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2018.01.26 Friday

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    美女栽培 2 『明治スーパーカップル』 (1)

    2015.06.23 Tuesday

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       さて、新章突入ですね。
       なんちゃって☆
       
       太陽がさんさんと降り注ぐある日のサンデー。薄汚れた階段も見飽きてきたなぁなんていうのはとっくの昔に済んだことで、今となっては彼らを見ても飽きた以前に完全無関心になっている。
       ホームには刺激的な要素が一切ない。階段はまるで、段差などないかのように真っ平らなコンクリートに見えていた。はっきりと陰影を認識せず、ぼんやりと灰色の何かが見えるだけであるのに、体が段差を覚えている。そんな感じ。
      習慣というのは怖いものだ。使い慣れた階段は、私にとって階段ではなくただのスロープでしかないのに、下を見ずとも私の足は見えない段差を正確に跨いでいく。
       興味がなくても、反応できる。これが人付き合いにもいえる事なのだろうかと考えたところで、私は背中にダンゴムシが這ったようにぞっとした。
       いったいどれだけの人たちが、相手を意識せずに相手とやりとりしているのだろう。いったいどれだけの人たちが、私を認識せずに私との会話を紡いでいるのだろうか。そんなことを想像して、寒気がした。恐怖に似た、けれど恐怖ではない感情が、冷たさとなって私の首もとを蛇のように撫でていく。
       階段は見えなくとも、きっと遠くには刺激的なものが見えるはずだ。そんな気持ちで、私はまだ認識されているホームのベンチを見下ろしながら、輝く糸の束がさらさらと靡いていないかどうか探す。
       階段を下りているらしい音だけが聞こえる。だんだんと地面との距離が近づいてきた。電車はまだ来ていない。日曜だが、朝早くの駅のホームは誰もいなかった。有名テーマパークへの電車に乗ろうと早起きした中高生や大学生が見られるかと思ったが、それすらもない。
       思えば彼女と初めて会ったときも、駅には誰としていなかった。もしかしたら、彼女は私のために駅を貸し切ってくれているんじゃないだろうかという錯覚に陥る。
       スロープが終わってホームと垂直に自分が立っているのを確認してから、きょろきょろと周りを見てみる。青い自動販売機が、風情ある朝日の薄明かりを台無しにするかのように輝いていた。その手前には、プラスチックです!という主張を強めすぎた、妙にてかてかと光を反射させている水色のベンチ。背もたれ近くでまっすぐに伸びている、黒めの灰色をしたひじ置きには、いつもと違って何も置いてない。普段であれば結構な頻度で多くの缶コーヒーの飲み残しがあったりするのだが、街のゴミ拾いをしているご老人たちが改札を抜けてわざわざ拾っていったかのように、そこにはなにも見ることができなかった。
       そうではないと確信してはいるのだが、実際にその姿を確認するまで夢だったという可能性を完全に否定することもできない。私は右手を水平にして額につけ、更に遠くを見るような格好をする。目を細めると、風の音がしていることに気付く。
      「お久しぶり」
       後ろから声がして、私は首を左右に振るのをやめて体ごと振り返った。私より少し低い位置で、金と銀にちらちらと光り方を変えるまっすぐな髪が、地獄にいる盗賊のためのクモの糸のようにさらりと降りている。掴まれば、いったいどれだけの罪人たちが天国まで昇ってこれるだろうか。
      「こんにちは、お嬢さん」
       私は彼女の名前を知らなかったので、こう呼ばざるを得ない。
       夢ではなかったことが証明された。思えば彼女によって頭を地面に叩きつけられていたりするのだから、夢であるはずはなかったのだけど。
      「見つけてきたのね、お疲れ様」
       私が言う前から、彼女は用件を知っていたようである。
       
       あの日駅のホームでくたばっていた私を介抱()してくれた女子高生は、名前を明(あきら)ちゃんといった。男の子らしい名前のわりに、容姿も性格もかなり女の子らしく、ボーイッシュな印象も感じられない。ただその名の字の通り「明るい」ということは、彼女を高校まで送っていく道中の会話などから容易に知ることができた。
       ほとんどがのろけ話みたいなものだったのでどんな会話をしていたか詳しくは覚えていないのだけれど、とにかく彼女にはお気に入りの男の子がいるらしい。恋人関係ではないが、明ちゃんの方はそれを望んでいることが目に見えてわかった。
       嘘を見抜くことができるとしたらという仮定に対してかなり興味を示していたので、きっと彼女は「商売相手」になるのではないかと私は考えた。ただこちらのお嬢さんの連絡先を知らなかったので、私はなんとなく日曜の朝からわざわざここに――つまり、このきら髪美少女と出会った場所に――足を運んだのである。
       
       わかっているなら話は早い。私は質問をぶつける。
      「お客様が見つかったのだけど、私はどうすればいいのかしら」
       どうすればいいのかというのは、もちろん「どうすれば私からエキスを抽出できるのか」ということである。
      「あくまであなたが感じ取れるのは、この人が自分の力を欲しているということだけ」
       目の前の女の子は、私の質問にはまだ答えてやらないぞといわんばかりに自分の話を続けた。
      「あなたが必ずその娘のためになにかをしなければならないというわけではないわ。相手が気に入らなければ、拒否だってできる」
       3万円と天秤にかけてどっちが自分にとって価値が高いかということだけど。彼女はそう付け加えてから、無言の私を試すように別の質問をしてくる。
      「あなたはその女の子のためになりたいと、心のそこから思っているのかしら」
       私は彼女の言葉が言い終わるか終わらないかぐらいのタイミングで、「あるわ」と返事をした。
      「だから、わざわざここに来たの」
       日曜の朝早くに。予定がないがためにこんなことができるのだけど。むなしい。
       少女は私の答えがわかっていたかのように、少しだけ笑顔をつくって私との距離を詰めた。いい匂いがする。ぶつかりそう。いい匂いがする。
      「さすがの素直さね。大好き」
       私も大好き。
       違う違う。
       更に彼女は私の顔へと近づいてくるので、急に自分の匂いが気になった。いや、お風呂もしっかり入ったし、何も問題ないとは思うのだけど、たとえ自分が高級な香水をまとっていたとしても彼女の髪の匂いを嗅いだあとでは腐ったカツオのような臭いに感じられるだろうという推測から、私は不安になったのである。
       私は彼女から発せられた「大好き」という言葉をどのように解釈すべきか悩んでいた。彼女の顔は私に近づいてから、少し軌道を逸らして私の耳元に寄ってくる。視線だけ下に落とすと、少しだけ黒いスカートの中から生える足が背伸びをしているのが見えた。
      「ちょっとだけでいいから、いいよって言うまで目をつぶっていて」
       耳元だというのにささやき声ではなく普通に言葉を口にしたため、少しだけ鼓膜が驚く。どうせなら囁いて欲しかったなぁと思いつつ耳殻に残る息の余韻を楽しんでいた私は、彼女の言葉通りに目をつぶる。
       顔が少しだけ遠ざかるのを感じた。私の耳と頬が、警戒態勢を緩める。
       彼女のことだから、目を開けた瞬間にいなくなっているかもしれない。そんなことを考えた。目を閉じている間に後ろに回りこまれているとかならまだしも、帰られたら困る。私は何のために日曜こんなところに電車の用なく来たのかという話になるからだ。そもそも、今日を逃したら次に彼女に会えるのがいつになるかわからない。どこに住んでいるのかを知らなければ、私は彼女の名前さえも知らなかった。
       薄目を開けて彼女の動きを観察しようかしまいかと脳内会議が開かれて、即「薄目にすべし」という判決が下ってから、私がまぶたを緩めようとした、その時。
       ゆったりと、私の唇に冷たく柔らかいものが押し当てられた。

      ライ・ネ・クレーペ

      2015.06.19 Friday

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         講義が終わったところで首を左にひねり、いつものように隣の彼に目を向ける。長いのかどうかわからない半端な長さの黒い前髪を垂らしていた彼が、その手を止めて教室の前方を向く。私とは、目が合わない。
         青く光る細身のシャープペンシル。ペン先を机上の紙に押し付けながら、ペンの頭をプッシュする。濃いめの芯が微かに削れ、その真っ黒い粉が紙に乗った。
         出席判定のために提出する紙であったが、彼はそれを黒くほんのり汚すことにまったく躊躇いはないらしく、息で粉を吹き払うと、役目を終えたシャープペンシルをペンケースへ丁寧にしまう。
         まじまじと彼の所作を見ていた私は、ファスナーを閉じた音にハッとなって急いで自分の出席カードを仕上げる。かなりの殴り書きになっていたが、気にしていられない。
         適当に授業内容を振り返りながら大切らしいことをまとめ、全く感謝を感じていなかったが最後に「ありがとうございました」という言葉で締めくくる。彼に後れを取るわけにはいかない。芯をしまうのも忘れて、私は乱暴にペンを封印した。
         雑ながら私がガリガリやっているうちに――私が意識をそらしているうちに、彼は荷物を背負って出席カードを軽くつまんで教室の前方へ歩いてしまっている。私たちの座っていた席の最前列、そこのテーブルの角を曲がって、教壇に接した机の上に紙を乗せた。
         追いかけなければ。私もリュックサックに怒られるほどひどく乱暴に背負って、ぱたぱたとカードを出しに向かう。
        教室の床は濡れている。比較的白かったであろう教室の大地は、雨に濡れた学生と荷物、そして傘が講義前に押し寄せたことで、すっかり汚れていた。地面に黒いミミズが這っているような汚れ方である。
         そこで私は傘を机に脇に置いてきたことを思い出した。紙をつまんだまま急いで引き返し、絶妙なバランスで立てかけられていたピンク色の傘を豪快に反対の手で掴む。今度こそ提出しなければ。
         
         彼が置いていったカードの上に私の分をワイルドに載せて、教室を駆ける。ドアの取っ手を右手で掴んで思い切り左へ払う。勢いよく開いたドアが、枠にぶつかった反動で閉じてきた。その隙間を私はダッシュで駆け抜けて、左手に持った傘の先が後ろのドアにこつんと当たったのも気にせず、彼の背中を追う。
         教室は1階で、ドアは建物の中ではなく外に取り付けられているため、教室の終わりと世界の始まりがゼロ距離に存在していることになる。教室を出てくるりと左を向くと、そのターゲットは近くにいた。
        渡り廊下のようなところで、彼は空を眺めている。左手を屋根の管轄から軽く外へ出して、触角を通して空模様を把握しようとしていた。消えそうになりながらも雨音がさらさらと音を立て、彼の左の掌を少しずつ濡らしていく。
        手を引っ込めることさえせずに、彼はしばらくそうしていた。そのぼんやりとした表情になんとなく魅せられていたが、我に返って自己を奮い立たせる。左手の傘を強く握って、声をかけた。
        「傘、持ってないの?」
         力み過ぎてすごい威圧的な物言いになってしまったような気がする。少し後悔していたが、彼の方にはその感情は読み取れない。空を見上げたその首のまま、顔だけ私の方へ倒す。
         どれだけの時間が経っていたのかはわからない。10秒かもしれないし、2秒かもしれない。ともかくもいくらかの沈黙があって、彼から反応がないのをいいことに、私は勝手に話を進めた。
        「帰り、一緒でしょ?傘、入っていきなよ」
         彼は一言も発さない。けれどその左手の水滴をぱたぱたと払ってから、その手をポケットに引っ込めた。少しの間。
        「じゃあ、お願い」
         
         彼とは、地元の駅が同じだった。
         知り合ったのは大学に入ってからで、学部は同じだったが学科が違う。たまに授業で見かけるくらいで、特に仲良くなるということもなく1年が過ぎた。
         幸い2年生になった今年も同じ授業があったために、私は毎回、わざわざ授業開始ギリギリに入室し彼の隣に座っている。今日もそれだった。
         地元が同じであったとはいえ高校は全く違ったし、彼と利用駅が同じであることはついこの間知ったばかりだ。それほどまで私たちに縁はない。
         理由は特にないが、いつからか彼のことが気になっていた。去年、あるいは今年に入ってからかもしれない。なんとなく、彼の下を向く横顔に惹かれてしまったのである。なにか痺れるようなきっかけがあったわけではない。
         同じ時間の電車を使っているのだろうけど、一緒の車両に乗り合わせたことはなかった。自分の駅で降りるとなぜか既に彼が前を歩いており、あっという間に改札を抜けている。急いで追いかけようにも、帰宅ラッシュのサラリーマンたちに呑まれ、身動きが取れず彼を見失うのが常だった。
         さらにいえば、私は彼の家の場所も知らなければ、駅から自宅までの移動手段が自転車なのかバスなのか、歩きなのかも知らないのだ。自分のことを何も知らない女に声をかけられて、よく彼は相合傘を受け入れたものだなと、今でも不思議に思うことがある。
         
         ピンクに縁取られた空はどんよりとしていた。透明な傘の中心部は、雨粒の蕁麻疹を発症している。
         大学から最寄りの駅まで、私たちは一緒の傘に入ることにした。傘は私が持っている。一般的な男女の相合傘なら、男性が持つイメージをするかもしれないが、私の夢は雨に流された。ピンクの傘を持つのは嫌なのだろうと、勝手に自分を納得させている。
         しかし私が気になったのは、微妙に私と彼の方に距離ができていることであった。そりゃお互いの肩がめり込み合って気付いたら完全に接合されてましたっていうのはどうかと思うし、いきなりゼロ距離というのも期待しすぎだろう。けれど、隙間風が自由奔放に列を成して通り抜けられるほど、私たちの間の透明な壁は厚かった。ぜひドイツ人を呼んで、つるはしなどで滅多打ちにして壊して欲しいものである。
         先述の通り、私たちは格別に仲がいいというわけではない。それどころか、下手をすれば初めて会話をしたかもしれなかった。我ながら無謀である。フラグを立てるステップを完全に無視してしまった。
         日頃から、好印象を持ってもらえるよう小さな世間話でもしておけばよかったと少し後悔している。毎回のように隣に座っていながら、プリントを回す時でさえ妙に緊張して簡単な挨拶ですらできなかったのだ。
        教室の机には椅子が3つあって、いつもその両端に私たちは座っている。ふたりの間にひとつ空いた席を強引に詰めて、アプローチをかけておけばよかった。来週からはそうしよう。思いついてすぐに止める。
         椅子ひとつ分よりはかなり近い距離なのだろうけれど、それにしても相合傘には不向きな距離感だ。彼は私の左隣を黙々と歩いていて、特になにか話すというわけではない。
         彼の方が背が高いため、私は普段よりも格段に傘を高く掲げる必要があった。横から雨が降ってくるが、私は気にしない。私は。
        「大丈夫?濡れてない?」
         大丈夫?と口にしたのは私だが、大丈夫じゃないのは私の方であった。さあさあと降る雨の中ひと言も発さないでいるのはなかなか気まずいもので、つい私は声をかけてしまう。
        「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
         そういう彼の左肩は濡れていた。天の顔色と不釣合いなほど爽やかな色をしたシャツの左肩は、ほんのりと色が濃くなっている。
        「私は全然大丈夫だから、使っていいよ、ほら」
         私は申し訳なさに体当たりをかまされて、傘を軽く彼のほうへ差し出してみた。これで彼が受け取ってひとりで黙々と私を置いていってしまったら元も子もない気もしたが、特にきにしていない。それはそれで、彼が後日傘を返してくれそうだからだ。
         もちろん、彼が返しに来てくれればの話だけれど。
        「大丈夫だよ。ありがとう」
         彼は先ほどと全く同じ口調で返した。もしかしたら彼の発する言葉はこれだけなのではないだろうかという気にさせられる。なにかレコーダーのようなものが内蔵されていて、必要なときに「大丈夫だよ」、「ありがとう」と再生されるのだ。
         我ながら馬鹿なことを考えてるなぁと思う。けれど、実際彼の日頃の姿を想像すると、基本的にひとりでいる上、たとえ人と話をしているときでも喋っていないことがわかる。
         もしかしたら、気分を害してしまっているのではないだろうか。今更ふと思う。好きでもないどころか知りもしない女に言い寄られてやむを得ず同じ傘の下。ああ、申し訳ない。
         今ならまだ助かるかなという気になって、相合傘の中断を提案しようとする。しかしそこで、彼は思いついたかのように言葉を続けた。雨の音は、だんだんと小さくなっている。
        「俺だけが使ってたら、一緒にいる意味がないでしょう?」
         
         彼の言葉の真意が読み取れないまま黙々と歩き続け、私たちはついに駅を目の前にした。
         あれから数分間、私たちの間には会話がない。すっかりなくなった雨の音、自動車が水溜りから歩道の方へ水をかけ返す音に、自転車の走る音が私たちの帰路を彩った。それも、かなり灰色に。
         神様が泣き止んだので、途中で傘は必要なくなった。もはや筋トレの道具にしかならなくなった傘を、彼の許可を得て少し前に畳んでいる。彼が左を歩いているので、私は傘を右手に握っていた。
         さあ、困ったぞ。
         傘を畳んで、用がなくなったとばかりに彼が逃げ出してくれないものかと思っていたが、全くそんなことは起きなかった。気まずさから私が逃げ出しそうになったぐらいである。私から提案しておいて、なんて自分勝手なやつだと思う。
         このままだとなにもないままふたりで改札を出て、ふたりで電車が来るのを待たなければならない。彼のことを嫌いになったわけではないし、むしろ機会があればもう一度今日みたいなイベントをやり直したいぐらいだ。
        そう、私にはイマジネーションが欠如していた。こうすれば彼はきっとこうする、ああすればああ。そういったシミュレーションが足りなかったのだ。
         このまま階段を下り駅に入り、改札を抜けたら「先に言っててよ」とトイレに駆け込もうか。
         などと考えていたら、それまで赤信号以外で立ち止まらなかった彼がふと足を止めた。彼の一歩先で、私も立ち止まる。
        「せっかくだからさ」
         珍しく彼が口を開く。
        「行こうか、あそこ。時間、大丈夫?」
         彼の視線と指の先を追っていき、私は小さく驚きの声を漏らす。人だかりが見えた。
         普段であれば、雨さえ降っていなければ、ふんわりと甘い匂いを放つその店。
        その手軽さで、特に女子高生から絶大な支持を受けているその食べ物。ショーケースに飾られた、実物にかなり似たレプリカの色合いが食欲を掻き立てる。
         赤や茶色、あるいは黄色や紫といった鮮やかな色が、白い山々の上に糸の様にかかっていた。雪山の盛り上がり、その微かな模様が、より甘ったるさと食感を想起させる。
         彼が指したのは、クレープ屋であった。
         
        「クレープとか、食べるんだね」
         長蛇の列の後ろの方に並び、少しだけ屋根の外に出ながら、私は彼に聞いてみる。
        「意外?」
        「そりゃもう、とっても」
        「そっか」
         彼が少しだけ笑った。笑い声こそ出なかったが、垂れた前髪から覗く目は細くなり、口元はほんのりとしたカーブを描いている。
         私は、もしかしたら大学内でも彼の笑顔を知っているのは私ぐらいしかいないのではないかという、情けないほどちっぽけな優越感に浸っていた。
         べらべらと喋るようになったわけではないけれど、少しだけ楽しそうに彼が言葉を紡ぐのが、嬉しい。
        「なんで混んでるんだろう、こんなに」
         会話が弾むような気がして、私は彼の横顔に尋ねる。彼はきちんと私の方を向いて、期待通り言葉を返した。今度は顔だけではなく、首ごと私の方を向けてくれる。まっすぐ見下ろされて、少しだけどきりとした。
        「今日がクレープの日だからじゃないかな」
        「クレープの日?」
        「まあ、普段より安くなる日だよ」
         そういって彼は腕を伸ばさずに、なにか小さい譜面台のようなものを右手の人指し指で示す。そこには確かに、毎月19日はクレープが割引になると書かれていた。そして今日は、19日なのである。
         私たちの前には、7組ほどの人だかりができている。まだ、クレープがつくられている様子はここから見られない。
         彼が手渡してくれたメニューを睨みつけていた私は、ふと彼に「見なくていいの?」と尋ねてみた。それに対して彼は「俺はいつも同じだから」とそっけなく答える。
         しかしこれまでの彼と違ったのは、ずいっと私の方に体と顔を近づけて、私の視線がさまよっているメニューのいくつかを順に指し、それぞれがどうであるかという説明をしてくれたことだった。大きさがどうだとか、甘さがどうだとか、酸味がどうとか、そんな具合である。それも一方的にというわけではなく、私の反応や質問を取り入れながら丁寧に説明をしてくれたのだ。
         雨だというのによくもまあ前の女子高生やOLさんはここに並ぶものだなという関心はあっという間に消し飛び、私は今までに見られなかった彼の大胆さに緊張している。もちろん彼は、大胆なつもりなどないのだろうけど。
         普段直線距離で1メートルはあるであろうふたりの顔の距離は今、それを急に縮めて5センチほどの近さにあった。俯く彼の目の細さがやけに官能的で、生クリームよりも彼の頬を舐めた方が甘いのではないかという雑念に駆られる。
         
         さて、実のところほとんどクレープの味など覚えていない。
         彼のオススメの中からひとつを選び、ふたつ分のクレープをもらってから、店内に用意されたテーブルでゆったり食べることにしたのだが、もふりと私が自分の分をかじりながら彼の持っているものを眺めていたら。
        「どうぞ、一口」
         と、食べるのを止めて彼が彼の食べかけを私の方に寄越したのである。何も言わず、果たして自分の顔がどんなであったかもわからずに、私はそれにかぶりついたのであるが、特にここから記憶がない。
         しつこいがおそらく彼にとってその行為に深い意味はなく、単に私が物珍しげに見ていたからという理由から来ることなのだろうが、私からすれば大事件であった。
        気になっていた男の子に始めて声をかけ、相合傘に誘ったら受け入れてもらえて、帰り道クレープ屋さんに寄ったりして、急接近からのクレープを一口もらう。ここまでのあらすじ。このときの私は顔を真っ赤にしていたか、目の焦点が合わないでいたかのどちらかだろう。妙にぐわんぐわんと頭が揺れるような感じがしていた。
         彼が心を許してくれたのか、あるいは彼は最初からそうであったのに私が気付いていなかったのか、どちらなのかは未だにハッキリしないが、そのあとも私たちはそのテーブルに陣取って楽しげに会話をしていたような気がする。気がするというのは、もちろん私の意識がはっきりしていないからだ。何の話をしていたのか思い出せないあたり、私はまともな受け答えをしていなかったのだろうけど、会話が止まった記憶もないので、きっと彼が積極的に話題を振ってくれていたのだろう。
         
         私の意識が復活したのは、ごとんという音と共に私の背中がかたい何かにぶつかった時である。我に返ると、電車内。目の前には、彼。
        「いたそう」
         私が思い切りドアにぶつかったまま寄りかかっているその前で、彼は吊り革を掴んで立っていた。挙げられた左手。シャツの袖が少し落ちてきて、質感のよさそうな手首がちらりと覗く。
        「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
         急いで私は答えた。答えた後で、その口ぶりが少し前の彼のものと全く同じであることに気付く。
         そんなことには彼は気付いていない様子で、「そっか、よかった」と嬉しそうに声をかけてくれる。それから、窓から見える景色について、ふたりでふんわりとした話をした。
         特別にありがたいお話というわけではない。けれど、ただ、とても楽しかった。
         ぼーっとしていた時間があまりにも長すぎて、私が意識を取り戻してから数分で車内に次の停車駅のアナウンスが流れる。ヘリウムガスを吸ったような優しい声をした男性の声が、マイクのノイズに負けながら聞こえた。私たちの降りる駅である。
        「え、もう?」
         景色を楽しむことも会話を楽しむこともまともにできないまま、私たちの緊急デートは終わろうとしていた。もっと早く目が覚めたらよかったのに。もったいない。
        「そう、もうつくよ。楽しかった、ありがとう」
         彼がささやくように言ってくれる。顔は笑っていなかったが、瞳が優しさの膜を纏っていた。
         私はもたれていた体を起こして、背もたれになっていたドアを振り返る。透明なガラス部についていた水滴が、電車の動きに合わせてぷるぷると震えていた。
         電車がまもなくホームに止まり、私は電車から見慣れた階段の前に降りる。ホームと電車の間の大きい段差と隙間に改めて驚いていると、後ろから彼もひょいっと降りてきた。
         エスカレーターをゆったりとのぼっていく。私が前で、彼がうしろ。スカートの心配はない。彼がぴったりと私の後に立ってくれているから、私の中身を覗けるのはエスカレーター自身しかいないだろう。ばたばたと私たちの右側をかけていく人がちらほら。不意に彼が後ろから私の体を少し左側にずらしてきた。直後に、ものすごい速さで駆け上っていくサラリーマン。彼が、衝突を未然に防いでくれたようだ。
         定期券を取り出して、改札を抜けた。ひとつ左の改札を私と同時に抜けた彼と歩幅を合わせて、ロータリーへつながる駅の階段を下りていく。

        「駅まで、何で来てる?」
         彼が尋ねた。えっと、と少し詰まってから私は答える。
        「自転車」
        「そか、じゃあ同じだ」
         家の方角がどうかはわからないけれど、ひとまず私たちのデートは駐輪場まで続きそうだ。
         などと考えていたら、眠りから覚めたように雨がどさどさと降り始めた。目線の先の、下から何段目かの階段が、一気に染みを作り始める。
         あららと声を漏らして、私は傘を開こうとした。そこで気付く。
        「傘がない」
         なんで!
        「あー、クレープ屋かなぁ……」
         いつの間にか私の少し前を歩いて雨の様子を手で探っていた彼が答えた。
        「どうしようか。歩いて帰った方が、いいかも。家、遠い?」
         彼が優しい口調で下から大きめの声で聞いてくる。
        「ううん。歩いても、そんなに遠くないよ」
        「じゃあ、歩いていこう」
         そういって彼がまた歩き始めたので、私は少しあわててそれを追いかける。
         私にも雨が降りかかってくるかなというぐらいのところで、彼が自分のリュックを体の前に持ってきてごそごそと探り出す。
        「あった」
         彼は右手に紺色の筒のようなものを取り出して、私に「おいで」と声をかける。そしてそれが何であるかはっきり見える距離になって、私は間抜けな声を出す。
         水筒か何かだと思っていた、彼の手に握られたそれは明らかに折り畳み傘である。
        「傘、持ってたんだ?」
         私は何を言ったらいいものかわからなくなって、それだけ溢す。
        「帰り、一緒でしょ?傘、入っていきなよ」
         開いた小さめの折り畳み傘を右手で空に掲げ、彼は私の左隣に並ぶ。
         聞かなければいいものを、馬鹿な私はつい口を開けてしまった。
        「持ってたのに、どうして?」
        「いや、どうしようかなって思っててね。小雨だったから、出そうかどうか悩んでた」
         そこに、アホこと私が声をかけたのだ。
        「近くなら、送っていくからさ」
         彼が続けた言葉に驚いて、私は丁重にお断りしようとする。
        「いや、いいよ。大変だしさ」
         雨は止む気配がない。断ったところで、私はどう帰るべきなのか。それがわかっていたけれど、私には断ろうとする以外の選択肢がなかった。
         彼は下を向く。震えているようだった。え、うそ。泣いた?泣いてる?
         まあ、そんなこともなく。私が少し不安になって覗き込むと、彼はふるふると微かに震えながら笑っている。
        私がぽかんとしていると、彼は顔を上げて意地悪そうに言った。その言葉と表情に、私は一層引き込まれていく。
         今日が雨で、今日がクレープの日で、声をかけたのが今日で、本当によかった。
        「俺だけが使ってたら、一緒にいた意味がないでしょう?」

        美女栽培 1 『You're the only person never tell a lie』 (7)

        2015.06.02 Tuesday

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           と、なると。
           私は金欠気味で困っていて、現状を打破する手段を持っていなくて、現実に絶望していて、そのせいか夢を見ていて、儲け話が転がり込んできたなんて思っていて、目が覚めたら女子高生が話しかけてくれて、どうやらお礼を言わなきゃいけないらしくて、「て」が多くて。
           女の子の着ている制服に見覚えがあった。私が数年前まで来ていたものである。つまり、彼女は私の出身校に通っているということか。
           となると、彼女はこれから電車でふたつ隣の駅まで下り、下車。
           そこから改札を抜け、右に出る。ほどほど長い通路を渡って突き当たると右側に階段。
           駆け下りてすぐ近くの緑色のコンビニのところで左折。
           しばらく直進。信号をふたつ渡って、3つ目を渡らずに右折。
           おお、初対面の女の子の姿をイメージしながら通学路をシミュレートできるなんて!すごいな私。ドン引きですわ、我ながら。
           とにもかくにも、絶望するよりも先に私はこの子へお礼を言わなければならない。
          「そっか、ありがとね、見張っててくれて」
           見張りって表現も変だな。でもまぁ、見張りだろう。看病ってのとはちょっと違うと思うし。
           女子高生はえへへと照れて顔を俯けた。なんだその表情は。照れるぞ。
           しかし、階段から落ちて2時間もくたばりっ放しとはどういうことだ。明らかに事件じゃないか。パッと見死んでるようにしか思えないぜ。そりゃ見て見ぬ振りするわ。
           いや、でも見て見ぬふりしてはいけない人がいるはずだ。
          「駅の人は?」
           ふと疑問に思ったことを口にする。
           女子高生は答えた。
          「息しているのを確認してから、ずっと無視です」
           ひどいですよねと付け加えたので、「ひどいと思わない?」と返してみる。おかしくなって、ふたりで笑った。
           
           まあ、駅の階段で寝転がっているホームレスの方を放って置くぐらいにまで発達した日本人の儀礼的無関心システムが、ひとりの女子大生のために崩壊するとは確かに思えない。
           ことごとく駅員さんに無視され、電車から降りたサラリーマンたちにもスルーされる私の2時間の雄姿(?)を想像した。
           自分の服を見てみる。前も後ろも汚れはない。よく踏まれなかったな。こんな階段直下で寝転んでたら、1回ぐらい足蹴にされそうなものだが。怖いわ、無関心。っていうかスルースキル。見事な足さばきで私を避けていったに違いない。忍者かよ。
           なんとなく両手を組んで人差し指と中指だけをくっつけて上に突き出す。忍者のポーズ。足元で女子高生もなぜか同じポーズをとる。かわいい。
          「ありがとうね、ほんと。わざわざ学校に連絡してまで」
           私をかわしていった忍者たちなどどうでもよかった。彼らに謝るつもりはない。むしろくたばるがいい!はっはー!
          「なにか困ってることがあれば教えてよ」
           なんてベタなセリフを口にしてみる。彼女が笑った。これこそ儀礼的な言葉だなぁと思う。
           困ったことがあったら何でも教えてね!
           あ、今これに困ってて……。
           そっか!じゃあおつかれ!
           これが普通だ。じゃあ言うなよ。でも言わなきゃいけないんだよなぁ。日本人めんどくさい。
           大丈夫ですと笑いながら彼女が返す。どのみち私も次の授業間に合わないし、思い切って彼女を高校まで送り届けることにしよう。これがせめてもの彼女へのお礼だ。お前誰だよって感じだろうけど。
           瞬間。
           ずりゅん。
           いや、わかんない。たぶん、そんな感じ。
           気味の悪い音が、私の体の中で響く。なんだ、今の。
           女子高生を見る。音が大きくなってまた訪れた。今度は連続的に。鳴り止まない。
           あまりにもの大きさにうっとおしがっている私とは対照的に、彼女は全く気にしていない様子であった。むしろ、不快感に顔に表した私を見て、首をかしげて不思議がっているくらいである。かわいい。けど。
           今は、そんなこと言ってる場合ではない。
           私は忍者のポーズを解いて、不快感で崩れそうになるのを地面を手でついて免れる。
           ずりゅん。ずりゅん。ずりゅん。
           黒板を引っ掻いたなんてレベルではない。胃に響くような、腸が揺れるような、脳が燃えるような不快感を伴う音。聞こえないのか、この音が。
           まさか。
           
          「道行く人に売りつける」
          「っていっても、誰でも彼でもというわけにはいかないわ。本当にその力を欲している人にしか売ることができない」
          「あなたもやってみればわかるけど、直感的に私たち提供者にはそれがわかるの」
          「人によるけどね。恋をしているような気持ちになる人もいれば、激しい吐き気に襲われる人もいる。泣き出す人もいれば、髪が急激に伸び始める人もいる」
           
           金と銀の髪を靡かせた彼女の姿が脳裏によぎる。
           あっちゃー。もしかして、夢じゃないな、あれ?
           再び倒れそうになる私を心配して女子高生が何か言っている。はっきりとは聞こえない。不安げな顔が見える。ごめんね、また心配させて。美少女愛好家失格だぜ、私。
           バカバカしい。けれど。
           口にすればこの気持ちが軽くなるような気がして、私は彼女に言った。

          「ねぇ、嘘ついてるんじゃないかって疑ってる人、いる?」

          美女栽培 1 『You're the only person never tell a lie』 (6)

          2015.06.01 Monday

          0
             そこがひたすら気になったけれど、別の質問をしてみる。
            「給料は?」
             顧客からいただくということだろうが、いくらぐらいなのだろう。
            「うん、ここが怪しさMAXなところだと思うのだけど」
             彼女は一息置いてから続けた。
            「エキスの利用者からはお金をいただきません」
            「え」
             じゃあ、いったい誰がお金を出すんですか。
            「それはほら、怪しいお仕事だから、秘密」
             そこははっきりさせてよ。
            私もよくわかってないんだけど。小さくつぶやいてから、彼女は目を光らせた。
            「私たちが女の子たちにエキスを提供することで利益を得ている人間たちがいるっていうことね。金持ちの道楽みたいなものじゃないかしら」
             うーん。
             企業が一般人を雇って、別の企業の雇った一般人と企業秘密のデータをかけて戦わせるというマンガが家にあったことを思い出す。そんな感じか。あのマンガ続き出たのかな。
             よくわからないけど、利益がどこかで発生している。

             話を聞く感じでは命をかけたり怪我する可能性があったりというようなことはなさそうだけど、どうなのだろう。
             
             どのみち、仕事の内容は引き受けるかどうかにあまり関わらない。大事なのは、結局見返りだ。
             続いて私は、生々しい話へと話題を変える。
            「お金。お金」
             我ながら謎の外国人密売者みたいなセリフだと思う。言ってから後悔した。
             女の子は声を潜めることもなく、金額を答えてくれる。
            「エキス提供1回につき3万」
            「さんまっ……!?」
             さんまん。さんまじゃないよ。
             1回の提供にどれだけの時間がかかるのかはわからないけれど、俄然興味が湧いてきた。
             私は日頃莫大にかかるサークルの費用に苦戦を強いられているのだ。できるだけ、それらの足しにしたい。

            「どう、興味湧いてきた?」
            「そりゃもう、とても」
             私の答えを聞いて、女の子はふふっと笑った。
            「それじゃあ、具体的なお仕事の内容ややり方などはまた今度」
             両手を叩いて少女は言う。今更だけど、少女という表現は正しいのだろうか。少女って何歳まで?
             って、また今度?
            「今度っていつ!」
            「そうねぇ、あなたが仕事を拾って来たら」
             そんな転がってるみたいに言われても。輪ゴムみたいにそこらへんに落ちてるものじゃないだろうに。
             どうでもいいけど、なんで輪ゴムってあんなに落ちてるんだろうね。
            「仕事を、見つけて来いと?」
            「さっき言ったように、提供者となればあなたはエキスを必要としている人が直感的にわかる。ある日突然女の子にシンパシーを感じたら、それはお仕事のサイン」
             あまりにも繰り返し強調される部分だったので、そろそろ突っ込むことにする。
            「それって、女の子限定なの?」
             男の人に提供することはないのだろうか。
             風が吹いてきた。ふたりして靡く髪をうっとおしそうに顔をしかめる。彼女の髪の色がきらきらと変わる。金、銀、金、銀。どうなってるの、これ。売ってください。
            「男の人は自力でがんばれって感じ」
             ひどい男女差別だ。
             
             話をまとめてみる。
             私は階段から落ちた。腕時計は絶賛停止中。
             美少女あらわる。唾液をせがまれる。
             私は人生で1度も嘘をついたことがないらしい。そのおかげか、私の唾液には「嘘を見抜く力」が秘められている。私自身はその力を使えない。
             唾液からつくったエキスを女の子に提供すると1回につき3万円が報酬としていただける。商売相手は女性限定。真の雇い主は不明。命の危険はなさそう。
             エキスの提供者は「エキスを必要としている女の子」の区別ができる。その子以外にエキスを提供することはできない。
             私がその女の子を誰か見つけたら、また美少女がお話を聞かせてくれる。
             ねむい。



             さて、なにしているのだろう。
             目を開くと視界が横向きにひっくり返っている。あれ、いつの間に私寝てたんだ。途中から記憶がない。
             うつ伏せになった体を起こすよりも先に、耳に高い声が入ってきた。
            「よかった!生きてたんですね!」
             そりゃ生きてますよ。ほら、ご覧の通り体を起こせ。
             ない。
            「いたい!」
             胸がズキズキと痛む。なんだ。なにされたんだ。どうした私。
             うつ伏せのままちらりと視線を脚の方に向ける。リュックサックが上半身の下敷きになっていた。お前のせいか。
             いや、私は助かったはずなんだけど。どういうことだ。
             痛みが楽になってきたので、腕を立てて体を起こす。肘がきしきしと音を上げる。いってぇ。泣きそう。
             左手首に重みを感じ、見てみる。腕時計。9時32分。
            「どっせぇぇい!?」
             驚きで思わず飛び上がる。信じられない言葉が思わず漏れた。どっせいってなんだ。何語?土星語?カルタゴ?エスカルゴ?
             見える景色。駅のホーム。見慣れた場所だ。人はいない。いた。私の足元でしゃがんでいる女子高生がひとり。さっきの子じゃない。電車なし。電光掲示板。次の電車は7分後。
             色々おかしい。まず、時間飛びすぎ。私がさっき確認した時間は7時23分だ。2時間経ってるじゃないか。さよなら1限。
             それと、さっき女の子はどうした。まさかあれか。夢か、夢なのか。死にたい!
             夢にしては凝った設定だったな。美女栽培。うん、我ながら犯罪臭のするネーミングセンスだ。願望の現われ。養女欲しい。
             だんだんと胸と肘の痛みに慣れてきて、ようやく私ははっとなって座り込んでいる女の子に話しかける。
            「あの、なにか?」
             私がそう言った瞬間、彼女はぽかんと口を開いた。なに、その口。指突っ込みたい。
             口を開けたまま目を見開いて、思い出したように彼女は言った。
            「えっと、階段下りたらお姉さんが倒れてて、でも皆見ない振りしてて、心配になって、学校に遅れるって連絡して、お姉さんのこと見てて、やっと今起きて」
             てが多い。

            美女栽培 1 『You're the only person never tell a lie』 (5)

            2015.05.29 Friday

            0
              「美女栽培……?」
               私はその単語を繰り返す。
               ちなみにこの「?」は確認のための「?」ではなく、「え、そのダサいセンスでやってんの?」の「?」である。
               美女栽培って言われると、こう、小さい鉢に幼女が埋まってて、毎日水をあげて、肥料あげるともぐもぐ食べて――みたいなイメージが浮かぶのだけど。
               やばい。それやりたい。
               ……じゃなくて。
               見下ろす少女は、目を細めて続けた。
              「美しい女の子を育てていこうという意味が込められているわ」
               女の子を育てる、か。いいのかその表現は。倫理的にやばそう。ロリコンが寄って来そう。ロリコンホイホイ。
               いや、いっそこのキャッチフレーズを大々的に広めて、集まってきた犯罪者予備軍を一掃するという手もある。もちろんその中に、私もいるわけだが。
               女の子かわいい。
              「育てるっていったって、具体的にはどんなことを?」
               本質的な質問をしてみる。答えの予想はついてるけど。
              「たとえばあなたのエキスを利用してつくった飲料を――」
               飲料と称すか。いや、思わず突っ込んでしまっただけで、深い意味はない。
              「ある女の子が飲む。するとその女の子は、一定期間『嘘を見抜く』力を得る」
               だよね。
               
               女の子に飲まれるってどんな気持ちだろうなんてどうでもいいことを夢想してみる。
               きっとかわいい女の子の内臓なら愛でられるんだろうなぁと思う。我ながらキモい。
               まず、口に含まれる段階ですごいドキドキするよね。どんどん近づいてくる唇。興奮で最低5回は死ねる。
               そして、唇のトンネルをくぐると今度はその潤った口腔に侵入。
              真っ暗い中だから正確にはわからないけれど、おそらく白いであろうその子の前歯、奥歯、上の歯、下の歯をねろりと包み込む。
               うおっ、この「ねろり」って表現めっちゃエロい。官能的な響き。

               ところでねろりって、寝ロリって変換できるね。やばい。ネグリジェを来たロリ。眠たそうに目を擦りながら、肩からずるりと落ちそうなネグリジェを引っ張る感じ。
               やばいね。ネグリジェになりたい。
               いや、もう肩でもいいや。幼女の肩になりたい。
               でもやっぱネグリジェかなぁ!ネグリジェのロリ最高!ネグリジェ・ロリ、略してジェロ。まるで海雪。
               ……伝わった人います?
               
               話を戻します。
               自信満々そうな表情をした彼女に向かって、気になることがいくつもあるのでぶつけてみる。
              「その力、私は得られないの?」
              「無理よ」
              「どうして?」
               彼女はうーんと、説明しづらいことを聞かれてしまったというような唸り声を小さく上げた。
              「以前、自分から得られたエキスを自ら飲んだ人がいるわ」
              「どうなったの?」
              「消えた」
              「消えた?」
               消えたって、なんだ。書置きを残して「実家に帰らせていただきます」とかってことか。
              「ドライアイスが溶けるみたいに、一瞬で見えなくなったの。その場から消えた。跡形もなく。その人のことはみんな覚えてるから、存在が消えたわけではないんだけど。まあとにかく、消えちゃうのよ」
              「はぁ」
               はぁしか、言えない。
               
               次はなにを訪ねるべきか。
              「缶で売るということだったけど、いったいどういうシステムで?」
               彼女の答えは簡単だった。カンだけに。ぷぷっ。
              「道行く人に売りつける」
              「売りつける……」
               大迷惑な話だよね。知らん人に謎の缶を売りつけられる。

               しかも、これを飲めば嘘を見抜けますなんて怪しい文句つき。
              「っていっても、誰でも彼でもというわけにはいかないわ。本当にその力を欲している人にしか売ることができない」
               どういう基準で判断するんだろう。
              「あなたもやってみればわかるけど、直感的に私たち提供者にはそれがわかるの」
              「直感?」
              「人によるけどね。恋をしているような気持ちになる人もいれば、激しい吐き気に襲われる人もいる。泣き出す人もいれば、髪が急激に伸び始める人もいる」
               え?最後のやばくない?

              美女栽培 1 『You're the only person never tell a lie』 (4)

              2015.05.27 Wednesday

              0
                「嘘を見抜く力?」
                「そう」
                 女の子はしれっと返事をした。
                「私に、そんな力が?」
                「いいえ、あなたにはないの」
                「え、どっち」
                「あなたは『嘘を見抜く力』を人に与えることができる」
                 人に与えることができる。
                 どういうことだろうか。ハンドパワー的なものが出て、それが伝わると、みたいな感じだろうか。
                「それと、どうしてよだれが?」
                「あなたの唾液に含まれる嘘を見抜く力を与えるエキス、これを抽出させて欲しいの」
                 あぁ、よだれに含まれてるのか、その力が。エキス……エキスねぇ。エロい。
                 ところで、そんなことをして、どうするのだろう。
                「なんのために、そんなことを?」
                 素直に聞いてみたところ、彼女はうーんと軽く考え込んでから、自分の顎を右手で撫でながら答えた。
                「女の子って、弱いじゃない?」
                「そうだね」
                 そうだねと答えておきながら、本当にそうだろうかと疑問を抱く。確かにまだ平等ではないだろうけど、だいぶ女性の立場も向上してきたような気がしている。女性が虐げられているというよりは、そもそも人間自体が致命的に弱いのではないだろうか。
                 まあ、そんなことはこの際どうでもいい。
                「っていっても、これは単に男と比べて、という話じゃないわ」
                 私の考えていたことを見透かすように、彼女は続けた。
                「女の子は相対的にではなくて、絶対的に弱いの。男が先に生まれたとか、女が先に生まれたとか、そういったこととは関係なしに、弱々しい存在だといえる」
                 各方面から怒られそうだなと思いながら、彼女の横顔を黙々と楽しんでいる。
                「女の子は誰でも感情的な生き物。もちろんある程度理性的な人はいるだろうけど、やっぱり日頃何かに悩まされているような子が多い」
                 あんまりそんなこと考えて生きてこなかったなぁ。たぶんこれは私が理性的であるとかじゃなくて、単純に頭が悪いだけなのだけど。
                 でもたしかに、私の周りの女の子たちはみんな、感情の浮き沈みが激しいような気がする。ちょっとしたことで拒食症になったり、なにを食べても吐いてしまったり。かと思えば、ひたすらに上機嫌の日もあったり。
                 疲れないのかななんて、他人事のようにそれを眺めながら人付き合いをしていることが多々あることを思い出した。いや、別に嫌じゃないんだけどさ。
                 この子も、そういう情緒の崩れやすい女の子のかななんて思いながら、「うんうん」と相槌を打つ。
                「そんな不安定な女の子たち、力があるときと無いときの差が著しい女の子たちのために、あたしはドーピングをしてあげたいの」
                「ドーピング?」
                非合法なものではないけどね、と彼女は笑ってつけ足した。
                「してあげたいなんていったけど、無償の行為ではないの。ある程度の金銭的報酬を見返りに、時間制限を設けてサービスを提供する」
                 サービス。例えば私の『エキス』を、商品として提供するということだろうか。
                「もちろん、協力してくれればあなたにもいくらか金銭的バックがあるわ」
                 ピクリとする。
                「まじで?」
                「まじで」
                 胡散臭さしかないが、お金が稼げるかもしれないと聞いて興味が湧いてきた。我ながら単純である。いや、この単純さゆえに、これまで嘘をつかずに済んだのか。
                 ふと思い浮かんだ疑問を彼女にぶつける。
                「どうやって提供するの?」
                 まさか私の唾液をそのまま女の子に、とはいかないだろう。
                「簡単よ。あなたから抽出したエキスを、缶に入れて売る」
                 ……え。
                「缶?」
                「缶」
                「ビン・カン・ペットボトルのカン?」
                「ビン・カン・ペットボトルのカン」
                 ……ほう。全然想像がつかない。
                 だいたい、缶に入れてどうやって売るつもりだろうか。まさか駅前で売り子を雇って売るわけじゃあるまい。
                 少女はふふっと笑ってから、私の目を見て言った。
                「結構有名だと思うんだけど。聞いたことないかしら」
                 なかった。
                「その様子だとないみたいね」
                ないです。
                「まあ都市伝説的なものだから、いかにもな女の子じゃないと、聞いたことないのかも」
                なんだとぅ。まるで私がいかにもな女の子じゃないみたいじゃないかぁ。実際そうだけどさ。不意打ちでバカにしてきやがってぇ。惚れそう。
                「なんて名前で、有名なの?」
                その質問を待っていたかのように目を輝かせ、私を見下ろすように彼女は言った。
                「美女栽培」

                美女栽培 1 『You're the only person never tell a lie』 (3)

                2015.05.22 Friday

                0

                   自分で自分に「あなたは今までの人生で、嘘をついたことがありますか?」と問いかけてみる。自分の過去を、振り返ってみた。

                   嘘をついたこと、ないかもしれない。もちろん、嘘がどういうものかを知らないわけじゃない。人を喜ばせたり傷つけたりする、人間らしいシステム。それが嘘だと思っている。
                   でも思えば、私は嘘をついた記憶がなかった。もしかしたら、嘘をつくことで人を幸せにできたかもしれない可能性を、私はことごとく回避してきてしまったのだろうか。人を幸せにする機会を逃したような気がして、妙な不満を感じた。けれど。

                  「ないよ、嘘ついたこと」

                   できるだけその瞳をまっすぐ見つめて、私は彼女に向かって答えを返した。緑色の瞳に映る自分の姿が、とても珍しく感じる。

                  「そう。それがあなたの強み」

                   彼女はまだ、私の頬を撫で続けている。舐めたい。

                  「強み?どうして?」

                  「人というのは、必ずといっていいほど嘘をつくわ。他人に対しても、自分自身に対しても」

                  「自分自身に?」

                   彼女は私の頬から手を離して立ち上がり、どこをみているかわからないような表情で語りだす。

                  「妥協という言葉があるけれど、あれなんか嘘の典型よね。自分がなにかを主張して、他人の主張と衝突したときに、私たちは何かしらの解決策を見出そうとする。
                  理想的なのは相手を論破することだけど、なかなかそういうわけにもいかない。だから私たちは妥協をする。本当は相手のことなんか一切考慮したくないのに、少しでも自分が得をするために、自分で自分を説得させる。ここで相手を認めることは結果的に最善の選択であった、自分のことだけを考えようということそのものが愚かであったのだと。自己暗示ってやつ。でもそれこそが嘘。
                  自分を貫けないということは、ありのままの自分を変形させるということは、ただの自己否定でしかない。自己否定を、あくまで自らの良心に従って行ったものであると錯覚しようとする」

                   話の内容は入ってこない。これが普通に大学のおっさんのセリフであったら、間違いなく私は帰っていただろう。
                   けれど、彼女の妙に輝く顔を見ていたら、なんだかどうでもよくなった。眠くなるような、難しい、一方的な話ではあるけれど、どういうわけか私は彼女の話を黙々と聞いていたのである。

                   私が相当アホ面を向けていたのか、彼女は私と目が合うと少しほっと息を吐きながら笑顔になった。

                  「ごめんなさい。よくわからなかったでしょう?」

                  「ええ、そりゃもうまったく」

                  「正直なのね」

                  「そうやって生きてきたからね」

                   未だ絶賛腕立て伏せ中の私の目の前にしゃがみこんで、彼女はそのほっそりとした右手で、今度は私の左の耳をふにふにし始める。
                   さっきから立ったりしゃがんだり辛そうだな、なんてどうでもいいことを考えてしまった。

                  「人は誰しも嘘をつくのに、あなたは奇跡的に嘘をつかずにここまで生きて来られた。
                  嘘をつかなければならない場面で、たまたま他の誰かがその役目を引き受けた。これはすごい幸運だわ。あなたのピュアさは世界一、本当の意味でね」

                  「ありがとう」

                  「だからあなたに、協力をして欲しいの」

                  「唾液と嘘、なんの関係が?」

                   彼女の指が私の耳殻をなぞる。どの指かは、わからない。

                  「あなたは、嘘を見抜く力を秘めているの」

                  美女栽培 1 『You're the only person never tell a lie』 (2)

                  2015.05.18 Monday

                  0

                    「唾液?」

                    「唾液」

                    「つまり、よだれ?」

                    「イエス、よだれ」

                    「あなたの?」

                    「いや、あなたの。話聞いてた?」

                     あ、そうだった。金はいらないから唾液を出せといわれたんだった。
                     いいよ、これだけかわいい子からのお願いなら何リットルだってよだれ出すわ私。このまま死んでもいい。ミイラになってもいいわ。っていうか言われなくてもよだれ出るわ。かわいい。
                     我ながら単純だ。単純接触効果、だっけ。見る時間が長ければ長いほど、その人に対する印象が良くなるって話。吊り橋効果的なのも混ざってるのかな。生命の危機を感じる環境下だと一緒にいる相手に好意を抱いてしまうってやつ。ドキドキを恋の作用だと錯覚してしまうとか何とか。いや、この気持ちは錯覚なんかではない。この気持ち、まさしく愛だ。

                    「聞いてた?」

                    「え、聞いてなかったごめんなさい」

                     彼女はその小さい手で私の頭を掴んで地面に叩きつける。

                    「痛い……」

                    「だから、唾液。ちょうだい」

                    「わかりました」

                     私は腕で体を押し上げて腕立て伏せのような姿勢になり、首を下に向けたまま口をあんぐりと開けた。いける、いけるぞ私。こんなにかわいい子が目の前にいるんだ、いくらでもよだれ出てくるぞ。
                     あー、なんか興奮してきた。美少女によだれを出すよう強いられる女子大生の図。はっは、萌える。

                    「なにしてんの?」

                     女の子が尋ねる。

                    「……なにって、よだれ出そうと思って」

                     少しの沈黙。その後、女の子が大きな声で笑った。あはは。なんでだ。わからない。わかんないけど、笑っとこ。あは、あはははは。

                    「そうね、私も言い方が悪かったかもしれないわ」

                     彼女は笑いが収まってから私のあごに手を添える。滑らかな肌触り。シルクのようなとはこういうことなのだろうか。
                     いや待てよ?もしかして滑らかなのは私のあごの方ではないか?私の肌がすべすべ過ぎて、彼女のがさがさな手でさえも滑らかに感じてしまうのではないか。
                     はは、それは流石にないか。この子の手がすべすべなんだ。うん、舐めたい。

                    「私が欲しいのはあなたの唾液そのものというより、あなたに備わっている力なの」

                    「私に備わっている力?」

                    「ひとつ聞いてもいいかしら」

                    「彼氏はいますか」

                    「質問するのは私の方なのだけど」

                    「あ、そっか」

                     彼女はその白い手で私のあごから耳を撫で上げる。なんだこれ。なんのご褒美ですか。

                    「あなたは今までの人生で、嘘をついたことがありますか?」

                    「なんだ、そんなこと?ええ、そりゃ……」

                     言葉の続きが、出てこない。

                    美女栽培 1 『You're the only person never tell a lie』 (1)

                    2015.05.11 Monday

                    0
                       朝が、つらい。
                       つらいのは起きること自体もそうなのだけど、起きてから少し時間の経った、脳の活性化と安息が半端に混ざったカオス状態のときが一番つらい。起きているのか眠っているのか、夢なのか現実なのかわからない、そんなコンディション。
                       こういうときは大抵嫌なことがある。1日の中でもっとも注意力が散漫になっているからだ。自分用の歯ブラシと家族の歯ブラシを間違えるとか、パンを入れないままトースターを動かすとか、家の鍵を閉め忘れるとか、そんなミスを生み出す。半端に脳が起きていないためにそんなミスを起こしてしまうし、半端に脳が起きているためにそのミスに気付いてしまう。
                       知らなければ良かったと感じることすらある。世の中に「知らなければ良かった」情報はたくさんあるけれど、その中でも殊更に知りたくない情報は「自らの過ち」だ。自分のミスを見つけるということは、ある種の自己否定でもある。
                       認識すること、自覚することが存在の証明になる。気付かなければ、自分の悪いところなんてないようなものだ。例え他人に指摘されても耳を塞げばよいのだが、自分の頭が自分に語りかける事実は防ぎようがない。私にとって朝は、自分のミスに気付いてしまう時間帯なのである。
                       電車の遅れは、大したものではない。ときに大幅な遅延はあるけれど、それを除いても普段から2〜3分の遅れはザラである。多少の遅れは報告されないこともある。
                       何食わぬ顔で遅れて来ては、あたかも定刻通りであるかのように出発する。電車であれば、多少の遅れをスピードアップという形で取り戻せるからということもあるのだろう。しかし、バスはそうは行かない。
                       バスは人の乗り降りがあるという点では電車と同じだが、まったく違っているところがひとつある。それは運賃の支払いだ。電車は改札を抜ける瞬間、あるいは電車に乗るよりもずっと前に切符という形で運賃を支払うので、人の乗り降りが比較的スムーズである。しかし、バスはどうだろうか。
                       バスによっては電子マネーを使えるものもあるが、降車する際にじゃらじゃらと払うシステムも未だに多い。人が降りるのに、非常に時間がかかるのだ。小銭がなくて両替をする人がいたり、少しもたもたする人がいればいるほど、バスの運行状況は停滞する。バスは道路を走るから、信号や他の車にも運行状況が左右される。
                       つまりなにが言いたいかというと、私は今盛大に遅刻しそうになっている。バスの遅れは駅到着時刻の遅れ。バスが遅れても電車は待ってくれないから、万が一降車に時間がかかれば、その分私はバスを降りてから電車まで猛ダッシュしなければならない。先ほど見事に小銭両替祭りが開催されたため、私はSuicaを片手に駅の階段を駆け上がっている。
                       中途半端に駅が広いため、電車が今来ているのか、遅れているのかはわからない。とにかく改札を抜けなければならないのである。改札を抜けて始めて、電車の運行状況がわかる。大学の最寄り駅までの距離と時間は短い。乗ってしまえばもう楽だ。問題は、駅に辿り着くまでのバスなのだ。
                       バスに乗っている時間の方が電車に乗っている時間よりも長い。いっそ駅まで自転車で通うか、別の駅を利用したほうがいいような気もするけれど、半端に私の地元が大きいために、バスから自転車にしても駅を変えても、移動の負担は変わらない。どのみち駅は遠い。
                       電車は遅れているだろうか。それとも今まさに発車しようとしているところだろうか。それを早く知りたい。脚をパンパンにしながら、今日がスカートじゃなくてよかったと感じている。腕時計を見る。7時23分。電車は24分発。さぁ、間に合うか。
                       Suicaを持った右手をできるだけ伸ばし、改札に当てる。用は済んだが、Suicaをのんびりしまっている余裕はない。Suicaを指に挟みながら改札を走り抜け、すぐさま右へターン。階段を下りながら、電車を確認する。よかった、まだ停まってる。しかし、油断
                      はできない。階段は少し長さがある。パタパタと脚の裏で階段を踏みつけながら、ふと私の頭の中で「スマホ持って来たっけ」という疑問がよぎる。電車は目前。まもなく発車。スマホは不明。右手にSuica。私はSuicaを口にくわえ、背中に背負ったリュックサックを前に背負いなおす。開いた両手でリュックのファスナーを開き、ごそごそと中身をまさぐる。どこだ、どこだ私のスマートフォン。
                       などとやっていたら、足元でずりゅっと音がした。右足が勢いあまって階段を踏み台にし、時をかける少女さながら、私は階段からジャンプした。いや、するつもりなどなかった。まだ階段はほどほどの長さを残しているのに、私の体は宙に浮いている。どうしようもない。人は空中でさらに新しくアクションを起こすことはできないのだ。
                       勢いよく飛んだ私の体も次第にバランスを崩し、前のめりになっているのを感じる。Suicaをくわえている場合ではない。半端に飛び降りを図っている私に対して、私は思わず「あっ」という声を漏らす。Suicaも飛んだ。さぁ、Suicaと私、どっちが先に着地するかな!?
                       随分とどうでもいいことを考えていられるものだ。足を踏み外してから相当な時間が経過しているような気がする。5回くらい地面に叩きつけられてもおかしくないような長さだ。それでも未だに駅のホームの硬そうなアスファルトがじわじわと私の眼前に迫ってきているだけで、まだ私は死んでいない。いや、死ぬかどうかはわからないが。
                       結構な高さから落ちたはずなんだよね。猫のように何事もなく着地できればいいのだけど。そりゃないか。私猫じゃないもんね。
                       アドレナリンだっけなんだっけ。とにかくそんな感じのものがドパドパと分泌されているからか、やたらと時の流れが遅い。Suicaも今私から離れてしまった。天国でSuica使えるか試したかったんだけどなぁ。
                       まあそんなことはどうでもいい。私が今すべきことは、いかに痛みを抑えて快速電車あの世行きに乗車するかを考えるということだ。私の前にはリュックがある。うまくこれを着地の瞬間にクッションにすれば、きっと私は上手い具合に痛みを和らげあっ、だめだこれ。
                       激しく頭を打ったような気がして、私の意識はパタリと途絶えた。

                       はじめまして天使さん。私の名前は石生夏香。いそうなつか、だよ。女子大生。2年生になったよ。
                       天使さんは綺麗だね、真っ白でさ。羽とか肌とか、あと心とか?え?心の色がわかるのかって?うふふ、そんなことあなたの姿を見ればすぐわかることよ。あなたがもし「実は腹黒なの」なんて告白してきても信じないもの。ごぼうに「実は僕メタボなんだ」って言われるようなものよ。違うか、うふふ。
                       あぁ、なんて素敵なところなのかしらここは!え?ここはまだ天国の通過地点に過ぎない?さらに幸せな場所があるのね!楽しみ!ねぇねぇ天使さん、どうか私をそこまで連れて行ってくださらない?
                      「大丈夫?」
                      「うおぁ!?」
                       天使と会話をしていたら、突然別の人に話しかけられた。少しきつい感じの、幼い女の子の声。目が見えない。声だけ聞こえる。そして喋れる。
                      「私生きてたのね」
                      「死んだかと思った?」
                      「そりゃもう、かなり」
                       だんだん意識がハッキリしてきた。私は今うつぶせになっていて、駅の景色が横向きに見えるから、顔は横を向いているのだろう。あ、駅だここ。天国じゃない。
                      「すごい勢いで階段から落ちてきたから、びっくりしたわ」
                       声の方向に顔を上げる。目の前に、しゃがみこんで私を見下ろす女の子。幼い印象だけれど、もしかしたらそんなに年は変わらないのかもしれない。かわいい娘だ。真っ黒いスカートからほっそりとした脚が伸びている。私の前で。
                      「パンツ、見えてますよ」
                       うっかり声に出してしまった。瞬間、彼女はその小さい手で私の頭を掴んで地面に叩きつける。
                      「痛い……」
                      「目、覚めた?」
                      「そりゃもう、かなり」
                       再び顔を上げる。金髪と銀髪の間のような、白くも黄色くも見える長い髪を肩甲骨の辺りまで伸ばした女の子。スーツ姿、のように見える。緑色の瞳。カラコンだろうか。顔はぷるりとして丸いけれど、小さい。唇は小さめで、色は薄めのピンク。口紅やリップの色ではない。元からこういう色なのだろう。さぞモテるだろうなぁ、羨ましい。
                       我に返って、私は腕を使って体を起こす。リュックサックが前にかかったままだった。きっとこれのおかげで、私は助かったのだろう。
                       腕時計を見る。7時23分。あれ?変わってない。まぁいいや。きっと落ちた衝撃で壊れたのだろう。むしろこうして助かっていることの方がある意味では問題だ。一生分の運を使い果たしたのではなかろうか。
                      「なんか、ごめんなさい。私、急いでて」
                      「いいのいいの、好都合だったから」
                      「好都合?」
                       彼女は立ち上がって、それでもなお私を見下ろしている。なんだろう、威圧感と共に感じられるいとおしさ。初対面なのに。
                      「石生さん、だよね?」
                      「え?あぁ、はい」
                       どういうわけか彼女は私の名前を知っているようである。光栄だ。
                      「少し協力して欲しいことが、あるんだよね」
                       協力、か。
                       できることならなんだって引き受けよう。なにせ彼女は、私の命の恩人なのだ。いや、死んでなかったのかもしれないけど、どのみち彼女が声をかけてくれなかったら私は延々とくたばり続けていたであろうから。
                       そういえば今何時だ。電車は?授業は?もうどうでもいいや。
                      「いいよ。なにをすればいいの?」
                       できるだけ彼女の美しさに負けないような笑顔をつくって、答える。だんだん体が痛くなってきた。
                      「少し、あなたからもらいたいものがあるの」
                       カツアゲかな?でもかわいいから許す。
                      「いいよ、いくら欲しい?」
                       私は前にかけたリュックに手を突っ込んで財布を探す。ファスナーを開けたまま落ちたから、開く手間が省けた。
                      「いや、お金じゃなくてね」
                       彼女はそういってまた私の前にしゃがみこむ。じっと見つめられて、少しどきりとする。
                      「じゃあ、なにをあげればいいの?」
                      「唾液」
                      「え?」
                      「だから、唾液。あなたの、唾液」
                       こんなかわいい娘が「唾液」なんてセクシャルな言葉を使うから、私の思考は停止した。