効かなかったの?」
                         美雨くんが脇から質問してくる。画面を覗き込むということはしていないが、私の言葉から事情を察してくれたようである。
                         私は彼の方を向いて、尋ねてみた。
                        「そうらしい」
                         そしてつけくわえる。
                        「嘘、ついてないもんね」
                        「うん」
                         彼は私をからかうためによく嘘のようなものを口にすることは多々あるけれど、今はそんなふざけた雰囲気は彼の表情から放出されていない。珍しく。
                         なんだかんだ私は彼のことを信じている。それに、私が自分の手札について嘘をついたときも、明ちゃんはそれを美雨くんにリークしていた。ということはつまり、少なくとも私には効果があったのである。
                        「なら、なんで?」
                         美雨くんは顎に手をやって少し考え込む。私も同じようなポーズをしてみるが、なにも降りてこない。
                        「可能性があるとしたら、力の通用しない相手がいるってところだよね」
                         彼は視線をやや下の落としながらそういった。彼の目線の先には、私たちが座っているのと同じような座席が背を向けているだけなので、特に何かを見ているということはないのだろう。
                        「単純に彼自体がその力に対する抗体のようなものをもっているのか、あるいは彼女にとって効かない相手がいるか」
                         彼がますます難しそうなことを言い始めた。私は何とか彼の言葉一つひとつを自分のものにしようと、色々置き換えて考えてみる。
                         彼女にとって特定の誰かには、彼女の力が通用しないということか。
                        「彼女にとって?」
                         私が聞き返すと、彼はまた言葉を変えていった。
                        「他の人がその力を使えば通用するけど、なんらかの条件で彼女だけその人に力を使えないってこと」
                         彼女が力を使うからこそ、通用しない相手がいるということだろうか。私や有林さんであれば治くんの本心は見抜けたけれど、彼女にはそれができないというような。
                         そして、そうだとすれば大問題である。彼女にとって大切なのは、治くんが嘘をついているかどうかなのである。彼に力が効かないとすれば、彼女が力を授かった意味がない。彼女に力を与えた意味が、私たちとの出会いに、何の意味もなくなってしまう。
                         私はそうは思っていないけれど、きっと彼女からすれば私はそう映っているだろうと想像して、少しだけ寂しくなる。
                         そんな私の表情を見たのかどうなのかはわからないが、美雨くんが隣でぽつりと「おつかれ」と声をかけてくれた。私はその言葉に甘えてしまって、ことんと彼の肩に頭を乗せる。バスの振動が、彼の肩越しに伝わってくるが、妙にそれは心地よいものであった。
                         
                        「大丈夫?」
                         バスから電車の乗り換え。そしてその電車が私の利用している駅につくまで、美雨くんは私のそばにいてくれた。珍しく色々と頭を使ってみたからか、頭が痛い。だから彼がそばにいてくれたのはとても助かった。周囲を眠らせたり魅了させたりと少し過剰な部分があるだけで、彼は一緒にいてとても気持ちのいい人なのである。
                        「うん、私は全然平気。彼女が少し心配だけど」
                         私の頭の中は、明ちゃんのことでいっぱいであった。嘘を見抜く力というフレーズをほのめかせたのは私である。少なくとも彼女は、その言葉に期待をしただろう。現状を打破するためのデバイスとして力が機能することを、信じてしまっていたはずだ。3人でのババ抜きによって、その自身はより革新的なものになったはずである。私はそれを裏切ってしまったのだ。
                        「無理しないでね」
                         閉まろうとする電車のドア。その向こうで彼が、微笑んでそんな言葉をくれた。電車とホームの間はやたら広く、段差も大きい。その距離が、さっきまで一緒にいた彼が結局のところ私とはかけ離れた存在であるのだということを示しているようで、私の気分はまた少し落ち込む。さっきまで、あれだけ近くにいたというのに。
                        「ありがとう」
                         私がお礼をいうと、彼はより口角を上げて手を振る。私が手を振り返すと同時に、ドアが閉まった。かれどお互いにお互いの姿が見えなくなるまで、私たちは手を振り続ける。彼の姿が左方向へ、徐々に加速しながら消えていく。電車の姿が全く見えなくなった。
                         いったい彼はどこから来たんだろう。そんなことをぼんやりと考えてみたが、すぐにどうでもよくなる。彼はどこに住んでてもおかしくない。そもそもどこかに定住しているのかどうかも怪しい。日々だらだらと放浪しながら、適当なところで寝泊りする。そんな生活をしているといわれても信用してしまうだろう。それだけ彼の存在は、不思議なのである。
                         消えていった電車。視界の端に映る階段。私が有林さんと出会うきっかけになった階段である。ホームの景色を見た。人は多くない。けれど、いつだかのように誰もいないというわけでもなかった。金色にも銀色にも見える光る髪をなびかせる可憐な女性の姿は、ここにはありそうもない。
                         私が会いたいと思ったときにいつでも現れる。そんなことを彼女が言っていたような気がした。だから、エキスの使い方に迷っていた私の前に、彼女はふっと姿を現したのである。
                         私が、嘘をつかないことで人を傷つけずにいた私が、過剰な期待を抱かせたゆえに、ひとりの女の子を傷つけてしまったかもしれない。なんとかした。解決策を、ヒントでもいいから知りたかった。
                         私は息をひとつついて、階段に足をかける。ここから落ちれば有林さんに会えるかもという考えがよぎったが、今の私はそのまま絶命しそうなほど疲れていた。何の疲れだろう。楽しい時間だったのだけど。
                         階段を上りきって、改札を視界に捉える。けれど少し冷静になりたかった私は、階段近くの女子トイレに入ることにした。
                         
                        「……やっぱり?」
                         シアター内とは少し違った、橙色の照明。トイレに入って、目を覚ますためセンサーが反応する位置に手をかざして延々と水を浴びていた私がふと正面の鏡を見ると、そこに彼女の姿が見えた。
                        「こんにちは」
                         照明のせいか、今の彼女の髪は金色にしか見えない。けれど相変わらず、彼女の髪が揺れるたびしゃらしゃらという音が聞こえてきた。彼女のさらさらの髪から発せられているものなのか、妖精の声なのか、はたまた幻聴なのか。
                         美雨くんほどではないが、彼女の存在もまた、スピリチュアルであった。
                        「さっきぶりですね」
                        「ほんとに今日はよくあなたと会うわ」
                        「有林さんって妖怪かなにかですか」
                         私は鏡越しに彼女に尋ねる。鏡の中にいる彼女と話をしていると、どういうわけか後ろを振り返ろうという気がなくなる。人と話をするときは相手の顔を見て話しなさいという、幼い頃から徹底的に施されているであろうしつけを、盛大に破ってしまっていた。
                        「いや、やたらトイレで会うから、花子さん的ななにかかと」
                         きょとんとした彼女の顔を見て、私は補足をする。今日はこれで2回会ったことになるけれど、そのどちらも女子トイレであった。しかも、突然に現れる。疲れているからか、私はそんなことを口に出してしまっていた。
                         そんな私の言葉をジョークと受け取ってくれたのか、彼女はあははと声を出して渡ってくれる。本当に笑っているようであった。いいなぁ、美人。美人が笑うとそういう感じになるのか。
                        「違う違う。私は単純に、あなたが会いたいと思ったときに出てきてるだけだって」
                         さっき思い出した言葉と同じようなセリフが、彼女の口からこぼれた。黙ってれば綺麗な人である。黙ってれば。
                         いや、しゃべることで彼女のミステリアスな雰囲気が増長されているのかもしれないな。
                        「さて、聞きたいことがあるって顔してるわね」
                         相変わらず彼女はこちらを見透かしたような口ぶりで私に言った。
                        「ええ」
                         ふと、彼女が美しくいられるのは鏡の中だけであって、振り返ると恐ろしく醜い女の人の顔がそこにある。そんな気がしてしまった。とことん私は、彼女の美しさが羨ましいようである。
                        「私が与えられる力について、いくつか聞きたいことがあるの」
                         私は有林さんい尋ねた。
                        「答えられることなら、なんだって」
                         彼女は笑顔を崩さず反応する。私は続けて言葉を発した。
                        「効かない相手」
                         私は言葉の一つひとつを注意しながら声を出す。彼女が首を傾げるので、私はゆっくりと言葉を足していく。
                        「あの力が効かない相手って、いるの?」
                         私の問いに驚きを示さず、涼しい顔で彼女は答えた。
                        「ええ」
                         肯定。美雨くんの推測は当たっていたようである。嘘を見抜く力が通用しない相手というものが、あるにはあるらしい。
                        「力を使う者が、一定期間強く信用している相手だと効かないの」
                         条件はと尋ねる前に彼女の方から説明してくれた。
                         力を使う者。今でいう明ちゃんだろう。彼女が信用している相手には、効果がない。
                        「一定期間?」
                        「だいたい、ひと月くらい?」
                         それなら、少しだけ納得がいく。私や美雨くんは、明ちゃんにとって知り合って間もない人である。対して治くんとやらは、彼女にとって幼馴染であり、付き合いは途方もなく長い。そして彼女は彼のことを信頼しているだろうから、その条件が正しければ、治くんに力が通用しないのも頷ける。
                        「他には?」
                         有林さんが聞いてきた。そうだ、次またいつ会えるかわからない。まあ会いたいと思えば出てきてくれるのだろうけど、できるだけ用事はいっぺんに済ませてしまいたい気持ちもある。また彼女が不意打ちのように出現しても、私としては心臓に悪い。
                        「力の使える期間は?」
                         彼女の力に時間制限があるとすれば、尚更問題である。治くんに効果がなかった上に、打開策を見出せぬまま彼女の力が切れたら大変だ。
                         有林さんはまるで原材料名を読み上げるかのような淡々とした口調で、さらに説明を加える。
                        「基本的には無制限だけど、力を受けた人が、力を願うきっかけとなった事柄の真偽を確かめたとき、効果がなくなるわ」
                         力を願うきっかけとなった事柄の真偽。明ちゃんにとっては、治くんの気持ちを確かめることになるのだろうか。
                         だとすれば、しばらく彼女の力は持続することになるのだろう。彼女の確かめたいことは、彼女には読み取れないからである。なんの解決にもなっていないが、とにかくまだ色々と試すための時間はあるらしい。
                         彼女が力を使えなくなったときが、私の恩返しの終わりである。彼女が力を使えなくなったときというのは、彼女の問題が解決したときを意味するからだ。
                         明ちゃんでは治くんの気持ちが確かめられなかった。私には嘘を見抜く力がない。状況は絶望的である。誰か、明ちゃん以外に、治くんを知っている女の子がいればいいのだが。その子が治くんに「彼女のことどう思ってるんですか」とか、そんなことを聞いてくれれば一発である。その子ならば治くんの真偽が確認できるからだ。
                        「そうそう。前に、エキスを間で提供してるって話したの、覚えてる?」
                         急に、有林さんが思い出したかのように口を開いた。
                        「そういえば、そうだったね」
                         考えるため俯いていた私は、ばっと鏡を見る。有林さんはこちらに背を向けて、つまらなそうに足で床を蹴っていた。
                         そういえば、エキスってのは缶で提供するんじゃなかったか。なら私が彼女からもらったあの試験管のようなものはなんだったのだろう。
                        「今あなたが関わってる娘以外にも、何人か買っていったわよ、おめでとう」
                        「え」
                        「なによ、その反応」
                        「いつの間に、そのためのエキスを?」
                         きっと彼女が言っているのは、私が明ちゃんに投与したものとは別の、それこそ缶に入ったエキスの話をしているのだろう。ということは、知らず知らずのうちに有林さんがその分のエキスを生成したいたと考えられる。思い返しても、私が彼女とキスをしたのはあの試験管をもらったときの一度きりであった。
                        「安心してよ。あれを渡したときのあまりで、大量生産しただけだから」
                         そんな便利なものなのか。わからないけど。
                         というか、売れたのか。私の知らないところで、同じように嘘を見抜く力を得た女の子が増えているということである。なおのこと、私が明ちゃんとキスをした意味がわからない。
                         その辺はあとでまた聞いてみることにしよう。今は、まだ何かしゃべりたそうにしている有林さんの話を聞き終えることにした。
                        「この間買ってった女の子の中に、今あなたが熱心に関わってる女の子と同じ高校の娘がいたわ」
                         ん?
                        「同じ学校の?」
                         明ちゃんと同じ学校。ということは、彼女の想い人である治くんとも同じ学校に通っていることになるのではないか。
                         光が見えた。有林さんはくすりと微笑んでいる。
                         その女の子の協力が得られれば、治くんとコンタクトが取れれば、明ちゃんの願いをかなえることができるかもしれない。
                        「名前は?」
                         私は有林さんに尋ねた。彼女はこちらを向いて脚を止め、軽く腰を折って前かがみになって答えをくれる。
                         
                        「こうのしえ、河野史恵ちゃんよ」